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2016/08/31

芥川龍之介 手帳6 (1)

芥川龍之介 手帳6

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《6-1》のような表示はない。

 本「手帳6」の原資料は新全集の「後記」によれば、大正一〇(一九二一)年大阪毎日新聞社発行の上下十四センチメートル、左右六・七センチメートルの右開き手帳であるとある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であり、更に未定稿遺稿の「澄江堂遺珠」の一部もここに含まれている(リンク先は私のPDF全注釈版(画像による原本の可能な限りの復元版)。ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔」』も参照されたい)。]

 

   六

 

○庭の空に蟬一聲や月明り

○舊事記誦先代之舊辭――古事記

              >多田義俊

    太平記未來記の條

[やぶちゃん注:「舊事記誦先代之舊辭」これは恐らく史書「先代旧事本紀」(「旧事紀」「旧事本紀」とも呼称。全十巻)中の古い記載(「舊辭」)の謂いであろう。同書は天地開闢から推古天皇までの歴史を記し、序文に聖徳太子・蘇我馬子らが著したとあるものの、現在では大同年間(八〇六年~八一〇年)以後から、九〇四年から九〇六年以前に成立したとみられている。参照したウィキの「先代旧事本紀によれば、『本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが』、『江戸時代の国学者多田義俊』(後注参照)『や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている』とある。

「太平記未來記」これは「太平記」に載っている聖徳太子が書いたとされるノストラダムスも吃驚の予言書「未来記」のことである。「太平記」の巻六の「正成天王寺の未來記披見の事」に出る。

   *

人王(にんわう)九十五代に當たつて、天下一度(ひとたび)亂れて、主、安からず。この時、東魚(とうぎよ)來たつて、四海を呑む。日、西天(せいてん)に没すること、三百七十余箇日、西鳥(せいてふ)來たつて、東魚を食らふ。その後、海内(かいだい)一(いつ)に歸すること、三年、獼猴(みこう)のごとくなる者、天下を掠(かす)むること三十餘年、大凶變じて一元に歸(き)すと云々。

   *

文中の「人王九十五代」はまさに後醍醐天皇に相当し、「西鳥」は楠正成、「東魚を食らふ」は京の六波羅探題が滅ぼされること、「獼猴」は尾長猿で足利尊氏以下の足利氏、ということになるか。同書の断片は、かの「平家物語」の巻八の「山門御幸」にも登場する。

   *

法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は法闕(ほうけつ)を去つて西海(さいかい)へ、攝政殿は吉野の奥とかや。女院(にやうゐん)宮々は、八幡(やはた)、賀茂、嵯峨、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山の片邊(かたほとり)について、逃げ隱れさせ給へり。平家は落ちぬれど、源氏は未だ入り替はらず。既にこの京は主(ぬし)なき里にぞなりにける。開闢(かいびやく)より以來(このかた)、かかる事あるべしとも覺えず。聖德太子の「未來記」にも、けふの事こそゆかしけれ。

   *

この「法闕」は宮城の意、「攝政殿」は藤原基通。しかし、この「未来記」、肝心の纏まった原書は伝わっておらず、如何にも怪しげな偽書の臭いプンプンのトンデモ本である。

「多田義俊(元禄一一(一六九八)年~寛延三(一七五〇)年)は国学者で有職故実家。浮世絵草紙作家として「多田南嶺」とも称した。「旧事記偽書明証考」(享保一六(一七三一)年)で本書を偽書と断じている。]

 

○美しき humor. マダムボヷリイ

[やぶちゃん注:言わずもがな、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』(Revue de Paris)に連載された。詳しい梗概はウィキの「ボヴァリー夫人」を参照されたい。]

 

○髻【文覺 業平】 久夢日記 天和三年の事

[やぶちゃん注:「久夢日記」筆者不詳の江戸後期延宝より貞享(一六七三年~一六八七年)に至る三都の巷談を記した日記風随筆。文中に「今文化三寅年云々」とあることから編はずっと後の、その頃(一八〇六年)と考えられる。

「天和三年」一六八三年。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここ以降。]

 

○髮を切つて釋迦に入學試驗を祈る(お百度) 祖母に内證 使に行くと云ふ 髮のぶら下り居るはおのれなり

○仙人の松に上り登天の話

[やぶちゃん注:後者は「仙人」(大正一一(一九二二)年四月『サンデー毎日』)の構想。]

 

○ピアノの鍵盤に number をつけ春雨をひく 房子の夫

[やぶちゃん注:この後の部分からが中国関連の記載となる。]

 

○三遊洞 徐霞客遊地

[やぶちゃん注:「三遊洞」中華人民共和国湖北省西部の長江の三峡の下流の港町宜昌から十キロメートルほど離れた北西の西陵山の絶壁にある洞窟。白楽天と彼の弟白行簡、そして元稹の三人がここを訪れ、それぞれに詩を詠み、そのうちの白楽天が詠んだ「三遊洞亭」がここの歯岩壁に刻まれた。その二百年後の宋代には蘇軾・蘇洵・蘇轍の父子三人もここを訪れたことから、唐の「前三遊」に対し、彼らは「後三遊」と呼ばれる。張飛が宜都の太守であった時、兵士の訓練をするために台を作って太鼓をたたいたとされる場所も三遊洞にある(「中国重慶黄金假期国際旅行社有限公司」公式サイト内のこちらの記載を参照した)。

「徐霞客遊地」この「地」は底本の編者の誤判読で「記」であろう。「徐霞客遊記(じょかきゃくゆうき」なる書が存在するからである。明末の徐弘祖(一五八六年~一六四一年)の著作。徐弘祖は江蘇省江陰の生まれで、生家は代々官僚を出した家柄であったが。一度、科挙に失敗した後は、ひたすら読書に努め、特に地理書に関心を持った。しかし古典の字句の机上解釈に終始する従来の学問にあき足らず、自分の眼で実際の自然を観察しようと、二十二歳より旅行を始め、死の前年の五十五歳に至るまでの三十年間、その足跡は当時の国内の十四省(東北・西域・四川・チベットなどを除く)殆んど全国に亙った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。前の「三遊洞」磨崖のことがそれに書かれていたのをメモしたものか。]

 

Trapist 白雲觀――北京

[やぶちゃん注:“Trapist”“Trappist”の誤りであるが、トラピストはキリスト教カトリック修道会トラピスト会を指す語で、ここで芥川は白雲観が中国での道教の厳格な修行場として、トラピスト修道会に匹敵するという事前情報を書き込んだものであろうか。]

 

○船室のリンネルの窓かけに入日

 水夫らが甲板を拭ふ椰子の實よ海よ

 海上のサルーンに常磐木の鉢ある

 支那人のボイが入日を見る額の廣さ

 アメリカ人がうつタイプライタアに荒るる

 荒るゝ海に鷗とび甲板のラシヤメン

 星影に船員が仰ぐ六分儀

 水平の赭水紫立つ朝なり

 ジヤンクの帆煙るブイの綠靑色

 川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶

 アンペラ 布帆 丹色の赤 綠 コバルト 藍

 藍衣黑衣の支那人 倭寇

 船尾に煤けたる日章旗

 黃旗 赤布包の棺 ジヤンク四五人 葬をおくる舟

 柳 山羊 アンペラ屋根 菜

 鴨群 四つ手網(大)

[やぶちゃん注:「ボイ」ボーイ。

 

「川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶」までの十句は新傾向或いは自由律俳句の試みと思われる。

「常磐木」常緑樹全般を指す一般名詞。

「ラシヤメン」は漢字では「羅紗緬」「羅紗綿」などと書き、本来は綿羊、ヒツジのことであるが、本邦では専ら、「外国人を相手に取っていた遊女」「外国人の現地妻や妾となった女性」を指す差別蔑称。ウィキの「羅紗緬(らしゃめん)によれば、幕末開国後の一八六〇年頃(安政六~七年から万延元年)から『使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる』とある。

「六分儀」天体の見かけの高度を測るための携帯用器械。望遠鏡・二枚の反射鏡・円周の六分の一(六十度)の目盛りをつけた弧などから成る。正確な船の位置を求める天文航法に使用する。

「赭水」音は「しやすい(しゃすい)」であるが、ここは「あかみづ」と訓じたい。黄土が解けた赤っぽい川水(恐らくは長江)の謂いであろう。

「ジヤンク」“Junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)」に拠った)。

「アンペラ屋根」「筕篖」とも書く。「アンペラ」はインド・マレー地方原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科アンペライ属アンペライ Machaerina rubiginosa(単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサJuncus effusus var. decipens に似、用途も同様なことから「アンペラ藺(い)」とも呼ぶが、目レベルで異なる全くの別種である)。茎は直立し、一メートルほどで下部に数枚の鱗片葉を持つ。このの茎で筵を編む。一説にポルトガル語の“amparo”(日覆い)からとも、また、茎を平らにして敷物や帽子などに編むことから「編平(あみへら)」が転じたする説がある。]

 

○ゴルフ人に芝生靑々

 春日にとぶ首白がらす

 花菜畑に灰色煉瓦の墓二つ

 紅桃の中に西洋館ある啼鴉

[やぶちゃん注:「首白がらす」スズメ目スズメ亜目カラス科カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus の淡色型(後の引用の下線部参照)。ウィキの「コクマルガラスによれば、『種小名dauuricusは、ダウーリア地方(「ダウール族の国」、バイカル湖の東)に由来』し、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、モンゴル人民共和国、ロシア東部』に分布し、『日本には越冬のため本州西部、特に九州に飛来する(冬鳥)。(稀に北海道、本州東部、四国にも飛来することがある。)』。全長三十三センチメートルで、『日本に飛来するカラス属では最小種。全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頚部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる』。『嘴は細く短い』とある(下線やぶちゃん)。ウィキ写真を参照されたい。]

 

Avenue Joffre

 能成に似る印度人の巡査

 アカシアの芽匀ふ路ばたのアマ

 馭者の一人は眠る白馬なり麥畠

[やぶちゃん注:正しくは“Avenue de Joffre”で、上海のフランス租界にあった通りの名前。現在の淮海路。孫引きになるが、OKA Mamiko氏のサイト「亞細亞とキネマと旅鴉」の中の「堀田善衛:『上海にて』」の引用の中に、『旧仏租界の大通りである、中国人たちが法国梧桐(フランス桐)と呼んでいるアカシヤの並木のある霞飛路(上海語でヤーフィロと発音した)は、そのフランス名は、Avenue de Joffre すなわち第一次大戦時のフランスの将軍であったジョッフル元帥の名をとってつけたものであ』る、とある。

「能成」哲学者で後に文部大臣となった教育学者安倍能成(よししげ 明治一六(一八八三)年~昭和四一(一九六六)年)。漱石山房の先輩であった。

「アマ」東アジア諸国に住む外国人の家庭で雇われている現地人の女中(メイド)或いは乳母のこと。しばしば「阿媽」と漢字表記し、中国語のように見えるが、ポルトガル語の「乳母・保母」の意の“ama”由来とされる。]

 

○クーリーの背中の赤十字に雨ふる

 緋の幕に金字けむる

 赤面の官人の木像かなし錫箔

 燈籠ならび線香長し

[やぶちゃん注:「クーリー」「苦力」(kǔlì)は本来は広く「肉体労働者」の意であるが、特に中国語では「港湾の荷積労務者」を指すことが多い。]

 

○鼠色の長褂兒

 黑色の馬褂兒

 雪毬にうす日さす竹林の前

 三階なれば櫻しらじらと(日本よりの)

 老爺が火をすりくるる小説の話

 世界戰爭後の改造文學の超國家性

 黑き門に眞鍮の鐶ある午後

 卍字欄に干し物のひるがへる靑空

 わが友が小便する石だたみの黑み草疎

 雅敍園の茶に玫瑰の花の匀

 杏の種をわりて食ふ三人

 時事新報社の暗き壁に世界圖

 千坎堂

 白き驢馬がころがる一匹は行キ(痒いんだよ――M氏)

[やぶちゃん注: 「鼠色の長褂兒」「黑色の馬褂兒」の「長褂兒」と「馬褂兒」は、前者が「タァクヮル」(tàiguàér)で、男物の単衣(ひとえ)裾が足首まである長い中国服のこと。後者は「マァクヮル」(măguàér)で、日本の羽織に相当する中国服の上衣で対襟のもの。何れも実は「上海游記」「十一 章炳麟氏」にズバリ、『しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる』と登場するのである。従ってこれはその時の章炳麟の着衣の覚書きと考えられるのであるが、こうした自由律がしばしばあることも厳然たる事実ではあるのである。芥川が覚書きとしつつ、それを(特に中国音の面白さを)自由律の句と捉えていた可能性も全くないとは、言えない気がするのである。

「鐶」「くわん(かん)」で、門扉に附いた環状の金属製の引き手。

「卍字欄」「まんじらん」は卍の字を崩した形を木材を組み合わせて連続して作った「卍崩し組子(まんじくずしくみこ)」の欄干。中国の古い家庭のや本邦の比較的古い仏教寺院に普通に見られる。

「雅敍園」上海にあった料理店の名。少なくとも後の日本の雅叙園とは全く関係がない。ある中文記載から一九〇九年には既にあったと思われる。

「玫瑰」日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」の意でよいと思われる。

「時事新報社」無署名の社説「脱亜論」明治一八(一八八五)年三月十六日に福沢諭吉が創刊した新聞『時事新報』に掲載された。この句はそうした事実を背景とした一句であろう。時事新報は上海に支社を持っていたものか。

「千坎堂」不詳。全く不明というのは、編者の誤判読か、芥川龍之介の誤記が疑われる。

M氏」恐らく中国滞在中の芥川の世話役であった大阪毎日新聞社上海支局長の村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)であろう。「烏江」と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任したが、上海で客死した。]

芥川龍之介 手帳5 (5) / 手帳5~了

○コツプを買ふ食卓に向ひて疲れ

[やぶちゃん注:自由律俳句に私には見える。]

 

○不負十年未醍名

 也對秋風催酒情

 枯筆含杯閑半日

 寫成荒竹數竿聲

[やぶちゃん注:私は芥川龍之介作の漢詩と判断する。勝手に訓読する。

   *

負はず 十年 未醒(みせい)の名

也(また) 秋風に對して 酒情を催す

筆を拈(ねん)じ 杯を含みて 半日(はんにち) 閑たり

寫し成す 荒竹 數竿の聲

   *

私の「芥川龍之介漢詩全集 二十八」を参照されたい。]

 

○山嶂同月色

 松竹共風烟

 石室何寥落

 愁人獨末眠

[やぶちゃん注:同前。勝手に訓読する。私の「芥川龍之介漢詩全集 三十九」を参照されたい。

   *

山嶂(さんしやう) 月色に同じく

松竹 共に風烟(ふうえん)

石室 何ぞ寥落(れうらく)

愁人 獨り未だ眠らず

   *]

 

○銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見

 三五踏靑人

 射鴉

[やぶちゃん注:同前。勝手に訓読する。

銅駝(どうだ) 名 惟だ在り

春風 棘榛(きよくはん)を吹く

陌頭(はくたう) 何の見る所ぞ

三五 踏靑(たうせい)の人

   *

この漢詩についは是が非でも「芥川龍之介漢詩全集 三十」の私の見解を参照されたい。そこで「射鴉」という不思議なポイント落ちの添書についても考証している。]

 

○皿鉢の赤畫も古し今年竹

 金網の中に鷺ゐる寒さかな

 白鷺は後姿も寒さかな

 茶のけむりなびきゆくへや東山

 霧雨や鬼灯殘る草の中

 冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき

 道ふるび砲車すぎけり馬の汗

○小春日のけふも暮れけり古障子

 小春日に産湯の盥干しにけり

 小春日を夕鳥なかぬ軒ばかな

 道ばたの穗麥も赤み行春や

 麓より匀ふ落葉や月ほがら

 黑南風のうみ吹き凪げるたまゆらや

 風のうみ吹きなげるたまゆらや

 かげろふや影ばかりなる佛たち

 大うみや黑南風落つる朝ぼらけ

 苔づける百日紅や秋どなり

 花のこる軒ばの山や茶のけむり

 さきそむる軒ばの花や茶のけむり

 さきのこる軒ばの花や茶のけむり

 小春日や暮るゝも早き古障子

○甘皮に火もほのめけや燒林ご

 秋風に立ちてかなしや骨の灰

○黑ぐろと八つ手も實のり行春や

 塗り膳の秋となりけり蟹の殼

 乳垂るる妻となりけり草の餅

○風光る穗麥の果や煤ぐもり

○むさんこにあせない旅のしよむなさはだら山中の湯にもはひらず

 ひがやすな男ひとり來五日あまりへいろくばかり云ひて去りけり

 かんすいなせとの山吹すいよりといちくれ雨にちりそめに

○燈籠だけ

[やぶちゃん注:これを以って「手帳五」は終わっている。

「黑南風」「くろはえ」と読み、梅雨の初めに吹く南風。最後の方にある、一見、奇異な印象を受ける短歌三首は加賀方言(金沢弁)を用いている。私は既にやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注で標準語訳を試みている。そこで私は『この四首の末尾には『(大正十三年五月)』の創作推定年が示されている。この頃、芥川龍之介は金沢・京都方面の旅(親族岡榮一郎結婚媒酌人としての新郎親族との挨拶を含む)に出ている。大正一三(一九二四)年五月十四日に出発、十九日まで金沢に滞在した。金沢では室生犀星の世話で兼六公園内の知られた茶屋三芳庵別荘に二泊したが、正にこれらはその別荘での吟で、金沢弁を面白おかしく用いた戯れ歌である(語注については全集類聚版脚注を大いに参考にさせて貰ったが、私も六年間富山に在住していたため、通常人よりは分かるつもりである)。』と注した。以下に示す。

 

「むさんこにあせない旅のしよむなさはだら山中の湯にもはひらず」

 

――無暗に矢鱈にせわしない、旅のそのまた味気なさ――例えば、知られた馬鹿山中、そのなまぬるい湯にさえも、入らずに終えてしまったこと……

 

「だら山中の湯」について、筑摩全集類聚版脚注には山中温泉がその昔、『湧き出る低温の湯だけで風呂としていたので体が温まらず長く湯に入っていなければならなかった』ため、浸かり過ぎて「だら」(北陸方言で馬鹿・阿呆の謂い)のようになったことからの謂いとある。

 

「ひがやすな男ひとり來五日あまりへいろくばかり云ひて去りけり」

 

――お化けのような痩せ枯れた、男一人がやって来て――五日余りも出鱈目ばかり、べらべらべらべらお喋りし――したがまんまに去りよった……

 

「かんすいなせとの山吹すいよりといちくれ雨にちりそめに」

 

――ほんに小さな背戸の山吹――日暮れの雨にあっさりと、すっかりみんな散りきって――辺り一面、黄金こがねに染めた……

 

筑摩全集類聚版脚注に「かんすいな」を『ごく少ない。』、「すいよりと」を『すんなりと。たわむさま。』とする。流石にこの一首だけは、これらの注なしには分からなかった。筑摩全集類聚版脚注に感謝する。]

譚海 卷之一 阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事

阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事

○紅毛人髮ひげをそるには藥付てそる。髭しやぼんといふものあり。髮にぬりてそるときは、髮やはらかに成(なり)て莖(くき)までさつぱりとそらるゝ也。但(ただし)此(この)くすりたびだび付(つく)れば、髭のいろいつとなく赤くなりちゞれる事也。それゆへ此邦の人はもちひがたし。和蘭にては髮髭あかくちゞれたるものを貴族とす。黑きものはジャガタラの種類とて親しみおとす。それゆへ髭のあかく成(なる)藥を製し、そる時に兼(かね)て用(もちふ)る事とぞ。前年國姓爺(こくせいや)たかさごを責取(せめとり)てをらんだ人を追出(おひいだ)したる時、和蘭人多く長崎へにげ來りて居たる事有(あり)。其後ことごとく本國へ御歸しありけるに、女子(をんなご)二人とり殘し置(おき)けり。長崎の者哀(あはれ)み養育し、伽羅(きやら)の油など付(つけ)髮をゆふてやりける。壹年ほどの内に黑髮に成(なり)たり。其後(そののち)父おらんだより來り、娘の髮黑く成(なり)たるをみて甚(はなはだ)悲しみ、その國にては赤髮を辱しむ事を物語せしと也。扨(さて)すきあぶらをもたゞうちすてゝ置(おけ)ければ、もとの赤髮に成(なり)たるを見て、初(はじめ)て悦び本國へつれ歸りしとぞ。

[やぶちゃん注:「ジャガタラ」「咬𠺕肥」と漢字表記する。通常はマレー人のことを指すが、ここは一種の蔑視としての黒髪のアジア人を広汎に指すようである。

「親しみおとす」馴れ親しみつつ、そこで留まらずに蔑(さげす)んで見下す。

「國姓爺(こくせいや)」明の軍人政治家鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。ウィキの「鄭成功によれば、日本名は福松。『清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた』。『日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦に住み、浦人田川マツを娶り』、二子を生んだ。二人に『福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが』、七歳の『ときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた』。十五歳の『とき、院考に合格し、南安県の生員』(明及び清朝に於いて国子監の入試(院試)に合格して科挙制度の郷試の受験資格を得た者のこと。生員となったものは府学・県学などに配属され、「秀才」と美称されて実質的には士大夫階級(科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた階層)と同等の待遇をされた)『になった』が、一六四四年、二十歳の時、『李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵』(しゅいつけん)『を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった』。『そんななか、ある日』、成功は『父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな』彼を『気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと』、彼は『決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる』。『隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる』。『その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した』。一六五八年、『鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた』。『意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い』、三百隻の内百隻が沈没、『鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の』三月二十五日に再度、『進軍を始めた』。『鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった』。『鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい』、一六六一年に『台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には』、一六六三年に『鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある』。『国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)』。『歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られて』いる、とある(下線やぶちゃん)。本邦では近松門左衛門の人形浄瑠璃「國性爺合戰」(こくせんやかっせん:全五段・正徳五(一七一五)年に大坂竹本座で初演)でと見に知られる。本「譚海」の記事対象期間は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年であるから、鄭成功の台湾占拠は百年以上前の出来事である。

「たかさご」台湾の異名。

「伽羅(きやら)の油」香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とあるから、この「油分が多く色の濃い」「カーラーグル」「黒沈香」のことであろう。だから黒くなったのが腑に落ちる訳である。

「辱しむ」普通なら「はづかしむ」であるが、恐らくここはその「恥ずかしい思いをさせる/恥をかかせる」「価値を低める/地位・名誉などをけがす」の意から、「いやしむ」(賤しむ)と訓じていると私は思う。

「すきあぶら」「梳き油」。

「うちすてゝ置ければ」普通に梳くための髪油なども一切使わずに、そのまま暫くほおっておいたところ。頻繁に洗髪もしたものであろう。]

甲子夜話卷之二 10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事

2―10 元日の雪、登場のとき輕卒の人の事

述齋林子云ふ。當元日【文政壬午】朝、雪降出しける折節登城せしに、ある歷々の人、松重の直垂をくゝり、金作りの梨子地紋鞘の兩刀いかめしく帶して、布衣の從者をさへ具し、爪折の朱傘をさゝせて、同じく登りしが、雪ふる故にや、其さま殊に輕率に走る斗に歩み、御門々々に松飾のある中央をば通らず、少しも路の捷ならんやうにと斜めに行く体たらく、眞に見苦しく、其身柄不相応に覺へし。入ルニ公門鞠躬如とも見ゆれば、心あるべきこととて語られき。

■やぶちゃんの呟き

「述齋林子」儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった静山より八つ年下。

「當元日【文政壬午】」文政の壬午(みずのえうま)は文政五年で西暦一八二二年。この雪の降った旧暦一月一日はグレゴリオ暦の一月二十三日に相当する。「甲子夜話」の中で年月日まで特定出来る記事内容は特異点である。

「松重の直垂」「まつがさねのひたたれ」。紫と緑の糸で織った襲(かさね)の色目の松重(これは折り色であって襲(かさね)の色目ではない。経糸(たていと)が「青」で緯糸(よこいと)が「紫」のもの。ウィキの「直垂によれば、『諸大名は禁じられた色を避けるために経緯(たてよこの糸)の色を変えた織色(玉虫)を好み、紫と緑の糸で織った松重、紫と黄色で織った木蘭地など、渋く上品な「織色」に趣味を競った』とある。

「くゝり」絡げ上げて括り。上品な直垂をかくするのは如何にもみっともない。

「金作りの梨子地紋鞘」(きんづくりのまきゑなしぢもんざや」。金蒔絵の梨地紋の鞘。「梨地」蒔絵の地の一種。漆の塗面に金銀の梨地粉を蒔いて、その上に梨地漆を塗って粉を被った後、粉が露出しない程度に研(と)いだもの。見た目が梨の肌に似ているところからかく呼ぶ。

「兩刀」太刀と脇差。

「帶して」「たいして」。

「布衣」「ほい」。幕府が制定した服制の一つで、幕府の典礼儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種。特に無紋(紋様・地紋の無い生地)を指す。なお、幕府より布衣の着用を許されると、六位相当叙位者と見做されたことから、当該格の旗本の呼称ともなった。ここはあくまで前者の服装のこと。

「爪折の朱傘」「つまをりのしゆがさ」。和傘で傘を開いた際の傘の蔽い部分の円周上に出る骨の先(爪)を内側に曲げて垂らした(折った)長柄傘の一種。古くは宮中参内の際に使われ、「参内傘」「壺折り傘」とも称した。

「其さま殊に輕率に走る斗に歩み」「斗に」は「ばかりに」と訓ずる。滑らないように、速く辿りつこうと(例の情けない直垂を絡げた格好で)如何にも身分の軽い民衆のするような動きで、武士大名としての荘重さを全く以って欠いているさまを揶揄批判しているのである。

「少しも路の捷ならんやうに」「捷」(しよう)。原義は「速い」であるが、ここは近道の意。

「体たらく」「ていたらく」

「眞に」「まことに」。

「其身柄不相応に覺へし」その態度・行動は凡そ、その知れる御仁の身分役職官位には頗る不相応なものと感じた。

「入ルニ公門鞠躬如」「公門に入るに、鞠躬如(きくきゆうじよ(きっきゅうじょ)」確かに、世には王公の門に入らんとする時には毬の如くに身を屈(かが)め、謹み畏まる、などとは言うし、一見、皮肉に言えば、まさにその御仁のそれは、そのようにして御座ったとも見えぬことはない(がしかし、あまりにも滑稽無慚であった)、というのである。順接の接続助詞「ば」で繋げているところが、これまた二重に皮肉に聞こえる。

「心あるべきこと」よくよく心するべきこと。誰が見ているか分かりませぬ故、という誡めをも含む。

終戦のころ   梅崎春生


 

 もうあれから、五年近くも経つ。あの頃の生活(生活と言えるかしら)の細部、こまごましたディテールの大半は、すでに私の記憶から薄れかけている。

 たとえば、私の毎日に密着していた、いろんな事物のあり方や名称など。書こうとしても、あやふやだ。ただ、当時の気分、不吉に重苦しく、私にかぶさっていたものの感じだけは、年を経るにつれて、葉肉を失って葉脈だけになった朽葉のように、いよいよ鮮明な形をとってくるようだけれども。

 

 終戦のころ、私は鹿児島児桜島の、袴腰というところにいた。所在海軍部隊の、通信科下士官としてである。部隊と言っても、兵舎などは持たぬ、洞窟住いの急造部隊であった。公式の名はたしか、第四特別戦隊(?)第三十二突撃隊鹿児島分遣隊という。水上特攻基地、小艇に爆薬を装置して敵艦に体当りする、その小艇の基地だ。しかしその小艇(震洋とか回天とかの名がついていたが)の姿を、今思っても、私はこの基地で見た記憶が全然ない。通信科の仕事が忙しくて、つい見そびれたのかとも思うが、あるいはそれらの小艇は、終戦までにこの基地に、とうとう間に合わなかったのかも知れない。きっとそうだろう。しかし艇がいなくても、部隊はちゃんとあった。そしてえいえいと仕事をしていた。(今のお役所そっくりだ。)とにかく意味なく忙しい部隊であった。あまり忙しいので、へんな得体の知れない病気になった程だ。今でも私には、仕事が忙しくなると、すぐ原因不明の病人になる癖があるが、桜島においても、だいたい同様の症状であった。精神にも肉体にも、その中核部において、昔から私にはかくの如く、はなはだしくしんが弱いところがある。

 この桜島での勤務を、特に忙しく辛いと感じたのも、ある理由はあった。実は私が桜島部隊附を命ぜられ、佐世保通信隊を出発したのは、昭和二十年五月のことである。ところが実際に私がここに到着したのは、七月十一日の夕方であった。二箇月もかかっている。どうしてこんなことになったかというと、その命令の出し方が悪かったのか、道を間違えたのか、私は桜島にやって来ずに、鹿児島郊外の谷山分遣隊に行ってしまったからである。以下は私の想像だけれども、谷山の通信長たちはこの間違いを、奇貨居(お)くべしとなし、私をそのまま使ってしまったのである。軍隊も官僚に似たところがあって、人員を一人でも余計、自分の所属に確保しておこうという、妙な傾向があった。その犠牲(?)となって、私は谷山隊所属となり、無線自動車の係りに配属された。無線機械を積んだ装甲自動車で、乗員は電信兵が二人、暗号係が私。その三人をのせて、性能検査並びに演習のために、薩摩半島の各水上特攻基地を経巡(へめぐ)ってあるいた。歴訪した基地の名も、移動したコースも、私はほとんど忘れてしまったが、海中に浮んだ甑島(こしき)の風景が、今でもつよく頭に残っているのをみると、吹上浜点在の基地を廻って歩いたらしい。最後に私達は、坊津という基地にいた。

 軍隊に入って、この一箇月余の旅行ほど楽な期間は、私にはなかった。なにしろ積みこんだ無線機の性能が悪くて、一度も谷山と連結がとれないのである。電信係も始めの中こそは努力していたようだが、後になると全然それを放棄して、基地に到着すると、その基地隊の通信兵に連結を托して、運転手もろともさっさとどこかへ遊びに行ってしまう。電信がとれなければ、暗号翻訳のしようもないので、すなわち私も遊ばざるを得ない。本来なら基地隊か自動車内に寝泊りしなくてはいけないのだが、それもごまかして、民家や旅館に泊めて貰う。昼はハイキングに行ったり、ウナギ捕りに行ったり、夜は夜で航空用一号アルコールを仕入れてきて、盛大な酒盛りを開く。基地だから、そこらの山の中に入れば、アルコールはドラム鑵でいくつでも転がっていた。飲む分には無尽蔵である。食事は基地隊から、ちゃんと届けて呉れる。つまり食うだけ食って、あとは何をしてもいいのである。だから私はこれを利用して、放埒(ほうらつ)な中学生のように、存分に食い、存分に飲み、存分に遊び廻った。身体のことなんか、どうだっていいと思っていた。どんな放恣(ほうし)をも許そうとするものが、私の内部にあった。――こんな楽な境遇は、過去にもあまりなかった。そして将来には、絶対にあり得ない。これが最後だ、ぎりぎりの最後だ、ということを、私ははっきり感じていた。全身をもって、直覚していた。だからこの恵まれた状態の、一分一秒を生きることが、自分の全部であることを私は感じていた。その意識が、私のすべての放恣を支えていた。このようにひりひりした生の実感は、私の生涯の他の部分では、あまり味わい得ないだろうと思う。

 こんな訳だったから、桜島転勤の電報がきた時は、私は全くがっかりした。桜島は相当大きな基地で、分遣隊のみならず、四特戦(?)の司令部もそこにあって、忙しいところだとは充分に予想がついていたから。そしてその予想は違わなかった。七月十一日入隊。そしてたちまち、得体の知れない発熱。ということになったらしい。その状況は、私の記憶からほとんど消え去っているが、飛び飛びに書いた日記だけが、今も私の手元に残っている。それをそのまま、写してみよう。

「七月二十三日

 朝六度六分。夕七度二分。

 白い粉薬を貰う。やはり原因は判らず。昨夜は八度五分。

 看護科にコーロギ兵曹というのがいる。字はどう書くのか。面白い姓だ。

 来てから、病気つづきで、当直に立たないから、谷山に帰そうかと、司令部の掌暗号長が言った由。

 八月二日

 此の間から敵機が何度もきて、鹿児島市は連日連夜炎をあげて燃えている。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身体の具合は相変らず悪い。何となく悪い。(胃がひどく弱っている)

 昨夜は大島見張所が、夜光虫を敵輸送船三千隻と認めて、電を打った。

 東京から便りなし。家からも。

 八月九日

 鬼頭恭而が召集されてきているのに会い、一しょに酒を飲みに行った夢を見る。大浜信恭も出てくる。

 昨夜は夕食に、ジャガ芋つぶしたのを少量、焼酎少量のみ、零時より直(ちょく)に立つと、やはり腹の調子ひどく悪し。気分重く、生きた感じなし。

 八月十五日

 朝五時に起きて、下の浜辺で検便があった。朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九暗から当直に行った折、着信控をひらいて見て、停戦のことを知る。愕然(がくぜん)とす」

 桜島での日記は、以上で全部。支給された粗末な軍隊用手帳に、小さな鉛筆の字で書いてある。

 八月十五日は、良い天気であった。この日のことは、割に覚えている。検便というのは、赤痢が流行していたから、その為のものである。砂浜に自分でそれぞれ小穴を掘って、その中に排泄したものを、軍医長に見て貰うという簡単な仕組み。すこしでも妙な便だと、すぐ霧島病院送りとなる。(兵たちは皆これを恐れていた。海軍の病院生活とは、絶対に楽な生活ではなかったから)

 私は腹が悪いくせに、この日は便秘していた。(と思う。)

穴は掘ったけれども、排泄(はいせつ)物がなかったから、また砂をかぶせて、近くにいた軍医長のところに行って、そう具申すると、軍医長が眼をいからせて、私をきめつけた。

「しかしお前は、紙で拭いていたではないか!」

 出なくても習慣で拭くんだ、と私は抗弁し、それから二三押問答をした。しかし軍医長はどうしても、そんな私の上品(?)な習慣を認めようとはせず、じゃ掘り返して実証して見せろ、ということになった。悪い便をして私が隠している、と邪推しているのである。しかし広い浜辺のことだし、埋めた穴の跡は無数にあるし、まだしゃがんでいるのも沢山いるという具合で、どれが私の穴の跡か判りゃしない。命令だから仕方なく、とぼとぼと自分の穴を探してあるいた気持を、私は今でも思い出せる。敵がもう直ぐ上陸するかも知れないのに、何というばかげたことだろう、と誠に情ない気持で、臭いで充満した砂浜をうろついていたのである。その気持は鮮かだが、穴を探しあてたかどうかは、記憶にない。また先刻は排泄物がなかったと書いたが、あるいは軍医長の邪推があたっていたのかも知れない、とも思う。なにしろ五年前のことだから、そんな細目はすっかり忘れてしまった。

 そしてその日の正午、ラジオの天皇の放送があった。鹿児島に来て以来、私は新聞を全然見ていなかった。だから情勢がどうなっているのか、ほとんど判らない。暗号をやっている関係上、戦況につゝいて少しは知っているが、それも部分的なもので、ことに味方損害の電報や重大電報は、士官が翻訳することになっていて、私たちの目に触れない仕組みになっていた。たとえば原子爆弾についても、私は暗号部下士官であるにも拘らず、ずっと後まで投下されたことを知らなかった。だからこの日の放送の意味も、ほとんど予測できなかった。激励の放送だろう、などと考えていたようである。今この文章を書いていて、たしかにあの朝、戦争が終ったという放送ならいいんだがなあ、と考えたことが記憶のすみに残っている。しかしこれは、あとで無意識に補足した、贋(にせ)の記憶であるらしい。身体の不調の故をもって、私は当直以外の時間は、居住区に休んでいていいことになっていたから、その放送の時間も、私は聞きに行かなかった。聞いたって仕方がないじゃないか、そんな気持だったのだろう。その頃私は当直外は、寝台に横になって、眠っているか本を読んでいるだけであった。所持していた本は唯一冊。佐世保を出る時貸本屋で借り放してきた、世界文学全集の戯曲篇という本。この一冊を繰返し繰返し読んでいた。読んで愉しむとか勉強するとかの気持では全然なかった。何もしないで醒めていることが、私には耐え切れなかったのだ。活字に眼を曝(さら)していると、それがいくらかでも紛れる。そんな気持で、この一冊を私は、少なくとも三四回は読み返したと思う。丹念に、一字一字をひろって。――そんなに執心して読んだのに、ふしぎなことには、今あの本の内容を、私はほとんど思い出せない。やっと思い出せるのは、「朝から夜中まで」という短

い一篇だけだ。三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだったのに、頭に全然残っていないのは、本当にふしぎなことだ。――で、この時も、これを読んでいたことは確かだ。放送が済んで居住壕に入って来た兵に、読みさしの本をばたりと伏せて、今の放送は何だった、と訊ねた記憶が私にあるから。雑音でがーがーして聞きとれなかった、というのがその答えであった。

 昼間はそれで過ぎて、夜九時、当直に行く。居住区の壕と通信室の壕は、少し離れていて、歩いて五分、夜中だと暗いから十分位かかる。樹々にはさまれた山道だ。そこを手探りで歩き、通信壕に入り、前直と交替中継ぎを済ます。私は直長だから、その席に坐って、その時も慣例に従って、前直の着信控を無意識に一枚めくると、いきなり、終戦、という文字が眼に飛び込んできた。その時の気持は、やはりうまく書けない。しかし日本人なら誰でも、あの終戦を知った瞬間の経験がある筈だから、私のも大部分の人々のと、ほぼ同じだったのだろうと思う。「愕然とす」などと日記に書いたが、その瞬間が過ぎると、私に突然異状な発汗の状態がきて、居ても立っても居られなくなってきた。私の直ぐそばに、赤沢(?)少尉という司令部の暗号士が腰かけていて、私はいきなり立ち上ってその少尉に、これは本当か、というようなことを口早やに問いかけた。赤沢少尉は確か召集前は、尾久かどこかの小学校の教師だったという、おとなしい若い男だったが、私の質問に答えて、本当だ、と言いながら、ある笑いを私に見せた。その笑い顔を、私は今もって忘れない。ありありと思い出せる。それはある羞恥に満ちた、喜悦と困惑と安堵と悲哀が一緒になったような、複雑な翳(かげ)をもった微妙な笑いであった。この少尉とは私的にも公的にも、ほとんど交渉はなかったけれども、この人間的な笑いの故をもって、私は今でも彼に親愛感をかんじている。

 それから私は、便所に行きたいから、と少尉にことわって、壕を飛び出した。狭い壕の中で、いつもと同じく電信機の音が、ぱちぱちと鳴っている。いつもと同じという事が、なにか解(げ)せなく、不当な感じであった。外に出て力いっぱい放尿して、それでもどうしても落着かないから、夜道を一散に駈けのぼって、どういうあてもなかったが居住区へ戻ってきた。居住区に入ってくると、その一番奥に腰掛けをならべて、電信の先任下士が寝ていた。それを私は力まかせに揺りおこした。そして戦争が終ったことを、低い声で告げた。先任下士は薄眼をあけてそれを聞き、うなずいて、また眼を閉じた。何だか苦しそうな表情に見えた。予期したほどの反応は得られなかったが、とにかく他人にしゃべったことだけで、私はいくぶん落着きを取戻し、居住区を出て、ゆっくりと夜道を通信室の方へ戻って行った。頭上の樹々の聞から星が見え、崖の下からはしずかに濤(なみ)の音が聞えていた。はっきりした喜びは、その時初めて私にきたように思う。私個人の身柄に関しても、ひとつの事が終焉(しゅうえん)して、別の新しいことが始まるのを、実感として自覚することが出来た。

 あの日の開放感を、今も私はなつかしく思い出すのだが、も一度現実に味わいたいとは思わない。床上げの日が嬉しかったからと言って、もういっぺん大病にかかりたい、と思わないのと同じだ。もう病気にかかってはならぬ。

