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2016/07/27

芥川龍之介 手帳4―3~7

《4-3》

A――B

 A, completely defeated and cowed

 B, too desolated

[やぶちゃん注:「completely defeated and cowed」完膚なきまでに敗北し、そして恐れをなして。「too desolated」同様に心細くて侘びしい。]

 

a King’s Tragedy

○驅逐艦おぼろ 薄暮 大港 地引網がスクリウへかかる 鎌ヲ棒につけてかく とれず 船長(大尉)士官室で襯衣一枚になる 「これで大丈夫だ」機關長(中尉)「五分しか持ちません」爭ふをハツチより水兵ら見る 或一等兵曹來る(外にて)忽水中に入る ヂヤツクナイフにて惡靈の如く切る 十分間硬直 ボイラアルウム(入港後間もなければ暖なり)へ入れふとんにてこする 正氣を得

[やぶちゃん注:該当する作品はない。芥川龍之介の軍艦を舞台とする作品は孰れも反軍的で皮肉なものばかりだが、このストレートな汗臭いミリタリー・ストーリー(以下のメモを見ると、この場面に限ってかも知れない)、ちょっと読んでみたかった気もする。

「驅逐艦おぼろ」龍之介の仮想軍艦。しかし実は日本帝国海軍には一等駆逐艦「朧(おぼろ)」が実在する。但し佐世保海軍工廠で建造されたそれは昭和四(一九二九)年起工で、翌年進水、即ち、芥川龍之介自死以降のことである。因みに、実在した「朧」は日中戦争・太平洋戦争で活躍したが、昭和一七(一九四二)年十月、弾薬輸送の目的で横須賀を出航、キスカ方面へ航海中の同月十七日、キスカ島の北西三十海里の地点でアメリカ陸軍航空軍の爆撃を受け、被弾により操舵故障となり、輸送中の弾薬に誘爆して沈没している(ここはウィキの「朧(吹雪型駆逐艦)」に拠った)。この艦は「大正十六年度」(結局、昭和二(一九二七)年となる)から「大正二十年度」(同前。昭和六(一九三一)年)度までの「五か年計画」によって二十七隻建造された内の、駆逐艦十五隻の中の一隻であるものの、その将来の艦名を芥川が知り得た可能性は低く、全くの偶然であろう。]

 

○その官位 時刻


     
past

○艦ノ命<

     
 Future

 

《4-4》

機關ノ下士 旅順港外よりかへる三笠艦上 副長點檢前便所へ行く男と共に行く 甲板士官にとらへらる 「後甲板に立て」「善行賞を奪ふもよし 進級が一年おくるるもよし」立つ 「部下に命令し殘したることあり」 去りて遺書を書く かへる 十二听砲側 月明 戰鬪中故スタンシヨンなし 突然入水す 大混亂 三笠信號す 朝日敷島皆とまる 探照燈交照見えず

[やぶちゃん注:明らかに、自死直前に発表している「三つの窓」(昭和二(一九二七)年七月一日『改造』)の「2 三人」の具体的構想で、前半部は酷似する(リンク先は私の古い電子テクスト)。同作の部隊となる戦艦は冒頭、『一等戰鬪艦××』と、恐らくは龍之介自身によって伏せられてあり、排水量も『二萬噸』(「三笠」は一万五千百四十トン)とするものの、『五隻の軍艦を從へながら』、『勝利の後だけに活き活きとして』『鎭海灣へ向つて行つ』ているという描写(鎮海湾は現在の大韓民国の慶尚南道南部海岸にある天然の良港で、明治三三(一九〇〇)年に日本が買収、日本海海戦に際しての連合艦隊集結地となり、その後も軍港として使用された)は明らかにこの『一等戰鬪艦××』は「三笠」をモデルとしていると一応は考えてよかろう。なお、私は、同作の「三 一等戰鬪艦××」の『一等戰鬪艦××』は芥川龍之介自身の、また、その傍に停泊していて『火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲(ばくせい)を擧げ、半ば海中に橫になつてしま』(この事故箇所はやはり「三笠」の借用である)う『一萬二千噸の△△』は、龍之介自死の前に精神異常を起こして発狂状態になり、龍之介らが精神病院に入院させた畏友宇野浩二のカリカチャアであると、一部諸評者が指摘される以前から感じてもいたことは、ここで申し述べておきたい。

