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2016/07/24

なつかしき昔の教科書   梅崎春生

 

 リバイバルブームというのが起っているのだそうである。私は外国語に弱いので、そりゃ何だと訊ねたら、昔のものを復活させる風潮で、具体的にいうと昔の歌が流行したりすることだそうだ。

 インスタントブームやレジャーブームなど、ブームが次次に押し寄せて来るから、つき合うのにもいかが疲れる。

 そのリバイバルとは実は関係ないが、私はかねてから自分が習った小学校の国語読本を、手に入れたいと考えていた。

 一体あの頃おれはどんなことを習っていたのだろう。(私は大正四年生れ、四十六歳。)それに私宅にも小学四年の男の子がいる。それが習っている教科書とくらべてみたい、という気持があった。そこで手を尽して、北海道の畑中さんという人からゆずって貰うことが出来た。

 どさっと小包みで送られて来て、わくわくしながら包みを解くと、尋常小学国語読本と印刷された表紙がまず眼に飛び込んで来て、久しぶりに恋人、いや、幼馴染にめぐり合ったような気がした。

 早速机の上に積み重ねて、巻一から読み始める。奥付を見ると「定価金六銭」、その傍に「臨時定価金八銭」とある。「ハナハトマメ」の片仮名で、巻一は始まっている。巻十二になると「臨時定価金拾六銭」で、大正時代のじりじりしたインフレが手に取るように判る。

 巻一から巻十二まで読み終るのに、まるまる二日間かかつた。なまけなまけして読んだのではなく、熟読玩味、時には音読さえしたのだから、そのくらいかかるのは当然であろう。すらすらと思い出せるのもあったし、おや、こんな文も習ったのかいなと、全然思い出せないものもあった。

 よく覚えているのはやはり韻文で、

「旅順開城約なりて」

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」

 だとか、口あたりがいいから、自然記憶にとどまるのであろう。

 それからうちの男の子を呼んで、巻七(四年生前期用)を読ませたら、これがほとんど読めない。巻七の最初は「世界」と題する文章で、何故読めないかというと、第一に文語体だからである。次のような書き出しだ。

 「われらが住む世界は、其の形まるくして、球の如し。ゆゑに之を地球といふ」

 第二に旧仮名が使用してある。それに漢字が多いし、その漢字も旧字体である。何やかやの条件が重なって、私から指導されながら、その章を二十分ぐらいかかって読み終えたが、

「それでどんなことが書いてあったか?」

 と聞くと、ほとんど理解していない。理解せよという方が無理だろう。

 もっとも大正時代の小学生を、時空を超えて現代につれて来て、今の国語読本を読ませたら、やはりめんくらうだろう。新仮名や略字体に眼をぱちぱちさせるだろうが、しかし理解しないことはないと考えられる。

 誌面のつくり方からいうと、今の読本の方がいたれりつくせりで、痒いところに手の届くような編集がなされている。昔のは今のより教訓的で、つっぱねたような文章が多い。

 それから一番強い印象を与えるのは、活字の大きさである。昔の読本の活字は実に大きく、形は古風ながら堂々としている。今のは形はスマートだが、字体は小型である。

 人間の眼にとって、あるいは子供の眼にとってどのくらいの大きさの活字が適当であるか、すらすらと頭に入って来るか、その道の学者に聞かないと判らないが、明治大正時代から活字は年々歳々小さくなって行く一方のようだ。頁単位に出来るだけ多数の内容を盛り込もうとする実利主義から来ているのではないか。

 だから近頃老人たちから、

「近頃の新聞雑誌は活字が小さ過ぎて、老眼鏡をもってしても、とても読めない。老人向きの活字本をつくって呉れ」

 との投書や談話が発表されたりしている。

 それは当然の要求と言えるし、日本人の眼のためにも今少し活字を大きくする必要があると思う。私も近頃、地下鉄ぐらいの明るさの中では、新聞を読むのに苦労する。大見出しと小見出しだけ読んで、内容は読まずに網棚に放り上げて下車するというケースがしばしばである。

 新聞活字だって、昔は大きかった。今のように頁当り十五段制じゃなく、十段か十二段制なので、活字も大きくゆったりと組んであった。つまり満員電車の中でぎゅうぎゅう押しになってちぢこまっているのと、がらがら電車の中で足をゆったり開いて腰掛けているぐらいの差がある。

 しかも昔の活字は、ルビというお伴をつれていた。昔のジャーナリストに聞くと、あの頃の活字は活字そのものにルビがついていたそうである。つまり、昔という字なら「昔(むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は「むかし」とルビの振られた「昔」一字分。]であって、「昔」と「 (むかし)」[やぶちゃん注:底本ではこの鉤括弧内は一字分の本文空白一マスと、そこに右に小さく振られたルビの「むかし」。]とを分離して必要に応じて組み合わせるのは、その後の時代のことだ。