                            

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年八月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇は名作「桜島」の背景的な事実(作品とは異なる)を語っていて非常に興味深い。「桜島」は私の注釈附きのPDF全一括版及び、ブログ分割版があり、ここに出る地名や語句の殆んどをそこで注しているので、繰り返さない(リンク先の注は私渾身のもので相応に自負する自信作である)。また、梅崎春生の敗戦の年の日記は「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」で電子化注しているのでそちらも参照されたい(春生「そのまま」と言っているが、一部に省略が見られれれる)。以下、この一篇を久々に再読した私に疑問な二、三の語についてのみ注しておく。

「四特戦(?)の司令部」この謂いからはこの「四特戦」というのも海軍部隊の特殊作戦部隊名と思われるが、ネット検索では不明。梅崎春生が「(?)」しているから、謂い方が違っているものか? 識者の御教授を乞うものである。

「得体の知れない発熱」私は幾つかの梅崎春生の生涯の病歴を見るに、或いは彼は現在の高機能自閉症スペクトラム、或いは、その境界例に分類されるような様態を持っていた可能性を最近はかなり疑っている。例えばこの原因不明の発熱というのがそれで、私が実際に接してきた一部の高機能障害を有した生徒の中には、しばしば、情緒不安を起こすと有意に実際に熱が上がる症状を呈する者がいたからである。

「世界文学全集の戯曲篇」『「朝から夜中まで」という短い一篇』ゲオルク・カイゼル作の戯曲「朝から夜中まで」で、可能性としては、新潮社昭和四(一九二九)年刊の「世界文学全集」の第三十八巻「新興文學集」で、国立国会図書館の書誌情報によれば、内容はイリヤ・エレンブルグ「トラスト・D..-ヨーロッパ滅亡物語」(昇曙夢訳)/グレーブ・アレクセーフ「前にたつものゝ影」(米川正夫訳)/ゲオルク・カイゼル「朝から夜中まで」(北村喜八訳)/ルイヂ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」(本田満津二訳)/チャベック兄弟「虫の生活」(新居格訳)/ミハイエル・プリシブィン「アルパトーフの青年時代」(蔵原惟人訳)で戯曲集篇ではないものの、「朝から夜中まで」「作者を探す六人の登場人物」「虫の生活」の三篇は戯曲であり、この本である可能性はかなり高いと思う。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「朝から夜中まで」(Von Morgens bis Mitternachts)はドイツの戯曲で全二部七場。一九一六年の出版で翌年初演された。ドイツ表現主義戯曲の代表作とされるもの。公金を持逃げし、都会的遊興に逃避し、最後に幻滅と絶望から自殺する銀行員を通して、現代文明の不毛と資本主義社会の冷酷さをえぐりだした作品である。ドイツ表現主義の代表的劇作家であったゲオルグ・カイザー(Georg Kaiser 一八七八年~一九四五年)は初め風刺喜劇を書いていたが、一九一七年に歴史劇「カレーの市民」の上演によって注目され、次いで一連の社会的テーマの作品である「朝から夜中まで」、「珊瑚」及びその続編「ガス・一部」「ガス・二部」 の〈ガス三部作〉」で現代社会のメカニズムのなかにひしがれる人間の姿を描き出した、とある。

「三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだった」「三絶」は「韋編三絶(いへんさんぜつ)」のこと。孔子が晩年、「易経」を好んで読み、綴じた革紐が何度も(「三」は中国では「多数」の意)切れたという「史記」の「孔子世家(せいか)」の故事によるもので、「繰り返し読むこと・熟読すること」の譬え。「韋編三たび絶つ」とも言い、あとはそれを受けたものである。]

諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事

   九 京(きやう)東洞院(ひがしのとうゐん)かたわ車(くるま)の事


Katawaguruma

京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが、夜な夜な、下(しも)より上(かみ)へのぼるといふ。日ぐれになれば、みな人、をそれて、往來する事なし。ある人の女ばう、是れを見たくおもひて、ある夜、格子(かうし)のうちより、うかゞひゐければ、あんのごとく、夜半すぎのころ、下より、かたわ車のをと、しけるをみれば、牛もなく人もなきに、車の輪ひとつ、まわり來たるをみれば、人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり。かの女ばう、おどろきおそれければ、かの車、人のやうに物をいふをきけば、

「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」

と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也。

 

[やぶちゃん注:知られた妖怪「片輪車」の現存する最古期の記載である。ウィキの「片輪車」より引く。『片輪車(かたわぐるま)は、江戸時代の怪談などの古書に見られる日本の妖怪。炎に包まれた片輪のみの牛車が美女または恐ろしい男を乗せて走り、姿を見たものを祟るとされる』(この後、本解説冒頭に「京都の片輪車」として本「諸国百物語」の「京東洞院かたわ車の事」の梗概が載るが省略する)。「滋賀県の片輪車」の項。寛保年間(一七四一年から一七四三年。本「諸国百物語」は延宝五(一六七七)年四月刊であるから六十四年以上後である)の菊岡沾涼(きくおかせんりょう)の「諸国里人談」に以下の記述がある。寛文年間(一六六一年から一六七二年。この時制自体は本「諸国百物語」の直近前であるのが興味深い。話柄もよく似ているが、怪異譚としてはシンプルにして猟奇的な「諸国百物語」が元であり、ホラーとしても「諸国百物語」に私は軍配を上げる。特に和歌にほだされる妖怪(だから、乗っている妖怪を女に設定したものであろう)なんざ、妖怪の凋落消滅の元凶と存ずる)『近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという』。『津村淙庵による随筆『譚海』にはこれとまったく同様の妖怪譚があるが、近江ではなく信州(現・長野県)のある村での話とされている』(私は「譚海」の電子化注を行っているが、未だ一巻目で、ここ(「卷の七」)に辿りつくにはまだまだ時間がかかる)。これは「諸国里人談」の『近江の話が信州の話に置き換えられたとも』、『逆にこの信州の話が近江の話として』「諸国里人談」に『採録されたともいわれる』。『江戸時代の妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札にある片輪車は『諸国百物語』に基づき、男性の姿で描かれている』。それに対し、鳥山石燕の画集「今昔画図続百鬼」のそれは「諸国里人談」の『記述に基いて女性の姿であり、解説文でも』「諸国里人談」を『引用している。また同画集には片輪車に似た妖怪「輪入道」があるが、これは』石燕が「諸国百物語」の方の『片輪車をモデルにして描いたものといわれ、そのことから現代では別々の妖怪とみなされることの多い片輪車と輪入道が、もとは同一のものだったとする説もある』。『近年の妖怪関連の文献や、妖怪の登場する創作作品では「片車輪(かたしゃりん)」と改称されていることがあるが』、『これは妖怪研究家の京極夏彦や多田克己によれば、元の名が差別用語に受け取られる可能性があるためと解釈されている』とある。最後の言い換えぐらい馬鹿げたことはない。やるのなら、文字列を変えずに「へんりんしゃ」と音読みするがよい。妖怪の属性に近代から変更を迫るようなこんなことをしていては、民俗学研究は成り立たない。そもそもが差別用語としての障碍を持った人を指したそれは「片端(かたは)」であって漢字表記も歴史的仮名遣も異なる。一律の言葉狩りによって真の文化が失われてゆく典型的にして致命的な誤った自主コードである。実に不快極まりない。私の謂いに反対する人々は「片手落ち」と書かれた日本中の古文書を全部墨塗りするばかりでなく、歌舞伎役者の台詞の記憶からも抹消、或いはその歌舞伎外題そのものを焚書することに同意せねばならぬ。言葉を狩っても、個々の人々の内なる差別意識を変革しない限り、差別は亡霊の如くに蘇ってくる。たかが妖怪の名、されど妖怪の名、である。【2017年6月27日追記:本日公開した柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」の注で以上の「諸國里人談」及び「譚海」の当該条を電子化したのでご覧あれ。

「京東洞院通」平安京の東洞院大路のこと。ヴィジュアルに位置を知らんとせば、ウィキの「東洞院通」を見るに若くはない。その解説には、通り名の「院」とは『上皇・法皇の居所を意味し、平安時代には通り沿いに多くの院があった』(室町頃からは商家が多くなった、と一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注にある)。『江戸時代には竹田街道に通じる幹線道路となり、混雑が激しいことから享保年間』(一七一六年から一七三五年)『には北行き一方通行の規制が行なわれた。一方通行の規制としては日本でもっとも古いものといわれる』とある。おや? 片輪車はこの一方通行を先取りしていた?!

「下(しも)より上(かみ)へ」言わずもがな乍ら、「下」は御所に対しての「下」で南を、「上」は北。東洞院大路を南から北へ。

「あんのごとく」「案の如く」。噂に聞いて予想していたように。

「をと」「音」歴史的仮名遣は誤り。「おと」でよい。

「かの車、人のやうに物をいふをきけば」本来の妖怪片輪車の原型は単に牛車の片輪のようなものに過ぎないものであったに違いない。しかしそれが人語を発するという話柄の都合上、挿絵のように轂(こしき:牛車などの車輪の中央にあって輻(や:車輪の中心部から輪(わ)に向かって放射状に出ている輪を固定する棒)が差し込んである、中を車軸が貫いている箇所)に巨大な顔を描いたのであろう。或いは「諸国里人談」によると思われる烏山石燕の「今昔画図続百鬼」の「片輪車」のように、ぼんやりと現われる女の姿として描くようになったものであろう。真の怪異としては寧ろ、私はただ車輪が転がる、そこから人語が響いてくるのこそが、正統ホラーであると心得る人間である。

「人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり」この映像は、中世ヨーロッパの車裂きの刑(車輪刑:被処刑者の四肢の骨を砕いて晒したり処刑する方法。ウィキの「車裂きの刑」によれば、『車輪に固定して四肢を粉砕するもの、車輪を用いて粉砕するもの、粉砕後に車輪にくくりつけるものなど、地域や時代によって過程に異なるところがあるが、粉砕された被処刑者の肉体(死体)が車輪にくくりつけられて』晒される点では『共通である。車輪を用いるのは、古代に太陽神に供物を捧げる神聖なイメージがあったためとされる』とある)を髣髴とさせる描写であるが、日本ではこの刑は行われていないと思う(言っておくが、本邦で牛を用いて行われたりした、汎世界的な車馬などを用いた人体四裂の死刑である「八つ裂きの刑」とは異なるので注意されたい)。

かの女ばう、おどろきおそれければ、かの車、人のやうに物をいふをきけば、

「かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける」肩から身体が左右に二つに引き裂かれていて、裂かれた腕(右腕か)と胴(右部分か)は千切れて残っているが、下肢(右足か)がないのであろう。右としたのは挿絵のそれが右足らしいからである。

 

「女の身とて、あまりに物を見んとする故也」女の身であるのに(断定の助動詞「なり」の連用形に接続助詞「て」で後者を逆接と採る。業(ごう)の深いとされる女の分際であるのに)、程度を越えて無暗やたらに、物の怪を垣間見ようとなどしたからである。現代語訳をされておられる方の中に、この物を対象物の真相と訳しておられる方がいるが、それは現代人の感覚によった誤訳であると私は断じておく。この女が片輪車を見ようとしたのはごく軽薄な興味本位であったのである。だからこそ子が引き裂かれたのである。]

2016/08/30

芥川龍之介 手帳5 (4)

Germ. 下宿 姊26(結婚後)――dilettante. 妹――naïveté. 二人に對する態度異る married life も二つになるべし 「妹に對する愛をのべ 姊のゐる爲に妹は不幸になる 君妹の不幸をすくへ」と云ふ手紙 中學卒業後一二年の學生 先生對生徒の氣もち mistake mistake とする氣もち 鄰室に姊病氣にてねてゐる ウハ言に弟の名をよぶ 「姊さんに見つかると大變故かくしてくれ 恐しい手紙が來た」

[やぶちゃん注:「Germ」菌(細菌・病原菌)・芽生え・兆し・根源・起源・胚種などの意。]

 

○姊に對する endearment. ソノ爲ニ姊の夫ニ惡マルルヲ恐ルル氣もち(Ichikawa

[やぶちゃん注:前とセットで、「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の構成との親和センチメートルが高いようには感じる。

endearment」親愛の情。

Ichikawa」市川? 不詳。]

 

〇六十九の老婆 腎臟炎 萎縮腎 夜笑ふ 看護婦起さる 飮食せず 三時間持たす 十六日間不整の呼吸(時々深呼吸) 目をつぶつてゐる 看護婦氣味惡がり醫者に訴ふ 皆 何かついてゐると云ふ 海軍少佐迄つりこまれる ○嚥下作用なし 水も出る 瞳孔散大せず 縮小す 電氣をやるも反應なし 眼瞼の反射もなし 時々顏及全身に浮腫來る 尿出ず 時々大量に出ると浮腫來る ボロを股間にかふ それがぐつしよりになる カンフルは爾後八九筒せしのみ 浮腫甚しくして死ぬ 靑ぶくれ

[やぶちゃん注:次と併せて、相当に組み上げた構想のようだが、出来上がっていたら、かなり凄惨なリアリズム作品となったものと思われる。「玄鶴山房」(昭和二(一九二七)年一月『中央公論』)の原型構想の一つか?

「萎縮腎」腎臓の尿細管・糸球体などが広範囲に萎縮し、腎臓全体が小さくなると同時に硬くなる状態。腎硬化症とも呼び、腎機能が低下して尿量が増え、進行すると腎不全となって死に至る。]

 

○萎縮腎 肝臟肝大( or癌) 水氣が來ると服藥す 利尿劑(尿に蛋白あり) 死ぬ前年入院し四ケ月 いやになり退院す 浮腫甚し(顏) 服藥して(四五囘)とれる(十日) 萎縮腎の關係上心臟惡るければ息切れる 六ケ月あまり床につき切り カンフル注射三筒(前の日にもカンフル一筒) 午後四時頃する その一週間前より安息香酸ナトリウムカフェイン(アンナタ)の注射をする 利尿強心藥も何ものまぬ故毎日二筒

[やぶちゃん注:「安息香酸ナトリウムカフェイン」通称「アンナカ」で「アンナタ」は恐らく旧全集編者の誤判読とも思われる。カフェインと安息香酸ナトリウムとの塩複合体で、強心剤や鎮痛剤にも用いられ、眠気をとったり、頭痛を和らげる作用がある。薬効は主にカフェインによる(ウィキの「安息香酸ナトリウムカフェイン」に拠る)。]

 

○お爺さんは腰が曲つてゐる 歩く時はさも重たさうに歩く(子供)

[やぶちゃん注:これこそ強く「玄鶴山房」を想起させる。]

 

○猫の作文を作りし子供曰 人我を猫に似たりと云ふ

○堀謙德 西域記

[やぶちゃん注:「堀謙德」(ほりけんとく 明治五(一八七二)年~大正六(一九一七)年)はインド哲学者。三重出身で東京帝大文科大学及び東京帝大大学院修了。後、明治三八(一九〇五)年にハーバード大学研究科で四年間、修学。梵語学・英語学を学んで、二年後にコロンビア大学でM.A.(文学修士)の学位を取得。帰国後、明治四二(一九〇九)年に東京帝大文科大学講師となり、インド哲学・梵語学を講じる傍ら、同大学のマックス・ミュラー文庫の整理に当たった。著書に「美術上の釈迦」「解説西域記」(明治四五(一九一二)年一月一日刊。メモの書名はこれであろう)「印度仏教史」などがある。]

 

○貧民通俗小説をよむ 伯爵大學生など出て來るとよろこび貧民出て來ると悲觀す(美しき村)

[やぶちゃん注:草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)の構想の一つか。]

 

○貝原益軒の謙遜

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月号『文藝春秋』巻頭の連載「侏儒の言葉」初出の「貝原益軒」の構想メモ。私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 貝原益軒』を参照されたい。]

 

○監獄改良案

○新しい母のthema. 老いたる人形

○母 息子の結婚近づくと共に落莫に堪へかね情人をつくる話 drama.

○父の結婚 長男反對 次女反對 三男贊成 老いたる人形のdrama comedy.

〇ムヤミにものを買ふ癖 細君一一斷つて歩く

○自轉車を股へのり入れる 職人曰おらあトンネルぢやねえぞ

○家の前に線香を立つ ○壯士を東京 or 田舍よりやとふ。日當東京のは二圓、田舍のは一圓 ○興奮してかへる 妻と喧嘩す 國家の爲 ○鐘一つ 拍手三 シヤンシヤンヨ オシヤシヤンノシヤンヨ と叫ぶ 〇一票五圓 名刺の下に入る 向うより告發すれば名譽毀損すと云ひこちらより告發す

〇四方より金をとる 告發さる どちらとせうかと思ふ ○旅費を拂つたのに運動せぬと云つて告發す ○買收する人 金を鞄に入れると見つかる故 下駄のうら 靴下の中等にかくす ○買收する人 收出の傳票を煙草盆 火入れの裏等にはる 百圓10也 English written は却つて面倒故10を用ふ 10ならば十錢とも云ひ得らる ○以上美しい村

[やぶちゃん注:恐らくは「○家の前に線香を立つ」からここまでは草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)の構想メモである。]

 

○明治神宮の敷地に土工野合す 不淨なりとしてその下の土を一丈も掘る 皇居造營の小便

○園女 惟然 支考 許六

○物臭太郎 1女子2金持3藝術4學問(算の道)5超自然6小人島(政治)

○代人を使ひ 生命保險をつけ娘の死後その金をとらんとする母

○⑴主人の命を雇人がちやんと聞きて行動すれば客は機械の中にゐるやうな氣がしてたまらず 氣づまりになる ⑵大局さへ損しなければ雇人の我ママをゆるす ⑶客がやかましく云はぬと主人の言とほらず ⑷一人の賢女より三人の愚女ヨシ 一人の賢女には自然とヒイキをする故をさまらず ⑸女中は甲の部屋の事を乙の部屋へ行つて話すべからず ⑹symbolical part if land-lord.

[やぶちゃん注:「symbolical part if land-lord.」「主人であるならば、それは象徴的な重要なる要素。」の意か。]

 

○上流社會は宿屋へその家庭の暗黑面を曝露に來る

Savages kill animals and worship them : this may be the origin of "the respect for one's enemy" reflection of his own satisfaction.

[やぶちゃん注:野蛮人は動物らを殺すと同時に、彼らを崇拝する。これは或いは、「その人のある敵に対する敬意」――彼自身の満足感の反映――の起源であるのかも知れない。]

 

Forerunners are always men, but their successors always beasts. Impossibility of Ut.

[やぶちゃん注:先駆者は常に男性であるが、彼らの後継者は常に獣である。「Ut」の不可能性。「Ut」不詳。]

 

They don't know the exact location of social illness but facts. The conceit of the politicians.

[やぶちゃん注:「彼等は、単なる事実以外には、社会的な病いの正確な位置付けについての知識を持たない。政治家どもの自惚れ。」これは大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に連載された「侏儒の言葉」の「政治家」二章の冒頭、

   *

       政治家

 

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事實の知識だけである。畢竟某黨の某首領はどう言ふ帽子をかぶつてゐるかと言ふのと大差のない知識ばかりである。

   *

の原案であろう。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 政治家(二章)』も参照されたい。]

 

When impassioned by love, revenge or desire to get a fashionable dress, a woman's face becomes suddenly younger, say, 15 years.

[やぶちゃん注:「華麗なるドレスを得たいという、愛或いは復讐又は願望によって情熱的な時、女の顔は、突然、より若くなる、多分、その年よりも十五歳は若く、だ。」。これは恐らく、大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に載った連載「侏儒の言葉」の「女の顏」の原案であろう。初出形を以下に示す。

   *

       女の顏

 

 女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顏をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも好い。

   *

現行の単行本「侏儒の言葉」では第二文末尾に手が加えられて、「尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも差支へない。」となっている。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 女の顏』も参照されたい。]

 

Humanity is too stupid not to be ruled by a despot, but that despot must be in favour of the oppressed but not of the oppressors.

[やぶちゃん注:「人類は一人の専制君主によって統治されないほどには「十分に愚か」であるのだが、しかし、その専制君主は、圧政者どもを除いた、虐げられた人々をこそ支持しなければならぬ。」訳に自信なし。]

 

彼は chewing-gum を製造して millionaire になつた 我々はその wealth に敬意を表する しかし gum には敬意を表さない しからば artist に敬意を表しても artistic work に敬意を表せぬのは當然ぢや 或 Capitalist の言

[やぶちゃん注:「wealth」富。「Capitalist」資本家。]

 

文藝の demoralizing Power をとくものは決して demoralize せざるやつ也 Political conflict の眞面目なるは亡國のみ

[やぶちゃん注:「文藝の demoralizing Power をとくものは決して demoralize せざるやつ也」の「demoralizing Power」は「士気と自立に於いてそれらを致命的に破滅させる力」の意で、「とく」は「説く」、「demoralize」は「士気を挫(くじ)く」の意、」であろうが、どうも意味が分らぬ。「Political conflict」政治的抗争。]

 

○醫學士 三浦内科三年 三國の院長になり五年 金をため東京へかへり 博士論文をかきにかかる 下宿屋に住み法醫學科へ入る 三年かかり論文出來 急に結婚し滿鐡の營口病院の内科長になる 三國(越前) 豪商豪農――肥料 銀行 船――に取入る ソノ分家の娘を貰ふ 不器量 金談纏らず 娘をもらはず ○藥價高ければ高きほどよくはやる 建物七 or 八萬、維持費とも十二、三萬圓。

[やぶちゃん注:事実メモと思われる。

「三國」は後に「越前」とあるから、福井県にあった旧三国町(みくにちょう・現在は同県坂井市内)のことである。

「營口病院」は満州国の港町である、現在の中華人民共和国遼寧省営口(えいこう)市にあった「營口滿鐡病院」。]

 

孔子の遊説はheavenly paradise の也 earthly paradise の爲にあらず 石門の吏 thema.

[やぶちゃん注:「石門の吏」「論語」「憲問第十四」「四十一」を指す。

   *

子路宿於石門、晨門曰、奚自、子路曰、自孔氏、是知其不可而爲之者與。

 

 子路、石門に宿る。晨門(しんもん)、曰く、

「奚(いづ)れよりぞ。」

と。子路、曰く、

「孔氏よりす。」

と。曰く、

「是れ、其の不可なることを知りて而もこれを爲すさんとする者か。」

と。

 

   *

「石門」地名。魯の国境附近か。「晨門」晨(あした)と昏(たそがれ)時に門を開閉すること掌る門番のこと。この門番はただの門番ではなく、長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)と同じく、明らかに老荘的隠士である。]

 

Double profession of Prof. 1) teaching. 2) studying. Miserable life.

[やぶちゃん注:Double profession of Prof.教授職の二重の専門性。芥川龍之介には大阪毎日特別社員招聘と同時進行で慶応義塾大学への奉職話もあった。それなりに乗り気ではあったようだが、まさにここで彼が言うように、かれは別な意味で「悲惨にして不幸で哀れな人生」を送ったかも知れない。

 

○求偉――inferno――求福―――disillusion
            
Socialism

[やぶちゃん注:「Socialismは底本では「求福―――disillusion」(「disillusionは「幻滅」の意)のダッシュの直下に入っている。]

 

○女中 letter papers をつかひ手紙をかく 主婦いましむ 主婦の娘を嫁せしむ 手紙をかく 女中をせめず 娘曰とてもお母さん程かけない

○女男に惚れてゐる 男度々女を訪ふ 一日壁をぬりかふ 男 propose

○講演會にて童話をうたふ 子供笑ふ 司會者出ろと云ふ 皆出ず

[やぶちゃん注:「出ず」は「出づ」の誤記か? 子供だけでなく、聴衆全員が出て行ってしまうから面白いはず。]

 

○赤襟さん――赤天鷲絨の襟 研究所にて美少年の石膏ばかり寫す (セネカなどはうつさず) 友人の女はきたなきモデルをうつす

[やぶちゃん注:「天鷲絨」ビロード。

「セネカ」ローマ帝国の政治家で後期ストア派の哲学者にして詩人でもあったルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前一年頃~六五年)の肖像彫刻は美術デッサン用によく見かけるものである。]

 

○兄 妹の爲に父と喧嘩し 兄の親友にそはさんとす 親友の不良を知る 兄妹心中

○女の母の兄へ紹介す(石川等三人) 薄暮 小學校庭 ボオルしてゐる 巡査に問ふ ○の家を知るか 巡査とひかへす 東京へ畫をかきに行つてゐると云ふ 巡査叮嚀になる 家の口花壇 斷髮(ダンパツ令孃)の妹出で待たせる 女出でてあふ 高山へゆく(三里)(女より宿屋へ紹介狀を貰ふ) 宿に紹介狀を見せずとまらんとす 斷る 紹介狀を出す 忽ち奧へ通す 翌朝三人ねてゐるうちに女史來る 三人女の叔父の家へ行き 三時頃かへる 東京の友へハガキを出す(異郷萬里の空云々) 東京の友 女に友を世話せし禮を云ふ 女曰「我入沿中小僧應待せしが 皆頭の毛長し 故に小僧不逞鮮人と思ひ 番頭のもとへかけつける 女その間に三人に應待す 番頭等數人ドヤドヤ入り來り三人と女との間に入り互に見比べる 女變に思ふ 疑はれしに非ずやと思ふ 後にてわかる 番頭あやまる 女その時三人に宿をきかる 故に考へ中なり 三人疑はれしを知らず

[やぶちゃん注:後の設定はかなり細かいが、どうも人物設定やストーリーを腑に落ちるようには理解出来ない。]

 

○寫生道具をはこぶ 散歩に出る 共に洋裝なり 停車場へ行つて見たいと思ひ側に花屋のある事を思ひ出す 女ついて來る 花の話出る 買つたらどうだと云ふ もじもじす 金なからんと思ふ 向うより姊來る 女姊と私語す 女急に heiter になる 「金を貰つたね」と云ふ 「ええ」 よき花なし かへつて來る 途中のカフエにて休まんとす 「姊さんがかへりにアイスクリイムでものめと云つて金をくれた」と云ふ 男金を出す 女も出す 男かへす 姊さんに叱られると云ふ (櫻井女塾) 家は山間にあり 前の川には鮎とれる 親戚「東京へ行くと肺病になる」と云ふ 兄俳句をつくる 兵隊になつてゐる 國文科へはひらんと思ふ 兄英語をやれと云ふ故はひる興味なし ○細君は子供一人 亭主米國にあり 突然「ニユヨクは暑いでせうね」と云ふ 細君ミシンを習ひ 殊に洋服をつくる 細君國より金來ると云ふ 手紙來れども金來らず 妻紛失すと思ひ出たらば二十圓(一割)やると云ふ 國をとへば金を入れずに送りし也 金をくれる 女 Chekhov 全集を買はんと云ふ 金來るに及び帽子に代る ○子供女の洋服に小便す その後同じ洋服をきて來る

[やぶちゃん注:これも異様に細部まで構成されているのであるが、やはり人物設定やストーリーが判然としない。不思議。

heiter」ドイツ語で「快活な」の意。

「櫻井女塾」日本における初期の女子教育を担った、教育者で女性の櫻井ちか(安政二(一八五五)年~昭和三(一九二八)年)が明治二八(一八九五)年に東京本郷に設立した寄宿制の女子教育施設。]

 

○生命保險娘毒をのんで死す繼母 發狂 名前人變更

○他の方面へ向へば偉大なるベき才能が運命の爲にその方向へ向けられた爲死ぬ Hamlet.

○河童國 壯重の事を云ふと笑ふ すべてを逆にせよ

[やぶちゃん注:上記は明らかに「河童」(昭和二(一九二七)年三月『改造』。リンク先は私の電子テクスト。私のマニアックな注釈は別ページ仕立て。他に『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』や、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版) 藪野直史も用意してある)に発表のプレ構想。]

 

○兄弟 弟秀才 兄ヤケ 和睦

○支那漫遊記の「漫遊」と云ふのは如何と兄にきく お前の心の如し

○利根川の麥畑に坐り遠く川に流さるるを感ず

○姊と弟 不良少年

○小穴氏の足を斬つた話

[やぶちゃん注:盟友で画家の小穴隆一は脱疽のために大正一二(一九二三)年一月四日に右足首の切断術式を受けた。芥川龍之介はこの手術と、その前の右足第四指切断(前年十二月二日施術。手遅れであった)の二度とも手術に立ち会っている。]

 

○爺さん 目くら 呼鈴などなほす 左の耳だけ風をひく

○婆さん 腰ぬけ(腦エンボリ) 一の字も引けず 飯を食ふ時匙使へずして泣く ○妾(女中) 子供二人 お父さん おぢいさん 船橋 銚子へやる ○爺さん 書家 結核 六尺の褌(妾を銚子へやりし晩) バットをやめる すふと咳きこむ(疾の出るまで) 咳く故三十分も苦しむ 妾の名のみを呼ぶ 「あなたも死にますね」 ウハ言に妾の名を呼ばす ○養子 温厚人 結核をおそる 日曜も子供を遊ばせず 古鏡 古錢雜誌 古錢會 子供にも凡人になれと乙彦(オトヒコ)とつける ○妻 善人 五歳の女の子と共にねて産をする 「カアチヤンガオ産ヲシテキタナイヨ」と云ヒ婆さんの床の中へはひこむ ○妾の子供一人 妻の子供一人 常に喧嘩

○婆さん 右の手だけきく 便器をさし入れる 手をふかず 「永井さん」に禮を云ひて泣く

[やぶちゃん注:これもまさに臭ってくるリアリズムの構想メモである。やはり「玄鶴山房」のプレ構想か?

「腦エンボリ」脳の「エンボリズム」(Embolism)で、脳血管「塞栓症」の意。脳血管の病変ではなく、より上流から流れてきた血栓(栓子)が詰まることで発生する脳虚血のこと。]

浅草と私   梅崎春生

 

 久しぶりで、浅草をみた。終戦後初めてのことである。観音さまから六区へ抜け、池のまわりや絵看板など眺めてあるき、常盤座に入ってレビューを見物した。

 

 むかし、といっても学生時代の頃、ひとしきり浅草にかよいつめたことがある。常盤座には、渡辺篤やサトウロクローがいた頃で、田谷力三などがオペラ館に立てこもっていた時分だ。毎日たそがれどきになると、本郷三丁目からバスにのって、浅草にかよった。あの頃の浅草は、雑然としたなかにも、安んじて溶けこんで行けるような雰囲気があった。毎晩、レビューを見たり、映画館に入ったり、女剣劇や漫才小屋をのぞいたり田原町で牛めしをたべたり、電気ブランを飲んだりした。たいてい私はひとりであった。

 

 今おもうと私がこんなに通いつめたのも、田舎から出てきて、浅草にエキゾティズムを感じていたせいもあろうが、この、浅草という土地では、自分がなんら特定の人間でなく、たくさんの人間のなかのひとりであるという意識が、私を牽引するおもな理由であったようだ。肩をおとして電気ブランを飲んだりかぶりつきから踊子の姿体をながめたりすることが、私にはひどくたのしかった。このたのしさも、ひとりだけの時だけに私にあった。友達と行くと、あまりたのしくなかった。

 

 私はいまでもありありと憶い出す。ひょうたん池の橋の上からのぞいた黒い水の淀みとか、あたたかい牛めしのねぎの匂いとか、神谷バーの喧騒だとか、そのような昔の浅草の風物のきれっぱしが、うたい忘れていた歌の一節のように、時折私の胸によみがえってくる。それは孤独であることの愉しさに直接つながっているようである。

 

 それから何時頃かわすれたが、ふと浅草が厭(いや)になって、そして私は浅草から足を遠ざけた。浅草がいやになったというより、浅草に通う自分の姿勢がいやになってきたのだ。その気持も、自分にはっきりたしかめていた訳ではない。ただ何となく気持が浅草にむかなくなってから、何年か経った。戦争が始まって、そして終った。

 

 この間久しぶりに浅草をたずねたのも、私の気まぐれではなくて、ある座談会をするための行程であったのだが、何年ぶりかの浅草は、全体をしろっぽい風が索莫と吹きぬけている感じで、仲店の彼方に玩具じみた小さな観音堂がたっていたり、池のまわりの食物屋も、俗悪な食欲を満たすために並んでいるような感じで、なにか親しめなく膜をへだてたような気持がした。行き交う人の数も、昔日以上の混雑の仕方だが、この人たちも昔の人たちとはちがうのだろう。レビューや映画館の絵看板もことさらどぎつくて、裸の女が荒縄でしばられていたりする絵が、道行く人人の眼をうばったりしている。

 

 入ってみると常盤座は満員で、バラエティーが始まったところであったが、しかし見ているうちに古く色観せた官能が胸にもどってきて、私はやがて舞台にひきいれられた。踊子たちも、昔より身体が美しくなった感じで、表の看板から想像したほど舞台は俗悪ではないようであった。年月が経ち社会は変ったけれども、この舞台だけはあまり変っていないような気がした。客席にまで、うっすらと便所のにおいがただよってくるのも、昔の常盤座のままであった。

 蹄子たちの顔にも、見覚えがあるのは一人も残っていなかったが、長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして、私は人々の肩や背の間から、あかるい舞台の動きにしばらく心をうばわれていた。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年八月号『新生』初出(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した。この注記は以下では略す)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。行空きが多く、彼のエッセイではこれは特異点である。而して追想と現在の観察による余韻が、よく行間に漂っている。

「学生時代の頃」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九三九)年に卒業した。自主留年で一年ダブっている(旧制大学は三年制であった)。

「常盤座」「ときわざ」と読む。明治二〇(一八八七)年に開業した劇場・映画館(この後の昭和五九(一九八四)年に休館し平成三(一九九一)年に閉鎖された)。ウィキの「常盤座によれば、『浅草公園六区初の劇場で、当時流行の道化踊の興行のために、根岸浜吉の根岸興行部が常磐座(読み同)として開業した。「浅草オペラ」発祥の劇場でもある。のちに常盤座、トキワ座と改称した』。昭和八(一九三三)年四月一日に『古川緑波(古川ロッパ)、徳川夢声らが常盤座で、軽演劇の劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行なった』。以来、昭和一八(一九四三)年六月の『同劇団解散まで、常盤座を根城にした』。同年五月、『松竹がパラマウント映画と設立・運営していた松竹パ社興行社がパラマウントが撤退、同年六月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足、常盤座は新宿昭和館とともにこの系列に加えられた』。『第二次世界大戦が終結、日本が復興に向うとともに、常盤座も復興に向か』い、本記事が書かれた昭和二三(一九四八)年三月に『常盤座は、日本で初めて踊りを取り入れたストリップショーを開催、浅草六区のストリップ興行の嚆矢となった』とあるが(月は別サイトで確認)、春生の叙述からはストリップの印象はないが、既に行われていた。彼がこの時見た出し物はそれではなかったものか。

「渡辺篤」(わたなべあつし 明治三一(一八九八)年~昭和五二(一九七七)年)は俳優。本名は渡辺総一。ウィキの「渡辺篤俳優によれば、『浅草オペラを経て映画界に入り、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の一任者となった』。『戦中は古川ロッパと行動を共にし、戦後は黒澤明監督作品に常連出演した』。詳細事蹟や出演作品はリンク先を参照されたい。私は個人的には最後(推定)の映画出演となった黒澤明の「どですかでん」(昭和四五(一九七〇)年・四騎の会)の「たんばさん」役が何故か印象に残っている。

「サトウロクロー」生没年など詳細データが見当たらない。渡辺篤と名コンビとして知られた戦前の喜劇役者。あるサイトには目の周りに墨を入れ、長く口鬚を垂らしていた、とある。識者の御教授を乞う。

「田谷力三」(明治三二(一八九九)年~昭和六三(一九八八)年)はオペラ歌手。ウィキの「田谷力三によれば、『正統派のテノール歌手だけでなく、浅草オペラの花形として、多くの人に愛された』。事蹟はリンク先を見られたい。

「オペラ館」旧東京市浅草区公園六区二号地にあった映画館・劇場。ウィキの「オペラ館によれば、明治四二(一九〇九)年五月に開業、昭和一九(一九四四)年三月三十一日に閉鎖廃業した。

「田原町」「たわらまち」と読む。現在の東京都台東区西浅草一丁目附近。東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の「田原町駅」として名が残る。

「電気ブラン」ウィキの「電気ブランによれば、現在の東京都台東区浅草にある「神谷バー」の創業者神谷伝兵衛が作ったブランデーが混合されたアルコール飲料。『当時電気が珍しかった明治時代に誕生した、ブランデーベースのカクテルである。大正時代に流行した文化住宅・文化包丁などの』「文化~」と『同様に、その頃は最新のものに冠する名称として』「電気~」が『流行しており、それにブランデーの「ブラン」を合わせたのが名前の由来である。発売当初は「電氣ブランデー」という名で、その後「ブランデー」ではないことから現在の商標に改められた』アルコール度数は当時、四十五度と有意に高く、『口の中がしびれる状態と、電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博した。ただし発売元の合同酒精では、電気ブランという名称の由来は「電気との言葉がひどくモダンで新鮮に響いたから」とし、「口の中が痺れるため」という説は否定している。ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草が配合されている。材料の詳細、配合の割合は今も秘密にされている』とある。太宰治の「人間失格」の中で、登場人物の堀木は『酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証』すると記す。確かに。口当たりがよく私も好きだが、吞み過ぎると確実に足にくる。

「かぶりつき」劇場用語。最前列の客席を言う。参照した小学館の「日本大百科全書」松井俊諭氏の解説によれば、『名称の由来は、かぶりつくように見物する席だからという単純な説もあるが、別に、江戸時代の歌舞伎(かぶき)では舞台で本物の水や泥が使われることが多く、最前列の席には、跳ね返りをよけるかぶりものがついていたためともいう』とある。

「長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして」とても素敵な表現ではないか。]

環状七号線   梅崎春生

 

 私が世田谷から練馬に引越して来たのは、昭和三十年。今から十年前になる。練馬区の建売住宅に当選したのだ。その後ずいぶん建増ししたので、当時の面影はないが、それでも毎月、区に償還金を払っている。今は月に五千円ぐらいのものか。十八年年賦なので、あと八年経つと、土地も建物も私のものになる。

 引越した当時は、周囲には田や畠や林があり、小鳥も飛んでいた。近くに茫漠とした広くて長い空地があって、黄土でもっておおわれ、風が吹くと黄塵(こうじん)を巻き上げ、うちの洗濯物を黄色にした。一体何のためにこんな迷惑な地帯があるのかと、土地の人に訊ねてみると、元はそこは畠だったが、国に買い占められ、そのうちに道路になる予定だという。道路になるのはいいが、黄塵のまま放って置くのが、気に食わなかった。

 その状態が六七年ぐらいつづいた。その間の迷惑はすくなくなかった。ちょいと風が吹くと、障子やガラス扉のすき聞から、黄塵の微粒子が部屋内に忍び込み、部屋や廊下をざらざらにする。一日に二度掃除してもおっつかない。私はその黄土地帯を憎んだ。

 それから工事が始まり、環状七号線ということになる。

 ふつうの道路造りと違って、相当大規模な道なので工事も大がかりで、たいへんうるさい。一帯はしばらく音の修羅場となった。どしんどしんという土固めや、時には大型ドリルのような音さえ混る。昭和三十六七年頃、私の小説製造が不振だったのは、半分はこの音のせいである。しかも末期時代には、とうとう突貫工事となり、夜も眠れなくなった。冬の間は雨戸やガラス戸でふせげたが、夏になると開け放しなので、ことに音と響きが体にこたえる。蓼科(たてしな)に山荘をこしらえ、夏場は逃げ出さざるを得なくなった。

 やっと完成。完成といってもここだけのちょん切れ完成で、あまり車の交通もなく、うるさくなかった。しかし一昨年、全線完通に及んだら、俄然(がぜん)交通量が激増して、昼間だけでなく、夜通しダンプカーがぶっ飛ばす。その度に家が揺れ、眼が覚める。

