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« 被告は職業ではない 梅崎春生 | トップページ | 警官隊について   梅崎春生 »

2016/07/08

私はみた   梅崎春生

[やぶちゃん注:岩波書店発行『世界』昭和二七(一九五二)年七月号に初出、後に高見順編「目撃者の証言」(同年九月青銅社刊)に再録。本日公開した梅崎春生の「被告は職業ではないで語られている、「血のメーデー」事件の当時の春生自身の生のリポートである。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 文中に出る「永井潔君」は左派の画家永井潔(大正五(一九一六)年~平成二〇(二〇〇八)年)であろう。ウィキの「永井潔によれば、昭和八(一九三三)年に『第一高等学校に入学するも後に中退。梅崎春生・西口克己等と知り合う』ともある。]

 

 

   私はみた

 

 デモ隊第一波の先頭が、馬場先門に着いた時、そこからすこし広場に入ったところに、私はいた。私のすぐ傍では、三百名ほどの武装警官隊が、殺気立った風情で、待機していた。しかしどういうわけか、彼等はすぐに、ひとかたまりにまとまって、広場への道を開放し、デモ隊との衝突を回避する態度をとった。そしてデモ隊は、道いっぱいの幅で、二重橋めざして、広場になだれこんだ。二重橋前に、先頭が到着したのは、それから五分もかからなかったと思う。

 二重橋前の広い通路の両側には、人の背丈ほどの鉄柵(てっさく)があり、鉄柵の外側は幅一米ばかり余地があって、そこから濠になる。私はそこにいた。その狭い場所には、デモ隊ではなく、私同様の一般市民が、たくさんいた。柵にとりついていたかなり年配の男が、遠くを指さしながら、

「ほら警官が走ってくるぞ。あそこから走って来るぞ」

 と叫んだ。私も柵にとりつき、背伸びをすると、林立した組合旗の彼方に、急速に近づいてくる鉄兜(てつかぶと)の形がたくさん見えた。しかし老人のその叫びにも拘らず、デモ隊の連中は、あまりそちらに注意を向けていないように見えた。二重橋前に到着したという安堵感が、デモ隊の緊張をゆるめていたように思われる。

 そして、デモ隊の右側を駈け足で走り抜けた警官隊は、警棒をふりかざして、斜めにデモ隊に殺到した。私はあの一瞬の光景を、忘れることは出来ない。ほとんど無抵抗なデモ隊(一般市民も相当にその中に混っていた)にむかって、完全に武装した警官たちは、目をおおわせるような獰猛(どうもう)な襲撃を敢えてした。またたく間に、警棒に頭を強打され、血まみれになった男女が、あちこちにごろごろころがる。頭を押さえてころがった者の腰骨を、警棒が更に殴りつける。そしてそれを踏み越えて、逃げまどうデモ隊を追っかける。私は鉄柵の外側だったから、一応の安全地帯にあった。私はつぶさにそのやり方を見た。

 警官隊の襲撃は、なかなか組織立っていて、日頃の訓練を充分しのばせた。警棒は、立っているものに対しては、必ずその頭部をねらう。デモ隊に後頭部の負傷者が多かったのは、逃げて行くところを、背後からねらい打ちされた為だ。倒れている者に対しては、腰部又は腹部をねらう。そこを殴ると、動けなくなるということを、彼等は充分に知り、またその訓練を経てきたに違いない。デモ隊の散発的な反撃にくらべて、警官たちのそのやり方は、その非人間的な獰猛さにおいて、圧倒的であった。僅か三百名ほどの人数で、数千のデモ隊に対し得たのも、ひとえにその非人間的な暴力の故である。私の見た限りでは、最初に暴力をふるって挑発したのは、明かに警官側であり、「組織された暴徒」とは、デモ隊のことではなく、完全武装のこれら警官隊であった。

 

 鉄柵を乗り越して、私たちのいる狭い通路に、警官が一人おどり込み、鉄兜を剝ぎとられて、濠の中に投げこまれた。顔面血だらけになって、立ち泳ぎしている。ふっと右手を水から出して、人差指でおいでおいでするような恰好をする。陸上の同僚に向かって、早くこの俺をたすけろ、という合図だ。どうやってたすけるのかなと思って、眺めていると、二三人の警官が狭い通路に飛び込んできて、矢庭に警棒をふりかざして、私たちに迫ってきた。私たちは押し合いへし合い、ほとんど濠の中におっこちそうになりながら、懸命に逃げた。逃げながら、ふっと横を向くと、スケッチ帖をかかえた永井潔君がいる。

「スケッチどころの騒ぎじゃないや」

 鉄柵を乗り越そうとする時、あぶなくひっぱたかれそうになった。ころがるようにして逃げた。一般市民の女までが、殴(なぐ)り倒されているのだから、俺はデモ隊員じゃないと言っても、それは通らない。狂犬みたいに、手当り次第飛びかかってくるのだから、逃げるより他に手はないのである。

 

 女は、どうして、あんなに直ぐ、転ぶのだろう。男とくらべて、重心が不安定なのか。

 警官たちも、一人で深入りするのは恐いものだから、転んだ者にたかる傾向が大いにあった。転んで起き上ろうとする女の、腰部めがけて、三度四度とつづけざま警棒を打ちおろす。あるいは後頭部を殴りつける。頭には血管がたくさん集まっているせいか、ぱっと勢よく血がふいて、上半身はほとんど血まみれになってしまう。