「三笠」言うまでもなく、日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた大日本帝国海軍の前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん:戦艦の初期形態を指し、一八九〇年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した一九〇六年までの期間に建造された戦艦群を指す)「三笠」で、イギリスに発注され、建造された敷島型戦艦(後の「敷島」の注を参照)の四番艦。明治三三(一九〇〇)年十一月進水、明治三五(一九〇二)年三月にイギリスのプリマスを出港、スエズ運河経由で五月に横須賀に到着している。当時は世界最大級の戦艦であった。同艦は日露戦争終結直後の明治三八(一九〇五)年九月に佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のために沈没したが、明治三九(一九〇六)年に浮揚され、佐世保工廠で修理を施し、明治四一(一九〇八)年四月に再び、第一艦隊旗艦として現役に戻っている。第一次世界大戦では日本海などで警備活動に従事し、その後はシベリア出兵支援に参加した。大正一〇(一九二一)年九月には一等海防艦(旧定義で軍艦籍のままで近海・沿岸の防備に従事する艦)となり、大正一一(一九二二)年二月のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定、翌大正十二年九月一日には関東大震災により岸壁に衝突。応急修理のままであった旧破損部位から大浸水を起こし、そのまま着底、同年九月二十日に帝国海軍から除籍された。大正一四(一九二五)年一月、記念艦として横須賀に保存することが閣議決定され、海底固定が行われた。第二次世界大戦中もそのまま保存艦として置かれたが、敗戦後の物資不足により、金属部や甲板チーク材などが悉く盗まれて見るも無残に荒廃した。その後、復元運動が起こり、昭和三四(一九五九)年に復元が開始されて二年後に完了、現在に至っている。因みに三笠は、世界で現存する唯一の前弩級戦艦である(以上はウィキの「三笠(戦艦)」に拠った)。なお、前に「旅順港外よりかへる」とあるが、「三笠」は明治三六(一九〇三)年十二月二十八日に連合艦隊旗艦となり、翌明治三十七年二月六日から日露戦争に加わって、二月九日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、八月十日に黄海海戦に参加している。日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦したのは、明治三八(一九〇五)年五月二十七日~二十八日のことである。従ってこのメモの構想内時制は旅順陥落後(明治三八(一九〇五)年一月一日)の可能性が高い。

「十二听」「听」は「ポンド」(重量単位:一ポンドは五・四四キログラムで、この場合は初期の砲丸重量を指すが、古くからの通称でしかない)と読む。「三笠」は左右舷側を中心に八センチ(三インチ/十二ポンド)砲単装二十基二十門(現在の復元は十門のみ)を装備していた。

「朝日」敷島型戦艦(次注参照)の二番艦。ウィキの「朝日(戦艦)」によれば、日露戦争では第一艦隊第一戦隊として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦に参加、第一次世界大戦では第三艦隊第五戦隊旗艦としてウラジオストック方面の警備に従事、大正一〇(一九二一)年に海防艦へ類別変更され、さらにワシントン軍縮条約により、練習艦として保有が許され、兵装・装甲を撤去し、練習特務艦となった(大正一四(一九二五)年には潜水艦救難設備を設置している(『これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理』で「朝日」は『呉にあって潜水艦事故に備えていたが後に工作艦に改造される時にこの設備は撤去、使用する機会は起こらなかった』。また、昭和三(一九二八)年には艦上カタパルトの初試作であった「呉式一号射出機」を仮装備して日本海軍初の射出実験を行ってもいる)。昭和一二(一九三七)年、『日華事変の勃発により』、『中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠で特急工事により工作艦に改造され』、八月に『類別を工作艦に変更』、『中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した。やがて朝日工作部は陸上に移り第一海軍工作部と改称したため朝日は日本へ戻り』、昭和一五(一九四〇)年十一月、『連合艦隊付属となった』。太平洋戦争が開戦すると、「朝日」は第二艦隊配属となってカムラン湾に進出、昭和一七(一九四二)年二月に『シンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、工作艦明石と共に損傷修理に活躍した』。同年五月、『自身の修理と北方方面への移動の為にシンガポールを出発し日本へ向かった。しかし、朝日は旧式低速』『の大型艦であったため』、『敵潜水艦の格好の目標となってしまい』、同月二十五日深夜、『カムラン湾南東でアメリカの潜水艦サーモンから雷撃され』、左舷に二発の魚雷が命中、翌二十六日午前一時過ぎ、『転覆して沈没した』。

「敷島」大日本帝国海軍の前弩級戦艦でイギリスで建造された敷島型戦艦(明治三三(一九〇〇)年から明治三五(一九〇二)年にかけて竣工したもので、同型艦は「敷島」・「朝日」・「初瀬」・「三笠」の四隻)の第一艦。日露戦争では主力艦として旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦・黄海海戦・日本海海戦と主な作戦に参加した。その後、海防艦に類別変更され、第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議により兵装・装甲の全てを撤去し、練習特務艦となり。佐世保港に繋留使用されていた。終戦時は推進器が撤去され、佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていたが、昭和二二(一九四七)年に佐世保で解体された(以上はウィキの「敷島戦艦に拠る)。]

 

○その職務

 その官位

 後續艦數

 