 環七と私の十年の苦闘の歴史は以上の如くだが、副産物もある。大道路であるから、ガソリンスタンドや修理工場があちこちに出来る。近頃私の近くの曲り角に「ダンロップタイヤ」と看板をかかげた事務所が出来た。これが車の売り買いや、下取りなどもするらしく、駐車場がないので、横町の私の家の前に、車をずらずらと置き放しにする。おかげで道が狭くなり、夜なんかタクシーが入って呉れない。狭くて入れないというのだ。何ということだろう。

 環七の完成によって、地価は上った。私が住みついた頃は区有地で、坪八百円に査定されていた。今は坪二三十万なんて称されている。その点私は得をしたように見えるが、それは売りに出した場合であって、持っている分には固定資産税が値上りになるばかりで、一向に得にならない。私は環七から損害を受け放しである。

 今度いずれ「環状七号繰」という長篇を書き、元を取ってやりたいと思っている。主人公はもちろん環七である。

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年六月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。「環状七号繰」への鬱憤は先に電子化した梅崎春生「税金払って腹が立つ」(『週刊現代』連載「うんとか すんとか」第四十八回目の昭和三六(一九六一)年三月十九日号掲載分)も参照されたい。いろいろと将来的なことを梅崎春生は述べているのであるが、彼はこの翌月の七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となってしまうのであった。なお、底本の「エッセイⅣ」パートはこれを以って終わっている。]

小学校歌の作詞   梅崎春生

 

 近所の小学校から、校歌の作詞をたのまれた。

 私は散文家であって、校歌など苦手(にがて)であるからと、平に辞退したが、私の家がその学区内にあるのでぜひ引き受けてもらいたいとの談判で、とうとう引き受けることになった。

 小学校に校歌なんて、私の小学校時代(大正年間)には、あまりなかったような気がする。中学校にはいると校歌、それに応援歌などがあった。高等学校では寮歌、大学では何もなし。で、もう集団的に歌うことはなかろうと思っていたら、軍歌というものがあり、軍隊にはいって強制的に歌わせられた。

 なぜ今の小学校に校歌が必要なのかと、先生にたずねたら、おもしろい答えをされた。小学生がそろって遠足に行く。遠足といっても、足で歩く部分はすくなくて、おおむねバスを利用する。女車掌がいろいろ説明してくれる。説明にくたびれると、

「皆さん。今度は皆さんの校歌を合唱しましょう」

 もし校歌がないと、生徒たちはしゅんとなり、女車掌も引っ込みがつかなくなる。しゅんとなるのはかわいそうだから、校歌が必要だということであった。つまり道路の発達、大型バスの普及が、小学校歌の発生をうながしたのである。私たちが小学生徒のころは、バスに乗らなかった。どこまでも足で歩いた。時々元気つけるために歌ったのは、

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」

「遼陽城頭夜は更けて」

 敵愾心(てきがいしん)にあふるる歌を怒鳴って行進した。目的地につくと、梅干し入りのにぎり飯を食べ、ぞろぞろ行進して学校に戻る。帰りは教師も生徒もくたびれて、あまり歌は歌わなかったようだ。

 私は校歌の作成に当って、まず「月並み」を目的にした。へんにひねったような歌は、生徒も飽きるし、歌うたびに私の名をうらめしく思い出すだろう。それでは私も困る。

 「〇〇山の峯高く

 ××川の水清し」

 という風(ふう)なのをつくりたかったが、あいにく私の住む練馬には山はなく、川はあってもどろどろによごれている。練馬名物と言えば練馬大根(このために俳優たちは練馬に住みたがらない)とネリカンぐらいなものである。どちらも校歌にはよみこめない。むりによみこめないことほないが、

 「大根(だいこ)のようにたくましく

 ネリカンの世話にならぬよう

 すくすくわれらは育ち行く」

 これではバスの車掌がおどろくだろうし、歌う方も気分がよくないだろう。

 とにかく一週間かかってつくり上げた。作曲は平井康三郎氏。

 去る六日、豊玉南小学校の体育館落成式とともに、校歌の発表会があった。れいによってれいの如く区長、教育長などの来賓が、壇上に腰をおろす。壇下にはPTAや職員や生徒など。こんな席で壇上にのぼるのは、私の好みに反するが、作詞者ということで壇上のすみに小さくなっていた。落成のあいさつが済んで、校歌の発表。私にも何かしゃべれとのことだったが、平に平にと辞退する。もったいをつけているのではなく、私は生来人前ではしゃべれない。しゃべりたくないのである。

 余儀なく私のあいさつは抜きにして、五六年の生徒全員の合唱にうつった。私は顔中を耳にして聞きながら、おれが死んでもこの歌はうたい継がれるんだろうな、と考えた。と同時に、ある女流作家が羽鳥駅を諷(ふう)して、

「名前は消えても駅残る……」

 鉄道唱歌の一節をもじった言葉を思い出した。私の名前も早く消え去った方が、さっぱりするだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年十一月十七日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」軍歌「元寇(げんこう)」。明治二五(一八九二)年に発表されたもので作詞・作曲はともに永井建子(けんし:男性)。ウィキの「元寇(軍歌)」によれば、『元の襲来(元寇)をテーマにした歌で、人籟居士の歌として世に出た。永井建子は旧日本陸軍軍楽隊士官』。以下、歌詞(ウィキのものを恣意的に正字化したが、本文と読みは現代仮名遣のままとした。四番までの各連に標題(〈 〉内)がある珍しいものである)。

   *

一、〈鎌倉男兒〉

四百餘州(しひゃくよしゅう)を擧(こぞ)る

十萬餘騎の敵

國難ここに見る

弘安四年夏の頃

なんぞ怖れんわれに

鎌倉男子あり

正義武斷の名

一喝して世に示す

 

二、〈多々良濱〉

多々良濱邊の戎夷(えみし)

そは何 蒙古勢

傲慢無禮もの

倶(とも)に天を戴かず

いでや進みて忠義に

鍛えし我が腕(かいな)

ここぞ國のため

日本刀を試しみん

 

三、〈筑紫の海〉

こころ筑紫の海に

浪おしわけてゆく

ますら猛夫(たけお)の身

仇(あだ)を討ち歸らずば

死して護國の鬼と

誓いし箱崎の

神ぞ知ろし召す

和魂(やまとだま)いさぎよし

 

四、〈玄海灘〉

天は怒りて海は

逆卷く大浪に

國に仇をなす

十餘萬の蒙古勢は

底の藻屑と消えて

殘るは唯(ただ)三人(みたり)

いつしか雲はれて

玄界灘 月淸し

   *

二番の「多々良濱」筑前国の多々良(たたら)浜で現在の福岡市東区の海浜。You Tubeの音源をリンクしておく。文永の役(文永一一(一二七四)年十月)では戦火のため、この浜から筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎に)一帯は焼け野原となっている。

「遼陽城頭夜は更けて」明治三七(一九〇四)年作の「橘中佐」(作詞・鍵谷徳三郎/作曲・安田俊高)。非常に長尺の歌詞で「上」が十九番、「下」が十三番まである。橘中佐は陸軍歩兵中佐橘周太(たちばなしゅうた 慶応元(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)日本の。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後、軍神として尊崇された。後に彼が体調であった静岡歩兵第三十四連隊の隊歌ともなった。天翔氏のサイト「天翔艦隊」のこちらで歌詞が読め、音源もダウンロード出来る。

「ネリカン」「練鑑」で、東京都練馬区にある「東京少年鑑別所」の俗称。

「平井康三郎」(明治四三(一九一〇)年~平成一四(二〇〇二)年)は高知県出身の作曲家。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)在学中に「ゆりかご」などを作曲。昭和一一(一九三六)年、交声曲「不尽山をみて」が音楽コンクール第一位となる。NHKの専属作曲家として活躍、昭和二二(一九四七)年には戦後最初の音楽教科書の編集にも携わった。作品に「平城山(ならやま)」「大仏開眼」、童謡「とんぼのめがね」などがある(「練馬区立豊玉南小学校」公式サイト内の記載に拠った)。

「豊玉南小学校」練馬区豊玉南二丁目に現存する練馬区立豊玉南小学校。公式サイト内の「学校概要」の「校歌・校章」を参照されたい。梅崎春生よ、今も歌われ続けており、作詞のあなた名はしっかりネット上でも拝めまする(同校生徒数は本年(一九一六年)四月一日現在で四百九十三名)。なお、春生は練馬区豊玉に住んでいた。以下にその歌詞を示す(「淡(うす)」の読みはあるネット情報で補った)。公式サイトでは曲(歌詞なし)のダウンロードが出来る。

 

一、

淡(うす)青色の 遠い山から

水さらさらと かがやき流る

むさし野の土 ゆたかに肥えて

若木はそろって 梢を伸ばす

 何の木ぞ

  われらここに生れ

  すこやかに われらはそだつ

  豊玉南小学校

 

二、

窓から見れば あお空はるか

伸びよ生きよと 鳥啼き交す

雨や嵐に ひるまずまけず

大地にしっかと 根を張る大樹

 何の木ぞ

  われらここに学び

  ほこらかに われらは歌う

  豊玉南小学校

 

「ある女流作家」不詳。識者の御教授を乞う。

「羽鳥駅」不詳。JR東日本常磐線に「羽鳥駅(はとりえき)」(茨城県小美玉(おみたま)市羽鳥)にあるが、今もこの名で地名も残り、駅としても現存しているから違う。識者の御教授を乞う。誰の何という作品中の言葉かが判れば、自ずと判明するはずである。

『「名前は消えても駅残る……」/鉄道唱歌の一節をもじった言葉』「鉄道唱歌」の「東海道篇」の二番、

 

右は高輪泉岳寺

四十七士の墓どころ

雪は消えても消えのこる

名は千載の後までも

 

を指すのであろう。]

諸國百物語卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力

     八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經(ほけきやう)の功力(くりき)

 

 むさしの國ちゝぶと云ふ山ざとに大山半之丞(をゝやまはんぜう)と云ふもの有り。かの男、あるとき、門(かど)に出でてゐけるに、諸國あんぎやの僧と、をりあわせて、半之丞をみて、

「其方は女の物のけ付きて、たゝりをなす人なり。御身、いのち、をわらんこと、ほどちかし」

と云ふ。半之丞おどろき、

「まづ、こなたへ入らせ給へ」

とて、をくにしやうじ、いろいろともてなし、扨(さて)、そのうへにて、半之丞、物がたりしけるは、

「かやうの事申すは御はづかしく候へども、さんぬる比、わが妻、産にてあひはてけるが、此ごろ、又、あたらしく妻をよびむかへけるに、かのふるき妻、此程、夢ともなくうつゝともなく、夜な夜な枕もとにきたりておどろかし候ふが、此さわりいかゞしてはらい侍らんや」

と申しければ、僧、きゝて、

「さればこそ、はじめよりさやうの物のけ有るべし、と、みへたり。さらば封じてまいらせん」

とて、かの男をはだかにして、身うちに法花經をかきて、かの女の塚のまへにつれゆき、

「かまへて、いかほどおそろしき事有りとも、かまへて、いきもあらくし給ふな」

といましめ、僧はかへりぬ。かの塚は、はるかに人家(じんか)をへだてたる山中(やまなか)にて、哀猿(あひゑん)、みねにさけび、鴟梟(しけう)、松桂(しやうけい)になきて、物すさまじき闇の夜に、おりしも、むらさめ、一とおりふりて、すでにその夜も五更(ごかう)におよぶころ、いにしへの妻(つま)、つかのすこしわれたる間(あひ)よりあらわれいでゝ、くるしげなるいきをつぎ、半之丞がうへに、こしをかけたり。又、二さいばかりなる子をつれたりしが、此子、あなたこなたへはいまわりて、

「父の足こゝにあり」

と云ふ。これは半之丞が身にきたるあら薦(こも)にてすれて、經文(きやうもん)のきへたる所にて有りしと也。母、よろこび見て、

「これは足にてはなし、經木(きやうぎ)也」

とて、おそれて立ちさりぬ。さてこの女ひだりの手には、ともし火をもち、右の手には子をいだきて、半之丞が屋敷をさして行きけり。すでに、屋敷、ほどちかくなるじぶんに、ともしび、きへけり。半之丞をみて、又こそわが家に來たりていかなるをそろしき目にもあわんとおもひ、身をすくめてゐたりしが、しばらくありて、後(のち)の妻のくびをひつさげかへりて、又はじめのごとく、半之丞にこしをかけて、女(をんな)子にむかつて云ふやう、

「さてもなんぢが父をとりころさんとおもひしに、いづくへおち行きつらん。今は是れまでなり。年月のほんもうを、とげたり。われ、生世(いきよ)のうちより、此女、われをてうぶくせしゆへに、われ、しゝても、ほむらのたへがたかりしに、今、かく、いのちをとりたる事の、うれしや」

とて、親子もろとも塚の内に入りければ、夜はほのぼのとあけにける。

 

[やぶちゃん注:「後妻(うはなり)うち」「うはなり」は、古代には正妻の意の「こなみ」の対語で、次に迎えた妻(側室)の意であったものが、生死別した先妻に対する後妻の意に変化した語源説は種々あるが、「うは」は「上」(上位・正統)、「なり」は「在(あ)り・成り」の意とするものが多い。而して「後妻打(うはなりう)ち」とは、正妻(或いは前妻)が側室や愛人(或いは自分が離別した後に先夫が迎えた後妻)を強く妬むこと、或いは妬んで実際の暴力的行為(直接・間接)に出ることを言う。なお、室町時代末頃から近世初期にかけてのその嫉妬感情に基づく民俗習俗としてもこの語が使われ、離縁された先妻が親しい女たちなど依頼して、現在の元夫の後妻に予告通知をした上で、後妻の家を襲い、家財などを荒らさせるという、けったいな合法的騒擾行為(行事・儀式)をもかく言うから、本書の成立時期もそこにかかり、この現実に見ることの出来た後妻の正妻への鬱憤晴らしの報復行為的儀式を念頭に置きつつ、本ホラーを書いたとも考えられよう。無論、後妻の嫉妬のモチーフは遥か古えからありはするが、寧ろ、その心理的なはけ口としての「後妻打ち」の半正当な風俗を目の当たりにしてどこかで納得した意識が(筆者は当然の如く男であろうが)、本篇の執筆動機の一つではあろうと私には思われる。話柄全体の濫觴を辿れば「牡丹燈記」であろう。これは、身体に書いた経文の功力という視覚印象の鮮烈さなどを一部で小道具(御札に変えて)として立ち現わせたりしつつ、後の上田秋成の「雨月物語」の「蛇性の淫」から三遊亭円朝の「牡丹燈籠」へ、そうして後妻打ちの真骨頂は小泉八雲の「破られし約束(リンク先は私の拙訳サイト版。私のサイト版原文はこちら。経文のヴィジュアルなどぎつさは同じ八雲の「怪談」の「耳なし芳一」。但し、これは八雲が典拠としたのは天明二(一七八二)年板行になる一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談(がゆうきだん)」の第二巻「琵琶祕曲泣幽靈(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」に基づく妻セツの語りが原話とされる)へと裾野広げてゆく。

「功力(くりき)」功徳(くどく)の力。効験(くげん)。

「をりあわせて」「居り遇はせて」(「あわせて」は歴史的仮名遣の誤り)。たまたま行き逢い。

「をくにしやうじ」「奥に招じ」。

「さんぬる比」「去(さ)んぬる比(ころ:頃)」「さんぬる」は「去りぬる」が転じた連体詞で「過ぎ去った・さる」の意。先頃。先だって。但し、死んだ子(女児)が数え二歳となって「父の足こゝにあり」と明白に喋るほどに成長しているから、最低でも一年半近くは経っていなくてはならぬ。ごく直近の謂いではない。冥界では子は早く成長するとは私は寡聞にして聴かぬが、但し、心霊譚には赤子(型の物の怪や霊)が大人のように語るというシーンはよく出るから、まあ、一年以内としておこう。「こゝろ」の「先生」の自殺ではないが、二年も経っての所行では怨みのパワーが減衰する。

「産にてあひはてける」「産にて相ひ果てける」言わずもがなであるが、「相ひ」は死に果てた、その対象事実動機としての「産」という行為そのものを指す語であって、「子とともに」などという意味ではない。

「さわり」「障り」。歴史的仮名遣は「さはり」が正しい。

「はらい」歴史的仮名遣は「拂(はら)ひ」が正しい。

「いきもあらくし給ふな」眼には見えなくても、それが聴こえてしまうと亡霊が半之丞の存在に気づいてしまう惧れがあるからである。しかし、この禁止は以下の亡霊に身体の上に坐られるというシークエンスを見る限り、命を縮めるほどに苛酷であると私は思う。

「哀猿(あひゑん)」これで時節が示される。猿が甲高い声を挙げて叫ぶのを「哀猿」と呼び、悲壮感を煽るようなその響きから中国の古来より、「哀しみ」の象徴として詩歌に詠まれてきたが、これは実は猿の晩秋の頃の求愛行動であるからである。

「鴟梟(しけう)」「鴟鴞」現代仮名遣では「しきょう」で、この二字で梟(鳥綱フクロウ目フクロウ科 Strigidae に属するフクロウ類)の別名である。

「松桂(しやうけい)」松(裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus のマツ類)や桂(被子植物門双子葉植物綱ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum)。

「むらさめ」「群雨・叢雨・村雨」。ひとしきり強く降って止む雨。強くなったり弱くなったりを繰り返して降る雨。にわか雨。驟雨(しゅうう)。

「五更」日の出前の二時間余りを指す不定時法であるが、季節から見て午前四時前から午前六時前に当たり、「およぶ」とあるので、正確な場面内時間は午前三時半過ぎ頃と考えてよかろう。

「つかのすこしわれたる」「塚の少し割れたる」。

「半之丞が身にきたるあら薦(こも)にてすれて」「あら薦」は「粗薦・荒薦」で粗く編んだ薦莚(こもむしろ)のこと。これも言わずもがなであるが、亡霊にばれないように半之丞は素っ裸なので、せめても寒さを凌ぐ(晩秋の秩父の奥深い山中である)ために莚を被っているのである。

「母、よろこび見て」「よろこびて見るも」の意。

「經木(きやうぎ)」供養のために経文を書くための薄く削った木。半之丞の足(恐らく脛(すね)であろう)の消えた周囲の法華経の文字を見て、かく誤認し、畏れたのである。

「半之丞をみて、又こそわが家に來たりていかなるをそろしき目にもあわんとおもひ、身をすくめてゐたりしが」この冒頭は「半之丞これをみて」の脱字であろう。後文も半之丞は自分のことで精一杯であることから(後妻のことなど考えている余裕がない、とんでもなく利己的な男である)、もし、家に自分が居たとしたら、「いかなるをそろしき目にもあわん」という謂いであるが、まあ、恐怖の極限状況にあるのであるから、ここの謂い方のおかしさはあっても、寧ろ、自然ではある。

「後(のち)の妻」後妻(うわなり)。

「ほんもう」「本望」。

「われ、生世(いきよ)のうちより」私の生前より。

「てうぶく」「調伏」。呪(まじな)いによって人を呪(のろ)い殺すこと。呪詛(じゅそ)。

「ほむら」「 焰」或いは「炎」。原義は「火群(ほむら)」で、ここは心中に燃え立つ激情、ここでは嫉妬と怨恨(瞋恚(しんい))のそれを譬えて言った。]

2016/08/29

病床日記   梅崎春生

 

 それは暖かい部屋であつた。いや、暖かいというより暑かった。寝る時も寝巻だけ、あるいは寝巻を脱ぎ捨てて、ほとんど裸で寝た。私は冬の寒さは大嫌いである。しかしあまり暖か過ぎるのも季節感がなくて、物足りない気分がする。一月三日の日など、昼寝から汗だらけになって目覚めると、ベランダに通じるガラス扉の彼方では、粉雪がちらちらと降っていたのには呆れた。

 何故この病室に私が入ったか。かんたんに説明して置く。昨年の夏、信州蓼科(たてしな)で吐血をした。本誌に「八島池の蛙」というのを書いたが、それから一週間後、高遠城址に行った。ひどく疲れて帰宅。草野心平さんとビールを飲んだ。そのビールがうまくない。その中気分が悪くなって便所に行って吐いた。夜目にもそれは黒味を帯びていた。便所から出て草野さんにその話をしたら、

「うん。そんなこと、あり勝ちなもんだよ」

 と悠然としてコップを傾けている。私はビールを飲む気がなくなって、ベッドに横になった。

 翌朝になっても、全身が虚脱している。医師を呼んだ。検便したらコールタールの如き黒便である。絶対安静、絶食(もちろん禁酒も)を命じられ、止血剤やその他を注射された。指示を忠実に守ったせいか、一週間で潜血反応(便に血が混ること)はなくなり、早速ハイヤーにて下山、途中甲府で全快の祝杯を上げた。

 東京に戻ってからも少し用心すればよかったのだが、相変らず大酒を飲んで二日酔をしている中、十一月末、前と同じ状態におちいった。夜中の二時頃コーヒー色の血が出て、かかりつけの医師を呼んだ。便の後なので、充分の排便がない。コップに水を入れて、少しばかり取った。燈の下で見ると、アルコール漬けの胎児みたいに、真黒い塊が浮いている。

「こりやいけませんなあ」

 医師が嘆息した。

「もう酒はいけませんよ。絶対に飲んではいけません。命取りです」

 また止血剤を打ち、流動食に戻った。潜血反応も五日間でなくなった。癌(がん)なんかでは潜血反応は消えない。

「どうだ。おれは復元力があるだろう」

 と私は威張った。たいていの異変はすぐに直ってしまう。それは昔から自信があった。でも、気分はすぐれなかった。

 十二月二十七日入院に踏み切ったのも、自信とは別に、少少がたが来ていることを自覚したからである。それに正月になると、酒を飲む機会が多い。それを避けようとの魂胆もあった。その上医師が、一度大病院で調べてもらったらいいと、極力すすめる。気休めに十日間も入ろうかと考えた。寒さはしのげるし、本は読めるし、仕事はしないでもいいしというわけだ。

 そこで上述の暖かい病院に入ることになった。

 前年草野さんが胃潰瘍を直した武蔵野の日赤病院で、草野さんの紹介で、

「なるべく暖かい部屋を!」

 と希望した。寒々しい病室は厭だったからだ。そんな関係で、五階の暑い部屋に入ることになる。朝は白富士、夕は黒富士が見えていい部屋だったが、少々暖か過ぎた。看護婦に聞いてみると、スチームの大元(おおもと)が私の部屋を通っているそうで、温度も二十五六度にのぼる。初めは快適だと思っていたが、二三日経つとどうも耐え難くなった。見舞客も初めはそのまま入って来るが、少し経つとオーバーを脱ぎ、次に上衣を脱ぎ、ついにはセーターをとる。でも、男のストリップを見るのはそう楽しいものでない。

 直ちにバリウムを飲ませられ、レントゲンをとられ、何度も採血された。バリウムはのみにくいものと聞かされていたが、案外うまかった。お代りをして飲んだ。その他採便採血、一日の中三度の熱と脈しらべ。こちらは眠くて眠くて仕方がないのに、眠りの暇がろくにない。うとうととすると、誰かがやって来る。自宅では寒くて昼寝出来なかったが、ここではいくらも眠れるのである。時々起されるから、なお眠くなる。

 どうもこの病院は変であった。なかなか放免して呉れないし、おかゆがいつまでも御飯にならない。街に出るのも禁止された。一月八日某誌の座談会があったが、それも女房がつきそいで、一滴も飲めなかった。柳沢医師が女房に言ったそうだ。

「これで血を吐くと、とめどがなくて、路上で死にますよ」

 もう私の吐血は胃からでなく、門脈からの出血ではないかと、彼は疑っていたのである。肝臓が悪化すると、門静脈から出血する。私はそれを知らないから、やけに御馳走ばかり食わせるなと、不審に思っていた。肝臓には蛋白質が必要なので、肉や魚がふんだんに出る。おかゆを主食にして、それらをたらふく食べる。少し肥った。

 腹腔鏡の検査を受けたらどうだ、と医師が言い出したのもその頃だ。腹腔鏡というのは、つまり腹に穴をあけ、鏡を入れて内臓を見るのだという。私は反問した。

「それ、検査のためですか?」

「そうです」

「治療のためじゃないんですね」

「治療とは関係ありません」

 私は返答をためらった。検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている。私は断った。

「当分このままで養生しましょう。禁酒までしているんだから、治ると思いますよ」

 実は腹を切るのが厭だったのである。柳沢医師は憐れみの表情で私を見た。

「治りませんね」

 私は少しばかりショックを受けた。医師はすでに肝硬変の疑念を持っていたらしい。それから高周波の検査に、順天堂に行くことになった。これは痛くないというので、自動車で出かけた。車窓から見る街の風物は、活気にあふれている。

「皆つまらぬ用事でごちゃごちゃと動きやがって!」

 どうしても考えがそんな風に動く。

 高周波の検査はすぐに済み、柳沢医師に託する報告書を受取った。その中に「肝臓癌の疑いあり」てなことが記してあったらしい。柳沢医師の態度は急に硬化し、女房を呼んで診断の結果を伝えた。

「直ぐしかるべき治療をしなければ、生命に関します。この病院は設備が不完全なので、東大病院かどこかに入りなさい」

 直接私には言わずに女房に言ったのは、作家というものは敏感で神経質と判断したのだ。その証拠に彼は女房に、

「御主人は神経質な方ですか?」

「ええ。とても」

 だから私には告げなかった。しかし作家ならずとも、肝臓癌の疑いありと宣言すれば、びっくり仰天してがっかり気落ちがするだろう。肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている。

 女房が泣いて頼むので、とうとう東大に移る決心をした。一月十八日のことだ。今度の部屋はたいへん広い。スチームがあるにはあるが、戸外が寒いと機能が低下し、暖かいとむんむん暑くなる。階下の方でどしどし使うせいだろう。私はこれに「弱きをくじき強きをたすけるスチーム」とあだ名をつけた。ここでもたちまちバリウムを飲ませられた。日赤のは味が濃いが、東大のは薄味である。バリウム一つとっても、病院によって味が違う。私は好みとして東大のを推賞する。有志の方があれば、一度試みてみられたらよかろう。

 ここでも採血、注射、検便。皮膚科やレントゲン科に行き、忙しいことは日赤の比ではない。皮膚科では魚鱗癬(ぎょりんせん)(これは遺伝性で治らない)、整形外科では胸椎の圧迫骨折が固まっているので、一生そのままだと診断された。以上の二つは覚悟の前である。その他血管、心臓などは平常。

 吐血は胃からと判っていたが、潰瘍はなし。潰瘍はないけれど、東京都の土地みたいに凸凹に荒されていることも判った。荒れたところから血が滲出してたまり、それが出て来たらしい。

 すなわち敵がねらっているのは、肝臓である。それは日赤の頃から知っていた。バスクラスパイダー。ちょっとにきびに似ているが、指で押して見ると、血色がばっと散り、しばらくして元に戻る。にきびだとすぐに戻る。バスクラスパイダーは肝臓の悪い時に起きやすい。私はそのスパイダーが胸に四つと腕に三つ、手に三つある。これは肝臓が治っても、元に戻りはしない。覚えのある人は胸(おおむね上部に出る)を調べたらよろしかろう。血が散らばって、しばらく白っぽくなっているのは、侘しいものである。弟が見舞いに来たので、胸を聞かせて見ると、かなり大きなスパイダーがでんと胸の真中に巣をかまえていた。注意をうながすと、色青ざめて早々に帰って行った。同病相憐れむというが、他人をも同病に引きずり込まなきゃ損だ、という意識が働くようだ。どうしても意地悪爺さん的な心境に相成る。

 私はここを当分の住居とすることに、ほぼ覚悟がついた。肝臓は長引くし、病室も広くて景色がいいし、居心地も悪くない。暖かくなるまで居坐ろうと、私は決心した。それに採血その他の結果、肝機能の低下がかなり戻ったのである。日赤の時にはひどい結果が出たのに、ここに回復の徴が見えたのは、何故かよく意味が判らない。自然と変化したものであろう。

 で、毎日安静にして読書にふけり、蛋白食を食べる。蛋白食というのは蛋白質を大いに含んだ盛大な御馳走で、肉や魚がふんだんに出る。他の患者で胃潰瘍や腎臓病のおかずは貧弱で、気の毒みたいなものだが、病気が病気だから致し方ない。それに入院費は同じと来ているから、彼等の食事時の心境は察するに余りある。とにかく食事の点では、私は王者であったが、安静を守っている関係で食欲なく、半分ぐらいは廃棄せざるを得なかったのは、残念であった。

 しかし時に雑音が入る。

「腹腔鏡」

「腹腔鏡を!」

 しょっちゅう言われていると、こんなに楽をしているのだから、腹腔鏡でも受けなきゃ今日様に済まない。静かな病室のソファでそんなことを考えた。

 病室は本郷の真中にあるのに、大変静かである。夜になると時々犬がけたたましく吠えることがある。一匹でなく数十匹。医師に聞いたら実験用の犬舎だとのこと。一度見に行ったら、たくさんの野犬が犬舎に入っていた。やせて衰えた犬ばかりだと思ったら、スピッツやその他高価そうな犬が半数を占めていた。夜は廊下に猫が遊ぶ。実験用かと思ったら、そうでない。給食の残りをねらって集まって来るのである。それが数十匹廊下をうろちょろしている。飼主はいない。とても警戒心が強くて、こいこいと手を出すと、ぱっと逃げてしまう。ずいぶん素姓(すじょう)のよさそうな可愛い猫もいた。

「動物実験は犬や鼠だけで、猫は使わないんですか」

 と訊(たず)ねたら、

「ああ、あれは使いません。引搔くから」

 とのことであった。

 そろそろ腹腔鏡の日が近づいて来た。丁度(ちょうど)入院中の木谷九段の部屋に遊びに行ったら、息子さんがいる。この内科の医師なのである。その木谷医師に聞いてみたら、

「腹腔鏡? そりや痛いですよ。内臓を引っかき廻すんだから」

 開口一番私をおどかした。

「お隣のMさんと我慢くらべでもするんですな」

 おどかしと判っていても、気持のいいものでない。隣室のMさんは高名な政治家で、私同様の病気で、M氏の方が先に腹腔鏡を受けるのである。そしてM氏の番の日が来た。

 二時間ほどして戻って来たので、様子や如何にと耳をそばだたせていたら、

「ううん。案ずるより産むがやすいわい」

 というM氏の声が聞えたので、私は大いに安心した。

 翌日私は別室に移され、亀田医師の執刀で腹腔鏡の検査を受けた。この経過は他の新聞に書いたので略するが、金属棒を内臓から引き抜いた時、空気がしゅーつと噴出して来たのには驚いた。元から入っていたのではなく、事前に畳針みたいな注射器で、二千CCがとこ注入して置いたものである。結局二時間ほどかかったが、痛いか痛くないかと問われれば、碁の言葉で言えばいい加減な分れとでも言うべきところだろう。それからストレッチャーに乗せられて、病室に戻って来た。

「どうでしたか?」

 女房の質問に私は答えて、

「まあ案ずるより産むがやすいというところだな」

 考えることは誰も一緒なのである。

 検査役亀田国手曰く。

「心配なさったことは、何でもありませんでしたよ」

 その言葉の意味を二三日考えた。そして私が肝臓癌や肝硬変を疑われていたことに初めて気付いた。思えばのんきな患者である。それから粘りに粘って、三月十一日にやっと退院することになった。一冬を病院に過して、冬知らずの生活を送った。しかしその三箇月近く、仕事はしないので収入はなし、医療費もかかったので、退院したとたんに大貧乏におちいった。これからそろそろ仕事をしようと思うが、頭が所謂(いわゆる)病院ぼけして、どうもうまく行かない。まあその中に旧復するだろうと楽観はしているけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年六月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。第一段落の「一月三日」の後には「(昭和三十九年)」とポイント落ちの割注が、第二段落冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」がそれぞれ入るが、これは底本全集編者による割注と断じて除去した。前に注したが、この前年の八月に梅崎春生は蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とあるが、翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となっている。

「八島池の蛙」底本全集には不載。而して私は未読。

「高遠城址」長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。桜の名所として知られる。私は「高遠の桜」というと、私は井上靖の小説「化石」を思い出すのを常としている。私が彼の小説で唯一、認める一作である。勘違いして貰っては困るので言っておくと、私は小説家として井上靖を殆んど認めない。

「武蔵野の日赤病院」日本赤十字社東京都支部武蔵野赤十字病院。東京都武蔵野市境南町にある。

「門脈」「門静脈」腹部の内臓(胃腸・膵臓・胆曩・脾臓)から静脈血を集めて肝臓に注ぐ静脈幹。上・下腸間膜静脈や脾静脈などが合流したもので、門脈は肝臓に於ける機能血管であり、肝臓内での解毒作用や糖質貯蔵作用などはこの血管を介して行われる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「腹腔鏡」諸記載では「ふくくうきょう」と読みを振るが、私はこの通りに聴いたことは記憶にない。「ふっくうきょう」である。本来は「ふくこうきょう」と読むべきであるが、人体に対して用いる場合、慣例的に「くう」と読んでいるという(ウィキの「腹腔鏡」に拠る)。腹部の中を視るために体部に小さな孔を空けて挿入するタイプの内視鏡(細管の先端にカメラ及び組織採取をする装置が付いた手術器具)である。「日本医科大学付属病院」公式サイト内の「腹腔鏡」によれば、一般的には、臍及び左右下腹部に三~四ヶ所に五ミリメートルから一センチメートルほどの孔を開けて、炭酸ガスを入れたり、腹部を吊り上げたりすることでスペースを作り、観察及び患部と思しい箇所から検体を採取する検査器具。一般には肝臓・胆囊・腸・子宮など腹腔内臓器を肉眼で観察して病気の確定診断に用いるが、最近では腹腔鏡下手術と言って、胆石や初期の癌などの摘出手術にも利用され、開腹せず行なえ、患者に負担の少ない手術法としても注目されている。この時、梅崎春生が提案されたのは腹腔鏡下肝生検であるが、サイト「病院の検査の基礎知識」のこちらによれば、これは『血液検査だけではわからない、肝臓表面の詳しい変化を知ることができ』るとし、『病気が慢性的に長期にわたる場合は、肝臓自体が線維化して表面が凹凸になるなどの変化が起こ』り、『また、肝臓内の炎症の程度が、肝臓表面の色彩変化に反映され』ることから、『このような肝臓の形、表面の変化を元に、病気の進行度や、線維成分が度の程度まで増えているかを推測することが』腹腔鏡検査によって可能となるはとある。『腹腔内は各臓器が隣り合っているので、腹腔鏡を直接挿入しても、それらの様子はよく』分からないので、『気腹といって、おなかの壁に針を刺して空気を入れることか』始め、『空気を入れると、腹腔内の臓器は密着せずに離れるので、別におなかの壁に孔をあけ腹腔鏡を挿入』する、とある。『観察だけならその場で分か』るが、『組織細胞診は結果が出るまでには約』一週間必要である。同検査によって異常が見られる場合の疑われる病気は慢性肝炎・肝硬変・肝臓癌・胆囊癌・脂肪肝・腹膜炎・卵巣嚢腫・卵巣癌などである、とある。

「検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている」中国の経(けい)書十三経の一つで、曽子の門人が孔子の言動を記した「孝経」の一節(「論語」の一節と勘違いしている人が多い)である、「身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。」(身体髪膚、之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。)に基づく。

「高周波の検査」現在、我々が「エコー」と呼称している検査である。信頼出来る「超音波検査 エコー検査超音波検査(エコー検査)」のページによれば、『高周波の超音波を使って体内をモニター上に画像化し、病気の有無や状態、胎児の成育状況などを調べる検査で』、『エコー検査は、肝臓・胆道・膵臓・腎臓・消化管といったお腹の中の臓器全般から、心臓や血管・乳腺・甲状腺、関節・筋肉・腱など、肺や消化管内のように気体のある部分と骨の裏側以外の検査をすることが』可能である。『超音波検査(エコー検査)は、とても安全な検査なので』、『産婦人科の診察でお腹の中の赤ちゃんの発育具合を検査するのに使われている』。『装置自体が小型でポータブルタイプの機械もあることから、病棟や診察室内のベッドサイドや手術室、救急の現場での検査も可能』なことから、『小規模病院(診療所やクリニック)や動物病院から、総合病院など大規模な病院まで幅広くの医療の場で』よく使用されている(梅崎春生はその検査に順天堂病院にまで行っており、この当時は、高価であったものか、あまり普及していなかったようである)。『超音波装置は小型で移動性にもたいへん優れてい』ます。 また、一回の『検査で非常に多くの情報を得ることができ』、『繰り返しの検査でも被曝などの危険が』なく、しかも『短時間で効率的に病気の状態を知ることができ』ることから、健康診断などのスクリーニング(適格)検査から、『より精密な検査、そして緊急的な場面での検査にも対応でき』る。『さらに超音波検査(エコー検査)は人間ドックや企業での健康診断でも大活躍しており、最近は腹部だけでなく乳がん検診(乳がんエコー)や動脈硬化の検査(頚動脈エコー)、整形領域で関節や筋などの検査にも用いられることが多くなってきてい』る。但し、『骨や空気を超音波が透過できない』」ことから、『透過できない骨や気体の後側は検査が出来』ないこと、また、これはあらゆる検査に言えることであるが、検査結果が『実施する医師や技師の手腕に左右されてしまう』点にある(私はレントゲン写真を見ても骨折を見落としてしまった現役の整形外科医がいることを知っている。私の右遠位端コーレス変形骨折の主治医であった)。『エコー検査は高い技術と豊富な知識、そして経験を必要と』するため、『実施する技術者のレベルアップが重要』である。要するに、『精度管理が難しいということも欠点にあげられ』るとある。

「順天堂」東京都文京区本郷にある順天堂大学医学部附属順天堂医院。

「肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている」肝硬変は慢性肝障害(ウイルス性肝炎(B型肝炎やC型肝炎等)・アルコール性肝疾患・原発性胆汁性肝疾患・原発性硬化性胆管炎・自己免疫性肝炎など)の慢性肝疾患が原因(或いはこれらの疾患の進行した終末像)である。参照したウィキの「肝硬変」によれば、日本には四十万人の肝硬変患者がおり、六十%がC型肝硬変、十五%がB型肝硬変、十二%がアルコール性肝硬変である。『かつては日本でも日本住血吸虫の有病地において、虫卵と栄養不良を原因とする肝硬変もみられた。最近ではメタボリックシンドロームに関連した非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)が原因として注目されている』とある。『肝細胞が死滅・減少し線維組織によって置換された結果、肝臓が硬く変化し、肝機能が著しく減衰した状態を指』し、『肝炎は可逆的であるが、肝硬変は非可逆的である』とある。また、『しばしば肝細胞癌を合併する』こともよく知られている。

「魚鱗癬(ぎょりんせん)」皮膚病の一種。魚の鱗のように皮膚の表面が硬くなり、剝がれ落ちる病気。アトピーと誤認され易い。ウィキの「魚鱗癬」によれば、殆んどが『遺伝子異常による皮膚表面角質の形成障害が原因と考えられており、特にケラチン110』(ケラチンは細胞骨格を構成するタンパク質の一つ)『の遺伝子異常に起因することが示唆されている』。『夏は特に体温調節が難しく、根本的な治療法はまだ見つかっていない。水疱型と非水疱型は、国の小児慢性特定疾患研究事業に認定されて』いる。『伝染性は全くないが、外見の印象が強い症状であるため、差別・偏見の問題がある』。尋常性魚鱗癬・伴性遺伝性尋常性魚鱗癬・水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症・非水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症(葉状魚鱗癬など)・道化師様魚鱗癬(生まれた時から発症し、重い合併症を併発することから、他に比して生存率が低い)などがある(各症の詳細はリンク先を参照されたい)。