 また、警官隊の一部には、女性に対する嗜虐的な傾向が、はっきりと認められた。単に殴るだけでなく、スカートの裾から、警棒をぐんと上へ突き上げる。女の髪をつかんで、あおむかせ、顔面を殴りつける。両三度、それを見た。

 もちろんこういう傾向は、デモ隊の抵抗が薄弱な時に、あらわれた。デモ隊が反撃に出ると、警官隊もそれどころじゃなくなり、女なんかほったらかして、当面の男たちと渡り合う。あるいは、算を乱して逃げる。彼等は、一人だけで群衆の中に残されたらどうなるか、よく知っているので、逃げる時はほとんど我先だ。同僚なんかは遺棄して逃げる。不運にして遺棄された同僚は、群衆(デモ隊外の者も含む)の怒りの真只中で、平たくなってしまう。退潮(ひきしお)に乗りそこねて、渚(なぎさ)に取り残された鰈(かれい)みたいなものだ。

 

 ピストル発射について。

 私たちは初め、あれが実弾発射の音だとは、夢にも思わなかった。発煙筒(催涙ガス筒を、私は最初、ただの発煙筒だと思っていたのだ)の栓か何かを抜く音だろうと思っていた。日本人が同じ日本人を撃つなんて、とても信じられなかった。

 私が聞いた音だけでも、百発は優に越えていたように思う。

 催涙ガスにしても、威嚇(いかく)のためか気勢を上げるための発煙筒だと思っていたので、その煙にいきなり取り巻かれた時は、大いに狼狽した。涙がむちゃくちゃに流れ、眼なんかはとんどあいていられない。鼻や口腔が、ひりひりと痛む。その煙の彼方から、警官隊が追って来るのが見える。ハンカチで顔をおおい、時に眼をちらちらあけて、永井君と二人で夢中で逃げた。やっと煙のないところまで逃げのび、松の木の根元に坐りこんだ。眼が元通りになるまで、二十分ぐらいかかった。私などは、比較的煙がうすいところだったので、それで済んだが、濃厚な煙にあたったものは、もっと悲惨であった。松の根元に身体をくねらせ、もだえながら、

「お母さん。お母さん」

 と若い女が号泣している。煙でやられ、そこを警棒で打ちのめされたのだ。それを看護隊の人達が、かつぎ上げるようにして、手当所に連れてゆく。あちこちの急設手当所では、血まみれになった重傷者たちが、芝生の上にごろごろと、うめきながら横たわっている。

 その看護隊の自動車の運転手の免許状を、警官隊が没収したという。重傷者たちを、勝手に運び去らせないためである。免許状がなくては、自動車は動かせない。だから、至急に病院に運びこむ必要があるような重傷者たちが、応急の手当をうけただけで、草原に苦悶しながら横たわっているのだ。何という無茶な話だろう。

 

 日比谷方面で黒煙があがるのを、私と永井君は広場の中から見た。そして私たちが、そこまで行くのに、三十分以上かかった。やっと祝田橋の上まで来た時、自動車はもう三四台燃え上っていた。

 もうその頃は、乱闘発生から二時間以上も経っていたので、デモ隊以外の一般市民や通行人たちも、明瞭な反警官気分を持っていた。警官隊のやり方が、あまり非人間的過ぎたからである。とにかく衆人環視の中で、自動車が引っくりかえされ、それに火がつけられる。警官隊がおしよせると、その犯人たちは、人垣にたすけられて、姿をくらましてしまう。手技カバンをさげた通行人たちも、むしろそれをかばい、警官隊から守るような傾向が、強くあらわれていた。

 そういう四面楚歌(そか)の雰囲気を、警官隊もはっきりと感知していたらしい。必要以上に神経質になったり、必要以上に威嚇的になったりしていた。罪もない通行人をなぐつたというのも、おそらくそういう心理からだ。鉄兜、警棒を持たない者は、全部敵に見えたのだろうと思う。孤立感のようなものが、たしかに彼等を烈しくいらだたせていた。

 私たちが、日比谷公園寄りの歩道を、交叉点に向かってゆっくり歩行していると、警官隊の一人が、目をつり上げ、警棒を威嚇的にふりかざしながら、

「貴様らあ、まごまごしてると、ぶったくるぞ。貴様らの一人や二人、ぶっ殺したって、へでもねえんだからな」

 それから、もう一人、

「一体貴様らは、それでも日本人か!」

 この罵声は、さすがに私たちを少なからず驚かせ、また少なからず笑わせた。まるで、犬か猫から、「こん畜生!」と罵られたような感じであった。しかしこの事は、笑いごとでは済まされない。翌日からの商業新聞の報道の仕方や、政府側、警察側の発表ややり方などは、ほとんどこの種の倒逆を示していたからだ。たとえば無抵抗の人間を警棒で殴って負傷させ、その被害者たちを、怪我しているという理由だけでもって逮捕するなど、言語道断のやり方である。

 以上、当日見たり聞いたり感じたりしたことの一部だけ。

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