 私が小学生の時、私のお婆さんがまだ生きていて、老眼で新聞が読みづらい。学校から戻って来た私を呼んで、新聞小説の続きを音読させる。どんな小説だったか内容は忘れたが、たいてい男女のいざこざを描いた小説で、ルビつきだから私にもすらすら音読出来るのである。

 一回読み終ると、お婆さんは、

「もう終ったか。何子(あるいは何男)は一体どうなるんじゃのう」

 と溜息をつきながら、読み賃として一銭か五厘(半銭とも言った)玉を呉れる。私はそれを握りしめて、遊びに行く。

 ルビをたどって読むには読んだが、こちらはまだ子供で男女間の機微なんかを解するわけがない。何子や何男がどうなろうと知ったことではない。読み賃が欲しかっただけである。

 その頃は子供の雑誌だけでなく、大人の娯楽雑誌もそうだった。ルビというものの功罪は私にはよく判らないが、ルビばかりを読んでいるようでも、自然と横の漢字の形が眼に入り、頭にしみ込むという作用は、たしかにあると思う。

 今の青年たちは字の読み方を知らないそうだ。電車の中で、

「新宿をコンジョウとしたぐれん隊が――」

 と話しているから、何のことだろうと考えたら「根城(ねじろ)」のことだったと本多顕彰氏が書いていた。

 また先日瀬沼茂樹氏の話によると、大学生が「ジンサイ」「ジンサイ」という言葉をしきりに使う。何事ならんと問いただしてみると「人妻」のことだったそうである。

 隠語として使っているのなら、話は判らんことはないが、瀬沼先生に対して隠語を使うわけがない。やはり本気なのである。

 こんなのは特別の例であるかも知れないが、もしルビつきで教育されていたら、この連中もこんな錯誤をおこさないだろう。だからといって私はルビを礼讃しているわけではない。

 

[やぶちゃん注:「うんとか すんとか」連載第六十二回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年六月二十五日号掲載分。

「小学校の国語読本」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらこちらで全巻を画像を視認出来る(一巻が大正六(一九一七)年で二巻以降も大正末以降の修正版であるが、基本は変わっていないと思われる)。

「旅順開城約なりて」巻九の「第十 水師營の會見」の冒頭。同前のこちら。若い読者のために述べておくと、水師営(すいしえい:音写:シュイシーイン)は中国の清朝に於ける北洋艦隊(清国呼称は「北洋水師」)の隊員駐屯地を意味する一般名詞であって地名ではない。ここは明治三八(一九〇五)年一月十五日に日露戦争に於ける旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された遼寧省大連市旅順の水師営を指す。日本代表は第三軍司令官乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)大将、ロシア代表は旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルАнатолий Михайлович Стессель:ラテン文字転写:Anatolii Mikhailovich Stoessel「ステッセル」は「ステッセリ」とも音写 一八四八年~一九一五年)中将であった。当時の旅順軍港から北へ五キロメートルの位置にあった(ここはウィキの「水師営に拠った)。以下に電子化しておく。底本では頭注欄があり、そこで覚えるべき新漢字が示されている(一部に下線。既習を示すもののように思われる)。これは各行末に【 】で示した。踊り字「〲」は正字化した。これは文部省唱歌ともなって佐々木信綱作詞としているが、幾つかの記載を総合すると佐々木信綱原案というのが正しい。

   *

   第十 水師營の會見

  旅順開城約成りて、

  敵の將軍ステッセル

  乃木大將と會見の

  所はいづこ、水師營。」【師】

  庭に一本ひともと棗なつめの木、

  彈丸あともいちじるく、【彈

  くづれ殘れる民屋に、【屋】

  いまぞ相見る、二將軍。」

[やぶちゃん注:ここに乃木とステッセルの会見の図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像をトリミングし、補正して挿入しておく。同読本は全体がパブリック・ドメインである。]