「胸椎の圧迫骨折」梅崎春生はこの二年前の昭和三七(一九六二)年十月に、子どもとふざけているうちに転倒、胸椎の一番下に位置する第十二胸椎を圧迫骨折している(ぎっくり腰も併症)。通常、寝返りが打てないほどの激しい痛みを伴う。現行では比較的、高齢者に有意に見られる骨折である。ここは、その固定治癒。

「バスクラスパイダー」肝障害が起こると、手掌紅斑(palmer erythema:手のひらの小指側の丘が紅潮する症状)の他、皮膚に蜘蛛状血管腫(vascular spiderを認めることが多い。これは春生が示すように前胸部に発症し易い。音写は「バスキュラー・スパイダー」が正しい。ウィキの「クモ状血管腫」によれば、『顔面や前胸部などの上大静脈領域に蜘が足を広げたように血管が拡張して、中心部の血管が拍動しているもの』で、『拍動している中心部を鉛筆などで押さえると、血管腫が消失したように見える。肝硬変などの肝疾患で見られる』とあり、画像も見られる。

「徴」「しるし」とも訓じ得るが、ここは「きざし」と読みたい。

「今日様」太陽を敬っていう語で、そのまま「こんにちさま」と読むが、ここは同義の「おてんとう(天道 )さま」と当て読みしたい。

「木谷九段」囲碁の棋士木谷實(きたにみのる 明治四二(一九〇九)年昭和四〇(一九七五)年)。神戸市出身。ウィキの「木谷實」によれば、二十世紀の『棋士の中でも指折りの存在とされており』、『呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を木谷道場として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた』とある。梅崎春生より六歳年上。

「木谷医師」ウィキの「木谷實」によれば、木谷實の長男で、元国立療養所中部病院長寿医療研究センター長木谷健一(二〇〇八年没)のこと。

「Mさん」「高名な政治家」不詳。御存じの方、御一報を。

「この経過は他の新聞に書いた」不詳。御存じの方、御一報を。

「碁の言葉で言えばいい加減な分れ」検索してみたところ、対戦者双方が同じように満足のいくようなほぼ互角の「わかれ」(囲碁将棋用語で対戦の「進行」、或いは戦いが一段落した局面)のことを「いい加減な別れ」と呼称するようである。調べる限り、表記は「分れ」ではなく「別れ」或いはカタカナで「ワカレ」と書くようである。

「国手」「こくしゅ」と読む。原義は国を医する名手の意で「名医」の意で、「医師」を敬っていう語であるが、囲碁の世界では「名人」を指す。従って、事実とこの文脈中では掛詞になっていることが判った。正直言えば、私は以上を辞書で調べる以前、てんから『「助手」の誤植だろ』と思い込んでいたことを自白する。]

母を語る   梅崎春生

 

 私の母貞子は千九百初年、古賀家から梅崎家に嫁して来た。おやじが陸軍少尉か中尉のころで、裕福な娘時代を過したので、やっとこ少尉ややりくり中尉の貧乏生活にはおどろいたらしい。しかしよく貧乏に耐えて、六子をなした。みな男ばかりだから、その苦労察するにあまりある。負けずぎらいというべきだろう。

 負けずぎらいで気位が高く、快活で遊び好きであった。他人にはどう見えたか知らないが、子供の私にはそう見えた。ただ学校で一番にならなきゃ承知しないようなところがあって、おかげで私は小学生の時は首席で通した。中学校になると、学課もおふくろに手に余るようになって、たちまち私の成績は下落した。大学まで下落のし放しである。

 あれはいつのころだったか、おふくろは私に向かって、趣味として謡曲をやろうか俳句にしようかと、相談を持ちかけたことがある。いささか文学づいていた私は、俳句の方をやりなさいと切に勧めたが、結局おふくろは謡曲の方をえらんだ。

 いま憶測すると、そのころの福岡には、久保よりえという名流俳人や杉田久女という異色俳人がいて、いまから修業しても、その下風に立たざるを得ないという事情があったのではないか。それでおふくろは謡曲の道を選んだ。そしてかなりのところまで行った。

 終戦後上京して、その道で生計を立てたのも、才能が充分あったからに違いない。お弟子さんもたくさん出来た。いま、この道を弟信義がついでいる。

 大人になって一度だけしかられたことがある。戦争の責任をとって天皇は退位せよ、と文章に書いた時だ。発表されるや否や、おふくろは飛んで来て、昼寝している私に向かって、こんこんと戒めた。私は困って〝ハイ、ハイ〟と頭を下げるだけであった。

 そのおふくろは十余年前に死んだ。ルポルタージュを書きに遠出していた私ははせ帰って、やっと死目にあえた。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月二十三日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「久保よりえ」(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)「久保より江」が正しい。旧姓、宮本・郷里の愛媛県松山で夏目漱石・正岡子規に接して句作を始めた。上京後、府立第三高女を卒業、医学博士で歌人・俳人でもあった久保猪之吉と結婚、福岡に移り住み(夫が明治四〇年(一九〇七)年に京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学福岡医科大学)教授となったことによる。彼は本邦最初の耳鼻咽喉科専門医でもある)、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学んだ。柳原白蓮らとも交友があった(白蓮は猪之吉を愛し、より江に嫉妬したとも言われる)(以上は講談社「日本人名大辞典」他に拠った)。梅崎春生の母貞子は昭和二九(一九五四)年三月十五日、享年六十四で子宮癌のために亡くなっている。

「杉田久女」(明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)鹿児島県生まれの俳人。旧姓、赤堀。旧制小倉中学(現在の福岡県立小倉高等学校)の美術教師杉田宇内(うない)と結婚、明治四二(一九〇九)年、夫の任地である福岡県小倉市(現在の北九州市)に移った。私は彼女のフリークで、全句(リンク先はPDF版)他を電子化しており、ブログ彼女全句著作公開作業である。

「それでおふくろは謡曲の道を選んだ」因みに、この頃の福岡で謡曲(謠)の師匠というと、作家の夢野久作が真っ先に浮かぶ。私は夢野久作もフリークで、ブログで幾つかの作品を電子化している。

「弟信義」梅崎家の五男。観世流能楽師(シテ方)。]

胸に残る強い郷愁――熊本と私――   梅崎春生

   胸に残る強い郷愁

    ――熊本と私――

 

 昨年の秋、熊本に寄った。ある旅行雑誌の頼みで、鹿児島県坊津にルポルタージュを書きに出かけ、その帰途である。東京から鹿児島行きは富士航空で、大分に降り鹿児島に着陸した。今思うと両空港ともこの間事故をおこしたところだ。私は割合飛行機を信用するたちだが、こんなに続出してはうかうかと乗れないような気がする。

 同行は女房。銅婚式のつもりで、まだ見ない南九州を見せたいとの気持があった。鹿児島から汽車で、夜遅く熊本着。熊本城近くのいこい別荘。(この宿は清潔でサービスも行き届いていた。)宿料はめっぽう安い。旅行のため鉄道弘済会員の名を一時もらっていたせいもあろう。

 私は熊本には昭和七年から十一年の四年間いた。五高の生徒としてである。丁度(ちょうど)青春の花が開こうとしていた時期だし、生れて初めて親元を離れて生活したせいもあり、私はその四年間がたいへん楽しかった。形成などと言うと大げさになるが、いろんなことを覚え(いいことだけでなく悪事も含む)それが私の将来を決定したと言っても言い過ぎではない。ふつう高校は三年だが、つい遊び過ぎて落第し、四年在学ということになった。落第した時はつらかったが、今となっては友達が増えた勘定で得をしたと思っている。木下順二なども後期の方の同級である。

 でも、あれから三十年経つから、知り合いはほとんどない。街の形も大いに変っている。藤崎神宮から子飼橋に至る道、昔は上通町で酒を飲み、放歌高吟して戻ったものだが、その頃は暗い道筋で「赤提灯」という売春宿が一軒あっただけだ。私も一度そこに泊り、朝起きて二階から道を見おろすと、五高の教授や生徒らが続々と登校して行く。私はびっくり仰天して二階の隅に身をひそめ、正午頃まで蟄居(ちっきょ)していたことがある。それにこりて、もうここには二度と泊らなかった。

 その道筋が今は大繁昌で、いろんな売屋が並び、昔日の面影はない。この道だけでなく、熊本総体が変ってしまったようだ。

 翌日、車を呼んで阿蘇に向かう。

「今日は好か天気ですばい」

 運転手が言う。私も阿蘇に何度か登ったけれども、いつも曇ったり雨が降っていたりして、うまく行かなかった。四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した。その時の経験を本紙(熊本日日新聞)に連載した「てんしるちしる」の冒頭にくり込み、いささかの弁解となした。

 で、昨年の登山は成功であった。大津街道あたりからも阿蘇の姿や噴煙がはっきりと眺められた。坊中から頂上まで一気に自動車でかけ登る。火口に達すると、噴煙がまっすぐ上っている。風が全然ないのである。火口にぼこぼこ立つ泡も見え、火口壁の奇怪な肌や色も眼のあたりに見えた。こんな好天気に恵まれたのは初めてである。草千里まで降りて、運転手君を交えて昼飯を食べた。草千里には黒服の高校生や中学生が、ばらばらに散らばって遊んでいたが、まるで散乱する鴉(からす)のように見えた。

 熊本に戻り、博多行きの汽車まで時間があったので、上通町の「フロイント」に行く。この店はたしか昭和六年開業だから、ほぼ私の入学時に重なる。三十年の年月がこの店を大きくしていた。ここまで仕立てるには、なみなみならぬ苦労があったのだろう。

「お互いに齢をとりましたね」

 てなあいさつをマダムと交し、コーヒーを飲んで駅に向かった。一年に一度くらいは熊本に行ってみたいと思っている。熊本には四年しかいなかったけれど、かなり強烈な郷愁があるのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年四月三日附『熊本日日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭の「昨年」の後にはポイント落ちで「(昭和三十八年)」という割注が入るが、これは底本全集編者によす挿入と断じて、除去した。ここにまず書かれた鹿児島の坊津行は雑誌『旅』(当時の刊行元は日本交通公社)の取材旅行で、昭和三八(一九六三)年十月、熊本・福岡にも立ち寄っており、春生が述べている通り、妻の恵津さんを同伴している。この短いエッセイを読んでも判る通り(初めの航空機事故の話に始まり、売春宿「赤提灯」のエピソード、阿蘇登山に至るまで)、これが二年後の遺作となってしまった名作「幻化」(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)のいろいろなシークエンスに繋がっていることからも知れるように、「幻化」執筆の動機となる重要な旅であった。「幻化」のこちらのオリジナル注でも引いたが(リンク先はブログ版の当該部)、以下は非常に印象的なので再掲しておく。『読売新聞』のネット上の二〇一五年十一月二十四日附の山内則史記者の記事『梅崎春生「今はうしなったもの、二十年前には…」』には(ここでは再訪を十一月としている)、未亡人恵津さん(取材当時九十二歳)の回想として、『「きれいな所だから一緒に行かないか、カメラマン代わりで、と誘われました。坊津の海があまり美しく、船の陰でもいいから1泊したいと私が言ったら、役場に聞いて宿を見つけてきた。梅崎にとって戦争が終わった解放感と自然の美しさは、一つになっていたのでしょう」』と記し、『坊津の港、沖の島々、東シナ海まで見晴らせる坊津歴史資料センター輝津館で、恵津さんの描いた日本画と出会った。ダチュラの白に照り映える、花の下の乙女。件(くだん)の紀行文で梅崎は、宿の主人に請われて一筆書いたと記している』。『〈坊ノ津二十年を憶へば/年々歳々/花相似たれども/我れのみ/老いたるが如し〉』。但し、この時、既に春生には変調が起こっていた。旅の前々月の八月には蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、この旅から二ヶ月後の同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とある。翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となった。

「藤崎神宮」「ふじさきじんぐう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区にある藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)のこと。熊本市域の総鎮守として信仰を集める。詳細は「藤崎八旛宮」公式サイト或いはウィキの「藤崎八旛宮」を見られたい。

「子飼橋」「こかいばし」と濁らない。JR熊本駅の東北三・九キロメートルの白川が北に大きく蛇行した部分に架かる橋。「幻化」にも登場する(ここここ。リンク先は私のブログ版。後者のシークエンスはその光景とともに「幻化」の印象的な回想シーンの一つである。そこの私の注も参照されたい)。個人サイト「熊本市電写真館」の「子飼」のページが、よい。旧五高の雰囲気も現在の熊本大学内にある「五高記念館」の写真で偲ばれる。

「上通町」「かみとおりちょう」と清音で読む。現在の熊本県熊本市中央区上通町。当時から商店街で今もアーケード街として知られる。ウィキの「上通」を参照されたい。先に電子化した梅崎春生のエッセイ「さつま揚げ」にも登場している。

「四年ほど前NHKの海野君と登山した時も雷雨で、視界茫として何も見えなくて、案内した手前、私は面目を失した」先に電子化した梅崎春生の「デパートになった阿蘇山」(『週刊現代』連載の「うんとか すんとか」第六十三回目。昭和三六(一九六一)年七月九日号掲載分)に顛末が語られてある。この記事の四年前の昭和三五(一九六〇)年の春のことであった。

「てんしるちしる」昭和三六(一九六一)年六月から翌年四月まで連載した小説。ここでは「本紙(熊本日日新聞)に連載した」とあるが『中国新聞』他、数紙に連載したもの。但し、沖積舎版全集には不載で、私は未読である。

「大津街道」江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩の参勤交代に用いられた、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約百二十四キロメートル(三十一里)に及ぶ豊後街道(肥後国熊本城の札の辻から阿蘇・久住を経、豊後国鶴崎に至る)の内、熊本市から菊池郡大津町(阿蘇外輪山のずっと手前)に至る部分を大津街道と呼ぶ(ここはウィキの「豊後街道」に拠った)。

「坊中」(ぼうちゅう)は現在の大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る豊肥(ほうひ)本線の阿蘇駅附近の地名。阿蘇坊中。この当時は熊本県阿蘇郡阿蘇町(まち)であった(現在は阿蘇市黒川)。同駅は大正七(一九一八)年一月二十五日に「坊中」駅として鉄道院が開設したが、昭和三六(一九六一)年三月二十日に「阿蘇」駅に改称している(ウィキの「阿蘇駅」に拠る)。従ってこの記事当時は既に「阿蘇」駅であるが、梅崎春生の熊本五高時代、ここは「坊中」駅であった。

 

『上通町の「フロイント」』試みに検索してみたら、関係あるかないか不明であるが、熊本県熊本市中央区上通町に「フロイントビル」なるビルが現存する。]

諸國百物語卷之一 七 蓮臺野二つ塚ばけ物の事

     七 蓮臺野(れんだいの)二つ塚(つか)ばけ物の事


Renndainonobakemono

 みやこ蓮臺野と云ふ所に、むかしより塚ふたつありけるに、そのあいだ、二町ばかりへだてけるが、ひとつの塚は夜な夜なもへける。今ひとつの塚はすさまじきこゑにて、

「こいやこいや」

と、よばはりける。これをきく人ごとにおそれまどひて、日ぐれになればとをる人なし。ある時、あめ風はげしき夜、わかきものども、あつまりて、

「たれにても、こよひ、蓮臺野へゆきて、ばけ物のありさまみて歸るもの、あらんや」

といへば、そのなかに、ちから、人にすぐれて心がうなるわかものありて、

「それがし見とゞけ參らん」

と、云ひて行くほどに、闇(くら)さは闇し、雨はふる、すさまじき事、いふばかりなし。されども心こうなるものなれば、ひとつの塚にたちよりて聞けば、例のごとく、

「こいやこいや」

とよばはりける。此男いふやう、

「なに物なれば夜な夜な、かく云ふぞ。まことのすがたをあらはして、ざんげせよ」

とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、

「かやうに申す事、べつのしさいもなし。あれにみへたる、もゆる塚へ、われをつれてゆき給へ」

と云ひければ、男もおそろしくはおもひけれども、もとよりおもひもうけたる事なれば、やすやすとせなかにおひ、かのつかにおろしけるに、女そのまゝかの塚へ入るかとおもへば、塚のうち鳴動して、しばらく有りて、かの女、鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし。又、男にむかつて、

「もとの塚へ、われをつれてかへれ」

と云ふ。この時は氣も魂(たましひ)もうせはてゝ、死に入るばかりにおぼへけれども、又、せなかにおいて、もとの塚へをろしければ、鬼神よろこび、家の内に入り、しばらくして、又、もとの女のすがたとなり、

「さてさて御身のやうなるこうの人はなし、今こそ、のぞみをはれて、うれしく候ふ」

とて、ちいさき囊に、なにやらん、おもき物を入れて、あたへける。かの男、わにの口をのがれたるこゝちして、いそぎ、わが屋にかへりて、右の人々に、はじめをわりを物がたりして、件(くだん)の囊をとり出だし見ければ、金子百兩ありけると也。それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三の「三 蓮臺野にて化け物に遇ふ事」と同話であるが、塚からの呼ばはる二度の声はともに原話は『怖やこはや』であること、こちらが女の亡霊が男に与えた袋の中身が「金子百兩ありけると也」とし、「それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり」で終るのに対し、「曾呂利物語」では、怪異を友に語ったところ、『各々、手がらの程を感じける。彼(か)のふくろに入れたる物は、如何なる物にかありけん、知らまほし』と終わっている点で異なる。塚からの声は意味不明の「こいや」(「來いや來いや」とは認めるが、それでも呼ばれても行きたくはない点に於いてこの「こいや」の方がよい)がよいと思うが、エンディングの方は、個人的には起承転結かっちりよりも、読者に気を持たせる「曾呂利物語」の方が、遙かによい。挿絵の右キャプションは「蓮臺野のばけ物の事」。

「蓮臺野」洛北の船岡山西麓から現在の天神川(旧称は紙屋川)に至る一帯にあった野。古来、東の「鳥辺野(鳥辺山)」、西の「化野(あだしの)」とともに葬地として知られた。後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がある。

「心がうなる」「心剛なる」。

「心こうなる」「心かうなる」の誤り。清音は前の「心剛なる」の古形。

「ざんげ」「懺悔」。既注。元は「さんげ」と清音。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは変化(へんげ)のものに対して、「こいやこいや」の意味と、そう叫ぶ意図を「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。但し、そういう意味では、塚から出た亡霊は、この男に「懺悔」は結果として、していない。或いは、それはあまりに自身にとって恥かしいものであったから語りたくなかったのかも知れぬし、或いは、生者に語っても最早、理解出来ない死霊同士(今一つの塚の主との)事柄であったのかも知れぬ。それは、送られた女が塚から再び出でた時、「鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし」であったことを考えると、安易に訊ねることも私(藪野直史)には出来ないことであると言い添えておく。

とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、

「おもひもうけたる事」どんな怪異が起こっても、と前以って心の準備もし、覚悟もしていたこと。

「やすやすと」(女の命じた通り、)素直に。

「のぞみをはれて」「望み終はれて」。望みをし終えることが出来て。しかし、この女怪の望みは何であったのか、鬼女に変じたところに妬心は十二分に見てはとれるものの、今一つ塚が誰のそれであり、そこで何を成したものかは闇に隠れたままである。しかし残ったは事実としての謝礼金百両のみ。この最後の物的リアリズムが、ホラーを完成させている。

「わにの口」「鰐の口」。言わずもがな、「鰐」は鮫の意。]

腹立ちて厭人癖に二日醉

腹立ちて厭人癖に二日醉   唯至

2016/08/28

芥川龍之介 手帳5 (3)

○父と妻と私通す (父は馬喰)子(杣)木曾ヨリカヘリ 戸外ニ内ノ容子ヲ知リ 近邊(二町)の男に(ウスノロ)事情をきき 家ニカヘリ 怒ラズ着物を出サセ去ル 行方不明

[やぶちゃん注:「馬喰」「ばくらふ」(博労)。牛馬の売買や周旋をする者。

「杣」「そま」。樵(きこり)。

「二町」約二百十八メートル。]

 

○或悲劇の beginning 夫ハ母ノ情人タルヲ知ル 妻(藝者)ハ父ト關係アルヲ知ル

○火つけをした男は月夜にゆけば首にかげなし

○「逃ゲタンデス」相手煙草をのみながら 「ソノ日ニ?」「エエソノ日ニ」少シ間ヲ置キ 前ノ續きを忘れしやうに 「逃ゲタンデセウ」

○安太郎 アザ名靑ヤス ウスノロノ男(カセノの杣)男ぶりよし 近所の大百姓ノ妻ト通ズ ソノ家ノ惣領靑安トソツクリナリ

○妾 旦那の子をその死後に主人の如く育つ 田中ノ例

[やぶちゃん注:「田中」これはかなり知られた誰かを指すように思われるが、不詳。]

 

○鼻カラ煙草ヲノム人 山本

○決算報告書(半期) 株式名簿の株數のへるのを印刷所へ刷らせる(五十圓) 十番と下らぬ大株主を父とする故

○政治 議員(市會) A金アリ B金ナシ BAノ運動員ヲ買收シAノ運動員ノ宅ニBヲムカヘソコニ町の有志ヲ(靑年會の口利等)ムカへ投票ヲ買フ Aハ又Bノ運動員ヲ買收シ旅行或ハ病氣サス

○有志權者の葬式に立つ

○寺と議員との關係 僞日蓮主義者 決して日蓮だけ偉くない

○同じ小學校出の職工 同じ高商出の資本家 職工の會合(文藝團) 袴羽織にて着席す

江州の百姓 大阪に出 荒物屋をひらきかたはら投機事業をやり 成巧せず 相場をやり最初よく後に大分すり economics を知れば儲ると思ひ 本をよみ socialist となる

[やぶちゃん注:「成巧」はママ。]

 

○近所同盟 家賃ネアゲ反對 三軒加ハラズ 二圓上ゲル 家賃ヲ――圓ニス 三軒モ恩典ニ浴ス オヤヂ一人大ニ怒ル

○平井兵粮ゼメ

[やぶちゃん注:織田家武将であった羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの一つである、天正六(一五七八)年から天正八(一五八〇)年にかけて行われた織田氏と別所氏の三木(みき)合戦に於いて、別所氏が播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に籠城した際、秀吉が行った兵糧(ひょうろう)攻め。別名「三木の干殺(ひごろ/ほしごろ)し」と呼ばれる。]

 

○文久二年三月 「わたしや葛西の源兵衞堀河童の伜でございます」 黑衣 胡瓜をかじる ○源兵衞さんの伜の河童ござる 河童に御馳走するならば 胡瓜にお酒に尻ご玉 それでおしまひでごんざります

[やぶちゃん注:「文久二年三月」は一八六二年で幕末。この三月二十四日には坂本龍馬は土佐を脱藩、翌四月二十三日には薩摩藩尊皇派らの粛清事件である寺田屋騒動が、八月二十一日には薩摩藩主島津久光の行列が英国人を斬殺した生麦事件が、十一月十二日には高杉晋作らによる外国公使襲撃事件が発生している。]

 

鼻の下の長くなる話 Shirt を學ぶ

[やぶちゃん注:「Shirt」は、男子用のワイシャツ・婦人用のシャツ型のブラウス・下着・肌着・シャツの意であるが、「學ぶ」というのとしっくりこない。別に“nightshirt”、長いシャツ型の寝巻きの意があるから、西洋式にこれを着て寝ることを学んだ、という謂いか?]

 

○男女小穴の家へとまり男去り女他の男と會する話 馬を持つて迎ひに來る等

[やぶちゃん注:唐突に「小穴」と書かれると盟友の画家小穴隆一かと思うが、どうも以下が繋がらない。或いは夢記述の断片かとも思われないことはない。]

 

○小林の話 船の中の話

[やぶちゃん注:呼び捨てで呼ぶ「小林」は不詳。]

 

○參謀本部の地圖を見る 濶葉樹 針葉樹 水田 乾田に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.

[やぶちゃん注:「濶葉樹」「くわつえふじゆ(かつようじゅ)」で「闊葉樹」とも書き、広葉樹の旧称。

「乾田」は「かんでん」で、排水が良く、灌漑を止めると、畑に転用出来る田のこと。

「に從ひ鳥の匀を感ずる sportsman.意味不詳。全くの机上で日本陸軍参謀本部外局の陸地測量部(現在の国土地理院の前身の一つ)作成の地図を見ているうちに、そのいろいろな地図記号を見ているだけで、自然の匂い、鳥の匂いが実際に感じられてくるような錯覚に陥る運動選手を主人公とする掌篇或いはアフォリズムの構想か。]

 

〇或漢學者漢和大字典へンサン中漢字の腹につまりし夢を見る

○法域を護る人人の喜劇化

[やぶちゃん注:「法域」は仏法の法域という謂いか? さすれば、中国であろうか?]

 

支那の長沙邊に stage をとり militarism doramatization.

[やぶちゃん注:長沙(チャンシャー:現在の中華人民共和国湖南省長沙の省都)辺りを舞台とした軍国主義の戯曲化作品(或いは脚色作品)。]

 

Waitress et Ambitious boy. WBニヨリ save BWニヨリ damn サル

[やぶちゃん注:「タイス」と「Paphnusius」(不詳)。女給と大望を抱いた少年。WBにより押さえつけられ、BWにより罵られる。

「タイス」(Thaïs)はジュール・マスネ作曲の三幕七場の「抒情喜劇(comédie lyrique)」とエンタイトルされたオペラの一つで、芥川龍之介が愛したアナトール・フランスの小説「舞姫タイス」(Thaïs:一八九〇年)を原作にしたルイ・ギャレのフランス語の台本(リブレット)にマスネが作曲したものか(初演は一八九四年)。或いはGoogle ブック検索で“The Dublin Review”の「第 1920 36ページ」として出る書物の画像の中の注に“Paphnusius and Thais”という作品タイトルを見出せるが、これか?(どなたか、リンク先の画像を和訳して戴けると助かる)]

 

Applause――二つの手の鳴る音 その effect.  dangerous and disgusting.

[やぶちゃん注:「Applause」拍手。「disgusting胸の悪くなるような。実に厭な。]

 

〇ヤスケ 白ツ子 八街小説

[やぶちゃん注:「白ツ子」アルビノalbino)。

「八街小説」これは或いは現在の千葉県八街(やちまた)市を舞台にした小説の謂いではあるまいか? とすれば草稿断片「美しい村」(大正一四(一九二五)年頃と推定)と関わるか?(八街と「美しい村」の関係性は『千葉日報』のこちらの記事を参照されたい)]

 

○親戚關係に地主あるゆゑ地主方となる 妹の離緣 小地主から嫁をもらつたもの 損德ニヨリ親戚ニソムクモノ 損德ニヨラズ親戚ニソムクモノ

○箱根土地株式會社 鍛冶屋村(炭 橋 小マヘノ竹 屋根萱 薪) ウレレバ地價上る ソレニモ關ラズ反對スル 吉濱村ヲ示威運動ス 鍛冶屋ノ總代 議員承知シ村ノモノニシカラレ辭職ス 示威運動ニ出ル時ハ出ヌモノニ六圓金ヲカケル

○表向キハヨケレド内輪ハクルシキ地主ノコマル事 ドチラトモツカズ金バカリニカカルモノ 紛擾ヲ避ケル爲改革派ヲ退治セントスル地主

[やぶちゃん注:この一連(のものとして私はこの三項を読む)妙に生々しいリアルな記載で、もしや、と思い、調べてみたところ、これは恐らく、事実メモである可能性が極めて高いように思われてきた。以下の注を参照されたい。

「箱根土地株式會社」は実在した会社で、西武鉄道グループのデベロッパーであった西武鉄道の元親会社「国土計画(コクド)」の前身である「箱根土地(はこねとち)」のこと。大正八(一九一九)年四月設立で会社所在地は下谷区北稲荷町であった(後の昭和一九(一九四四)年に「国土計画興業株式会社」に、平成四(一九九二)年に「株式会社コクド」に社名変更)。参照したウィキの「箱根土地」によれば、『軽井沢・千ヶ滝別荘地(長野県軽井沢町)や箱根強羅、芦ノ湖近辺の別荘地分譲、東京・目白の文化村などの郊外住宅地分譲、現在の国立市における大規模宅地開発事業など、戦前期を通じて東京やその周辺で大規模な不動産開発を多数行った』とある。ウィキのフラットな記載を見ても、箱根・湯河原・軽井沢の大規模なリゾート開発を相当にこなしており、ここに記されるような戦略は日常茶飯にこなしていそうな土地会社である。

「鍛冶屋村」「吉濱村」この二つの村(地区)名も湯河原温泉で有名な神奈川県南西部の湯河原町(ゆがわらまち)に実在した。ウィキの「湯河原町」によれば、明治二二(一八八九)年に町村制施行によって旧「吉浜村」と「鍛冶屋村」が合併されて「吉浜村」となっている。同ウィキによれば、「鍛冶屋」地区は新崎川(にいざきがわ)の『川砂に多く混ざる砂鉄を利用して鉄器や刀鍛冶などが盛んだったといわれる地区』であり(だから「炭」「竹」「薪」が腑に落ちる。但し「小マヘノ」は不詳。「小前」は江戸時代に本百姓ではあるものの、特別の権利・家格を持たない百姓や、或いは小作人層を指しす語であったし、単に「小さいこと」「格や程度が低いこと」の意もあるのでよく判らぬ)、「吉浜」地区は『砂浜(吉浜)から箱根町・小田原市の境にまで伸びる地区』とある。ウィキの「箱根土地」を見ると、昭和一〇(一九三五)年の項に『湯河原町との温泉譲渡交渉が決裂』とある。無論、これは芥川龍之介没後であるが、交渉決裂という以上は相当な長い期間の交渉の末とも読め、そうしたワン・シーンの切り取りがこのシークエンスと見ても、少しも不思議ではない。さらに言えば、この情報は現地の人間でなくては知り得ない細部(家の様子など)を持っているように思われ、これらの情報提供者は、かの「トロツコ」の原型を芥川龍之介に提供(というより「奪われた」といべきか)した、湯河原出身の力石平三ではなかったか? と私は思うのである。]

 

臺灣の山奧 熟蕃二人 トロツコ 豚の腿 男子 600に賣れる 水牛を飼ふ子供(M

[やぶちゃん注:「熟蕃」「じゆくばん(じゅくばん)」と読む。これには二つの意味があり、普遍的に教化されて帰順した原住の人々(「生蕃(せいばん:中央の教化に従わない原住の人々)の対語)の他に、第二次大戦前の日本統治時代の台湾に於ける高山(こうざん)族(台湾先住民族の総称で、古代にインドネシア方面から渡来したとされ、九部族に分かれる。日本統治時代には高砂(たかさご)族と呼ばれた)の中で、漢民族に同化していたものを指して用いた限定用法があり(この限定用法では「生蕃」も同高山族の中で漢民族に同化していなかった人々を限定的に指す)、ここは後者。

600に賣れる」単位は不詳だが、この記載は人身売買の匂いが私には、する。

「M」情報提供者のイニシャルか。]

 

○鼠島 教會 島民鷄をかふ 饅頭うりの婆を斷る 婆猫をすてる 猫鷄を食ふ(蒲原)

[やぶちゃん注:「鼠島」この名を持つ島は複数あるが、次に「教會」とあることから、長崎港の入口にある「鼠島」の通称で親しまれていた旧「皇后島」(現在は埋め立てによって陸続きとなってしまった)のことではるまいか? みさき/michito氏のブログ「みさき道人長崎・佐賀・天草etc.風来紀行「ねずみ島(皇后島)の今昔」に「長崎市史」から引用(一部、混入する新字体の漢字を正字化した)、『鼠島は往時野鼠の發生多く作物悉く其の食ひ盡す處となつたので其の稱を得たと云ふ。又其の地戸八浦の西北に當るを以て子角(ネスミ)嶋と唱へた。外人等はフイセルアイランドと稱すと云ふ。又皇后島と稱す。昔三韓征伐の途此の島に繿を繫け給ひしにより後人皇后島と稱し、その音によりて佝僂嶋と書くものがあるのは誤である』。『安政二年二月外國人遊步場として本島を外人に開放した。蓋當地に於て否日本に於ける一般外人上陸開放の嚆矢であらう』。『明治三十六年七月』『瓊浦遊泳協会を組織し』『遊泳術教授に努むると共に一般人の海事思想普及上進に努めて居る』とあるそうである。「フイセルアイランド」とは恐らく、オランダ商館員であったヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセルJohan Frederik van Overmeer Fisscher 一八〇〇年~一八四八年)に因むものであろう。文政三(一八二〇)年にオランダ東インド会社一等社員として来日し、長崎出島のオランダ商館に務め、文政一二(一八二九)年に離日後、一八三三年にアムステルダムで見聞録を出版、日本の紹介に尽くした。著作に「日本風俗備考」「フィッセル参府紀行」がある。

「蒲原」この島が長崎のそれなら、恐らくは芥川龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして多くの仕事を手伝った、長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)と見てよいと思う。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。]

 

○猫の一生 都會の猫は鼠をまづしとす 肉 刺身 鹽 餓ゑると反對に鼠をとらず

[やぶちゃん注:これは(大正一六(一九二七)年一月『文藝春秋』)の冒頭の「猫」の構想メモ。以下に当該章を総て引く(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

      一 猫


 彼等は田舍に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黑猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。

 半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに氣づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?」「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は鹽の味を覺えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。

 しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の橫着を憎み出した。が、それは橫着ではなかつた。猫は目に見えて瘦せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都會的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。

 そのうちに彼等はもう一度田舍住ひをすることになつた。けれども猫は不相變少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、氣の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。

 すると或晩秋の朝、彼は雜木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を發見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする氣色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を嚙み碎いてゐた。

   *]

 

head light に照らされたる葬用自動車

[やぶちゃん注:下方の一項は芥川龍之介の死後、最初の全集で公開された怪奇談集「凶」(執筆自体は末尾クレジットに従うなら、大正十五(一九二六)年四月の作)の冒頭に載る奇談である。短いので私の電子テクスト(リンク先)より、その箇所のみを以下に引く(但し、読み(リンク先のそれは総ルビ)は一部に限った)。

   *

 大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乘り、本郷通りを一高の橫から藍染橋(あゐそめばし)へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも眞暗な往來である。そこにやはり自動車が一臺、僕のタクシイの前まへを走つてゐた。僕は卷煙草を啣へながら、勿論その車に氣もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見みると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色(きんいろ)の唐艸(からくさ)をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。

   *]

 

○苦痛と悲哀の表情筋の發達せざる爲、上つ方は氣品ある顏をなす

Africa の島の酋長の妻

Mohamedan の天幕の人にあふ 東より來る 熱からう(兄弟よ)

[やぶちゃん注:「Mohammedan(イスラム教)の別綴り。]

 

○ヒマラヤに Italy の植物學者 菓子器やける

○ボンベイ 海紅 洗濯屋

Mohamedan の寺の前の池 池のまはりに人集りまはりては仆る。最後にのこりしものを宗教上の先達 椰子

[やぶちゃん注:「仆る」「たふる」。倒れるの意。]

 

Indian. 蟻にてもかける

[やぶちゃん注:意味不詳。何らかの民族伝承的行為か。砂絵か?]

