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2016/07/15

三代目の個人主義   梅崎春生

 

 去る十二日(昭和三十五年十月)、社会党浅沼委員長が刺殺された。

 私は丁度その時大洋大毎の第二回戦を見ていて、野球中継が中断されて、そのビデオテープが出た。

 それはまことにショッキングな場面で、浅沼委員長がれいのだみ声で演説をしている。ちらと左方を向く。その左方から白面の少年がラグビー選手のように体当りをかけて来る。委員長の巨軀が、よろよろとよろける。

 翌日の東京新聞に、その印象記を書いた。

 少年の思慮の足りないばかな行動に腹が立ったこと。あのビデオテープは暴力否定の効果があると同時に、ばかな若者たちの安っぽいヒロイズムを誘発する危険がありはしないかということ。近頃の生命軽視の傾向が、映画やテレビや小説の影響でないかということ。暗殺などは、腹黒い大人に、若者がおどらされているだけだということ。それをまとめて「暴力を否定する」という題の小文である。

 夕刊が発行されたその夜の十一時頃、知らぬ男から電話がかかって来た。あの文章を読んで、非常に不愉快だったというのである。

 私は今まで文章を発表して、はがきや手紙をもらったことはしばしばあるが、電話がかかって来ることはめったにない。

 電話をかけるためには、電話帳で番号をしらべねばならぬ。その煩をいとわず、電話をかけて来たというのも、はがきには盛り切れない胸中のむらむらがあったからだろう。

 でも、この人の電話は、あまり論理的でなかった。私をおどすつもりではなく、説得しようとするのだが、何だか情に走って、説得力がなかった。

「あんなにばかだ、ばかだと書いては、少年が可哀そうじゃないか。その家族の身になって考えてみたらどうだ」

 少年そのものをばかだと書いてやしない。その行動をばかだと言っているんだ、と私。

「山口少年ばかりを非難せずに、全学連の若者どもをやっつけたらどうか。片手落ちじゃないか」

 刺殺事件の印象を新聞から頼まれたのであって、全学連は自ら別問題である、と私。

 浅沼委員長も犠牲者だが、少年もある意味において犠牲者だ。そのことを貴君も書いているではないか。犠牲者を鞭うつことはよせ、などと飛躍したことを言い出して来たが、いくら電話で、言葉があとに残らないとは言え、そんな言説に賛成するわけには行かない。

「君の名は?」

 と私が訊ねたら、名前は言わない。年齢は四十二歳。右翼とも自衛隊とも関係なし、との答えであった。

 電話はそれで切れた。何者とも判らない。家族の身にもなって見ろ、としきりに言っていたところを見ると、家族と何かつながりがある男なのかも知れない。

 しかし私の小文は、過激でも何でもなく、ごく普通の平凡な感想だから、特に文句をつけられる覚えはない。

 犯人を狂犬にたとえて、野犬狩りをしろと主張する評論家もいて、そのことも電話の相手に言ったら、

「いや。あれは増長慢にかかっているから相手にする価値がない。あれにくらべると、貴君はまだしも良心的だから――」

 というわけで、私に電話して来たらしい。

 良心的とほめられたのはよろしいが、相手の真意がはっきりしないので、あまり有益な応対ではなかった。それに、知らない男との電話応対は、気骨が折れて厭だ。

 その翌日あたりに、自衛隊にいる少年の父親が進退伺いを出したという記事を読んだ。

 進退伺いというのは、辞表ではなく、辞めましょうか、それともとどまっていましょうかと、決定を向うにあずけることだろう。

 幸い(?)それは向うの決定によって辞表を出せということになった。父親は辞表を出した。そしてこう感想を述べた。

「昔、知人で共産党員の娘をもっているという理由だけでやめた役人がいる。しかし私は個人主義者だから、息子の犯した罪のために、親が辞表を出すというやり方に、賛成はできない。だが未成年だったということで、私に対する風当りも強い。だから辞表を出したのだ」

 この談話には、よく判らないところがある。前半と後半を「だが」で結んだ、その結び具合がよく判らない。

 でも個人の談話は、新聞に載る時などに、省略されたり妙にゆがめられたりして、本人の真意を伝えないことがしばしばある。これもおそらくそれとしよう。

 また事件後、少年の父はこうも述べている。

「私は非常に自由主義者で、子供が右翼団体に入りたいと言った時、一人前にならないうちはよせ、とたしなめたが、めしが食えたらいいのですか、と聞くので、それならいいだろう、と答えた。すると子供は学校をやめ、家を出て、さっさと愛国党に入った」

 これもどうも理解しがたい。一人前になるというのは、精神的な意味で一人前なのかと思ったら、めしが食えりゃいいだろうと息子から生活的に反撃されて、それならいいだろうと、あっさりかぶとを脱いでしまう。

 そのへんの呼吸が私には理解出来ない。談話の途中に脱落があったのだろうか。それが自由主義とどんな関係があるのか、それも分明でない。

「すると子供は学校をやめ、家を出て、さっさと愛国党に入ってしまった」まるで他人ごとみたいだが、そこが自由主義ということなのか。

 私の少年時代の経験からすれば、友達にぐれたのや過激なのが出る家庭には、一種のタイプがあった。たとえばおやじが軍人とか教師とか牧師とか、わりに世間を重んじるようなきびしい家庭に、とかく不良が出たものである。