《4-5》

Los Caprichos 1齒 2鏡の中に過去の光景を見る 3人面瘡 45678910

[やぶちゃん注:「Los Caprichos《225》にも出たが、これも決定稿「LOS CAPRICHOS(ロス・カプリショス)」(大正一一(一九二二)年一月)のそれとは一致しない。ただ現行のそれが七つの挿話構成であるものが、当初は十章を考えていたものと思われる。]

 

   沙金―太郎―次郎

○<          >

   老爺―老婆―阿濃

[やぶちゃん注:「偸盗」(大正六(一九一七)年『中央公論』)の構想メモ。]

 

《4-6》

Tolstoi の小説中の人物の如くしか行動出來ぬ男が Tolstoi 書を與へて牛耳るもの

[やぶちゃん注:或いはこれは《3―16》に電子化した、近松門左衛門への手紙と言う体裁で、自分はまさに近松の心中物によって人生を支配されて来てしまったと批判展開する未定稿「河内屋太兵衞の手紙」の設定を近松からトルストイに移す構想ではあるまいか?]

 

criminal crime を白狀する その crime 小なりとて輕蔑され憤慨しだんだん大袈裟な法螺をふくに至る

[やぶちゃん注:「鼠小僧次郎吉」(大正九(一九二〇)年一月『中央公論』)の構想メモか。]

 

○運命のよすぎるのに壓迫される人 運命を求めて得ざる人 戰國時代

[やぶちゃん注:固有名詞の一つでも書いて呉れていたら、同定出来そうな気はするのだが。]

 

○⑴旅行せず旅行案内を書く人 ⑵作家の Egoism 魂を一卷の本ととりかふ。Allegorical story 哲人女の evil を説く 女に落つ 即ち女を眞に強しと知る

[やぶちゃん注:「旅行せず旅行案内を書く人」偽書ばりのそれには興味が大いにある。「Allegorical story」寓話。]

 

Shoes―polish human skin a scene at a station

[やぶちゃん注:ハイフンでなく長いダッシュであるのが気になるが、「靴磨き」「人間の皮」「駅の場面」というのは日常に潜む怪異を感じさせて惹かれる。]

 

○光る soup 毒殺を計り燐を皿中に入る 停電 皿光る 夫知る

 

《4-7》

○生月(near Hirato

 Recording of old K 慶應――明治元年 shidochi 浦上の church(踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ)悔みの會 大浦(文久) 踏繪(病人には足につく 赤子もやる)

[やぶちゃん注:「生月(near Hirato)」とは現在の長崎県平戸市内に属する平戸島の北西にある有人島である生月島(いきつきしま)のことであろう。ウィキの「生月島」によれば、『戦国時代に、生月島南部の領主で平戸松浦氏の重臣だった籠手田安経がキリスト教(カトリック)の洗礼を受けてキリシタンになり、その後イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラやルイス・デ・アルメイダらが生月島で布教をおこなって』約二千五百人の島民のうち、八百人ほどが『キリシタンとなった』。十六世紀末には、『ほぼ全島民がキリシタンとなったが、その後の禁教令によ』って『島を離れたり』、『殉教したり、また多くの島民が隠れキリシタンとして密かに先祖から受け継いだ信仰を維持する道を選んだ。現在は、島内に』二ヶ所の『カトリック教会があるが、いまも潜伏時代の隠れキリシタンの信仰形態をそのまま受け継いでいる人も多くいる』とある。なお、島の名は『遣隋使・遣唐使の時代』、『中国から日本へ帰国する旅人が、船上からこの島を見つけると、無事に帰ってこられたと安心してホッと息をついたことから、といわれている』とある。

shidochi」はイタリア人カトリック司祭で江戸中期の日本へ潜入して捕らえられ、茗荷谷(現在の文京区小日向)にあった切支丹屋敷に幽閉されてそこで亡くなったジョヴァンニ・バティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti 一六六八年~正徳四(一七一四)年)のことであろう。

「踏繪の懺悔の爲多くの人々子を大工左官として立つ」マリアの夫にしてイエスの養父ナザレのヨセフが大工であったこと、迫害によって教会が打ち壊されても、必ず子孫がそれを手ずから再建させられるように、という謂いであろう。]

 

 

○西中町の教會 stained glass 黃 綠 紫 赤 木の柱 アーチ 疊 男一人 外 柑橘類 泰山木 梧桐 屋根靑し 時計 シツクヒ落ちて煉瓦出づ

[やぶちゃん注:「西中町の教會」明治二九(一八九六)年創立の長崎市西中町天主堂(現在のカトリック中町教会)のことであろう。大浦天主堂・浦上天主堂と併せて長崎三大教会の一つとして知られた。

「文久」元号ならば一八六一年から一八六四年であるが、どうもこの構想メモ、時制がバラバラで全体像が全く霧の中である。]

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