 

Misfortune of women. go-between ニ校長ナル 女ノ選擇權ナシ(婦人小説)

[やぶちゃん注:「Misfortune of women.」女性の不幸。「go-between」仲人(なこうど)か。]

 

○上野――しのの井(朝)――松本〔――島々(馬車)〕――白骨(夕)――乘鞍――白骨――阿房――平湯(夕)――高山(夕)――宮峠――下呂(ゲロ)(夕)――中山七里――金山峠――金山(夕)――電車――岐阜

[やぶちゃん注:「(ゲロ)」は「下呂」のルビ。以下、私が行ったことがあって、また、脳内の地図上で確かに認知出来る場所は原則、注をしなかった。

「しのの井」篠ノ井。長野県長野市篠ノ井布施高田にある現在のJR東日本の信越本線「篠ノ井」駅。

「阿房」これは現在の岐阜県高山市と長野県松本市の間にある松本市の「安房」(あぼう)峠のことであろう。国道百五十八号が通り、標高は千七百九十メートル。

「平湯」「ひらゆ」と読む。現在の岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷にある平湯温泉。

「宮峠」「みやとうげ」と読む。岐阜県北部にある高山盆地の南縁で分水界を成す飛騨山地の鞍部に位置する峠(高山市南部)。標高 七百七十五メートル。高山と美濃を結ぶ益田街道上にあって古来交通の要衝を成す。現在は国道四十一号線が通る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「中山七里」「なかやましちり」と読む。岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。ウィキの「中山七里」によれば、『岐阜県下呂市を流れる木曽川支流の飛騨川の中流に沿って、下呂市三原の帯雲橋(たいうんきょう)から同市金山町金山の境橋にかけて続く、全長約』二十八『キロメートルの渓谷。急峻な山地を飛騨川が浸食してできた渓谷で、奇岩や怪石が数多くあり、また春は桜や岩つつじ、夏はホタル、秋は紅葉と、四季折々の風景に富む観光名所となっており、「屏風岩」「羅漢岩」「孝子の池」などが有名である』。『名称の「中山七里」は、豊臣秀吉の武将で飛騨一国の国主となった金森長近が、五つもの峠を越える旧道がいかにも不便なことから』、天正一四(一五八六)年に『秀吉の許しを得て下呂と飛騨高山を結ぶ飛騨街道の建設に着手、険しい山中の飛騨川沿いの難所を約七里にわたって開いたことに由来する』とある。

「金山峠」「かまやまとうげ」であろうが、不詳。中山七里から金山へは峠を越える必要はなく、益田街道か高山本線を南へ下れば、普通にすぐ着く。不審。

「金山」旧岐阜県益田郡金山町(かなやまちょう)。現在、下呂市。]

 

○小穴のコマ(獨樂)の話

[やぶちゃん注:盟友の画家小穴隆一の談であろう。]

 

○軍曹 右の上膊に貫通創 國へはひれりと思ひほつとす

○髓操の教師 その子中學に入る 校長の子も入る 二人とも下手 六時目髓操 4 or 5年生來て見る 二人とべず 二人殘す 殘しても飛べず かへり遲し 校内運動場にある木馬を獨り習ふ爲 その旨を妻 夫に語る 子供轉校したしと云ふ

暴力ぎらい   梅崎春生

 

 福岡市は私の故郷である。いや私の故郷は福岡市である。言葉にすれば同じようなものだが、ニュアンスが少しちがう。

 私は福岡市に生れ幼時を福岡市に過した。福岡を私は大好きであった。青春に私は福岡が嫌いになった。福岡を脱出しようと思い、福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた。

 五高から九州大学に行かずに、東京大学に行った。だから私の思い出は中学(修猷館)までということになる。

 戦後また福岡が好きになる。二年に一度ぐらいおとずれる。しかしもはや家はない。旅人としてである。

 室生犀星の詩に、

 

  ふるさとは遠きにありて思ふもの

  そして悲しくうたふもの

  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

  帰るところにあるまじや

 

 とうたった心境が私の青春期にもあったわけだ。私の生れた頃の福岡は人口十万ぐらいの都市であった。那珂川をはさんで福岡と博多に分れていた。今はそんな区別はない。なにしろやたら広がって、人口も十万から七十万近くなった。那珂川なんかもののかずではなくなった。なにしろ私が小学校時代遠足に行った香椎や今宿が、今や住宅街になっている。

 昔日の姿は無いのである。

 私は簀子(すのこ)町に生れ、荒戸町四番丁で育った。西公園の下である。親父は二十四連隊の将校で、毎日馬で連隊に通った。当時連隊は福岡城(舞鶴城)にあった。今はそこが競技場や平和台球場になっている。私は簀子小学校に通っていた。私の家の前は、九州女学校である。その九州女学校から私の家が見下ろせた。(その頃の九州女学生は今は六十位のおばあさんになっているだろう。)その視線をさけるために家ではいろんな果樹を栽培した。実に沢山の果樹があった。柿(二本)、ザボン、金柑子、夏蜜柑(みかん)(三本)、蜜柑、ビワ(三本)、ダイダイ、イチジュクその他いろいろ。お隣の中山さんとの垣根は竹で、春になるとたけの子が生えた。家の前には下水溝があり石垣で作られていた。そこでは小さな魚が泳ぎ、石垣の穴には赤い弁慶蟹が数千匹住んでいた。この家は今でもある。しかし裏庭は他の家が建っている。下水溝は埋められて、なくなっている。十日ほど前私は福岡に行き、家をみて来た。溝に住んでいた蟹や魚たちは何処にいったのか。滅びてしまったのか。感傷が私の胸を突きさす。

 私がよく泳ぎにいったのは西公園の下の伊崎の浜である。今とちがってその頃は、海水が透きとおり二メートルぐらいは、みとおせた。泳ぎがあきると私たちは、魚を釣ったり、伊崎の漁夫の地引網の手伝いをした。手伝いをすると、バケツ一杯ぐらい雑魚をくれた。

 メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴなどが釣れた。また大濠に行ってフナやコイやウナギを釣った。また福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)附近の波止場でいろんなものが釣れた。現代の子供のようにテレビもなくラジオもなく、遊ぶ対象は自然であった。だから夜は八時頃寝た。はたして今の子供たちとどちらが幸福だろうか。

 春秋には遠足がある。お弁当はにぎり飯で、黒ゴマをまぶしてある。おかずはせいぜいコオナゴ(福岡ではカナギという)のつくだ煮と、タクアン(コンコンとよんだ)ぐらいのもので、勿論電車やバスはつかわず歩いていって歩いて帰って来た。前記の香椎や今宿、あるいは竹下などである。

 太宰府まで往復歩いたこともある。これは修猷館時代のことだ。

 先日の旅行で観世音寺に寄った。あそこらもみんな畠だったのに今では家が建っている。

 

  菜の花の花ばたけに 入り日うすれ

  見わたす山の端 霞ふかし

  春風そよふく 空をみれば

  夕月かかりて におい淡し

 

  さとわの燈影も 森のいろも

  田中の小みちを たどる人も

  かわずのなく音も 鐘の音も

  さながらかすめる おぼろ月夜

 

 その歌をうたうたびに、私はその頃の観世音寺附近の景観をありありと思い浮べる。今はその面影もない。鐘の音だけが昔のままである。

 修猷館の校風といおうかモットーといおうか、それは「質朴剛健」というのである。それから五高は「剛毅朴訥(ぼくとつ)」という。私は質朴剛健でもなければ剛毅朴訥でもなかった。硬派でも軟派でもなく、平凡でめだたない生徒にすぎなかつた。美貌と若さをほこるような生徒でもなかった。そのかわり丈夫で長もちするたちである。

 その修猷館時代に、私は福岡が厭になった。福岡というより学校が厭になったのである。修猷館は、九州の名門校と今はいわれているが、昔も名門校であった。けれども当時の修猷館は野蛮でファッショ的傾向があった。軍人や政治家になった者は沢山いたが、文学に志す者など寥々(りょうりょう)たるもので、文士といえば故豊島与志雄先生、つづいて私、若い世代では宇能鴻一郎君ぐらいしか出ていない。校則はきびしくて和服で街も歩けない。父兄同伴でなければうどん屋にも入れない。私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる。

 校則だけでなく校風も厭であった。新学期はじめに、今でいう部活動をしている以外の者は、応援の練習と称して裏の百道(ももじ)松原で数十日にわたって、応援歌の練習をさせられた。つまり応援というよりは下級生いじめなのである。その間に時々個人的にひっぱり出され、鉄拳制裁をうけるのだ。軍隊と同じで、反抗は出来ない。一人を数人がかりでなぐったり蹴ったり、押したおして顔を下駄でふみにじるのだ。血がだくだく出て白砂に吸いこまれる。

 私は一度も鉄拳制裁をうけたどとはない。しかし何十度となくその現場を見て、暴力を呪った。その気持は今でも同じである。私の戦争ぎらいはその暴力ぎらいから来ているのだろう。その暴力から逃げるために、私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった。

 五高は「剛毅朴訥」をモットーとしていたが、そういうものではなかった。修猷館にくらべるとはるかに自由で、気楽な学校であった。

 私ははじめて青春の楽しさを感じ、文学に志すようになった。

 福岡市内には西公園と東公園がある。西公園に登ると博多湾が一望に見渡せる。海の中道。志賀島。能古島。鵜来島など。こんな美しい湾をもった都市は日本でも数えるほどしかあるまい。夏になると西公園に行って蟬(せみ)をとった。東京にはいないが、そこには熊蟬がいる。私たちはそれをワンワンと呼んだ。ワンワンと鳴くからである。シャアシャア蟬と呼ぶ地方もある。大きな蟬で油蟬の三倍ぐらいあって、つかまえて頭を手にもつと、羽翅(はね)をふるわせて、ワンワンと鳴きさけぶ。その震動で手がふるえる程であった。

 冬は福岡では雪が降らない。降ってもすぐ消えてしまう。そこでスキーやスケートは出来ない。だから冬の戸外での遊びはというと凧あげか独楽(こま)まわし。独楽は名島独楽といって福岡独特のものがある。それを敵のまわっている独楽にぶっつけて割ってしまう。その割るのが私の得意の芸だった。

 正月の雑煮は東京風とちがって丸餅を使う。それからブリとかカツオ菜とかいろんな野菜を入れる。親戚の家にいって雑煮を御馳走になり、あと百人一首とかトランプとか加留多とかとるのが正月の楽しみであった。

 オキウトというのを人はあまり知らないだろう。海藻からとった食べものである。朝早く子供が、

 「オキュウトわい」

 「オキュウトわい」

 と売りに来る。花がつおをかけて食うのだが、味はたんぱくでまあ味が無いといってもよろしい。それをおかずに朝めしを食うのである。もっとも私の家は父母とも佐賀の出で、朝は茶がゆに高菜の古漬をおかずにして、さらさらとすする。昼は弁当。おかずは蒲鉾の煮たのにコンコンぐらいのものだ。福岡の蒲鉾(かまぼこ)はおいしい。(今はどうか知らない。)スボつき蒲鉾など逸品であった。蒲鉾製造株式会社などはなく、各魚屋で自家製のを売った。一本五銭だったと思う。

 うどん。これがまた逸品。東京ではうどんなどは車夫馬丁が食うものだと思っているようで、そばを尊ぶ。福岡ではそばも食わせるが余りうまくない。うどんが主体なのである。これも一杯五銭か三杯十銭である。汁はうす味でやたらに旨(うま)い。この間食べて来たが、あんまりうまいので東京生れの女房もびっくりしていた。思うに、そばは寒冷の地に育つ。つまり地味がやせている所にしかとれないのだ。それだけ福岡の風土は豊かなのである。

 米もうまい。天下第一等の米は肥後の菊池米といわれているが、九州全土平均してどの県もうまい。

 それからフグ。本場である。福岡では街の魚屋でも売っている。それを買って帰って手料理で食うのである。先日福岡にいった二日前、相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだが、あれは福岡人じゃないので、料理の仕方をまちがえたのである。福岡人は料理の仕方をよく知っている。だから魚屋でフグを売っているのである。しかも値段が安い。東京でフグ料理を食うと、目玉のとび出るほどとられるが、九州では大衆魚である。福岡では安くてうまいのが、フグという魚の特徴である。

 水たき。これも福岡のもの。

 それから福岡の女。これがまた逸品である。情に厚くて濃(こま)やかで夫人型である。今福岡の特徴や文化は殆ど失われ、支店文化になってしまった。

 で、東京から若い男が赴任してくる。昔は菅原道真が福岡に流されたように、福岡は辺土であった。私の中学時代も急行で行って、東京まで一昼夜以上かかった。今はジェット機で一時間である。流されたという気分は全然しない。その若い男が博多の女に惚れられて、あるいは惚れて一緒になる。そして仲よくくらす。男は一生幸福である。それほど福岡の女は優秀なのである。

 さきに支店文化と書いたが言葉づかいも、テレビやラジオによって東京化されて来た。

 それでもまだいくらか残っている。

 編集者から電話がかかって来る。

「梅崎先生ですか」

 先生をシェンセイと発音する。それで忽ち九州人だとわかる。

「あのですねえ……」

 とくれば大体福岡人である。

 博多弁の特徴はちょっと語り難い。熊本弁はドイツ語に似ている。鹿児島弁は、知らない人は驚くと思うが、フランス語の様にやわらかいのである。博多弁は、どちらかというと女性的である。男でも、

「なになにしなさい」

 というところを、

「なになにをおしがっしゃい」

 というのだ。私が中学校時代プールに石を投げ込んで遊んでいると、上級生の恐いのがやって来て、

「なんばしよるとな?」

 というので、私が恐縮してだまっていると、その上級生は、

「これからそげなことせんごとおしがっしゃい」

 といい捨ててどこかに行ってしまった。おこる時でもかくの如く言葉は優しいのである。

 しかし今は(おしがっしゃい)という言葉も滅びてなくなった。これすべて支店文化のせいであり、テレビ・ラジオのせいである。

「ふてえがってえ」

 という言葉もある。意味はない。驚いた時とかあきれた時に、使う間投詞である。

 この間福岡に帰った時、旧友に、

「今でもそんな言葉つかうのか?」

 と訊ねたら、

「もう近頃あんまり聞かんな」

 と答えた。私はびっくりして曰く、

「ふてえがってえ」

 このあいだは福岡に二晩泊った。一晩は中洲の和風旅館、翌日はそのお隣の日活ホテル。和洋南風の味を味わったわけだ。二日目の夜は、修猷館の同窓生たちが会を開いてくれ、フグを食べさせられた。佐渡ヶ海の死んだ直後なので、少しためらったら、

「お前はあたるとでも思っているのか」

 と笑われた。さすがに博多のフグはうまかった。そのあと「フクロウ」というバーで、大酒を飲んだ。ここのマダムが、私の簀子小学校の後輩である。博多を訪れる人があったら、是非立寄って頂きたいと私はねがう。マダムは美人だし、酒もそれほど高くない。

 飲みすぎたせいか、翌日は二日酔で、南高宮の医師山崎図南君に注射してもらった。山崎君は修猷館出の同級生である。やはり、故郷はありがたいものだ。

 注射のおかげで気分回復、午前のジェット便で一時間後には東京に戻った。同じジェット機で、漫画家の清水崑さんと一緒だったが、あれは相撲のために来福したのだろうか。つい聞くのをわすれた。

 しかしコンさんも、齢をとったなあ。白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年三月刊の『えきすぷれす』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた」後で事実(「私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった」が正確な事実)を語っているように受けなかったわけではなく、県立福岡高等学校を受験したものの、不合格で一浪、翌昭和七(一九三二)年に熊本五高を受けて合格、同年四月に文科甲類に入学したのである。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」室生犀星の第二詩集「抒情小曲集」「小景異情」の全六章からなる「その二」の前半部である。この箇所のみが知られ、全体が読まれることが少ない(高校の教科書でさえ全篇を載せないものが多かった)ので、以下に総てを示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの初版(大正七(一九一八)年感情詩社刊)のそれを視認した(「かたい」のルビはママ。歴史的仮名遣では「かたゐ」が正しい)。

   *

 

 小景異情

 

  その一

 

白魚はさびしや

そのくろき瞳はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる餉(げ)をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと

ききともなやな雀しば啼けり

 

  その二

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

歸るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ淚ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

  その三

 

銀の時計をうしなへる

こころかなしや

ちよろちよろ川の橋の上

橋にもたれて泣いてをり

 

  その四

 

わが靈のなかより

綠もえいで

なにごとしなけれど

懺悔の淚せきあぐる

しづかに土を掘りいでて

ざんげの淚せきあぐる

 

  その五

 

なににこがれて書くうたぞ

一時にひらくうめすもも

すももの蒼さ身にあびて

田舍暮しのやすらかさ

けふも母ぢやに叱られて

すもものしたに身をよせぬ

 

  その六

 

あんずよ

花着け

地ぞ早やに輝やけ

あんずよ花着け

あんずよ燃えよ

ああ あんずよ花着け

 

   *

「那珂川」「なかがわ」と読む。現在の福岡県福岡市早良(さわら)区大字板屋(いたや)の脊振山(せふりさん)に源を発し、南東に流れて筑紫郡那珂川町と佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町(よしのがりちょう)との県境を形成している。下流の福岡市博多区住吉附近で二手に分流して中州を形成し、ここを「中洲」と呼称、福岡県のみならず、九州最大の歓楽街として知られる。東側分流を博多川と称するが、下流の須崎橋付近で再び本流那珂川と合流する。中洲の左対岸の天神も繁華街として知られる。

「人口も十万から七十万近くなった」現在(二〇一六年)の福岡市の人口はこの当時(一九六四年)の二倍を越え、約百五十五万人で、その人口増加数は地方都市では第一位、全国では東京二十三区に次いで第二位である。

「香椎」「かしい」と読む。現在の福岡県福岡市東区の北部に位置し、神功皇后所縁の「香椎宮(かしいぐう)」があって古い歴史を持つ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み、福岡市東部の副都心の一つとなっている(ウィキの「香椎」に拠った)。

「今宿」「いまじゅく」と濁る。現在の福岡市西区の地名。旧糸島郡。ウィキの「今宿(福岡市)」によれば、『博多湾の内湾である今津湾の奥部に面し』、『北に向かって開けた平地部にあり、西区内では西部の副次的中核地域になっている』。

「簀子(すのこ)町」既注。「すのこまち」と読む。現在の中央区大手門簀子地区。名の由来など、梅崎春生の「水泳正科」の私の注などを参照されたい。

「荒戸町」旧簀子小学校(統廃合で閉校)前の那の津通りを西に三百メートルほど行くと、現在の福岡市中央区荒戸地区である。生地の簀子町の隣りと言ってよい。これらの町の位置関係は梅崎春生の「昔の町」辺りを読むと概ね判る。

「親父は二十四連隊の将校」梅崎春生の父梅崎健吉郎は春生の生まれた当時は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった。

「九州女学校」私立九州高等女学校。現在の福岡市中央区荒戸三丁目にある私立の女子校である福岡大学附属若葉高等学校の前身。

「弁慶蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedium 

「伊崎の浜」現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。梅崎春生の「伊崎浜」を参照されたい。

「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。

「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。ただ、ここでは小学生が釣るものであるから、ごく幼魚の小型のスズキの、子ども仲間での通称であろうとは思う。

「福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)」梅崎春生の「午砲」(「どん」と読む)が思い出される。

 

「コオナゴ(福岡ではカナギという)」スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ(玉筋魚/鮊子)Ammodytes personatus のこと。本種は異名が多く、東日本では稚魚を「コウナゴ(小女子)」、西日本では同じものを「シンコ(新子)」と呼び、成長した個体は北海道では「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、春生の言う「カナギ(金釘)」などとも呼ばれる。「カナギ(金釘)」という呼称は恐らく、イカナゴの幼魚(新子)の調理法として知られる、醤油や味醂・砂糖・生姜などで水分がなくなるまで煮込んだものが、茶色く曲がって「錆びた釘」に見えることによるものと思われる(所謂、「釘煮」である)。

「タクアン(コンコンとよんだ)」「お新香」「香の物」「香香(こうこう)」から「こうこ」「こうのもん」などとなり、音変化して「こんこ」「こんこん」となったものであろう。

「竹下」福岡県福岡市博多区竹下か。直線で五キロほどある。

「太宰府」修猷館中学からは直線でも十八キロメートルほどある。

「観世音寺」太宰府跡東方、現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。

「菜の花の花ばたけに 入り日うすれ/見わたす山の端 霞ふかし/春風そよふく 空をみれば/夕月かかりて におい淡し//さとわの燈影も 森のいろも/田中の小みちを たどる人も/かわずのなく音も 鐘の音も/さながらかすめる おぼろ月夜」文部省唱歌「朧月夜」(作詞:高野辰之・作曲:岡野貞一)。大正三(一九一四)年(春生の生年の前年)の「尋常小学唱歌 第六学年用」に初出する。

    *

 

一、

菜の花畠に 入日薄れ

見わたす山の端(は) 霞ふかし

春風そよふく 空を見れば

夕月(ゆふづき)かかりて にほひ淡し

 

二、

里わの火影(ほかげ)も 森の色も

田中の小路(こみち)を たどる人も

蛙(かはづ)のなくねも かねの音も

さながら霞める 朧月夜

 

   *

「里わ」は「里曲・里廻・里回」で本来は「里曲」が元であって、「さとみ」と読むのが正しいが、それがかく平安時代以降蜿蜒と誤読されて「さとわ」と慣用読みになってしまったもの。意味は「人里のある辺り」。

「質朴剛健」誠実でしかも飾り気(け)がなく、逞(たくま)しい上にしっかりしていること。

「剛毅朴訥」気性が強く、決して屈しぬ心の持ち主で、無口で飾り気なく無骨なこと。「質朴剛健」と何ら変わらぬ。

「寥々(りょうりょう)たる」もの淋しいさま。

「故豊島与志雄」仏文学者で作家の豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡県下座郡福田村大字小隈(現在の朝倉市小隈)生まれで、修猷館から第一高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を出た。梅崎春生より二十五先輩で、心筋梗塞のため、この九年前に満六十四で亡くなっている。

「宇能鴻一郎」(昭和九(一九三四)年~)は北海道札幌市出身。ウィキの「宇能鴻一郎」によれば、昭和三〇(一九五五)年に県立修猷館高等学校(新制)から東京大学文科Ⅱ類に進学、同学文学部国文学を卒業後、同学大学院に進学、学位論文「原始古代日本文化の研究」で文学修士となり、昭和四三(一九六八)年に同大学院博士課程を満期退学している。『大学在学中に『半世界』の同人』 となり、昭和三六(一九六一)年には『自らの同人誌『螺旋』を創刊。同誌に発表した短篇『光の飢え』が『文学界』に転載され、芥川賞候補作となった』。翌年、鯨神で第四十六回『芥川賞受賞。同作は直ちに大映で映画化された(監督:田中徳三、主演:本郷功次郎、勝新太郎)』。『濃厚なエロティシズムを湛えた文体と、評論や紀行文等で見せる博覧強記ぶりも知られ』たが、後は『純文学の筆を折り、官能小説の世界に本格的に身を投じた』。『「あたし〜なんです」等、ヒロインのモノローグを活用した独特の語調は、夕刊紙やスポーツ新聞への連載で一時代を築き、金子修介の劇場公開初監督作品『宇能鴻一郎の濡れて打つ』など、数十本が日活ロマンポルノなどで映画化されている』。二〇一四年には「夢十夜」で『純文学作家として復活』した、とある。

『私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる』忠生のことはここまでの随筆でも何度も出てきた。「狂い凧」はこの記事の前年、昭和三八(一九六三)年『群像』一月号から同年五月号に連載されている。梅崎春生にしてはかなり激しい言い方である。ただの自身の自信作の宣伝文句とは思われない。

「百道(ももじ)松原」百道浜(ももじはま)。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。

「西公園」現在の福岡市中央区にある公園及び地名。ウィキの「西公園(福岡市)によれば、公園は『全体が丘陵地で展望広場からは博多湾が一望できる。園内は自生のマツ・シイ・カシが茂り、またサクラ・ツツジが植栽された風致公園である。サクラは』約三千本が植えられている、とある。

「東公園」現在の福岡市博多区にある公園及び地名。梅崎春生の「幾年故郷来てみれば――福岡風土記――」に出た亀山上皇と日蓮上人の銅像が建つ公園である。

「海の中道」「うみのなかみち」と読む。現在の福岡市東区にある、志賀島(後注)と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州。全長約八キロメートル、最大幅約二・五キロメートルの日本でも有数の巨大な砂州で、北が玄界灘、南が博多湾(ウィキの「海の中道」に拠る)。

「志賀島」「しかのしま」と清音で読む。現在の福岡市東区に所属する島で、博多湾北部に位置し、海の中道と陸続き。ウィキの「志賀島」によれば、『古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であ』るとある。

「能古島」「のこのしま」と「の」を補って読む。現在の福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。ウィキの「能古島」によれば、『大都市の目の前にありながら僅か』十分の『船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する』とある。

「鵜来島」「うぐじま」と読む。西公園西北の海岸近くに浮かぶ、ごく小さな島で、国土地理院の地図で現認出来る。福岡県中央区福浜一丁目に所属する。

「熊蟬」昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 。成虫の体長は六~七センチメートルほどで、アブラゼミ(次注)やミンミンゼミ(セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis)に比べると頭部の横幅も広い。「油蟬の三倍ぐらい」はやや大袈裟に聴こえるが、子どもの手の中での激しい運動やその質感或いは激しい鳴き声を加味して考えるなら、決しておかしくない感覚と思う。

「油蟬」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata 。成虫の体長は 五・六~六センチメートルで前者クマゼミよりも一回り小さい。

「名島独楽」「なじまごま」と読むと思われる。博多独楽は心棒に鉄を用い、現在の曲独楽の発祥地とされるが、ここで春生が言っているのは所謂、喧嘩独楽、本体が重厚な玉子型をした「佐世保独楽」の一種であろうか。「名島」は現在の福岡県福岡市東区の地名で、戦国時代の水軍の根城として知られた名島(なじま)城跡で知られる。

「カツオ菜」私の所持する二〇〇三年小学館刊の柳町敬直「食材図典 生鮮食材篇」の「カツオ菜」によれば、『福岡県の博多地方で古くから栽培してきた在来タカナで、タカナとしてはやや小さい。しかし、煮ると味がよく、正月の雑煮などに用いられ、かつお節のかわりになるとしてカツオ菜の名が』生まれたとし、『葉は鮮緑色で葉面に縮みがあり、質がやわらかで、』先に示した雑煮の他、『ちり鍋などには欠かせない野菜になっている』とある。これは私はフウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属カラシナ変種タカナ Brassica juncea var. integrifolia の改良品種か或いは地方変異、又は、それ以前にカラシナ Brassica juncea からタカナとは別系統か傍系で発生した変種ではないかと思う。困るのは、私の所持する書物及びネット上の記載の多くが「タカナの近縁種」とすることで、だとすると、学名は異なったものが無くてはならないのに、いくら調べても「カツオナ(鰹菜)」の学名が見当たらないのである。ウィキに「カツオナ」にあるが、上記以上のこれといった新情報は、ない。「ブラッシカ・ジュンセア」「ブラッシカ・シネンシス」を学名とするとするこんなページを見つけたが、「ブラッシカ・ジュンセア」は上記のカラシナの学名のまんまでしかなく、「ブラッシカ・シネンシス」に至っては、阿呆くさ、アブラナ属ラパ 変種タイサイ(チンゲンサイ)Brassica rapa var. chinensis の原種の種小名と変種指示を取り去った、実にいい加減な学名音写であって、信じるに足らぬ。識者の御教授を乞うものである(別種らしいけど、学名は実はついてないのかも知れんな)。

「オキウト」「オキュウト」既注であるが、流れで、再掲しておく。最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。

「スボつき蒲鉾」スボは藁すぼ、麦藁(むぎわら)のこと。農民が作業の合間に食するのに、蒲鉾を汚れた手でも持てるように麦藁で巻いたものをかく言う。現在は多くが人工のストローの簀(す)に変わってしまった。

「肥後の菊池米」現在の熊本県菊池市(地域)産の米。サイト「菊池まるごと市場」の「菊池のお米・新米」によれば、『日本名水百選にも選ばれた菊池渓谷と、香りが高く甘味と食感のある美味しいお米の生産地として有名な熊本県菊池市。県北部を流れる菊池川の上 流に位置し、阿蘇外輪山に源流を持つなどいくつもの美しい水源があり、ミネラル分を含んだ豊富な湧水と肥沃な土壌、稲作りにふさわしい気候など、美味しいお米を作るに適した環境が整っています。菊池平野は 内陸の盆地で、朝夕の気温差が激しいため、お米の旨 味成分のひとつである澱粉が効率的に蓄えられます』。その美味しさは三百年前の『江戸時代から有名で、大阪のお寿司屋さんから特別な注文が来ていたと文献に残っているほど。天下の台所・大坂(現在の大阪市)堂島で取引される藩の蔵米中で、菊池米は特別な値がつくほど人気を博しておりました。東の大関が加賀米ならば西の大関が菊池米といわれ、米相場を決定する際の基準にも指定され、天下第一の米としてとても評判でした。将軍の御供米として、また、南北朝時代から後醍醐天皇への献上米として今に伝わっている伝統のあるお米です』とある。

「相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだ」これはやや記載が不全。四股名としても誤りであり、仮に部屋名としても正しくない(「が」とあるから梅崎春生は明らかに四股名で書いている)。ウィキの「佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件」より引く。これはこの記事(昭和三九(一九六四)年三月)の前年末、昭和三八(一九六三)年十一月十一日に大相撲佐渡ヶ嶽(さどがたけ)部屋で発生したフグ中毒による死傷事故を指す。同日午後九時十分頃、『現在の福岡市東区にあった佐渡ヶ嶽部屋の宿舎にて、夜の食事(ちゃんこ)としてフグを食べたところ、力士養成員』六名(三段目二名、序二段三名、番付外一名)に『中毒症状が発生』、六名『全員が救急搬送され、三段目の佐渡ノ花が』翌十二日に、序二段の斎藤山が同月十四日に死亡した中毒事故である(残る四名は生還)。六名は福岡市での大相撲十一月場所二日目を『終えた後、ちゃんこ番として他の関取がフグ鍋を食べ終わった後に、当時は食用を禁止されていなかったフグの肝を追加して食べていた』。四名は十一月場所を『途中休場し、また師匠である佐渡ヶ嶽は勝負検査役を担当していたが、事件の責任を取って検査役を退い』ている。『当時、十両から幕下に陥落していた長谷川(長谷川勝敏)も同日のちゃんこ番だったが、食事前から腹の調子が悪かったことから、ちゃんこ代わりとしてうどんを食べに外出していた。このため長谷川は奇跡的に難を逃れ、後に入幕、関脇まで昇進した』とある。その後、各地方条例によってフグ調理の安全管理が行われていったが、昭和五八(一九八三)年の厚生省通知により、全国的に毒のある危険な部位(例えばトラフグの肝臓・卵巣など)の的確な除去による消費者への提供が義務化された。ここで梅崎春生が書いている状況は、今から考えると、トンデモないことである。こんなだったのか、当時は! ちょっと吃驚、である。

「南高宮」現在の福岡市南区高宮か。

「山崎図南」国立国会図書館の書誌データで検索したところ、恐らく昭和三四(一九五九)年九月『医学研究』に「近年の女子の初潮と体格の推移」という論文を書いている山崎図南氏と同一人物であろうと思われる。同誌の出版社大道学館出版部の住所が福岡だからである。

「清水崑」(こん 大正元(一九一二)年九月二十二日=昭和四九(一九七四)年)は「河童の漫画家」として知られる。本名は清水幸雄。長崎県長崎市出身。福岡出身の「河童の作家」火野葦平とも親しかった(私は火野葦平「河童曼陀羅」の電子化も手掛けている)。

「白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした」陶淵明の知られた五言古詩の「責子」(子を責む)冒頭の二句であるが、恐らく、編者が春生の原稿を読み違えたものであろう、意味不明の「雨害」となっている。ここは「両鬢」である。編者さえしっかりしていれば、高校の漢文で習うことさえあるこの有名な詩を、こんな無様な誤植で晒すことはなかったろうに。コーダであるだけに、惜しい瑕疵である。

   *

 

  責子

 

 白髮被兩鬢

 肌膚不復實

 雖有五男兒

 總不好紙筆

 阿舒已二八

 懶惰故無匹

 阿宣行志學

 而不好文術

 雍端年十三

 不識六與七

 通子垂九齡

 但覓梨與栗

 天運苟如此

 且進杯中物

 

   子を責(せ)む

 

  白髮 兩鬢(りようびん)に被ひ

  肌膚(きふ) 復(ま)た(じつ)實ならず

  五男兒 有ると雖も

  總て 紙筆を好まず

  阿舒(あじよ)は已に二八なるに

  懶惰(らんだ) 故(もと)より匹(たぐ)ひ無し

  阿宣(あせん)は 行(ゆくゆ)く 志學なるも

  而も文術を好まず

  雍(よう)と端(たん)とは 年十三なるも

  六と七とを識(し)らず

  通子(つうし)は九齡(きゆうれい)に垂(なんな)んとするに

  但(た)だ 梨と栗とを覓(もと)むるのみ

  天運 苟(いやし)くも此(か)くのごとくんば

  且(しば)しは杯中の物を進めん

 

   *

淵明には実際に五人の男子があったが、ここに出るのは総て、その幼名。「實ならず」とは色艶(いろつや)が失われて弛(たる)できたことを指す。「懶惰」は「だらしがないこと・怠けること・怠惰の意。「二八」は掛算で十六歳。「志學」は十五歳のこと(「論語」「爲政篇」に基づく)。「六と七とを識らず」とは「六」と「七」との数の区別さえも出来ないの意であるが、足すと、彼らの年齢の「十三」になることから、それを洒落た謂いともされる。「苟くも」仮定の辞。「且(しば)しは」「かつうは」と訓じてもよい。「~せん」で呼応し、「まあ、~でもすることとしよう。」の意。]

諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事

     六 狐山伏にあだをなす事


Yamabusikitune

 ある山伏、大みねよりかけ出でて旅をしけるに、みちにて、狐、ゆたかにひるねしてゐけるをみて、たちより、耳のはたにて、ほらの貝をたからかにふきければ、狐、きもをつぶし、行きがたなく、にげうせけり。山伏もおかしくおもひて行くほどに、いまだ日も高かりしが、にはかに日くれ、野中のことなればとまるべき宿もなし。いかゞせんと思ふ所に、かたはらに墓所(むしよ)のありけるを、おそろしくはおもひけれども、せんかたなくこの墓所の天井にあがりて、その夜をあかしける。すでにその夜も夜半ばかりに、むかふのかたより火あまたみへけるが、しだいにちかくなるをみれば、此墓所へきたる葬禮なり。人數二三百人ほどうちつれ、そのてい美々(びゝ)しく、長老、引導をわたし、鉦(どら)、鐃鉢(めうはち)をならし、なかなかいかめしきとりをこなひにて、つゐに死人(しにん)に火をかけて、をのをの、かへりぬ。さて死人も、やうやうやけて、塵灰(ちりはい)とならん、と、おもふ折ふし、火の中より死人、身ぶるいしてたち出でける。山伏、これを見て、氣も、たましいも、うせて、とやせん、かくや、と、おもふ所に、かの死人(しにん)、火屋(ひや)の天井を見あげて、此山伏を見つけて、そろそろと、はいのぼる。山伏、いよいよおそろしくて身をちゞめゐけるに、かの死人、

「それには、なにとて、ゐるぞ」

とて、山伏を天井より、つきおとす。山伏も氣をとりうしなひ、しばらく絶死(ぜつじ)して、やうやう氣つき、目をあきてみければ、晝の七つ時分にて、ある野なかに、たゞ一人、ふしゐたりしが、腰のほねをうちぬきて、ほうほう、本國にかへりけると也。そのほらの貝にておどされたる狐、たちまちあだをなしけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「十 狐を威(おど)してやがて仇をなす事」と同話。挿絵の右キャプションは「山伏狐のひるねをおどろかす事」。

「大みね」広義には、奈良県の南部の、古くから修験道の山として山伏の修行の場であった大峰山(おおみねさん:吉野山から熊野へ続く長い山脈全体の通称)であるが、ここは特に吉野郡天川村の旧名金峯山(きんぷせん)、山上ヶ岳(さんじょうがたけ:標高千七百十九メートル)とするべきであろう。この頂上付近には修験道の根本道場である一乗菩提峰大峯山寺(おおみねさんじ)山上蔵王堂があり、山全体が現在も聖域である。

「ゆたかに」如何にも警戒心なく、ゆったりと。

「墓所(むしよ)」読みは古語では普通。墓場。

「墓所の天井」ここは少し不親切である。後で「火屋(ひや)の天井」と言い換えているように、これは「火屋」(火葬場の付帯施設として墓所の傍らに立っている三昧堂(ざんまいどう:墓所にある葬儀用の堂)である。「曾呂利物語」では、その墓所の『三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて臥しにけり』とある。

「引導」葬儀の際に僧が死者に解脱(げだつ)の境地に入るようにと法語を与えること。

「鉦(どら)」鉦(かね)。葬儀や法会(ほうえ)に用いる打楽器の一つ。金属性の円盤を紐で吊るしたもの。桴(ばち)で打って鳴らす。

「鐃鉢(めうはち)」現代仮名遣では「にょうばち」と発音する。やはり葬儀や法事の際に用いる打楽器で銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。

「いかめしきとりをこなひ」荘厳(そうごん)なる葬儀式。

「とやせん、かくや」「とやせん、かくやせん」の略。「とやせん」の「と」は接続助詞、「や」は詠嘆・反語の係助詞、「せ」はサ変動詞「為(す)」の未然形に推量の助動詞「む」がついて表記が「ん」と変わったもので、「かくや」は「このように」の意の副詞「斯(か)く」に前と同じ係助詞「や」がついたもので「どうしよう! どうしようもない!」の強調形驚愕表現、対処不能の心内の叫びである。

「それには、なにとて、ゐるぞ」「……オ前ハ……何ノタメニ……ソンナトコロニ……居ルクワッツ!?!」

「晝の七つ時分」不定時法で季節によって異なるが、挿絵の雰囲気、狐の昼寝から春秋と考えてよいでろうから、概ね申の刻前後、午後三時から午後四時辺りと考えてよかろう。

「ある野なかに」「と或る野中に」の意。

「腰のほねをうちぬきて」腰が抜けてしまって。]

2016/08/27

甲子夜話卷之二 9 蘭人獻上驢馬の事

2―9 蘭人獻上驢馬の事

寛政の比、驢を蘭人の官に獻じて、御厩の中に畜置れぬる由聞及ぬ。此事を思出れば、淸五郎に其形狀何にと問しに曰。鹿に似て較(ヤヽ)大なり。耳の長きこと壱尺ばかり。尾は枯て牛尾の如し。其餘は馬に異らず。蠻名をヱーシルスと云。予又乘用を問しに曰。其性鞍轡を受るに堪へず。因て驅行せん時は、繩を以て其首にかけて牽く。若し騎らんと爲るにも、手にて其耳をとり、徒(タヽ)脊に跨るのみ。然ども長ひくきが故に、乘者の足地につけり。因て足を屈して腹側につくれば、體の重さ倍するが故に、それを負こと能はず。脊傾て地につく。因て乘者の足地につけば、即跨下を脱け出づ。故に乘用に足らず。負ものゝかさ、僅に炭俵二つ位なりとぞ。某年小金に御狩せられし前、御召の御馬に鹿を見せ試んとて、御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云。然ば鹿に類して小なること想ひ料るべし。其走行くさま、跳ながら步すこと鹿に似たり。たゞ其行ことの遲きのみなり。又その尿、藥用になる迚、馬舍の内に樋を設て尿を取たりと。是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか。本草者流にたゞし見るべきものぞ。又かの獸、馬舍の内にて子を産せりとなり。然ども牝多して牡少(マレ)なり。牽こと群行に非れば爲がたし。其聲高ふして轆轤の如く、甚きゝぐるしと云ふ。以上倶に鶴見氏が語なり。

やぶちゃんの呟き

 前項「28 富士馬の事」に登場した御馬預(おんうまあづかり)役の「鶴見淸五郎」からの聴き書きの完全連作。

「寛政」一七八九年から一八〇一年まで。第十一代徳川家斉の御世。

「驢」「ろ」。驢馬。哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusウィキの「ロバによれば、『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一に『相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代から中国の影響を受けてきた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百頭『という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。しかし、馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』、「日本書紀」推古天皇七年(五九九年)、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一疋が『贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている。また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。また、別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』とある。

「蘭人の」この「の」は主格の格助詞。オランダ人が。

「官」幕府。

「畜置れぬる」「かひおかれぬる」。

「聞及ぬ」「ききおよびぬ」。

「思出れば」「おもひいづれば」。私(静山)が、このことをふと思い出しによって。

「何に」「いかに」。

「壱尺」三〇・三センチメートル。

「枯て」「かれて」。尾は馬と驢馬の最も形状が異なる箇所では、馬は全体がふさふさしているのに対し、驢馬はその先端にだけ毛が生えて(その尾の主幹の貧毛状態を「枯れて」と言っている)、しょぼく房状になっているだけである。

「ヱーシルス」驢馬はオランダ語では“ezel”(エーゼル)であるが、これはどうも学名の Equus asinus(エクゥス・アシヌス)という日本人には最も聴き取り難い発音(摩擦するs音が多い)を、かく聴き、かく音写したのではあるまいか?

「轡」「くつわ」。

「受る」「うくる」。装着する。

「騎らん」「のらん」。

「徒(タヽ)」「ただ」。

「跨る」「またがる」。

「長」「たけ」。丈。驢馬の体高(蹄から首の付け根まで)は七十九センチから高くても百六センチメートル程度で、概ね子どもの背丈ほどしかない。

「乘者」「のるもの」。

「足地につけり」「足(あし)、地につけり」

「因て足を屈して腹側につくれば」そこ(足が地面についてしまう状態を指す)で、騎手がその地面についてしまった足を曲げて驢馬の腹側にぴたりとくっつけてしまうと。

「體の重さ倍する」騎手の体重がそのまま丸ごと、地面に足がついている状態のほぼ二倍「負」「おふ」。

「脊傾て」「せ、かたむきて」

「即跨下を」「すなはち、こかを」「跨下」は股の下・またぐらの意。

「負ものゝかさ」「おふものの嵩(かさ)」。「嵩」は「量」でもよい。

「某年」「ぼうねん」。とある年。

「小金」「こがね」で、現在の千葉県北西部の松戸市北部の地区の古名。かつては水戸街道沿いの宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地「小金五牧(こがねごまき)」があった。

「御召の御馬に鹿を見せ試ん」「おめしのおんうまにしかをみせ、こころみん」。その時、将軍様が当日乗用することになっておられた御愛馬に「こやつに見たことがない鹿を見たなら、どのような反応を示すであろう? 事前に試みてその様子をみたい。」と仰せになった、というのであろう。自分の思うように操れないような過剰な反応を示して暴れるかも知れぬといった、不測の事態を想定したのである。家斉、なかなか用心深いぞ。

「御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云」直ちに御馬預(おんうまあずか)り役である我々が協議し、急に今すぐ、野生の鹿を「取獲」(「とりう」(獲得)と訓じておく)る(捕獲してくる)というのは、これ、とても出来難いことであるから、この野生の鹿と変わらぬ大きさである驢馬を、御厩(おんうまや)の庭の中に放って、我々がその驢馬を追い掛け回し、まさに鹿が飛び跳ねるようにさせて、御馬を試みて御座った、と鶴見が言った。

「然ば」「しからば」。

「料る」「はかる」。

「其走行くさま」「その走り行く樣」。

「跳ながら步すこと」「とびながら、あゆます(る)こと」。

「其行ことの」「その行くことの」。

「尿」「いばり」と訓じておく。薬効は不詳。但し、漢方では実際に「童子尿」として少年の小便が薬用に用いられており、民間でも健康法としての尿の飲用療法を今もよく耳にはする。

「樋」「ひ」或いは「とひ(とい)」。

「設て」「まうけて」。

「是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか」これは驢馬には乗馬出来ないはずなのに、南蛮の驢馬の図には完全に蛮人が悠々と騎乗している。されば、それは「驢馬」と称しながら、実際の驢馬、即ち、ここで言っている「ヱーセルス」ではないのではないか? 驢馬であるはずの「ヱーセルス」とは違う別な「驢馬」がいるのではないか?

「本草者流にたゞし見るべきものぞ」本草学者(この場合は動物関係に詳しい博物学者)流(りゅう)に、種を判別考証同定し、異種か同種かを糺してしかるべき重大な問題であるぞ!