Suisieinokaiken

  乃木大將はおごそかに、

  御めぐみ深き大君の

  大みことのりつたふれば、

  彼かしこみて謝しやしまつる。」【謝】

  昨日の敵は今日の友、

  語る言葉も打ちとけて、

  我はたゝへつ、彼の防備。【備】

  彼は稱たたへつ、我が武勇。」

  かたち正していひ出でぬ、【正】

 『此の方面の戰闘(とう)に

  二子を失ひ給ひつる

  閣下の心如何にぞ。』と。」

 『二人の我が子それぞれに

  死所を得たるを喜べり。

  これぞ武門の面目。』と、【

  大將答力あり。」

  兩將晝食(ひるげ)共にして、

  なほもつきせぬ物語。

 『我に愛する良馬あり。

  今日の記念に獻(けん)ずべし。』」

 『厚意謝するに餘りあり。【厚】

  軍のおきてにしたがひて、

  他日我が手に受領せば、【領】

  ながくいたはり養はん。』」

 『さらば』と、握手ねんごろに、

  別れて行くや右左。

  砲音(つゝ)たえし砲臺に

  ひらめき立てり、日の御旗。」

   *

なお当時、乃木は満五十五歳で、詩の中にも出るが、彼はこの戦争でこの前年の五月二十七日(乃木の日本進発直前)に長男勝典を南山の戦い(遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われたロシア陸軍との戦いで亡くし(ロシア軍の銃弾が腸の部分を背部まで貫通する大きな創が空き、野戦病院で手当てを受けたが、出血多量で死亡した。満二十四歳であった)、十一月三十日には父希典が指揮する旅順攻囲戦第三回総攻撃に参加していた次男保典(後備第一旅団副官であったが、ロシア軍の砲弾を至近に受け崖から滑落、岩場に頭部が激突して粉砕、即死した)が満二十二歳で戦死している。一方のステッセルはこの時、満五十六歳で、この日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われて一九〇八年二月に軍法会議で死刑宣告を受けたが、一九〇九年四月に特赦により禁錮十年に減刑されている。これに関しては乃木希典が助命運動を行ったのが最大の理由とされている。釈放後は軍を追放され、モスクワで茶商人などして静かな余生を送ったとウィキの「アナトーリイ・ステッセリにある。

「今に見ていろ、僕だって、見上げるほどの大木に」巻四の「十五 しひの木とかしのみ」で、同前のこちら。なおこれは、まさにこの「尋常小学国語読本」の「ハナハト読本」と通称される版の編纂者であった福岡県生まれの国文学者で国語教育学者の八波則吉(やつなみのりよし 明治九(一九七六)年~昭和二八(一九五三)年)の作詩になるものである。前に倣って以下に電子化しておく。

   *

   十五 しひ の 木と かし の み

 思ふ ぞんぶん はびこつた【思】

 山 の ふもと の しひ の 木 は、

 根もと へ 草 も よせつけぬ。

 

 山 の 中 から ころげ出て。

 人 に ふまれた かし の み が、

 しひ を 見上げて かう いつた。

 

「今 に 見て ゐ ろ、僕 だつて、

 見上げる ほど の 大木 に【

 なつて 見せず に おく もの か」。

 

 何百年 か たつた 後、【百】

 山 の ふもと の 大木 は

 あの しひ の 木 か、かし の 木 か。

   *

『巻七の最初は「世界」と題する文章』「巻七」全体は同前のこちらで通読出来る。その冒頭の「第一 世界」は以下。前に倣う。

   *

  第一 世界

われらが住む世界は、其の形まるくして、球の【形 球】

如し。ゆゑに之を地球といふ。【

地球の表面には、海と陸とありて、海の廣さは【

およそ陸の二倍半なり。

海を分けて太平洋・大西洋・印度洋とし、陸を分【

けて、アジヤ洲・ヨーロッパ洲・アフリカ洲・南アメ【洲】

リカ洲・北アメリカ洲及び大洋洲とす。【及】

我が大日本帝國はアジヤ洲の東部にあり。【部】

[やぶちゃん注:ここに見開きで世界地図が入る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をそのまま(色補正もせずに)挿入する。]

Sekaitizu

地球上には大小合はせて六十餘國あり。其

の中我が大日本帝國と、イギリス・フランス・イ

タリヤ及びアメリカ合衆國を世界の五大強【衆

國といふ。

   *

「本多顕彰」(ほんだけんしょう 明治三一(一八九八)年~昭和五三(一九七八)年)は浄土真宗僧侶でしかも、英文学者で評論家。愛知県名古屋市の寺院に生まれ、大正一二(一九二三)年、東京帝国大学文学部英文科卒。東京女子高等師範学校教授・法政大学教授。シェイクスピア・ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学ほかの広範な評論活動を行った(ウィキの「本多顕彰」に拠る)。梅崎春生より十七年上。

「瀬沼茂樹」(明治三七(一九〇四)年~昭和六三(一九八八)年)は文芸評論家。東京生まれ。東京商科大学(現在の一橋大学)卒。在学中伊藤整と知り合い、終生の親友となった。出版社に勤め、昭和五(一九三〇)年に伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得、評論活動を始める。昭和一七(一九三二)年には唐木順三・藤原定らと季刊『理論』を創刊、翌年には最初の著書「現代文学」を上梓している。埼玉県立商業学校教師・川越中学校教師から昭和一二(一九三七)年には化粧品会社に勤務して執筆活動を一時、休止。戦後の昭和二一(一九四六)年に『新日本文学』に拠って評論活動を再開、小田切秀雄・猪野謙二と相知る。日本大学講師から昭和三五(一九六〇)年には日本大学芸術学部教授となった。昭和三八(一九六三)年に「日本近代文学館」が創立されると理事となった。その後は大正大学に移るが、ここに出るのは日大時代で、その学生であろう。昭和二八(一九五三)年当時の早川書房編集者であった宮田昇のブレインとして『翻訳ミステリの安価なシリーズ』を奨めて同社の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の創刊を奨めたことで知られ、彼自身もミステリ等の翻訳がある(以上はウィキの「瀬沼茂樹」に拠った)。]

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