 家庭に対する反逆、おやじのきびしいしつけ、世間を気にする偽善に対する反抗から、その息子たちは往々にして不良におもむくのだ。それがまあ定石になっている。

 ところがこの少年の父親は、そんな定石では律し切れない。全然逆である。

 息子の側からすれば、反逆しようにも何にものれんに腕押し、柳に風と言った具合である。そこでめどがつかなくなって、暴走ということになったのではないか。

 きびしいおやじがいる。やがてその息子が成人しておやじとなる。自分はあんなきびしいしつけを受けて苦しかったから、自分の息子には放任主義を振ろう、というケースが間々(まま)あるが、この父親はそれにも該当しない。

 この父親に「白い役人」という著書があり、その中に「酒と私」という章があり、それに、

「しかし、父は徹底的な個人主義者で、自分は飲まないが、私の飲むことには干渉しなかった」

 という一節がある。

 すると個人主義が二代つづいて、三代目にあんなのが出た。個人主義や自由主義に対する誤解が、どこかにあったのではないかと思う。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第三十回目の『週刊現代』昭和三五(一九六〇)年十一月六日号掲載分。所謂、浅沼稲次郎暗殺事件(あさぬまいねじろうあんさつじけん)は、昭和三五(一九六〇)年十月十二日に東京都千代田区の日比谷公会堂に於いて日本社会党委員長浅沼稲次郎が十七歳の右翼の未成年の少年山口二矢(おとや 昭和一八(一九四三)年~昭和三五(一九六〇)年)に暗殺されたテロ事件を扱っている。ウィキの「山口二矢によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、彼は『後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたる』。『幼年時代から、彼は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判した。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。彼は一九五八年(昭和三十三年)玉川学園高等部に進んだが、しかし、父親の晋平の転勤が発令されたため、彼は札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した』。『一九五九年(昭和三十四年)五月十日、十六歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。小淵沢町で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、彼の紹介で大東文化大学の聴講生となった』。『山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は十回も検挙された。一九五九年(昭和三十四年)十二月に保護観察四年の処分を受けた』。『一九六〇年(昭和三十五年)五月二十九日、同志党員二人らとともに愛国党を脱党し』ている。彼は警察の供述の中で、『左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、一人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、一人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました』と述べているという。『一九六〇年(昭和三十五年)六月十七日、右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した』。同年『七月一日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加』、『十月四日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そうと決心した」という。二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した』。『十月十二日、彼は自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった』。『一九六〇年(昭和三十五年)十月十二日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時十七歳で少年法により実名非公開対象であったが、事件の重大さから名前が公表されている』。『浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通り』。――『汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。』――『彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した』。『一方自衛隊は、父の晋平が自衛官(一等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局』、事件三日後の十月十五日に依願退職している(一等陸佐は最上位である将官の陸将・陸将補に次ぐ佐官の最上位で上級幹部に属する)。『山口は十一月二日、東京少年鑑別所の東寮二階二号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した』。『なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」も残している』。『右翼団体は盛大な葬儀を行い』、、『山口を英雄視し』また、沢木耕太郎の「テロルの決算」昭和五三(一九七八)年文藝春秋刊)によれば、『山口はテロの標的として浅沼委員長のほか』、『河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた』とある。

 「白い役人」事件前八年前の昭和二七(一九五二)年北書房刊で山口晋平著。ここに記されているように山口二矢の実父である(次男)。本書の装幀をしている画家吉岡憲氏についてのサイト「BAR Yoshioka」内にある「(3)新宿~戦争~ジャワ」に本書の内容が少し書かれてあり、そこには富永太郎・大岡昇平・中原中也・菊岡久利・古谷綱武といった錚々たる作家が登場するとある。

 なお、ご覧の通り、犯行当時の実行犯山口二矢は未成年であった。それを事件発生当初から実名報道し(この事件の二年前の昭和三三(一九五八)年八月に起きた小松川高校女子生徒殺人事件で未成年であった犯人(及び被害者)が実名報道されたが、この事件を受けて日本新聞協会は最高裁側と協議を行い、同年十二月に「少年法第六十一条の扱いの方針」を定め、「犯人が逃走中の場合など、社会的利益の擁護が強く優先する場合を除いて原則として二十歳未満の少年については推知報道(不特定多数の一般人がその者を事件の当事者であると推して知ることが出来る報道)をすべきでないとしている。ここはウィキの「実名報道」を参考にした。仮に確信犯であった犯人山口二矢自身が名を知られることを望んだとしてもこれは明らかにおかしい)、しかも父親がかく辞職をすることとならざるを得なかった経緯は、白色テロへの義憤や梅崎春生の見解とは全く別に、大いに問題があると私は思う。その辺りのことが記されている、サイト「海軍経理学校 三七会」内の中瀬直明氏の「迷走する日本・その国民感情」をもリンクして公平を期すこととしたい。]

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