「馬舍の内」幕府の御馬預りの厩舎(きゅうしゃ)内。

「然ども」「しかれども」。

「牝多して牡少(マレ)なり」「メスおほくして、オス稀れなり」。これは単なるその♂♀のケースに過ぎない。ロバにそのような現象は見られないと思う。それはしかし、ロバ同士の場合である。いや、或いはこれは、厩の中でのロバがのウマと交雑して雑種を産んだのではないか? この場合、ロバが生んだとしか読めないから、とすれば、この最初出産のケースは、のロバとの馬の雑種であるウマ科ウマ属ケッテイ Equus caballus × Equus asinus の本邦での最初の誕生事例を記していることになる!(但し、彼ら(のロバとのウマの交雑種であるウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballusを含む)は一般に不妊であるが、が多く、が稀れなわけではないと思う)

「牽こと群行に非れば爲がたし」「牽(ひ)くこと、群行(ぐんかう)に非ざれば爲(な)しがたし」牽いて行こうとしても、群れて活発に行動する性質(たち)ではないので、牽くのはすこぶる難しい。事実、ウィキの「ロバによれば、『ロバとウマは気質に違いがあると言われる。ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ、反してロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、頑固であると言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』とある。

「高ふして」高(たこ)うして。

「轆轤」「ろくろ」。この場合は、井戸の釣瓶(つるべ)を上下するための滑車、重い物の上げ下ろしに用いる滑車類などを指し、その軋(きし)る音にロバの鳴き声が似ているというのであろう。

「甚」「はなはだ」。

「語」「かたり」。

譚海 卷之一 江戸下金商賣御掟の事

江戸下金商賣御掟の事

○江戸に下金(したがね)商賣免許の者六十六人有(あり)、上より符(ふ)を給はり居る也。世間流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。此中(このうち)古金(こきん)と稱する品四十三種あり、慶長金も此品の内也。慶長已來通用の金は四十四種より段々ありといふ。今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの也とぞ。甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也。

[やぶちゃん注:「下金商賣」下金屋(したがねや)と言って、江戸時代には各地方から買い集めた金・銀の地金(じがね)を金座・銀座に売り込むことを商売にしていた者がいたが、その商人(あきんど)のことである。

「世間流布する所の金の品三百六十五種」これは結局、金銀の含有量の異なる貨幣、或いは同じでも、違った形・違った名称・違った時期の金銀含有貨幣の内、現在(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)でも実用通貨価値を保有する貨幣種数を指すと考えてよかろう。

「符」「絵符」「会符」などと書いた「えふ」江戸時代に街道運送の優先的取扱を図るために公家や武家などの荷物につけた、何よりも輸送で最重要とされて優先処理される御用札のことであろう。

「古金(こきん)」この読みは甲斐で天正年間(一五七三年~一五九二年)以前に鋳造されたとされる貨幣の一種(大判)である「古金大判(こきんおおばん)」から推定した(これは天正一六(一五八八)年初鋳とされる「天正大判」(主に豊臣家が金細工師後藤四郎兵衛家に鋳造を命じた大判貨幣。「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」・「天正長大判」及び「大仏大判(だいぶつおおばん)」が知られる)より古い時代のものとされるそうである)。

「慶長金」慶長大判のことか。江戸時代の初期の慶長六(一六〇一)年から発行された大判貨幣で、墨書・金品位及び発行時期などによって数種類に細分類される。参照したウィキの「慶長大判」によれば、『慶長大判、慶長小判および慶長一分判、慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼び、徳川家康による天下統一を象徴する貨幣として位置付けられる』とある。

「今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの」この「歩」は広義の「歩合」の意で全体の四割の謂いであろう(狭義では千分の一になっておかしくなるからである)。当時(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)「通用の小判」というと、最新の発行小判では「元文小判(げんぶんこばん)」である。元文元(一七三六)年五月から鋳造が始まり、同年六月十五日から通用開始された一両の額面を持つ小判で、参照したウィキの「元文小判によれば、金が六十五・三一%、銀が三十四・四一%(雑〇・二八%)とあるからドンブリで銀四割ほどというのはおかしいとは思われない。

「甲州金」狭義には日本で初めて体系的に整備された貨幣制度及びそれに用いられた金貨の称。ウィキの「甲州金より引く。『戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『まで鋳造されていた』(戦国期の前史は省く。リンク先を参照されたい)。『武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て』、再び、『幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという』。甲州金は元禄九(一六九六)年)に一時、『通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される』。『近世の甲州金は』、慶長一三(一六〇八)年)から翌慶長一四(一六〇九)年に『かけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは』慶長六(一六〇二)年に『慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている』。『江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている』。『幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した』。『このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した』。文久元(一八六一)年には『甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという』とある。

「甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也」推測であるが、これは、甲州の金座で、金をたった一割しか含有しない、古くなって使用に堪えなくなった鋳造貨幣を一枚だけ潰そうという時(そして無論、そこから金を抽出出来れば、するのであろう)でも、必ず事前に潰すことを公儀に伺いを立てた上で潰すという風に読んでおく。何か、誤りあれば、識者の方、御教授を願う。]

諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事

     五 木屋(きや)の助五郎が母夢に死人(しにん)をくひける事

 

 京北野へんに木屋の助五郎と云ふものありけるが、その母けんどん第一にてぜんこんの心ざしなく、つねにあさ茶をのみて、人ごとのみをいひ、人のよき事をそねみ、あしき事をよろこびて、後世(ごせ)をねがふ心つゆほどもなし。ある時、こゝちあしきとて、いつよりもあさねをしけるに、助五郎、用の事ありて、あさ、とく、一條もどり橋までゆきけるに、戾橋の下に、年よりたる女の死人(しびと)を、引きさき、引きさき、くひけるを、よくよくみれば、わが母に、すこしもたがわず。助五郎、ふしぎに思ひ、いそぎわが家にかへり、母のいまだふしていられけるを、おこしければ、母おどろき、おきあがり、

「さてさて、おそろしき夢を見つるものかな」

と云ふ。助五郎、聞きて、

「いかなる夢をみ給ふや」

ととへば、

「されば一條もどり橋の下にて、われ、死人(しびと)を引きさき、くふ、と見て、かなしさ、かぎりなき折ふし、おこと、よくも、おこし給ふものかな」

とかたられける。そのゝち、ほどなくわづらひ付きて、死にけるとや。まことに今生(こんじやう)より地ごくにおちければ、來世(らいせ)の事、おもひやられて、助五郎、かなしぶこと、かぎりなし。助五郎も後には出家になりけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「七 罪ふかきものの今生より業(ごふ)をなす事」に基づくが、息子に名前がなく、しかもこのエンディングにある発心譚を持たない点で、カニバリズム描写に趣向をおいている純粋ホラーにより近いと考えてよい。

「けんどん」「慳貪」。「慳」は「物惜しみすること・吝嗇(りんしょく/けち)」、「貪」は「むさぼる」意で、思いやりがなく心が荒々しいこと。具体的に異様に物惜しみをして、吝嗇で欲深であることを指す。

「ぜんこん」「善根」。よい報いを受ける原因となる行いを努めてしようとする志し。

「あさ茶」これは「朝茶」ではないだろう(後に「朝」が畳みかけられるので自然にそう読んでしまうのであるが、実は朝茶は仏教に於いて功徳を受ける行為とされるからである)。恐らく「淺茶」で薄い茶、この母の吝嗇さを示す小道具と私は読む。

「一條もどり橋」延暦一三(七九四)年の平安遷都とともに架けられたと伝えられる一条通の堀川に架橋されている橋(京都府京都市上京区堀川下之町及び晴明町)。安倍晴明が式神を住まわせたことで知られ、他にも鬼女伝説や異界への通路として、或いは「戻る」の禁忌から避けるられたりするいわくつきの京の古くからの心霊スポットである。

「おこと」元は「御事」。相手に対して親しみの情をこめて呼ぶ際の二人称。そなた。

「地ごく」「地獄」。]

わが兵歴   梅崎春生

 

 佐世保鎮守府に召集されて、相ノ浦海兵団に入れられたのが、昭和十九年六月一日。私は二十九歳。同日に召集された中では、比較的老兵に属する。佐二補水九六八九号という兵籍番号を与えられた。その翌日新入団兵の半分は海兵団を出て、南方の島々に持って行かれた。

 私はその選にもれて、十日間を相ノ浦で過し、針尾海兵団に移された。学校出(専門学校以上)ばかりの分隊で、そこで予備学生の志願を勧められた。若い連中はたいてい志願したが、私は断った。断った心境や事情はいろいろあるけれど、要するに兵隊でいた方が気楽と思ったからである。

 兵隊でも何か特技をつけていた方がいいというので、暗号特技講習員として防府通信学校に行く。実際にそこにいたのは十日間ぐらいで、履歴表によると、「昭和十九年海人三機密第一号ノ一四四二依リ第二回暗号術特技兵臨時講習員ヲ免ズ」

 とある。第二号ノ一四四とは何か、今もって判らないが、推察するところサイパンも取られたし、暗号などを教えるのをやめて南方へ廻せ、というような内容だったらしい。佐世保海兵団に戻された。いつ南方に持って行かれるか戦戦兢々(せんせんきょうきょう)としていると、佐世保通信隊で暗号術講習があり、幸いそれにもぐり込むことが出来た。十一月に講習終了、実務につくことになった。それからだんだん水兵としての苦労が身にしみて判るようになる。

 苦労というのは、仕事のことじゃない。吊床訓練とか甲板掃除(陸上の兵舎でも甲板という)そして罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている。

 尻が痛くて、吊床であおむきに寝られないこともあった。吊床というやつは宙に浮んでふらふらと不安定で、私たち老兵の海軍生活の象徴みたいなものであった。

 十九年から二十年にかけて、私は指宿(いぶすき)海軍航空隊にいた。ここの勤務は最低であった。甲板(通信室と居住区)は広いし、吊床のフックは高いとこにあるし、若い獰猛(どうもう)な兵長らがいるし。先年西日本新開に指宿のことを書いたら、当時の兵長から手紙が来た。その一節。

「私が兵長時代、先生にもバッタを与えました由、時の流れとはいえ、すまん思いであります」

 たまりかねて下士官志願。三月、四月と講教を受けて、五月一日海軍二等兵曹となる。これで生活は楽になった。バッタも掃除も免ぜられ、食事も兵隊が運んで呉れる。それから鹿児島に転勤。各基地を転々とし、最後は桜島で終戦を迎えた。復員後すぐ小説「桜島」を書く。

「桜島」は私小説か実録のように思われるかも知れないが、出て来る人物、吉良兵曹長、見張りの兵、耳のない妓など、皆架空の人物である。私がつくり出したのだ。もっとも架空なのは「私」という人物で、実際の私は遺書も書かなかったし、美しく死にたいなどと思ったことは一度もない。

 第一死に直面していなかった。米軍が関東に上陸しても、また吹上浜に上陸しても、敵が兵力をさいて桜島を攻略する筈がない。地図を見れば判るが、九州の下端にぶら下った余計者のような島で、全部が洞窟陣地で、爆撃にあっても平気である。実際一度も爆撃を受けなかった。本土九州が全部平定されてから桜島攻略にとりかかるだろうというのが私の予想で、自分の生死について私ははなはだ楽天的であった。それに海軍は食糧をたくさん蓄積していて、三度三度たっぷり食べることが出来た。(その点陸軍は窮屈で、一度の食事が湯呑み一杯ぐらいだと、鹿児島で会った陸軍の兵隊から聞いた)

 通信は三直制(三度に分れて交替で当直に立つこと)で、私は直長。兵隊は皆私の直(ちょく)に入りたがった。私は部下を決して殴(なぐ)らなかったし、居眠りをしていると表へ引きずり出すふりをして居住区に帰らせるし、人気の点では最高であった。しかし上の方からは、私の直は能率が上らないと、時々文句を言われる。こちらを立てれば、あちらが立たぬ。

 ある日、夜の当直が終った時、涼を取るために近くの丘に登った。兵の一人が私に向かって、

「一体これから戦況はどうなるか。日本はどうなるのか」

 と質問した。私は考えて、

「何か急な事態が起って、アメリカとソ連と戦争を始めたら、日本は放っとかされて、おれたちは生き延びるだろう」

 と説明した記憶がある。今思うと、何と虫のいいことを考えたものか。でも私には無条件降服ということは、あり得ないと思っていた。あの頑迷な軍人どもが、降服する筈がない。国民を道連れにして、やけ戦さを続けるに違いない。

 そういう心境で終戦を迎えたから、私はうれしかった。八月十五日午後昼寝をして、夕方六時からの当直に立つために暗号重に入る。義務として暗号控えを調べたら「終戦」の二字が眼に飛び込んで来て、私はいささか動転。暗号士に「ほんとですか」と確かめ、真実だと判ると、私は壕を飛び出し、そこらあたりをぐるぐる歩き廻った。とても暗号なんか翻訳している気分にはなれなかったのである。

 九月一日付で海軍一等兵曹となる。実際は八月二十六日に復員した。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。名作「櫻島」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)のモデル事実や、実際の梅崎春生の感じ方などに、やや意外の感を受ける諸君も多いかも知れない。

「相ノ浦海兵団」現在の長崎県佐世保市大潟町にある陸上自衛隊相浦駐屯地の前身。

「針尾海兵団」佐世保湾と大村湾に挟まれた針尾島の南端にあった新兵及び海軍特別年少兵教育を主目的とした海兵団。戦後は陸上自衛隊針尾駐屯地となったが閉鎖、跡地が例のハウステンボス(長崎県佐世保市ハウステンボス町)である。

「防府通信学校」昭和一八(一九四三)年に開設された防府海軍通信学校のこと。現在の山口県防府市航空自衛隊防府南基地が跡地。

「指宿海軍航空隊」ひろ兄氏のブログ「海とひこうき雲」の「指宿海軍航空基地跡」が写真(当時の施設配置図有り)が豊富で必見。昭和二〇(一九四五)年には特攻基地に変貌、知覧基地・鹿屋基地同様、沖縄戦への本土最前線の要衝となった。]

2016/08/26

片山廣子第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入

片山廣子の第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入した。電子化した時(2009年4月29日)には彼の著作権が存続していたため、省略していたが、二年前にパブリック・ドメインになっていたことを最近知った。遅まきながら、これで――「全」――である。

私のノイローゼ闘病記   梅崎春生

   私のノイローゼ闘病記

 

 ノイローゼにもいろんな種類や症状があるらしい。ここでは私の場合を書く。

 昭和三十三年秋頃から、調子がすこしずつおかしくなり始めた。

 その遠因として、血圧のことがある。その一年ぐらい前、囲碁観戦のために鶴巻温泉に行った。観戦の余暇にある人と碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。何とも言えないいやな気持で、痙攣(けいれん)のようなものがしきりに顔を走る。横になって医師を頼んだ。医師が来て血圧をはかったら、最高が百七十あった。根を詰めて碁を打ったせいだろう。二日ばかり安静にして東京に戻った。血圧は百三十に下っていた。

 それに似た発作が、その後三度ばかり起きた。街を歩いて起きると、あるいは起きそうになると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。または医者を呼んでもらう。注射してしばらく安静にしていると、元に戻る。

 いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった。

 死と言っても、死について哲学的省察をしているわけではない。また自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。やり切れなくなって酒を飲む。口の端に歌がうかび上って来る。

「……北風寒き千早城」

 軍歌の一節だが、この文句が一番頻繁に出て来た。私は今でもこの一節をくちずさむと、当時の荒涼とした不安な状態を思い出す。

「これはおかしい」

 と私は思った。私は身近に何人もノイローゼの患者を知っているし、私自身青年時代にその状態になったことがある。青年の時のは被害妄想を伴っていて、下宿に住んでいたが、壁の向うや廊下で私の悪口を言うのが聞える。何でおれの悪口を言うのかと女中を難詰したり、揚句の果て下宿の婆さんを椅子で殴って、留置場に一週間入れられたことすらある。それにくらべると今度のは執拗に憂鬱で、その憂さを晴らすすべもない。

「これはやはり病的だ」

 私はついに旧知の広瀬貞雄君(その頃松沢病院勤務の医師)の自宅を訪ねて、相談をした。広瀬君はいろいろ私の話を聞いて、やはりノイローゼと診断した。

「すぐ入院した方がいい。早けりゃ早いほどなおりが早いですよ」

 私は納得した。が、すぐ入院するわけには行かない。今は精神安定剤などがあるが、当時としては持続睡眠療法や電気ショックが主で、持続睡眠療法は退院後半年か一年ぐらい精密な仕事が出来ないとのことである。

 私は給料生活者ではないので、入院費と一年徒食する金を用意しなければならぬ。当時私は三社連合(西日本、中部、北海道新聞)に連載小説を書いていた。それを書き終えれば大体一年分ぐらい徒食出来るだろう、という計算で、他の仕事は全部断ることにした。一回分が一時間で書ける。苦虫をかみつぶした表情で、おろかしい人間たちの絵そらごとを書く。「人も歩けば」という題で、もし読者の中にこれをお読みになった方があれば、私がそんな状態で書いていたことを了解して下さい。苦虫はかみつぶしていても、サービス精神はよろしきを得たとみえ、割に評判がよく、二百五十回の予定が三百四十回ぐらいに伸びた。映画にもなって、徒食の我が家の家計をたすけた。一日一時間の仕事。あとは家人につきそわれて散歩や、ベッドに横になって読書。むつかしい本やまとまった小説は読めない。集中力が散漫して、手に取る気もしない。せいぜい随筆集や旅行記、雑誌や週刊誌のたぐいで、もっぱら心をまぎらわすためである。またはテレビ。

 テレビを子供たちと見ていると、おかしい場面が出て来ると子供らは笑う。私だけが笑わない。おかしくないからである。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのであるが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻(どんま)している。私から笑いはなくなった。その癖ひどく涙もろくなる。気分としては荒涼たるものだ。酒を飲んでもなぐさまない。悲しい歌ばかりが口に出て来る。

「……北風寒き千早城」

「……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」

 この病的な状態を、精神力で直そうというのは無理だ。かえって悪化させるだけだ、というのが広瀬君の説だ。それには私も賛成である。一刻も早く入院したかったが、経済的その他の事情で、半年頑張り、五月二十一日下谷のE病院に入院することになった。

 入院するに当って、私は条件をひとつつけた。持続睡眠はいいけれども、電気ショックだけはしないで下さい。私は電気ショックの如何なるものか知っていたので、自分をああいう目にあわせたくなかった。医師はそれを承諾した。私の病名は、

 鬱状態(不安神経症状)

 というのである。

 それからもう一つ心配ごとがあった。

 ズルフォナールという薬がある。これを朝昼晩と服ませられる。この薬は睡眠薬だけれど、持続性があってなかなか覚めない。それを次々に服むから、だんだん蓄積されて、ついには一日中ほとんど眠るという状態になる。同時に抑圧がとれる。抑圧がとれて、酩酊(めいてい)状態になる。つまり酔っぱらいと同じことになる。精神も肉体もだ。御機嫌になってペらぺらしゃべるし、またエロ的にもなるらしい。それが私には心配であった。エロ的になって看護婦さんなんかに抱きついたりしたら、みっともない。

 出来るだけそんな状態におちいりたくない、という心構えというか抵抗というか、そんなのが私に働いていたらしい。素直な気持で療法を受ければいいのに、そんな変な頑張り方が、なおりを遅らせたのかも知れないと思う。無用な虚栄心であった。私は入院中日記をつけた。かんたんに眠らせられてたまるかという虚栄心からである。

 病室は北向きの個室で、窓から基地が見える。内臓その他の精密な検査を経て、その病室に入る。酒たばこは禁じられた。酒はそうでもないが、たばこだけはつらくて、禁止を解いてもらった。私は軍隊でも経験があるが、酒はすぐあきらめられるが、たばこはやめられない。

 この病院にも、アル中患者が何人かいた。やはり持続睡眠療法でなおそうというのである。しかし彼等は入院して酒を断(た)たれても、けろっとしている。麻薬中毒患者みたいな禁断症状はあまりないらしい。外国人はジンやウォッカなど強い酒をストレートでたしなむから、相当ひどいのもあるようだけれど、日本人はそうでない。気の弱さから酒をたしなむ。タコちゃんと呼ばれる中年男とてんぷら屋の息子という青年、両者ともアル中で当時入院していた。聞いてみると、彼等は朝から酒を飲んでいる。飲み出すとやめられない。一日中酩酊状態で、仕事が出来ない。そこで自発的に、あるいは肉親にすすめられて入院して来る。

「退院しても禁酒を続行出来るかどうか、心もとないですな」

 私の質問に答えて、タコちゃんはそう言って笑った。

 アル中の話はそれくらいにして、日記のことだが、結局私は毎日書き通した。字が乱れて判読出来ないところもあるが、とにかく書くことは書き通したのである。その日記によって治療経過を書く。

 

 五月二十二日夕方からズルフォナールを服(の)み始めた。二十三日の日記(抄)

「薬のせいかねむい。昨日からこの部屋をしばしばのぞき込む女。今朝は電話番号を教えて呉れという。電気治療で自宅の電話番号を忘れてしまったのだ」

「もうふらふらする筈なのに、しつかりしている。ビールを一本飲んだ程度。酒できたえたせいか」

 もうそろそろ利(き)き始めているのである。二十四日には、

「まだ利いて来ない。(やや足はふらつくけれど。抑圧は取れず、気分はむしろ憂鬱に傾く)」

 などとレジスタンスを試みている。

「午睡二時間、熱三十九度ぐらいある如し。(実際には六度三分)頭がぼんやりしている。一向にはればれしくなし」

 二十五日には、

「ややメイテイの傾向あり。けれどヨクアツはまだとれぬ。身体だるし。七時半(私の秘密)を見る。ちらちらして不快、ダレス死す」

 私の病室は二階で、テレビは階下の待合室にある。ふらふらするので、手すりにすがって階段を登り降りするのだ。特別見たいわけではないが、まだ覚めているぞという気持なのである。二十六日には、そろそろ音(ね)を上げている。

「ようやくふらふら(心身共に)して来た。ものが二重に見える。酔っぱらった時と同じ。新聞を読むのがつらい。薬いよいよ利いて来たのか。便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠っているからダメだとのこと。腸が眠るとは初耳なり、前代未聞なり」

 投薬と同時に通じがとまった。持続睡眠療法については、医学書であらかじめ調べて置いたのだが、便秘のことは書いてなかったので、怒っているのである。まことに厄介な患者だ。この日あたりから字が乱れ始めている。

「二十七日。便秘のことF医師に相談すると、十日や二十日の便秘は平気の由。少しムチャだと思うが致し方なし」

「テレビ見ようか、うちへ電話かけようかと思うけど、メソドウくさい気分あり。つまり酔っているのだ」

 ようやく酩酊を自覚している。

「F医師頭クラクラしないかと聞く。しないと答える。いずれクラクラする状態になるらしい」

「看護婦さんスカートまくり上げる。行儀悪いねとたしなめる」

 ここらはもちろん記憶にないが、あとで読んでぎょっとした。私がエロ的になって、看護婦のスカートをまくり、たしなめられたのかと思ったのだ。つきそいの人に調べてもらったら、看護婦が暑いから自発的にまくったことが判り、ほっと安心した。

 二十八日。

「十一時回診。黒幕をつける。まっくらになる」

 とある。外界からの刺戟をさえぎるためだろう。そのために墓地が見えなくなった。

「午後ぐつすりと眠る。夕方コツコツと音がする。はいと答えるとタコちゃんよりKさん(つきそいの人の名)へと手拭い。タコさんというのは酒屋主の由。持続。予よりあとに入る」

 字体も乱れているが、文章もへんになって来た。

「E先生数え年にて、四十一、なりとぞ。おどろき也。日記もこれでおしまいらしい」

 部屋はまっくらな筈だが、書いているところをみると、時々カーテンをあけてもらったのか。しかし日記欲は強く、二十九日も長々と書いている。我ながらあっぱれだ。

「七時起床。早くヨクアツが取れなきゃこまると思う。まだとれてない。眠る。十二時起きる。月見そば。うまくもまずくもなし。ただ食べるだけ」

 ほんとにこの頃は食物は口に押し込むだけで、うまさなんか全然感じなかった。義務で食っている。

「夜プロレスを見る」

 まだ頑張っているところがいじらしい。ぼんやりした記憶では、テレビが二重に見えるので、片目で見ていた。そんな状態でテレビが面白い筈はない。

 五月三十日になると、半分ぐらいは何を書いてあるか判らない。みみずののたくったような字で、書こうとする努力だけは判るが、意味が判らない。やっと読めるのは、

「三週間もやられたらゼツボウ也」

 何をやられたらなのか、とにかくゼツボウしている。

「夕方S君と碁を打つ。初め対にて次に六目。共に勝つ。S君二・二六事件の時のジキカン長(オヤジが也)三十七歳」

 碁を打っているし、つきそいのKさんの補筆によれば、夜テレビで巨人対国鉄戦を見ている。夢遊状態でありながら、一応人並みのことをしている。S君というのは銀行勤務で、何の症状で入院していたのか記憶にない。いい青年(?)であった。

 六月一日。

「朝食赤飯。ツイタチだから。タコちゃん文春別冊(デンワの写真)を持って来る。どういうわけか」

「昼食後医書をたずさえ、先生のところに談判に行く。便ピのことやいろいろ」

 Kさんの話では、もうこの頃は呂律(ろれつ)が廻らなくなっていたそうだ。酔っぱらいと同じくれろれろで、先生も迷惑だったろう。でも談判におもむくとは、意気さかんと言うべきだろう。いや、意気さかんというより、泥酔者と同じく鼻息が荒くなっていたのだろう。

 六月二日。Kさんの補筆で、

「朝食前、タコちゃん、キリン(S君のあだ名)と話す」

 とある。何をしゃべり合ったか知らないが、厭人癖はなおったらしい。同病相憐れむという気分なのかも知れない。酩酊状態から覚めても、私は彼等と親しくつき合った。私の字で、

「昼食エビライス(カミヤ)ケレドネ、ウドンだったので、それを食う」

エビライスを注文したが、病院の食事がうどんだったので、その方を食べたという意味だ。食欲が減退していて、エビライスよりウドンをえらんだのである。

「今日が一番足がふらつくような気がする」

 しかし字体から見ると、三十日と一日がもっとも乱れていて、二日以後の字は割にはっきりしている。峠を越したので、ふらつきの自覚が出て来たのだろう。極端にふらついている時は、かえってふらつきを自覚しないものだ。

 あとで人に聞くと、私は廊下を歩く時、大手をひろげて歩いていたそうだ。平均をとるために、そうしたのだろう。

 六月三日。

「朝回診ありたれど、眠っていたので通過。十一時半まで眠る。昼食後ひる寝。その後週刊誌のクイズを考える。夜(事件記者)を見て眠る」

 よく眠りに眠っているが、クイズを考えたりテレビを見たり、知的(?)な活動をしている。これからもう覚める一方である。

 五日にはもう散歩を許されている。ふらつく感じはほとんどなくなったが、頭はまだぼんやりしている。散歩が許されて嬉しかったので、雑誌だの果物だの、いろんなものを買い求めて戻って来た。もう死のことはあまり念頭になかった。木々の緑や街のにおいが、私にはなつかしかった。この頃から生活は快適になる。仕事はしないでいいし、寝たけりゃ寝ればいいし、散歩も出来る。やはり効果があったのである。

 しばしば大部屋に遊びに行って、花札をやったり碁を打ったりした。そして各患者とつき合い、彼等の生態を観察する余裕も生じた。だんだん散歩の範囲もひろがって、動物園に行ったり、入谷(いりや)鬼子母神の朝顔市に行ったりした。足を伸ばして本郷竜岡まで本因坊戦第一局を見に行ったこともある。つきそいのKさんを連れて行ったら、今は亡き村松梢風先生が、Kさんを私の女房と思ったらしく、ていねいにあいさつをされた。

「この人、僕の女房じゃないんです」

 と説明するわけにも行かず、私は困った。

 七月十日に退院。皆と別れるのがつらかった。退院に当って先生の指示は、

 一、食事後四十分は横になること

 二、酒は秋まで飲まぬこと

 の二条であった。

 七月十日の日記。

「空は曇り、今日より自由はわが手に戻る」

 などと書いてある。帰宅して翌日、蓼科(たてしな)高原に行った。一夏をそこで過した。半年か一年仕事が出来ないということが頭にこびりついていて、あるいはそれを利用して、毎日遊び暮した。ある日蓼科に映画会社の人が来て「人も歩けば」を映画化したいと言う。早速承諾して、金が入り、結局持ち金が全部なくなるまで、一年近く仕事をしなかった。生来怠け者なのである。

 指示の第一条は今も守っている。第二条の方は、秋とは何か。立秋をもって秋となすと都合よく解釈して、八月七日頃から飲み始めた。それを某雑誌に随筆に書いたところ、先生がそれを読んで、

「秋というのは九月頃からという意味だったのに、立秋とは一杯食わされました」

 と電話がかかって来た。

 以上が私のノイローゼ闘病記である。

 教訓。病気にかかったら、どんなことがあっても自己診断をせず、早期に専門医にかかること。私の場合は入院がすこし遅過ぎた。ことにノイローゼなどは、自分の精神力にたよってはいけない。医者に体をあずけてしまうに限る。ひとりでじたばたすればするほどひどくなる。

 それから鬱病、鬱状態は、朝起きた時が一番憂鬱である。ふつうの人間なら、朝は一日の初めであるし、活気に満ちている。活気に満ちるほどではなく、とにかくやろうという気持になっている。それなのに、

「ああ。また一日が始まるのか」

 と気分が鬱屈し、沈滞した気分におそわれるのは、あきらかに病的である。そんな自覚がある人は、直ぐさま専門医に相談する方がいい。ただし宿酔の場合は別である。あれは体の不調と自己嫌悪で心が真黒になっているのだから、一時的なものである。放って置けばなおる。しかし毎日宿酔ばかりしているような人は、アル中のおそれがあるから、診断を受けるべきだろう。

 私の場合一年間仕事をせず、損をしたような気がするが、また得がたい経験だと思えばそう損でもない。

 思えば私は体の具合の変る時、つまり青年期、それから厄年に不調がやって来た。これからしばらくは平穏状態が続くだろう。六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ。すると私の場合は野球にたとえると、二塁の曲り角だったんだろう。そんなところでわが結論は終る。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年六月号『主婦の友』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は昭和三四(一九五九)年五月に本篇に「K病院」として出る台東区下谷にある近食(こんじき)病院に『入院し、持続催眠療法を受ける。七月に退院し、蓼科山荘にて身を養う』とあり、この年の八月にはやはり本文に出る「人もあるけば」が中央公論社より単行本で刊行されている(新聞三紙での連載開始は昭和三十三年五月で連載完結は翌昭和三十四年の入院直後の六月であった。なおこの作品は底本全集には不載で私自身、読んだことがない。梗概は後の注のリンク先を参照のこと)。当時、春生は四十四歳であった。なお、梅崎春生ファンならすぐにお気づきであろうが、ここに書かれた入院中の事実は、かなりの部分が、遺作となった「幻化」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)で、主人公久住五郎の精神病院入院回想シークエンスの各所にリアルに生かされてあることが判る。なお、この近食病院にはこの前年の昭和三十三年の五月に妻恵津が心因反応の病名で翌六月まで入院しており、同年譜には、本篇冒頭に書かれている通り、その記事に続いて、『梅崎自身も秋ごろから心身の違和を覚えるようになる』とある。妻の「心因反応」と春生の「鬱病」には強い連関性が認められるように感じられる。或いは、春生の鬱病(彼の発症にはアルコール性精神病の関与も私は疑っている。但し、妻恵津はこれを強く否定している)は実はこの年から始まっており、それに敏感に感応した結果、恵津は境界例である「心因反応」を起こしたのではなかろうか?

「広瀬貞雄」廣瀬貞雄(大正七(一九一八)年~平成一九(二〇〇七)年)は知られた精神科医で後に日本医科大学名誉教授となった人物であるが、この医師はかなり問題のある人物である。所謂、「臺実験(うてなじっけん)」事件に於ける執刀医だからである。ウィキの「臺実験」によれば、一九五〇年頃に東京都立松沢病院において発生した人体実験事件で精神科医の臺弘(うてなひろし:後の東京大学教授)の指揮の下、当時の松沢病院勤務の精神外科医であった廣瀬が、精神外科手術に便乗して約八十人の患者から無断で生検用脳組織を切除した事件で、『ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から、組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後であ』った。その約二十年後の石川が昭和四六(一九七一)年三月に日本精神神経学会に於いて臺を当時東大講師であった精神科医石川清がこれを『告発したことから、東京大学や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった』とある。

「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院である東京都立松沢病院。

……北風寒き千早城」遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものに少し手を加えて再掲しておく(リンク先はブログ分割版の出現箇所)。これは、大正三(一九一四)年作の海軍軍歌で、所謂、「桜井の別れ」、河内の武将で後醍醐天皇の名臣楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死したが、その今生の別れとなった正成・正行父子が訣別する西国街道桜井駅(櫻井の驛)での逸話に基づく「楠公父子(なんこうふし)」(作詞・大和田健樹/作曲・瀬戸口藤吉。著作権は詞曲ともに消滅している)の二番の末尾の一節であるが、実は「旗風高き千早城」で、「北風」ではない。「幻化」も「北風」でこれはどうやら梅崎春生自身の記憶違いか、海軍内での替え歌かも知れぬ。天翔氏のサイト「天翔艦隊」の軍歌のデータベースの「楠公父子」から全歌詞を引くが、恣意的に漢字を正字化した。仮名遣も歴史的仮名遣にしようとしたが、実際の歌曲として詠んでもらうために特異的に現代仮名遣のままとした(リンク先ではミディで曲もダウロード出来る)。

   *

   楠公父子

一、

天に溢(あふ)るるその誠

地にみなぎれるその節義

楠公父子(なんこうふし)の精忠(まごころ)に

鬼神(きじん)もいかで泣かざらん

二、

天皇(すめらみかど)の御夢(おんゆめ)に

入るも畏(かしこ)き笠置山(かさぎやま)

百萬の敵滅ぼして

旗風高き千早城

三、

七度(ななたび)人と生まれ出で

殲(つく)さで止まじ君の仇(あだ)

誓いの詞(ことば)雄雄しくも

千古(せんこ)朽ちせぬ湊川(みなとがわ)

四、

その名もかおる櫻井の

父の遺訓(おしえ)を守りつつ

葉はその陰に生い立ちし

楠の若葉のかぐわしさ

五、

再び生きて還らじと

かねて思いし合戰に

四條畷(しじょうなわて)の白露(しろつゆ)と

消えても玉の光あり

六、

忠勇義烈萬代(よろずよ)の

靑史を照らす眞心は

死せず滅びず永久(とこしえ)に

日本男兒の胸の血に

   *

なお、「千早城」は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に鎌倉末から南北朝期にあった楠木正成の城で、元弘二/正慶元(一三三二)年の正成の奇策防衛戦で知られる「千早城の戦い」で名高い。

……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」明治三八(一九〇五)年に作られた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)。日露戦争時の戦闘を背景とする歌詞で全一四番から成る。この知られたフレーズは、その第一番の後半部。

   *
 

一、

此處(ここ)は御國を何百里

離れて遠き滿洲の

赤い夕陽に照らされて

友は野末(のずゑ)の石の下(した)

 

   *

全歌詞はウィキの「戦友軍歌を参照されたい。私はこの歌というと、栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)で「きっちゃん」(松本喜一)が歌うそれが忘れられない。

「ズルフォナール」やはり遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものを再掲しておく(リンク先はブログ分割版の初出箇所)。持続性熟眠剤スルホナール(Sulfonal)であろう。この綴りだと、近年まで医事で使用されたドイツ語では発音が「ズルフォナール」に酷似するのではないかと思う。平凡社「世界大百科事典」(第二版二〇〇六年刊)の「催眠薬 hypnotics」には「スルホナール」を挙げ(コンマを読点に代えた)、『バルビツレート以前に使用されているが、現在は特殊な場合以外には使わない。安全域が小さく、排出が遅い。精神科疾患に一回』〇・五グラムとある(この「バルビツレート」(barbiturate)は不眠症や痙攣の治療、手術前の不安や緊張の緩和のために用いられる中枢神経系抑制薬物で、向精神薬群を総称する「バルビツール酸系」薬物とは同義同語である。ウィキの「バルビツール酸系」によれば、『構造は、尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状の化合物で』、『それぞれの物質の薬理特性から適応用途が異なる』。『バルビツール酸系の薬は治療指数が低いものが多く、過剰摂取の危険性を常に念頭に置かなければならない』。一九六〇年代には、『危険性が改良されたベンゾジアゼピン系が登場し用いられている。抗てんかん薬としてのフェノバルビタールを除き、あまり使用は推奨されていない』。『乱用薬物としての危険性を持ち、向精神薬に関する条約にて国際的な管理下にある。そのため日本でも同様に麻薬及び向精神薬取締法にて管理されている』とあり、以下にチオペンタール・ペントバルビタール・アモバルビタール・フェノバルビタールといった薬剤名が示されている)。また、同じく「世界大百科事典」の、五郎が受けたところの「持続睡眠療法continuous sleep treatment」の項に、『鎮静・催眠性の薬物を投与して持続的な傾眠ないし睡眠状態にすることによって精神障害を治療する方法。ウォルフ O. Wolff』(一九〇一年)『がトリオナールを用いたことに始まるが,さらにクレージ J.Kläsi』(一九二一年)『がソムニフェンを使用して早発性痴呆や錯乱状態の患者を治療したことで精神病に対する一つの治療手段となった。日本でも下田光造』(一九二二年)『によって躁鬱(そううつ)病患者の治療にスルホナールが用いられ,これが盛んに行われた時期がある。治療期間は』十日から二十日前後で、『主として鬱病や躁病,精神分裂病の興奮状態などがその治療対象となった。しかし,精神障害の治療に向精神薬が導入されてからは定式的なこの療法が行われることはなくなっている』ともある(下線やぶちゃん)。ネット上の信頼出来る現在の精神医学・薬学系サイトなどでは、スルホナールは睡眠導入剤(睡眠薬)としては現在は全く使用されていないと断言している記載が多い。因みに、梅崎春生の小説を読んでいると、こうした「ズルフォナール」のような薬剤名や、前に注した「ヴァスキュラー・スパイダー」(vascular spider:クモ状血管腫)、「ハビバット」(halibut:ハリバット。春生は確か「鰈」の英語としているが、これは厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus のオヒョウ類を指す)等の、一般的でない外来語の特定単語の発音に対する、一種のフェティシズムを私は強く感じる。これは彼を病跡学的に検証する際の特異点であるように思う。

「ダレス死す」悪名高き日米安全保障条約の「生みの親」とされるアイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles 一八八八年~一九五九年)は、この年(昭和三十四年)の五月二十四日(春生が入院したはまさに五月)にワシントンD.C.で癌のために死去している。

「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「入谷鬼子母神」「いりや(の)きしもじん」と読む。東京都台東区下谷にある法華宗仏立山真源寺のこと。仏教を守護するとされる夜叉鬼子母神を祀り、この通称で古くから有名。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落でも知られる(以上はウィキの「真源寺」に拠る)。

「朝顔市」前の注でも参照したウィキの「真源寺」によれば、『当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているので』、『そのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり』、大正二(一九一三)年に『なって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが』、敗戦後の昭和二三(一九四八)年になって、『地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後』三日間(七月六日・七日・八日)に『当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している』とある。本篇の日付とも一致する。

「村松梢風」(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『「人も歩けば」を映画化したいと言う』私の好きな川島雄三の脚色及び監督(配給・東宝)で翌昭和三五(一九六〇)年二月九日に公開された。主人公砂川桂馬役をフランキー堺、彼の婿入りした先の姑を沢村貞子が演じている。梗概は「Movie Walker」の「人も歩けば」を。

「六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ」残念ながら梅崎春生は、この記事を書いた二年後の昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となった。]

諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

     四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

 

 會津の國若松といふ所に松浦伊予と云ふ人あり。此人の家にはいろいろふしぎなる事をゝし。

 まづ一どは、あるよのことなるに、にはかにぢしんのゆるごとくに、その家をゆりうごかすことおびたゞし。

 さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

としかりければ、ばけ物しかられて、すこし、しりぞき、又、かたはらの入口、おりふしあけてありけるをみて、かけ入らんとする。そのすがたをみれば、色白き女の、はだには白きかたびらをきて、たけながき髮をさばき、すさまじきこと、云ふばかりなし。あるじの女ばう、たゞ事ならず、と、をもひ、天照太神(てんしやうだいじん)の御祓(おはらい)をなげつけければ、そのまゝきへうせけり。

 三日めには申の刻ばかりに、かの女、大がまのまへに火をたきてゐけり。

 四日めには、となりの女ばう、せどへ出でければ、かの女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見いれいたり。となりの女ばう、大きにおどろきて、内にかけ入りければ、たちまちきへうせける。

 五日めの夜は臺所に來たりて、杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり。

 なにともせんかたなく、此うへは佛事祈禱より外のこと有るまじとて、さまざまいのりければ、まことに佛神のきどくありて、その次の日はきたらず。

「もはや來たること有るまじ」

と、いひもはてぬに、こくうより、

「五度にはかぎるまじ」

とよばはる。

 扨(さて)、その夜の事なるに、あるじのいねたる枕もとに來たり、すがたをあらはし、蠟燭をふきけしける。あるじの女ばう、をどろきて、しばらく、ぜつじしける。

 七日めの夜は、伊予ふう婦、いねたる枕もとに立ちより、ふう婦の頭をとりて、うちあて、又、すそよりつめたき手にて、ふう婦の足をなでけるを、ふう婦をどろき、氣をうしなひ、ふう婦ともに物ぐるはしくなりて死にけると也。いかなるゆへともわきまへがたし。

 

[やぶちゃん注:七日間に及ぶ怪異の記録(六日目にも虚空から呪詛(予言)の言葉が聴こえるという怪異がちゃんと起こっていることに注意)であるので、特異的に段落を施した。本話も「曾呂利物語」巻二の「三 怨念深き者の魂迷ひありく事」に基づく、ほぼ同話であるが、原話では、四日目の怪異で、亡霊が居るのを見つけた隣家の女房が『胆を消し、「隣りの化け物こそ爰に居て候へ」と呼ばはれば、化け物、いひけるは、「汝が所へさへ行かずば、音もせで居よ」と云ひて、又、消え亡せぬ』と亡霊が会話し、描写が妙に詳しい部分が大きく異なる。私のポリシーとして怪異のキモからいうと、「お前のところには(恨みはないので)近寄らぬから、何だかんだと声をあげずに、静かにしてな!」と叫ぶのは、妙に理屈っぽく亡霊らしくなく、却って怪異性を逆に削ぐ。「諸國百物語」の筆者がカットした気持ちが私はよく判る。また、主人の名を『いよ』と平仮名書きすること、亡霊が二度目の登場の際、ここに出る「あらかなしや」ではなく、『初花(はつはな)、初花』と叫んでいる点が有意に異なる。しかも、この原話の「初花」は、その「いよ」の女房の名とは読めず、恐らくは一般名詞の「初花」、「年ごろになったばかりの娘」という謂いかも知れぬ(としても謎めいた言上げではある。因みに「初花」は「初潮」の隠語でもある。何か、そうした霊に隠された、ある種の性的な背景を私は嗅ぎ取る)

「ぢしんのゆるごとくに」「地震の搖(ゆ)る如くに」なお、古語「搖る」は四段活用動詞なのでこれで正しい。

その家をゆりうごかすことおびたゞし。さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

「をもひ」「思(おも)ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「御祓(おはらい)」厄除けの御札。

「申の刻」午後四時前後。

「大がま」厨(くりや)の「大釜」。

「となりの女ばう」目撃者を隣家の女房とすることで怪異のリアリズムを格段に上げてある。

「せど」「背戸」。家の裏口或いは裏手。

「家の内を見いれいたり」隣りの家の敷地内に立って伊予の家の方を「見入れ居(ゐ)たり」(歴史的仮名遣誤り)の謂いであろう。怨念のベクトルを考えれば、伊予の家の敷地内から隣りの家を覗き見入っていたのでは、そのパワーが殺がれてしまう。

「杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり」原話にもあるが、SEとして絶妙にして、意味不明であるところがもの凄く、すこぶるよい。意味不明と書いたが、この女の怨念は実はこの動作にヒントが隠れているような気はする。杵で地面を打つ、という民俗的行為(これは子どもに任された豊作を祝う予祝行事である「亥の子」、「もぐらもち打ち」に酷似する)に何かがありそうに思うのである。識者の御教授を乞うものである。

「きどく」「奇特」。既注。神仏の霊験(れいげん)。

「こくう」「虛空」。

「五度にはかぎるまじ」「五度では、終りにはすまいぞ!」。

「ぜつじ」前話に出た「絶死」。失神。

「ふう婦」「夫婦」。

「わきまへがたし」「辨(わきま)へ難し」。現象を道理によって理解することが出来ない。全く見当もつかない。]

ヌカゴのことなど   梅崎春生

 

 私はヌカゴの味に秋を感じる。もちろん松茸や栗やサンマにも感じるけれど、近ごろ彼らは罐詰などになり、一年中食えるから、それほど強くは感じない。ああ、これが今年の松茸か、というようなもんである。ヌカゴの罐詰には、まだお目にかかったことがない。

 ヌカゴは零余子と書いて、自然薯(じねんじょ)や山芋の実(正確には肉芽)である。東京人はあまり食べないし、店でも売っていない。いや、一度だけ下高井戸の八百屋で売っているのを見て、私は買い占めて一人で食べた。なつかしい味がした。

 どうしてヌカゴに秋の味を感じるか。私の育った家(福岡)に生垣があって、それに蔓(つる)が巻きついて、秋になるとヌカゴがたくさん粒をつける。それを採っておふくろに煮てもらって食べる。その味の記憶がいまでも残っているからだろうと思う。とり立ててうまいというものではない。もさっとして素朴な味である。

 そのころはヌカゴが自然薯の実だとは知らなかった。知ったのは、その家を引っ越した後である。知ってりゃ自然薯を掘り出して、うまいうまいと食べたのに、といま思って残念である。

 東京に来て、前記八百屋のときだけで、ずっとヌカゴの味に接しなかった。ところが世田谷から練馬に引っ越して来ると、畠があちこちにあり、山芋を栽培している。秋になるとヌカゴが実る。その時節になると、私は袋を用意して、散歩に出かける。誰もいない畠から勝手にヌカゴを取るのは気がひけるので、農夫のいる畠を探す。声をかける。

「この山芋の実、売ってくれませんか」

 彼らは売ろうとしない。ただでくれる。

「ああ、そんなものなら、いくらでも持っていきな」

 しめたとばかり畠に踏みこみ、袋にどっさり詰めて帰る。彼らが栽培するのは、根を売るためなので、実なんか問題にしないのだ。食べることを知らないのもいる。ある若い農夫が私に反問した。

「それ、どうするんだね。子供の玩具にでもするのかい」

 かくして獲得したヌカゴを、醤油で薄味に煮て、つまようじで一粒一粒つき刺して食べながら、もって酒の肴とする。大して栄養のあるものではなかろうが、味が軽くて、前菜としては好適である。山本健吉の歳時記(さいじき)によると、

「とって炒(い)ったり、茹(ゆ)でて食べるが、(ヌカゴ飯)にもする」

 とあるが、私にはやはり薄味に煮たのがいい。郷愁と原料がただであることが、さらに酒の味を倍加させる。

 次は、椎(しい)の実。これも東京ではあまり見かけない。子供のときは近くに椎の実があったし、また果物屋でも売っていた。一升でいくらだったか覚えてないが、栗よりははるかに安かった。拾って来たり買ったりして、焙烙(ほうろく)で焙(あぶ)って食べると、香ばしくて甘い味がする。一昨年だったか、「西日本新聞」での連載随筆の中で、椎の実が食べたいというようなことを書いたら、読者から続々として椎の実が送られてきた。南は鹿児島から北は対馬産まで。大げさに言うと、うちは椎の実だらけになった。とても私一人では食べられない。家族に強制して食わせたり、来る人来る人に進呈したりした。これはめずらしいと喜んで受け取る人もあれば、迷惑そうに受け取る人もある。椎の実に執するのに個人差があるらしい。つまり幼ないときに食べたか食べなかったかによるのだろう。

 送られてきた椎の実は、送られてきた土地によって、大小や形に変化があるのは面白かった。一番見事だったのは対馬のもので、これは大粒で格別の甘みがある。椎の実は対馬に限る。

 椎の実にそえたあちこちの便りでは、九州ではいまでも椎の実を売っているそうである。行商人もいるということだ。

「椎の実はいらんか」

 というような呼び声をかけて、売り歩く。椎の実の問屋など、どうせありそうに思えぬから、どこかで勝手に拾ってきて、売って歩くのだろう。そう言えば私の子供のときも、椎の売り屋さんがいたように思う。そのころ私たちは椎の実は食べられるが、ドングリを食うと血を吐いて死ぬ、と教えられていた。しかし戦争末期や敗戦直後には、ドングリ粉の混ったパンを食べさせられたから、血を吐いて死ぬとはうそだったに違いない。でも、死なないにしても、ドングリは決してうまいものではない。

 それからヒシの実。私の両親が佐賀の出身で、秋になるとよくヒシの実が送られてきた。佐賀の町は縦横に堀割があって、そこにヒシが群生している。これも東京では売っていない。栗よりもずっとうまい、と言う人もいる。私のおやじもそうだった。若い青いうちはなまで食えるが、老熟すると茹(ゆ)でなきゃ食べられない。

 ただ栗と違うところは、栗はかんたんに皮がむけるのに、ヒシにはするどい棘(とげ)がある。つまりヒシ形にとがっている。それを口に入れて、歯で割れ目をつけて、中身を押し出す。その作法がむつかしい。うっかりすると口の中にトゲがささる。盆からつまみ取るときも、用心しないと手にささる。南京豆みたいに、ぽいぽいと口に運ぶわけにはいかない。苦心して食べるところに、そのうま味があって、私はそれを食べるたびに、秋の夜長という言葉を感じた。子供のくせに、生意気なことを感じたものだと、いまは思う。

 どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年十一月号『随筆サンケイ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は本篇を読んで何故、私が梅崎春生を偏愛するかがすこぶる腑に落ちた気がした。何故なら「ヌカゴ」(ムカゴ)も「椎の実」も「ヒシの実」もどこれもこれも私の大好物だからである。この三つが大好物だという人間は私と同じ世代には寧ろ、いや、極めて、稀だと思う。「ヌカゴ」は小学生の頃、裏山で、よく母と採った。「椎の実」は今でも、見つけると必ず拾って食べる。「ヒシの実」の美味さは小学校二年生の夏に母の実家のあった鹿児島の大隅町岩川の山間(やまあい)の沼で採って食べて以来、忘れ難い私の神の食物だ。二十数年前、タイはスコータイの寺院門前の道端で、老婆が竹を編んだ籠に入れた黒焼きにしたそれを売っていた。「チップチャン」(タイ語で「蝶」の意)という名の十九歳のガイドの娘さんが、私が「ヒシだ! ヒシだ!」と歓喜して叫んでいるのを見るや、「ヒシ」という日本語を手帳にメモした後、ポケット・マネーでそれを一籠買って、私にプレゼントして呉れたのが今も忘れられない。……「どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……私は今、五十九歳……「子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……

「ヌカゴ」「零余子」珠芽とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の日刊こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「椎の実」ブナ目ブナ科クリ亜科シイ属 Castanopsis の樹木の果実の総称。ウィキの「シイによれば、シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、日本はこの属の分布北限で、ツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate :関東以西に分布。果実は球形に近く、次のスダジイに比べ小さい)とスダジイ(ナガジイ/イタジイ)Castanopsis sieboldii :シイ属中、最北に進出した種。大木では樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県・新潟県佐渡島にまで生育地を広げた。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ(Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis)とする場合がある。沖縄では伝統的に「イタジイ」の名が和名として用いられてきたが、両者が共存する地域ではこの「スダジイ」が海岸近くに、先の「コジイ(ツブラジイ)」が内陸に出現することが多い)の二種が自生する。他に日本では本シイ属に近縁のクリ亜科『マテバシイ属(Lithocarpus)のマテバシイ(Lithocarpus edulis)もこの名で呼ばれている』(このマテバシイ Lithocarpus edulis も生食可能である。果実の形状は前の「シイ」より遙かに「ドングリ」である)。同ウィキには『果実の椎の実は、縄文時代には重要な食料であったと言われている。近年では子供のおやつに用いられた。現在でも博多の放生会や八幡(北九州市)の起業祭といったお祭りでは炒った椎の実が夜店で売られている』とある。春生の郷里福岡周辺との強い親和性が窺われる。

「ヒシの実」一年草の水草で葉が水面に浮く浮葉植物(後述引用する通り、完全な「浮草」ではないので注意)であるフトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ(菱) Trapa japonica の果実。本邦では同属のヒメビシ Trapa incisa、及び変種オニビシ Trapa natans var. japonicaも植生する。ウィキの「ヒシ」より引いておく。『春、前年に水底に沈んだ種子から発芽し、根をおろし茎が水中で長く伸びはじめ、水面に向かって伸びる』。『よく枝分かれして、茎からは節ごとに水中根を出し(これは葉が変化したものともいわれる)、水面で葉を叢生する』。『葉は互生で、茎の先端に集まってつき、三角状の菱形で水面に放射状に広がり、一見すると輪生状に広がるように見える』。『上部の葉縁に三角状のぎざぎざがある』。『葉柄の中央部はふくらみがあって、内部がスポンジ状の浮きとなる』。『その点でホテイアオイに似るが、水面から葉を持ち上げることはない。また、完全な浮き草ではなく、長い茎が池の底に続いている』。『花は両性花で、夏から秋の』七 ~十月に『かけて、葉のわきから伸びた花柄が水面に顔を出して、花径約』一センチメートルの『白い花が咲く』。『萼(がく)、花弁、雄蕊は各』四個。『花が終わると、胚珠は』二『個あるが一方だけが発育し大きな種子となる。胚乳はなく、子葉の一方だけが大きくなってデンプンを蓄積し食用になる。果実を横から見ると、菱形で両端に逆向きの』二『本の鋭い刺(とげ。がくに由来)がある』。『秋に熟した果実は水底に沈んで冬を越す』。『菱形とはヒシにちなむ名だが』、葉の形に由来する、実の形に由来する、という両説があって、はっきりしない』。平地の溜め池、『沼などに多く、水面を埋め尽くす。日本では北海道、本州、四国、九州の全国各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布する』。『ヒシの種子にはでん粉』が約五十二%も含まれており、茹でるか、蒸して食べると、『クリのような味がする。アイヌ民族はヒシの実を「ペカンペ」と呼び、湖畔のコタンの住民にとっては重要な食糧とされていた』とある。]

2016/08/25

交友について   梅崎春生

 

 先日、高等学校の友達四人があつまって酒を飲んだ。高校と言っても、今のシステムでなく、旧制のだから、年齢的にはすこし上になる。私は十七歳で入学した。私のクラスは文学好きが多くて、級友の十人ぐらいが相談して、同人雑誌を出すことになった。三号まで出したと思う。四人(H、M、S、それに私)はその同人誌の残党で、現在在京しているのは、この四人だけだ。あとは戦死、病死したり、自殺したり、地方にとどまったり、行方の知れないのもいる。それを思うと、昔の仲間なんかはかないものだ。

 飲んだ場所は銀座。Hが選んだ。Hは東芝に勤めていて、銀座にくわしい。

 久しぶりに会うと、皆それぞれの形で老けている。なぜあつまったかというと、Mが九州の竹田から上京して来たからだ。彼は東大英文を卒業後、勤めることはせず、家業をついで、造り酒屋の旦那になっている。今度息子が東京の大学を受験するというので、息子につきそって東京にやって来た。もうそんな息子があるのかとおどろくが、おどろく私にしても、鬢髪(びんぱつ)に若干白いものが交っているのだから、おどろく資格はない。

 銀座のその店は、話し合うのにうるさ過ぎた。座を変えようと言うので、本郷に行き、「松好」という飲屋に行った。戦前からあった店で、さすがにここは静かである。そこでいろいろ話し合ったが、ふと気がついてみると、昔の話ばかりしている。

「なんだ。おれたちは昔話ばかりしているじゃないか」

 と私が言ったら、皆同感した。誰かが言った。

「昔の話する以外に、話がないじゃないか」

 前記の三人は、学生時代の友人としては、私はもっとも親しい。その親友たちとも、前向きの話題でなく、回顧談一本槍になるというのが、何かわびしい気持がした。

 小学校時代の親友と、仕事の上では別の道を歩きながら、終生相変らぬ友情と交渉を保ち続けている例が、時にはある。しかし現代のように、変転が烈しい時代には、まれと言うべきではないだろうか。私(現在四十七歳)も小学校時代の友達と、今つき合っているのは一人もいない。同窓会も開かれていないようである。交友が成立するためには、ある程度の共通の基盤が必要である。同じ小学校に学んだということだけでは、薄弱である。おそらく同窓会が開かれたとしても、もう誰がそれであるかは、弁別出来ないだろう。やっと思い出したとしても、話は小学校時代のいたずらや先生のことなど、すべで後向きの話題に終始するだろう。

 でも、子供時代に返ったような気持になって、

「ああ、愉快だった」

 と一夜の歓を尽し、それで四方に別れ去るだろう。六年間の友情は、数十年経つと、一夜の歓で終るのだ。それは過去の交友であって、現在の交友ではない。

 もっとも昔の友達がなつかしいという感情には、個人差があるらしい。テレビの「私の秘密」という番組に、御対面というのがある。あれで昔の友達が出て来る。ひどくなつかしそうに、手を取り合って、

「おお、君だったのか。すっかり見違えて」

 と感激する型もあれば、ああ、君か、とひどく冷淡なのもいる。観ている側からすれば、もちろん前者の方が好ましいが、私自身をかえりみると、どちらかというと後者に近い。現在にかかわりないことには、あまり興味を持てないのである。まだ後向きの姿勢になりたくない気持もある。これが普通の現代人の感情じゃないだろうか。

 それと同じ意味で、私は戦友との交際はひとつもない。近頃読者の連絡欄みたいなものが、各新聞に新設されたが、あの中に「何々部隊の人に告ぐ。会合を開きたいから連結して下さい」というような文句がよく出ている。あつまって苦労の当時をしのぼうという趣向だろう。あれから十七年も経つし、生活も安定したし、その気持はよく判る。

 私も一年半ばかり海軍に召集された。応召の下級兵士としてである。血気盛んな兵長や下士官にぎりぎりとしぼり上げられた。その当時我々(いっしょに応召して来た)はたいへん仲が良かった。さまざまの職業や経歴の人たちがあつまっていたが、軍隊に入ったとたんに、そういう条件はすっぽりと剝脱され、兵士という一単位になってしまう。同じ釜の飯を食い、同じ訓話を受け、同じような制裁を受ける。親愛の情がそこに湧かないわけがない。

「一度でいいから畳の上で、ちゃんとした蒲団にくるまって寝たい」

 海軍で寝るところはハンモックだから、そんな嘆きが出て来る。私たちに共通した嘆きであった。しかし、そんな時でも私は、

「これは友情というものじゃない。被害者同士の連帯感だ。つまり奴隷(どれい)の友情に過ぎないのだ」

 という思いが、いつも胸から去らなかった。で、昭和二十年初秋に復員、それから戦友に会いもしないし、文通することもない。お互いに被害者の身分を解き放たれて、自由な生活に戻ると、共通感はとたんに解消してしまうのである。特に私たちは当時三十前後の、兵隊としては老兵で、皆ちゃんとした職業を持っている。復員してしまうと、心の通いようがないのだ。つまり彼等は、私の心の中で生きているだけで、現実に相わたることがない。交友というものは、現実に相わたるものがある時、初めて成立するものであって、死んだ過去のつながりは条件として成立しないように思う。

 いい友人を持つということは、その人の一生の幸不幸を決定する、なんて言葉もあるけれど、どうもそれは疑わしい。所詮人間は孤独なものであるし、よき友達が出来るのも、偶然がそれを決定する。というと、私にはよき友人がいないように響くかも知れないが、私は割に友人運に恵まれていたような気がする。学校時代には級友、卒業して勤めると職場の友人、という具合に、たすけたりたすけられたりして、今日までやって来た。やって来たつもりである。

 与謝野鉄幹にこんな詩がある。

 

  妻をめとらば才たけて

  顔(みめ)うるわしくなさけある

  友をえらばば書を読んで

  六分の侠気四分の熱

 

 明治ののんびりした空気が感じられるが、そんな都合のいい女房や友人が、おいそれと見つかるものでない。鉄幹子はこれを現実としてでなく、理想のものとして歌い上げたものだろう。私個人の好みからすれば、六分の侠気四分の熱、などを持った男と、あまり友人になりたくない。親分風を吹かせてがらがらしたような男が眼に浮んで来る。

 友情なんてものは、誤解の上に成り立つのではないか。そんなことを私は考えたことがある。高等学校最後の一年、私は素人(しろうと)下宿にいた。止宿人は四人。皆仲よくやっていた。その中にKという私の下級生がいた。私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである。私という人間を、徹底的にやっつけてあるのだ。書いてある条件や環境は、そっくり事実だが、Kの受け取り方が違う。私が好意でやったり、しゃべったりしたことを、Kは私の悪意からの所業だという風に書いてあるのである。おどろくというより、愕然としたと言った方が正しい。

「ああ、Kのやつは、そんなことを考えていたのか」

 それを見抜けなかった私の人の好さもあるだろう。でも、人間は本質的に他人を理解出来ないものだ。その思いが強く私に迫って、その考えは今でもそう変らない。人間は自分のことだってよく判らない。まして他人のことなど、判りっこはないのである。

 それと逆の場合が、交友だの恋愛だのに起るらしい。惚れて通えばあばたも笑くぼ。そういう風なものだ。人間はすべてのことを、大体自分の都合りいいように解釈するものである。(都合の悪い方に解釈するようになると、その人はノイローゼという病名を与えられる。)友情だってその例外ではない。おれとあいつは無二の親友だ、と考えることは、誤解であり、さもなくば誇張された悲壮感である。私は信用しない。

 と言えば、みもふたもない。が、根本的にそんな自覚があれば、重大な破局に際し、おれはあいつに裏切られたと、怒ったり嘆いたりすることはないだろう。

 先ほど交友というものは、ある程度の共通の地盤がないと成立しないと書いたが、あまり共通し過ぎると、かえって成立しない。友達というより、競争相手としてあらわれるからだ。ことに現在は、小さな島に一億もの人間がひしめき合っている。人を蹴落さねば、自分の存立があぶない。虎視耽々(たんたん)としてそのチャンスをねらっている、という事情が成立しかかっている。その点で言うと、子供時代の交友が一番純粋で、大人のそれはさまざまのニュアンスや陰翳(いんえい)を含んでいる。

 交友について書けと言われて、書いている中に妙にペシミスティックになってしまった。私の考え方は偏していて、おそらく一般的でないだろう。だからこの文章は読み捨てて、新しくいい友人を持ちなさい。人間の一生がかけがえがないのと同時に、良い友達もまたかけがえがないものだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年六月刊の『電信電話』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「妻をめとらば才たけて/顔(みめ)うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで/六分の侠気四分の熱」與謝野鐡幹の明治『三十年八月京城に於て作る』(明治三十年は西暦一八九七年)の添え題を持つ「人を戀ふる歌」の第一連。こちらで全篇が読める。

「私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである」熊本第五高等学校の学校誌「龍南会雑誌」しかないが、「熊本大学附属図書館」公式サイトのこちらで閲覧出来る。梅崎春生卒業前後に欠本は、ない。私は、或いはこれか? と感じる一篇を見つけたが、自信はない。興味のあられる方は、どうぞお探しあれ。]

押し売り   梅崎春生

 

 私の家は東京の練馬区で、新開地のせいか、ずいぶん押し売りのたぐいが多かった。一昨年あたりまでは、平均二日に一度ぐらいはやって来て、家人を悩ました。それが昨年あたりからしだいに減り始めて、今年になってはほとんどやって来ない。

 来なけりや来ないで、淋しいものである。実は私は押し売りだのにせ電球売りだのをかまうのが大好きで、そんなのが来ると仕事を中止して物かげに身をひそめ、家人に応対させて、さて最高潮に達した時、ぬっと姿をあらわす。私は五尺七寸、今は着ぶくれをしているから、結構強そうに見える。たいていの押し売りはぎょっとして、態度が軟化し、こそこそと退散してしまう。弱きをたすけ強きをくじく、という感じがして、いい気分のものである。ほどよきレクリエイションとなり、仕事の進みも早いようだ。

 でも、なぜ近頃押し売り類が少なくなったか。考えてみると、減り始めた時期は、人手不足、求人難の時期と大体重なっているようである。つまり押し売り人口が、人手不足の方に吸収されて、そこで減ったものと考えられる。何も押し売りみたいな、人に厭がられる、また危険率の多い仕事に従事せずとも、収入のいい正業がいくらでもあるのだから、転向するのも当然である。まあ喜ばしい傾向だと言えるだろう。

 ここに哀れをとどめたのは(かどうかは知らないが)元締めで、今まで手下を使って押し売りをさせ、そのかすりで生活していたのに、手下の志望者がぱったりとなくなってしまった。元締めとしてはめしの食い上げである。という風に、つれづれなるままに想像して、その哀れで間の抜けた元締めを主人公にして、小説に仕立ててやろうと、この間から私は計画している。うまく行くかどうか。一昨日、久しぶりに押し売りがやって来た。ゴム紐でなく、箒(ほうき)売りである。例によって家人に応対させ、私はかくれていたら、女一人とあなどったのか、だんだん言葉がぞんざいになる。初め一本五百円だと言っていたが、しだいに値下げし始めた。四百円から三百円、ついには五十円になった。それでも家人が買おうと言わないので、彼は業を煮やして、言葉も荒く、「三十円。三十円でどうだ。それでも買わねえと言うのか。それじゃ十五円!」いくらいんちき品でも、一応の座敷箒である。十五円で売れる筈がない。いんねんをつける気なのである。そこで私がぬっと姿をあらわした。

「十五円か。よし。買おうじゃねえか」

 と私が言ったら、箒売りは急にしどろもどろとなり、幸か不幸かその時郵便屋さんが書留を持って玄関に入って来たので、あたふたと逃げて行ってしまった。私は十五円で箒を買いそこねた。

 案外あんなのが昔の元締めで、手下に去られて、個人営業(何だかタクシーみたいだ)に踏み切ったんじゃないかと、私は想像している。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年五月号『婦人生活』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「五尺七寸」約一メートル七十三センチ。

「かすり」とは「掠り」「擦り」などと書き、上前(うわまえ:江戸時代に神領などで諸国の年貢米を通す際に取った通行税「上米(うわまい)」からの転。代金・賃金の一部から仲介者が搾取する手数料)をはねること、口銭(くちせん/こうせん:手数料・仲介料)を取ること、その「もうけ」の謂いである。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異 

 

     一 昆蟲類の變異

 

[變異と適應]

Henitotekiou

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。学術文庫版ではこの図は省略されてしまっている。以下、キャプションを電子化する。

 

【右図外】

地方的變種の例

1「こひをどしてふ」中部ヨーロツパ産

2同南部ヨーロツパ産

3同北部ヨーロツパ産

【左図外】

季節的變種の例

4「あかまだら」夏形

5同冬形

變異の例

6789「はなばち」の一種、

雌雄二形、

10蝶の一種雌

11同雄

【図下部外】

水中生活に適する動物の例 12 13「かげろふ」の幼蟲と成蟲 14「まつもむし」

水中生活に適する植物の例 15 16「ひし」とその實 17「うめばちも」の一種

 

 以下の注で本図の生物の同定を試みるが、図自体がモノクロ(色彩変異が判別出来ない)な上に外国のものらしく、種までの正確な同定は困難である。

「こひをどしてふ」本邦産の、

昆虫綱双丘亜綱有翅下綱長節上目鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ族 Aglais 属コヒオドシ(小緋縅)Aglais urticae

のヨーロッパ産の別種、或いは同族か同属の仲間、或いは近縁種、或いは丘先生が執筆された当時は近縁種とされた別種と思われる。但し、図の三つともに前翅前縁にある紋様はコヒオドシ Aglais urticae のそれとよく一致する。なお、本種コヒオドシ Aglais urticae には「姫緋縅(ヒメヒオドシ)」の別名もある(ある学術データでは、これをアカタテハ属コヒオドシとし、学名を Vanessa urticae f. connexa とするのであるが、“f.”(品種)というのは解せないので採らない)。ウィキの「コヒオドシ」及びグーグル画像検索「Aglais urticaeをリンクさせておく。

「あかまだら」タテハチョウ科サカハチチョウ属アカマダラ Araschnia levana ウィキの「アカマダラ」によれば、分布は日本『国内では北海道のみで、渓畔に多いサカハチと違い平地・低山地にも広く生息する』。『国外では中央~東ヨーロッパの低地に広く分布し、その分布範囲を西ヨーロッパにも広げつつある』とし、本種は『春型と夏型で全く外見が異な』り、『夏に生まれたものは黒地に白の模様でイチモンジチョウ』(タテハチョウ科イチモンジチョウ亜科イチモンジチョウ族オオイチモンジ属イチモンジチョウ Limenitis camilla 。同種も固有のかなり異なった個体色彩変異(季節変異は不明瞭とどの記載にもあるからこれは地域変異か)を持つ。ウィキの「イチモンジチョウ」の画像を参照されたい)『を小型にしたような姿であり、春型にあるようなオレンジ色が見られない。これは幼虫時代の日照時間の長さが影響する(日を短くして飼育すると春型になる)』とある。ウィキの「アカマダラ」の画像で、その別種としか思えない季節二形が、よく判る。必見。

「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea に属する蜂類の内、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える種群の総称。私にはこの図ではこれ以上の同定は不能である。

「かげろふ」有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera の仲間。幼虫は総て水生。現在、二十三科三百十属二千二百から二千五百種が確認されており、この図からさらに限定することは私には出来ない。

「まつもむし」狭義には有翅下綱節顎上目カメムシ目カメムシ亜目タイコウチ下目マツモムシ上科マツモムシ科マツモムシ亜科マツモムシ属マツモムシ Notonecta triguttata を指すが、本邦だけでも三属(マツモムシ属・Anisops属・Enithares属)九種が棲息するから、本図のそれはマツモムシ属 Notonecta、或いはマツモムシ亜科 Notonectidae のレベルで留めておくのが無難であろう。

「ひし」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 或いは近縁種(本邦でもヒメビシ Trapa incisa・変種オニビシ Trapa natans var. japonica が植生する)。

学名

「うめばちも」「梅鉢藻」或いは「梅花藻」と表記する「ウメバチモ」は、日本固有種であるキンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus の別名であるから、この図のそれはバイカモ亜属 Batrachium のバイカモ類の一種としておくのがよい。

「雌雄二形」典型的な性的二形の例を示したものであろうが、もっと極端に異なった全く違う生物に見えるもの種(昆虫類でも数多くある)を示した方がよかったとは思う。一枚図版で処理しようとしたために、却って性的二形の実体の驚愕が伝わってこないのは遺憾である。]

 

 凡そ如何なる動植物の種類でも、標本を數多く集めて之を比較して見ると、一として總べての點で全く相同じきもののないことは、今日の研究で十分に解つて居るが、その互に相異なる點の性質によつては、特別の機械を以て精密に測らなければ解らぬやうなこともある。身長の差違、體重の差違等でも、天秤や物指しを用ゐなければ、明には知れぬが、況して體面の屈曲の度とか凸凹の深淺の割合とかの相違を調べるには、特にそのために造られた複雜な器械を用ゐなければならぬ。たゞ彩色・模樣等の相違は眼で見ただけでも一通りは解るから、野生動植物の變異性のことを述べるに當つては先づ模樣の變化の著しい例を第一に擧げてみよう。それには我が國何處にも普通に産する小形の黄蝶などが最も適切である。[やぶちゃん字注:最後の一文中の「どこにも」は底本では「どにこも」となっている。錯字と断じて特異的に訂した。]

 注ぎに掲げたのは黃蝶の圖であるが、翅は一面に美しい黃色で、たゞ前翅の尖端の處だけが黑色である。幼蟲は荳科の雜草の葉を食ふもの故、この蝶は到る處に澤山居るが、春から夏へ掛けて多數を採集し、之を竝べて見ると、翅の黑い處の多い少いに著しい變化があり、或る標本ではこの圖の(左上)のものの如く前翅の端が大部分黑く、後翅の緣も黑い程であるが、また他の標本ではこの圖の(右下)[やぶちゃん字注:これは「右上」或いは「右上と右下」とするべきである。]のものの如く翅は前後ともに全く黃色ばかりで、黑い處が殆どない。それ故、初めはこの蝶には幾種もあると思ひ、實際黑色の部の多少によつて之を數種に區別し、各種に一々學名を附けてあつたが、岐阜の名和氏、橫濱に居たプライヤー氏などの飼養實驗によつて、悉く一種内の變化に過ぎぬことが判然したので、今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある。

[やぶちゃん注:「荳科」「マメか」。普通のマメ目マメ科 Fabaceae のこと。

「名和氏」ギフチョウ(アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica)の再発見者(命名者)として知られる昆虫学者名和靖(安政四(一八五七)年~大正一五(一九二六)年)。美濃国本巣郡船木村字十五条(現在の岐阜県瑞穂市重里)生まれ。

「プライヤー氏」イギリスの動物学者ヘンリー・プライアー(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治四(一八七一)年に中国を経て来日、横浜の保険会社に勤務する傍ら、同地で急逝するまで、昆虫類(特に脈翅目類(蝶・蛾))や鳥類を採集・研究した。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変異型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年。本書の英文には和訳が添えられており、採集地に敬意を表した彼のナチュラリストとしての見識が窺える)、ブラキストン線で知られる、北海道に滞在したこともあるイギリスの貿易商で博物学者トーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)との共著「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年)がある。

「今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある」以下に注するように、現行のキチョウの学名はEurema hecabeであるが、これはリンネの命名によるものであるから、このような意味がこの種小名にあるはずはない(これはギリシア神話に登場するイリオスの王プリアモスの妻女王ヘカベー(ラテン語:Hecuba)の名由来であると思うが、この女王にはそのような伝承はない。或いは、彼女が十九人もの子を産んだことに由来するか? ウィキの「ヘカベーを参照されたい)。不審。或いは、以前に別な種小名(シノニム)があったものか? 識者の御教授を乞う。因みに属名はギリシャ語の「発見・発明」の意の“heurema”の語頭の“h”を省略したもの)。]

 

Kityounoheni

[黃蝶の變化

(翅端の黑き部分の有無多少を示す)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。本種は普通に見られる、

鱗翅目Glossata亜目Heteroneura下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe

であるが、ウィキの「キチョウ」によれば、『従来「キチョウ」とされていた種は、キチョウ(ミナミキチョウ、南西諸島に分布)とキタキチョウ(Eurema mandarina、本州~南西諸島に分布)の』二種に『分けられることになったが、外見による識別は困難』とする。前翅長は二〇~二七ミリメートルで、『近縁のモンキチョウ』(モンキチョウ属モンキチョウ Colias erate)『よりもやや小さい。翅は黃色で、雄の方が濃い色をしている。前翅、後翅とも外縁は黑色に縁どられ、裏面に褐色の斑点がある。夏型と秋型があり、前者は外縁の黑帯の幅が広いが、後者は黑色の縁が先端に少し残るか、もしくはない。成虫は年に』五、六回『発生し、越冬も行う。早春には活発に飛び回る姿が見られる』とある。]

 

 黃蝶のみに限らず、蝶類は一體に甚だ變異の多い動物で、目本に普通な「べにしゞみ」といふ奇麗な小蝶も、採集の時と場所とに隨つて、紅色の著しいものもあり、また黑色の勝つたものもある。また揚羽蝶(あげはてふ)の中には産地によつて後翅から後へ出て居る尾のやうなものが有つたり無かつたりする種類もある。他の昆蟲類とても隨分變異が著しい。或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある。また昆蟲類の變異は成蟲に限る譯ではなく、隨分幼蟲や蛹などにも盛な變異があり、或る學者の調によると、一種の蛾の幼蟲に十六通りも變異があつた場合がある。今日昆蟲學者と稱して昆蟲を採集する人は世界中に何萬人あるか知らぬが、多くはたゞ新種らしきものを發見し記載することばかりに力を盡し、この面白い變異性の現象を學術的に研究する人は、西洋でも比較的甚だ少い。

[やぶちゃん注:「べにしゞみ」アゲハチョウ上科シジミチョウ科ベニシジミ亜科ベニシジミ属ベニシジミ Lycaena phlaeas ウィキの「ベニシジミによれば、『春に日当たりの良い草原でよく見られる小さな赤褐色のチョウである。成虫の前翅長は』一・五センチメートルほどで、『前翅の表は黒褐色の縁取りがあり、赤橙色の地に黒い斑点がある。後翅の表は黒褐色だが、翅の縁に赤橙色の帯模様がある。翅の裏は表の黒褐色部分が灰色に置き換わっている。時に白化する場合もある』。『成虫は年に』三~五回ほど、『春から秋にかけて発生するが、特に春から初夏』、四月から六月にかけて『多く見られる。春に発生する成虫(春型)は赤橙色の部分が鮮やかだが、夏に発生する成虫(夏型)は黒褐色部分が太く、黒い斑点も大粒になる』とある。

「揚羽蝶(あげはてふ)」アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae に属するアゲハチョウ類。世界で五百五十種ほどが知られる。

「或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある」甲虫類(鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera)に限定され、しかも「翅が」退化したのではなく、「無」いとなると、昆虫の苦手な私には直ぐには浮かばない(性的二形での翅が退化していて飛べない種なら、例えば鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ホタル属ヒメボタル Luciola parvula がいる)。識者の御教授を乞う。

「調」「しらべ」。]

諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事

    三 河内の國闇峠(くらがりとうげ)道珍天狗に鼻はぢかるゝ事


Dautin


 河内の國くらがり峠と云ふ山のをくに、十二、三町ほど行けば、山中に宮あり。此みやに道珍と云ふ人、たゞ一人すまひしける。この道珍、五十一の年まで、つゐにおそろしきと云ふことをしらず。あわれ、ちとおそろしき事にもあひたき、などゝ思ひ、人にも抗言(かうげん)しける。ある時、今口(いまくち)と云ふ在所へ非時に行きけり。折ふし雨ふり、つれづれなるまゝに、日ぐれがたまで咄しゐてかへりけるが、山のをく、七、八町ほどゆけば、道に石橋(いしばし)あり。はじめは此橋になにもなかりけるに、もどりには、死人、よこたをれ、ゐけり。道珍ふしぎにおもひけれども、おそろしきことしらぬ人なれば、死人(しびと)の腹をふみてとをりけるに、此死人、道珍がすそをくわへて、引きとむる。道珍、此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる、とおもひて、又、腹をふみければ、口、あきぬ。道珍、おもひけるは、此死人、ひんなるゆへに寺へもゑやらず、こゝにすてたるとみへたり。さらば、うづめてとらせん、とて、死人を引きをこし、せなかにおひて、わが屋に歸りて、おもふやう、此死人、すそをくわへて引きたるとがあれば、そのくわたいに、こよひは、しばりをき、夜あけてうづめん、とおもひて、さし繩をぬひて、松の木に死人をしばりつけ、道珍は、ねやに入りて、ねにければ、夜半のころ、門のほとりより、「道珍、道珍」とよぶ聲、きこへける。道珍、目ざめ、ふしぎにおもひ、

「夜ふけて此山中にたづねきたるものはなに物ぞ」

ととへば、

「なにとてわれをしばりけるぞ。□□□繩をとくべし」[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(はやく)』という推定補注が附されてある。]

と云ふ。道珍いよいよふしぎにおもひ、お□□せずしてゐけるに[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(とも)』という推定補注が附されてある。]、

「ぜひ繩をとかずは、それへ行ぞ」

といひもあへず、繩をふつふつときるをとしければ、さしもがうなる道珍も心すごくなり、ひごろたしなみける大わきざしをとり出だし、戸かきがねをかため、身をちゞめて居たりける。かゝる所に、はや戸をあけ來る。道珍、かなわぢ、とやおもひけん、脇指をぬき、なんどの口にまちいたり。かの死人、こゝかしことたづぬるを、道珍よこさまより、てふどきれば、死人、かたうできられてうせにけり。きりたる手を取りあげ見ければ、針のごとくなる毛はへ、なかなかおそろしき手也。道珍、此手を大事として長持に入れをきけるに、その夜もほのぼのとあけぬ。いつも道珍が母、かの宮へ里より毎朝さんけいせらるゝに、此朝、いつよりはやう來たり、道珍、いまだ、ねてゐたりしを、たゝきおこせり。道珍、目さめ、いそひでおき、

「いつより、けさは、はやく御まいり候ふ」

と申せば、母、かたりけるは、

「こよひ、ゆめみあしかりしが、ゆふべ、なにごともなかりけるか」

と、とふ。道珍、はじめをはりの事ども物がたりしければ、母おどろきたるふぜいにて、

「その手をみせ給へ」

といふ。道珍、見せ申す事なるまじきよし申せば、ぜひとも、と所望し給ふゆへに、ぜひなく取り出だし見せければ、母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり、

「是れこそ、わが手なり」

とて、けすがごとくにうせにけり。今まではれやかなるそら、にわかにくらやみとなり、こくうに鬨(とき)のこゑをつくりて、どつと、わらひける。さしもがうなる道珍も、氣をうしなひ、絶死(ぜつじ)しける。その間に、まことの夜あけて、いつものごとく、母、みやへさんけいせられ、道珍が所に來たり、道珍が死してゐけるを見ておどろき、里へをりて、人をともなひ來たり、氣つけなどのませ、いろいろとしければ、しばらく有りて道珍、いきかへり、いかゞ、とゝへば、はじめをわり、しかじかの事ども、物がたりしけり。それより道珍、日本一のをくびやうものとなりけるとなり。是れも、道珍、あまりにかうまん有りけるゆへ、天狗のなすわざなりける、となり。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻二の「七 天狗の鼻つまみの事」に基づく、完全な同話。但し、主人公を『參河の國』の『道心』とし、年齢も示さず、挿絵ではマッチョでかなり若く見える(「五十一」では剛腕さや傲慢さが生きにくいから原話の方がよい)。また社のある場所を『平岡の奥』とすること、また後半に登場する重要な役割の「母」も原話では縁者でなく、単に『老女』となっている。挿絵の右キャプションは「道珍しびとのはらをふむ事」。この底本の挿絵は擦れと汚損がひどいので外側の枠を除去するなど、私が恣意的に大幅な補正を行っている。

「河内の國闇峠(くらがりとうげ)」今の暗峠(くらがりとうげ)。奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。標高四百五十五メートル。ウィキの「暗峠によれば、この不吉に響いて、ここでのロケーションとしては最適の名称「くらがり」の『起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている』とある。

「道珍」実は底本ではこれに「どうちん」とルビを振る。読みを附さなかったのは、敢えて振る必要を感じなかったことに加え、歴史的仮名遣は正しくは「だうちん」だからである。

「天狗に鼻はぢかるゝ事」「鼻彈ぢ」くで、これは軽くは「軽くいなしてからかう」の謂いであるが、ここではもっと強い、所謂、「鼻を折る」(驕った高慢な心を挫(くじ)く・得意がっている者を凹(へこ)ませて恥をかかせる)と完全な同義として用いている。原話と同じく「傲慢」な主人公に「天狗」と「鼻」を絶妙に上手く掛けてあるのである。

「十二、三町」一キロ三百から四百キロメートルほど。

「宮」神仏習合であるから、この道珍なる僧はこの山中の社僧である。話柄から判る通り、神主・堂守を兼ねた独居ということになる。

「抗言(かうげん)」相手に逆らって言い張ること及びその台詞自体を指す。

「今口」不詳。現行の暗峠の周辺に似たような地名を見出せない。識者の御教授を乞う。

「非時」夕食(だから帰りが夜)。僧侶の食事は「齋(とき)」と呼ぶが、本来の仏教の基本戒律に於いては、僧や修行者は正午を過ぎての食事を禁じており、午前に一度だけの正式な食事を「斎食(さいじき)」「斎・時食(とき)」「おとき」と称し、それが正しい唯一の正式に許された食事の意の「時(とき)」なのである。しかしそれでは実際には体が持たないため、時間外の摂食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と称して許し、早くから僧も夕食を摂るのが普通になったのであるが、この二つの呼び名が孰れも時刻に関わる呼称であったことから、仏家に於いては食事のことを「とき」と呼ぶようになった。ここは或いは麓で何か法会などがあって彼が出向き、そこで供された精進料理、施食(せじき)ででもあったのかも知れぬ。毎夜、こうして夕食を摂っていたわけではあるまい(いや、傲慢不遜なる坊主ならそれもありか)。

「七、八町」七百六十四~八百七十二メートル。

「よこたをれ、ゐけり」「橫斃れ、居けり」。

「すそをくわへて」「裾を銜(くは)へて」。歴史的仮名遣の誤り。

「此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる」「此」は「これ」と読んでおく(原文にはご覧の通り、「此」の後の読点はないから、「此の」と下へ続けて読ませている可能性もあるけれども私はとらない)。腹を踏んだから、単に物理的に開いていた顎が閉じて、裾を銜えた結果、死人(しびと)が意志で銜えて引き留めたよう見えたに過ぎぬ。

「此死人」ここは「このしびと」。

「とが」「咎・科(とが)」。道珍はあくまで現実主義者であるから、死人のくせに僧衣を穢したと考えたのであろう。死体であってもそうなってしまった事実は罪ととったのである。

「くわたい」「科怠」。とがむべき怠慢。怠けてすべき行い(ここではするべきでない僧衣を穢すという行い)をしない結果として発生した過失。ただ、死体に「怠慢」は流石に「ない」と思うが、ね。

「しばりをき」「縛り置き」。

「さし繩」「差し繩・指し繩」で「捕り繩」のこと。太刀の鞘に付けた組紐のことで、本来は刀を帯びる際に腰に結び付ける繩である。「帯取(おびとり)」「足緒(あしお)」などとも呼ぶ。

「ぬひて」「縫ひて」ではおかしい。これは「拔きて」の語記ではあるまいか。

「ねや」「閨(ねや)」。

「お□□せずしてゐけるに」推定補注通り、「音もせずして居けるに」ととってよい。夜半の訪問者という怪しい者に、凝っと音をさせぬように用心して聴き耳を立てていたところが。ここぐらいまではまだ道珍は、死人を装った生きた盗賊の類いなどを可能性においており、物の怪と思っているわけではないと私は思う。

「行ぞ」「ゆくぞ」。

「繩をふつふつときるをと」優れたSE(サウンド・エフェクト)。ここがまず、ホラーの最初のクライマックスである。

「さしもがうなる」「然(さ)しも剛(がう)なる」「然しも」は副詞(〔副詞「さ」に助詞「し」「も」が付いた語)で、「程度が並ではないことを誰もが認めているさま・あれほどの」今も「さしもの」と同様、多くの予想に反した結果について用いる。

「心すごくなり」慄っとするほど恐ろしくなり。

「ひごろたしなみける大わきざし」「日頃、嗜みける大脇差」。「嗜む」は「愛用している」の意。

「戸かきがね」「戸掛き金」。

「かなわぢ」ママ。「かまわじ」。

「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。

「てふどきれば」「丁(ちやう)ど斬れば」の誤り。一般知られる、物が強くぶつかり合うこと、或いは太刀を打ち下ろした際などのオノマトペイアである「ちやうと(ちょうと)」は、古くは「ちやうど」と表記した。「ハッシ!」と斬りつけたところ。

「はじめをはりの事」昨夜の一部始終(但し、ここも変化(へんげ)の物の怪のフェイクで、実際には世は明けていないのであるが)。

「見せ申す事なるまじきよし申せば」これは母を疑っているのではなく、それがあまりにまがまがしいものであるから、母を驚かせまいと気遣ったのである。

「母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり」拘った描写に注目。母の、一方の片腕は袂に隠れて見えないのである。

「けすがごとくにうせにけり」「消すが如くに失せにけり」。驚くべき短時間、瞬く間に姿を消失したさまを、かく言った。

「こくう」「虛空」。

「絶死(ぜつじ)」気を失うこと。後の「道珍が死してゐける」も同様。失神しているのであって死んだのではない。

「をくびやうもの」「臆病者」。歴史的仮名遣では「おくびやうもの」が正しい。

「かうまん」「高慢」。]

あさって会   梅崎春生

 

 十一月十三日に「あさって会」をやるというので、新宿のメイフラワーに出かけて行った。久しぶりの会合である。今回は椎名麟三、武田泰淳、堀田善衛が中国に行くから、その送別の意味もかねた。昔ならかねるどころでなく、送別一本やりのところだが、今は飛行機でしゅーっと行ってしゅーっと戻って来る。君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカランと、うたう気持にもなれない。便利な世の中になったものだ。

 堀田、武田とも元気だし、気づかわれていた椎名麟三も血色がよく、好調の様子であった。あちらは寒くはないかと心配していたが(寒いと心臓にこたえる)、大したことはなかろうということで送別の辞は終り、あとは料理を食べながら酒を飲み、とりとめもない雑談を交し、無事散会した。いつもあさって会は、何となくあつまり、とりとめもない会話で終始してしまう。特別の目的を持った会でないので、それでいいのだろう。

 成り立ちからそうだった。あれは昭和三十一年だったか、雑誌「文芸」で三カ月にわたる座談会をひらいた。メンバーは前記三人の他、埴谷堆高、野間宏、中村真一郎、それに私。(私は事情があって最初の会は欠席して、二回目から出た。)「文芸」の方では、最初から三回を予定していたのか、第一回が面白かったので三回に伸ばしたのか、多分後者だと思うが、よく言えば談論風発で、一斉に三人も四人も発言して、速記の人を困らせた。とりとめがないくせに、割に実があって、

「あれは面白い座談会だった」

 と、いろんな人に言われた記憶がある。やはり面白かったので、三回に引き伸ばしたのだ。

 三回が終って、これから時々あつまろうじゃないかと、誰かが言い出して、皆それに賛成した。三回も続けると、お互いの気心も知れて、まだ話し足りないような気分に、皆がなっていたのだろう。会合をするには、会の名前があった方が便利だというので、色々考えて「あさって会」ときめた。実は名前がなくてもいいようなものだけれど、会合の場所などを予約するのに、個人名より会名の方が押しがきくという利点がある。

 あさってとは別に意味はない。明日の次の日のことである。

「あの人の眼は、あさっての方向をむいている」

 視線のおかしい人のことを、そう表現することがある。その意味に解されても、別に不都合はない。ただの符牒だと、私は考えている。でも「おととい会」と名付けなかったところを見ると、やほりおれたちの眼は前向きについているという意味はある。

 会場は新宿のメイフラワーをよく使う。あまりはやっていないので贔屓(ひいき)にして呉れと、其方面(どの方面だったか忘れた)から申し入れがあり、それでえらんだ。その頃はほんとにはやっていなくて、みすぼらしかったが、この二三年の間に隆々と発展してきれいになり、大食堂も満員の盛況である。地下鉄開通その他で新宿が発展、それに応じてメイフラワーも繁昌(はんじょう)におもむいたのだろう。決して我々が贔屓にしたせいじゃないが、向うでは古いお客なので、サービスにこれ努めて呉れる。居心地がいいし、会員の住所が大体新宿を中心としているので、何かというとここにあつまる。

 しかし同じところばかりでは変化に乏しいので、時には遠出する。昨年秋は東京湾にハゼ釣りに行った。東劇下の掘割から船を出し、夢の島のあたりをぐるぐる廻って釣った。これを提案したのは私で、私はもともと釣りが好きである。だから皆にも釣りの醍醐味を体得させようと思ったが、これは成功しなかった。一日かかって一人あたり二十匹平均で、意気が上らなかった。天候が良好でなかったせいもある。夢の島に上陸して、皆並んで長々と立小便して(その情景を私がカメラにおさめ、秘蔵している)船に戻り、てんぷらを食べてウイスキーを飲んだ。私をのぞく六人は、飲み食いには熱心だけれど、釣りには熱心ではなかった。おおむね人事には情熱的で、鳥獣魚介には無関心のようである。(埴谷雄高は小鳥に熱心である)

 で、その日は全然むだだったかというと、そうでない。結構それを生かして使っている。たとえば武田泰淳「花と花輪」の書出し。

「東京の黒い河。

 昭和三十五年。十月はじめの、ある朝。大劇場と高級ホテルにはさまれた、黒い河のどんづまりは、ことさら黒く見えた」

 そこで船に乗って、登場人物の面々が、ハゼ釣りに出かけるのである。今でも、してやられたような気がしないでもない。あの日の勘定は、武田泰淳に持ってもらおうじゃないかと、誰も言い出さないが、書記長の川島勝(講談社勤務)が武田泰淳居住のアパート見学というプランを立て、皆で押しかけて、いろいろ御馳走になった。その席上埴谷雄高がカクテルをつくって、私も飲まされた。複雑なカクテルで、最後の仕上げを粉末ガーリックでやったから、異味異臭をともない、全部はとても飲めなかった。一室にあつまって談論風発もいいが、時には機動的に動いたがいい。今年の秋は簀立(すだ)てを予定していたけれど、うつかりチャンスをうしなって、とうとう行けなかった。動くためには、朝から夜まで、時間をまるまるあけて置かねばならない。それがなかなか調整出来ないのである。今年あたりは、工場やダムなどを見学したいし、また飛行機を一台チャーターして、八丈島に行こうという計画もある。

 この雑誌が出る頃、中国行きの三人もそろそろ戻って来る。また皆あつまって、お土産の分配をしたり、向うの様子を聞いたり、という会を開くことになるだろう。どんなお土産(物心両面の)を持ち帰って来るか、私は今からたのしみにしている。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「十一月十三日」の後には「(昭和三十六年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカラン」言わずもがな、盛唐の王維の以下の七言絶句の転・結句の引用。別に「渭城曲」、或いは、春生もやらかしているように、結句末を三度畳かけると伝えられる(実際にはその反復法は一定しておらず、これが定式法では実は、ない)ことから「陽関三畳」という題でも呼ばれる。

 

   送元二使安西

 

 渭城朝雨裛輕塵

 客舍靑靑柳色新

 勸君更盡一杯酒

 西出陽關無故人

 

   元二の安西に使(つか)ひするを送る

 

  渭城(ゐじやう)の朝雨(てうう) 輕塵を裛(うるほ)す

  客舎(かくしや)靑靑(せいせい) 柳色(りうしよく)新たなり

  君に勸む 更に盡くせ 一杯の酒

  西のかた 陽關(やうくわん)を出づれば 故人 無からん

 

「談論風発」話や議論を活発に行うこと。

「東劇」現在の東京都中央区築地に今もある映画館「東京劇場」。高層ビル化された現在、松竹本社が入っている。

『武田泰淳「花と花輪」』本記事の前年、昭和三六(一九六一)年の作品。

「簀立(すだ)て」事前に遠浅の沿岸の海中に簀を立てておき、干潮時に逃げ遅れた魚を捕らえる古式の漁法。「木更津 すだて 網元 つぼや」公式サイト内の「簀立遊びの仕組み」を参照されたい。海岸生物フリークの私だが、残念なことに未体験である。]

道と人権   梅崎春生

 

 戦後の日本には、自動車がむやみやたらにふえた。道というものは元来、人間が歩くものなのに、バスやトラックやオート三輪や神風タクシーがびゅんびゅんと飛ばして行く。人道があるところならいいが、人道のないところでは、人間は両側の家の軒下をくぐるようにして歩いている。

 狭い道を大型バスがわが物顔に通って行く。私の家の近くの沼袋へんでは、道幅が三間くらいなのに、大型バスの路線になっている。幅が三間であるからして、バスとバスのすれ違いがたいへんで、どちらかが適当な場所まで後退して、やっとすれ違うということになる。そのバスの移動にくっついて、あまたのトラックやオート三輪が同じ動き方をするから、大騒ぎとなる。車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をはさまれ、即死した例がこの間あった。

 こういう騒ぎになると、人間なんか物の数でなくなる。うろちょろしていると、ひき殺されるので、みな商店の日除けから日除けをくぐって往来する。道において、人間の価値の下落したこと、当代におよぶものはあるまい。

 だから当代の人間は、自動車を警戒することを、自然のうちによく訓練されている。狭い道でも、横切る時は、必ず左右前後を見廻すことを忘れない。

 昔はそんな必要はなかった。子供のころ私たちは、無鉄砲に道路を走り廻って遊んだ。自動車や自転車の数が、いまよりもずっと少なかったからだ。

 私の同級生で、ある日、人力車にひかれて怪我をしたのがいた。人力車にひかれるなんて、それほどさように、昔の子供はのんびりしていた。いまの子供で、人力車にひかれるような間抜けは、いないだろう。

 子供のころの私を、かりにそっくりそのまま、いまの東京にあらしめば、多分三日と保たずして、神風タクシーにひき殺されるだろう。

 とにかくあの神風タクシーというやつは、スピードを出し過ぎる。あるいは、他車を抜き過ぎる。急ぐために抜くというよりは、他車を抜くために抜くというのが多い。前に他車があると、もういらいらしてきて、あらゆるチャンスを見逃さず、やっと強引に抜く。抜き去って前方の視野が開けると、ぐっとスピードを落すのだ。抜くために抜くのだということが、これをもって判る。こういうのが、とかく人をはね飛ばし、ひき殺す。

 道における人権を回復せよ!

 

[やぶちゃん注:初出未詳。推定執筆年は昭和三七(一九六二)年。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。既に電子化した「うんとか すんとか」連載第五十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月七日号掲載分の「人通行止」がかなり似た内容を持つ。

「沼袋」東京都中野区の北部で西武池袋線練馬駅とJR新宿駅との最短直線上に位置し、現在、沼袋一丁目から沼袋四丁目までがある。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をほさまれ、即死した例がこの間あった」「人間通行止」に同じ事件が出る。

「神風タクシー」先の「街に死ぬ覚悟」の私の注(といってウィキの引用だが)を参照されたい。]

男兄弟   梅崎春生

 

 近頃日本にはやたらに人が多いという感じがする。街に出れば人がうようよ、タクシーに乗れば歩くより遅いし、汽車に乗れば満員で立ち通し。たまたま私が出かけると、混むのかも知れないが、うっとうしくてかなわない。

 実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている。しかし街や山や海に行ってみると、三倍か四倍になっているようにしか思えない。人が動き廻るせいであろう。以前は人々は家の中にひっそりしていて、あまり出歩かなかった。今は派手に動き廻るので、実際以上に多く見える。どさ廻りの芝居の捕り手みたいに、同一人が入れかわり立ちかわりあらわれる。実際は五六人だが、切り殺されてもごそごそ這って、袖からまた、

「御用。御用」

 と出て来るから、十何人もいるように見える。それに似ている。

 それと戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった。小さいのがうろちょろするのなら、うるさいという感じだけだけれども、大きいのがぶつかり合いながら右往左往する。うっとうしい感じは、そこからも来るようだ。

 人口が二倍近くになったと言ったが、どこで誰がそんなに生んだのだろう。私の友人や知己や近所の家庭を見ると、たいてい一人か二人、多くて四人どまりで、子供のいない家庭もずいぶんある。だからそれほど殖える筈はないのに、実際は殖えている。私の知らないところで、大量的に生んでいる人々がいるに違いない。

 もっとも医学や医薬の発達で、人間がなかなか死ななくなった。(子供も青年も中年も老人も。)生れて来る子供の六割か七割か何割かは知らないが、それが毎年人口のプラスになって行く。そういう事情もあるだろう。

 子供は昔の方が多かったような気がする。私の祖母(父方の)は十五人きょうだいで、その大部分が女であった。十五人も子供がいるなんて、私には想像が出来ない。私んとこは今二人だが、それの七倍半だ。子供はよくめしを食うから、いっぺんに二升やそこらはたかねばならないだろう。その十五人がそれぞれ嫁に行って、また子供をたくさん生んだ。で、私にはふたいとこが実にたくさんいる。もっとも十五人というのは、特別の例だろう。皆がそんな風(ふう)だったら、あの頃の日本の人口は飛躍的に増加した筈だ。

 おやじが結婚して、子供を六人生んだ。みんな男である。お婆さんの時はほとんど女ばかりだったのに、今度は全然男ばかりだ。今度は女を、今度こそは女を! という切ない予想を裏切って、男ばかりが出て来るものだから、お婆さんが嘆いた。

「どうしてこんなに、かたよるんじゃろか」

 六人もの男児をかかえて、おやじたちの苦労もたいへんだっただろうと、私は今にして考える。十五人は想像に絶するが、六人もの子供を育てる自信は、私にはない。今の二人だけでも、もて余している。今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである。当人たちがそう言っているんだから、間違いはない。(頑是ない子供たちに、反抗期なんて言葉を教えたのは、どこのどいつだろう。週刊誌あたりじゃないかと、私はにらんでいる)

 何か言いつけたって、素直に聞いたためしがない。口答えをする。

「自分のことは、自分でせよ」

「立っているものは、親でも使え」

 かえってこちらが使われる。怒ればふくれるし、ぶてば泣く。気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると、

「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」

「ぼくは第一反抗期だ」

 その反抗期がいつ頃終るのかと訊ねると、よく判らないけれどあと一年半ぐらいはかかるだろう、という返答である。そう言えば私たちにも反抗期はあった。第一第二と段階があったかどうか忘れたが、さまざまに反抗した。六人から入れかわり立ちかわり反抗されて、さぞや御両親さまはつらかったであろうと、私はお墓参り(めったに行かないが)の度に同情する。

 六人の中の次男が私である。姉も妹もない。だから私は女というものを、あまり知らない。青年になって女とつき合ったこともあるが、その時は主観的要素がずいぶん加わるし、向うも弱いところやマイナスの部分をひたかくしにしているので、真相はつかみにくい。やはりこんなことは、子供の時から観たり感じたりしないことには、見方が根なし草になる。

 女を知らないから、女が書けない。女が書けなきゃ一人前の小説家ではない、という俗説があって、同人雑誌を読むと、せっせと女を書いたりセックスを書いたり、勉強これ励んでいる向きもあるようだが、どうもその俗説に乗せられているんじゃないか。もちろん女が書ければ、それに越したことはないけれど、このことにのみ執するのは、事の根本をあやまるものである。女が書けなくても、小説家になれる。女抜きの小説を書けばいい。私みたいに。

 六人兄弟の中、上三人が戦争にかり出され、三男(忠生という名)が戦病死した。今五人生き残って、東京にいる。歩留りとしては、良好の方だ。忠生の戦病死について、当時隊長から手紙があり、急に死んだとあったが、病名は書いてなかった。終戦後その戦友が私を訪ねて来たので、いろいろ事情を聞いた。

 それによると忠生の部隊は蒙古にあり、太平洋戦争で香港作戦に転じ、また蒙古に戻って来た。そして内地帰還の令が出た。内地に戻って、召集解除である。よろこびにあふれた出発前夜、忠生は皆の前で白い錠剤をたくさんのみ、寝についた。翌朝見たら、死んでいた。忠生は衛生軍曹だから、薬は自由になる。白い錠剤は、睡眠薬であった。量を間違えたわけでなく、覚悟の自殺である。なぜそんな嬉しい日に、自殺をしたか。その理由を書こうと思ったら、もう紙数が尽きた。これは小説の方に廻そう。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている」二倍というのはドンブリもいいところ。統計局の公式データによれば、敗戦の昭和二〇(一九四五)年が七千二百十四万七千人であったものが、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で九千四百三十万二千人であるから、一・三倍である。因みに現在(統計局最終数値二〇一四年現在)は一億二千七百八万三千人で敗戦時の一・七六倍であるから、現在と比較するなら二倍近いとは言える。梅崎春生に好意的に、この数字を別な方向から見るならば、敗戦時の日本本土を除くアジア各地に於ける外地(当時の占領地区であった台湾などを含む)にいた日本人は、軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)及び民間人がそれぞれ約三百三十万人で、合合計六百六十万人、当時の日本の人口の一割近くだったと見られているこちらの記載による)とあるから、これらを当時の人口から無理矢理引いてみると、六千五百五十四万七千人であるが、それでもやっぱり当然ながら一・四倍にしかならない。しかし本土の人間の数を逆立ちしても「人口」とは言わない。やはり無理がある。春生が言うのは、終戦から少したった頃の落ち着いてきた市街を歩く人の多さと、昭和三十五年頃の銀座のの賑わい辺りの漠然とした「人ごみ印象」から出した「二倍」としか思えない。くどいが、厳密な「人口数」に基づく謂いではない。

「戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった」これも普通に読めば納得してしまうが、平均統計の数値でみると違って見える。例えば、昭和二〇(一九四五)年の二十歳の平均身長は男性で百六十五、女性で百五十三・二センチメートル、体重は男性が五十五・三、女性が五〇・七キログラムであったのに対し、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で二十歳の平均身長は男性で百六一・一、女性で百五一・五センチメートルで逆に下がっている。無論、これは単なる統計上の数字であって、僅かながらも着実な体躯向上は確かにあった。例えば、厚生労働省の三十歳代の男女の身長・体重を一九四五年から二〇一五年までグラフ化したこちらのデータを見ると、それは非常によく判る。これだと敗戦から十五年で男性で平均身長が約二センチ、女性で一センチ強、体重は男性で凡そ一・五キログラム増えている(但し、女性は微増か殆んど変化がないレベルである)。しかし、一センチと一・五キログラムは見た目、「高く」「ひろがっ」ては見えない。だからこれも前と同じく、大多数の栄養失調のガリガリの、ペラペラの薄い服で尾羽打ち枯らした感の国民や復員兵が意気消沈して力なく歩く敗戦後の巷と、復興し、「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十年代初頭(昭和三一(一九五六)年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述)の銀ブラ連中のガタイと煌びやかな恰好、踵が高くなった靴やハイヒールでカサ上げされたそれを感覚印象している、と私は思うのである。

「今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである」発達心理学上は精神発達の過程で著しく反抗的態度を示す時期を「反抗期」と呼称し、「第一反抗期」は自我意識の強まる三~四歳児の時期を指し、青年初期或いはそのプレ期に於いて、塞ぎ込むような非社会的様態が見られたり、一見、理由なく人に逆らって乱暴を働いたりしたりする反社会的行動をとる時期を「第二反抗期」と呼ぶ。これに照らせば、小学四年の第一反抗期は異様な発達遅滞ということになり、中学二年の女子で「自分のことは、自分でせよ」「立っているものは、親でも使え」と「かえってこちらが使われ」、しかも「怒ればふくれるし、ぶてば泣く」という単純で判り易い感情反応を示し、「気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると」、「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」という如何にも理路整然とした反応で応対するのは「理由なき反抗」の非でも反でもない、当たり前の誰にでもよく判る陳腐にして正常な屁理屈の「社会的行動」であるから、「第二反抗期」とは言えない。私が言いたいのは、「反抗期」であることを表明して或いは理由にして反抗する口実とするというのは、本来の「反抗期」の必要条件を全く以って満たしていない、ということである。

「これは小説の方に廻そう」これは二年後の昭和三八(一九六三)年『群像』連載(一月号~五月号)を指す。但し、実録小説ではなく、ここに書かれたような異様な形で戦地で自殺した実弟忠生をモデルとした人物を中心に配したモデル小説であり、仮託しつつも実の弟忠生の自殺の真因を明らかにした心理小説とは私には思えなかった(但し、読んだのは三十数年前のことで記憶が定かではない。近いうちに再読し、この記憶に誤りがあれば、後日、追記する)。なお、私は、梅崎春生の、こうした「書こうと思ったら、もう紙数が尽きた」という、彼がしばしば随筆擱筆でやらかす、無責任な(彼は無責任と自覚していないであろうが)書きっぱなしのエンディングはあまり好きではない(連載記事でそれを次の回の記事に書いたのなら、それは上手い書き方であり、実際、そうした書き方も彼はしている。それは彼のマジックにまんまと乗って読み続けさせられる点で少し癪だが、心憎くもとても好きな手法である)。紙数は云々は言い訳に過ぎない。私が言いたいのは本気の作家であるのなら、「今書かねばならないと思ったことを先送りするな」、である。明日があるかどうかも分からぬのに。これは、梅崎先生、あなたが一番、判っておられたはずでしょう……ただ、このケースでは小説のネタバレはしたくない、小説を読んでくれ、という含みとするなら許せなくはない。にしても、二年後は遅過ぎますよ、梅崎先生。……だってそれが「幻化」の後の予定作品だったら、どうしますか?……(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』であるが、梅崎春生はその間の同年七月十九日に入院先の東京大学病院上田内科に於いて肝硬変で急逝している)]

2016/08/24

懲治部隊   梅崎春生

 

 四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いたことがある。その男の自ら語る経歴によれば、学習院から江田島の海軍兵学校に入り、在学中脱走、東京をうろついていたら陸軍の憲兵につかまった。東京には海軍経理学校があったが、経理生徒の帽子には白線が入っている。そこで怪しまれたのだ。(ここらの話し方は実にリアリティがあって、これは本当かも知れないと思ったほどだ。)陸軍から海軍に引き渡され、横浜の大津刑務所に未決囚として入れられた。

「軍法会議にかかると、大変ですからねえ。服役して、それが済んでも、娑婆(しゃば)には帰れない。十一分隊というのに入れられる。十一分隊というのは、囚人上りばかりの部隊です。もしそこまで行けば、おれの運命も変ったかも知れないが、幸いに未決のまま終戦となりました」

 その会話をそっくり小説の中に取り入れようと思ったが、相手が名代のうそつき男だから、大津刑務所だの十一分隊だのが実在したものかどうか、疑わしいと思ったので、新聞社に調査を依頼した。すると新聞社の報告では、大津刑務所はたしかに実在したが、十一分隊というのはどうも怪しい。懲治分隊というのを十一分隊と聞きあやまったのではないかとのこと。そう言えば、懲治と十一は発音が似ている。だから小説では、懲治部隊として出した。

 それから二年ほど経って、野口富士男氏『海軍日記』が出版され、一冊が送られて来た。こちらも海軍で苦労した組なので、身につまされて読み進んで行くうちに、十一分隊が出て来たのでおどろいた。横須賀海兵団には十一分隊という特別の部隊が実在したのである。同書に曰く。

「十一分隊というのは、軍刑務所から戻って来たメムバアによって構成されており、胸に附けている名札の書体が活字風の明朝体になっていたので、誰にでも一目でそれとわかった。……」

 懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った。

 私も兵隊の頃しばらく佐世保海兵団にいたことがあるが、佐団にも軍刑務所出身ばかりを集めた部隊があった。何分隊だったか(九分隊だったような気もする)思い出せない。とにかくその分隊員に会ったら用心するように、と班長などから呉々(くれぐれ)も注意されていた。軍刑務所を出ると、兵曹でも兵長でも全部二等水兵になって、その分隊に入って来るのだ。海軍における出世の希望を全部とざされた連中だから、何をし出かすか判らない。その分隊の二等兵が、よその分隊の下士官をぶん殴(なぐ)っても、殴られた方の下士官があやまって引き退るというような状態で、私たちなんか遠くからその分隊員を見ただけで、びくびくしていた。

 もっとも彼等は私ども如きの小者を相手とせず、反抗しがいのある相手を探し求めて、肩で風を切りながら、団内を横行していたようである。彼等の心事や行動を、一篇の小説に仕立ててみたいと、今思わないでもないが、なにぶんにも分隊の名称も忘失してしまったくらいだから、手のつけようがない。やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年二月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風景』は昭和三五(一九六〇)年に刊行された、「紀伊國屋書店」創業者の田辺茂一が発案した来店者に無料で配布するタイプの小冊子型文芸雑誌で、作家舟橋聖一を中心とした「キアラの会」が編集・発行した。

「懲治部隊」梅崎春生は「懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った」と述べているが、実際にこの名を持つ、このような部隊は実在したウィキの「陸軍教化隊」によれば、陸軍教化隊とは『日本軍の部隊の一つで、犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた特別の部隊である。問題とされた兵士を一般部隊から隔離して軍紀を維持し、特別教育と懲罰を加えて更生を図ることが目的であった』とし、そこには大正一二(一九二三)年以前は「陸軍懲治隊(りくぐんちょうじたい)」と呼称したとあるのである。

「四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いた」恐らくは昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から同年十一月十八日号まで連載した長篇「つむじ風」のことである。このモデルの男については、梅崎春生は先に電子化した「モデル小説」でも述べているので参照されたい。

「横浜の大津刑務所」恐らく、現在の神奈川県横須賀市大津町にあった「横須賀海軍刑務所」のことと思われる。デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「横須賀海軍刑務所」を参照されたい。

「野口富士男」(明治四四(一九一一)年~平成五(一九九三)年)は小説家。戸籍名は「平井冨士男」。ウィキの「野口富士男」によれば、東京麹町生まれ。大正二(一九一三)年に『両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが』留年して昭和五(一九三〇)年に中退の後、文化学院文学部に入り直して昭和七(一九三三)年に卒業、『紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが』、昭和一〇(一九三五)年、『紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆』した。後に一年ほど『河出書房に勤務』した(その昭和一二(一九三七)年に母方の籍に入って平井姓となっている)。『第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員』、昭和二五(一九五〇)年頃になると、『創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念』、約十年を『費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語っ』ている。この頃、『東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営』。昭和四〇(一九六五)年、千五百枚の「徳田秋声伝」で『毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し』、「わが荷風」「かくてありけり」(読売文学賞)、「なぎの葉考」(川端康成文学賞)などを書いた。他の代表作に小説「暗い夜の私」(昭和四四(一九六九)年)などがある。『膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦』氏が「六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む」(文春新書、二〇〇八年)『で一端を明らかにした』。二〇一一年、野口冨士男生誕百年記念出版として、昭和二〇(一九四五)年八月十五日から昭和二二(一九四七)年一月十二日までの日記(一九四五年八月十五日から同年八月二十四日までは『海軍日記』から転用)が、『越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された』とあり、「やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった」という梅崎春生の謂いがよく判る]

蓼科秋色   梅崎春生

 

 八月二十七日

 蓼科(たてしな)高原に来て、もう月余になる。来た当初はニッコウキスゲの花盛りだったが、立秋の頃からだんだん秋の草にかわり、今は吾亦紅(われもこう)、松虫草、ゲンノショウコなどが色とりどりに咲いている。毎年ここに来て、帰る頃になると私はたいへん植物通になって、これは何の木、あれは何の花と、全山ほとんどの花卉(かき)を弁別出来るようになるが、帰京して冬を越し、次の年の夏にやって来ると、もうすっかり忘れてしまっていて、

「あれ、何という名の花だったっけ」

「あれはニッコウキスゲよ」

というような具合で、また初歩から覚え直さねばならぬことになる。身を入れて覚え込まないせいだろう。

 虫の名もそうだ。私の山小屋の庭には各種の虫がいて、これはマイマイカブリ、これはゴマダラカミキリと、現在はすらすらと名前を呼べるが、来年になるとすっかり忘れ果て、子供を呼んで、

「これ、何という虫か知ってるか?」

 と忘れたという顔では訊ねない、ためしに訊ねているんだ、という顔で訊ねることになるだろう。子供はおやじと違って、記憶力が確かだから、

「これはアカハナカミキリ」

「それはマツノキクイムシ」

 と即座に答える。そうか、よく覚えていたな、と私は子供の頭を撫でてやりながら、ついでに自分もしっかり覚え込む。毎年その繰返しである。

 夏休みもあと数日しか残っていないから、小学三年生の息子が、宿題の自由研究をまだやってない、どうしたらよかろう、と騒いでいるから、アリジゴクの研究でもやれと命じたら、手伝って呉れという。

 私の山小屋の軒下にアリジゴクがたくさん巣をつくっている。いつか何かの雑誌で、軽井沢に蟻がいるかいないかが問題になっていたことがあったが、わが蓼科には蟻はたくさんいる。蟻がいるからアリジゴクがいるのであって、また逆に言えば、アリジゴクがいるから蟻がいるということにもなる。

 アリジゴクの巣と書いたが、これはじょうご型の砂のくぼみで、蟻がそこに落ち込むと、這い上れない。もう少しで這い上れそうになると、くぼみの一番底からアリジゴクが鋏を出して、ばさっばさっと砂の具合を調節するからたちまち蟻はずり落ちて、力尽きて鋏にはさまれ、アリジゴクの餌食となってしまう。なんとも憎たらしい虫で、その状況を眺めていると、蟻をそこに投げこんだのが自分であるにもかかわらず、義憤がむらむらと起って来るからふしぎなものだ。

 その鋏で砂を調節しているところを、移植ごてでごそっとすくい上げ、五匹のアリジゴクを捕獲した。ブリキの菓子箱いっぱいに砂を張り、その中に入れる。すると彼等は砂にもぐつて、巣をつくり始める。

 アリジゴクの世界にも働き者となまけものがあって、働き者は三十分もあれば巣をつくり終えるが、なまけものはなまけなまけやるから、半日ぐらいかかる。蟻をつかまえて来て、早く出来たものから御褒美に、一匹ずつ入れてやる。半日もかかった奴には、何もやらない。蟻を入れてやるのは、蟻に対して残酷な気がしないでもないが、観察のためだから仕方がない。

 子供も一所懸命に観察し、何かせっせと書きつけていた。昼寝している間に、そっとそれをのぞくと、次のように書いてあった。

 イ、からだの色はうす茶色で、砂の色によくにている。

 ロ、足が六ぽんと、大きなほさみがあり、すきとおっている。

 ハ、どうたいには、九つのふしがあり、ふしには毛がはえている。

 ニ、前にはすすまなくて、うしろだけにすすむ。そしてうらがえしにすると、すぐもとにもどる。

 ここまで書いてくたびれて、昼寝ということになったらしい。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年十月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「八月二十七日」の後には「(昭和三十五年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。

「ニッコウキスゲ」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis dumortieri var. esculenta 。一般には「ニッコウキスゲ(日光黄萓)」の方が通り名としてはより知られている。忘れっぽい梅崎先生みたような人のために総てに以下のような画像リンクを張っておく。グーグル画像検索「Hemerocallis dumortieri var. esculenta

「吾亦紅(われもこう)」双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalisウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。グーグル画像検索「Sanguisorba officinalis

「松虫草」双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目マツムシソウ科マツムシソウ属マツムシソウ Scabiosa japonica グーグル画像検索「Scabiosa japonica

「ゲンノショウコ」双子葉植物綱フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属ゲンノショウコ Geranium thunbergii グーグル画像検索「Geranium thunbergii

「マイマイカブリ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉亜(オサムシ)亜目オサムシ上科オサムシ科オサムシ亜科マイマイカブリ属マイマイカブリ Damaster blaptoides Kollar グーグル画像検索「Damaster blaptoides Kollar」。

「ゴマダラカミキリ」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca グーグル画像検索「Anoplophora malasiaca

「アカハナカミキリ」多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科ハナカミキリ亜科アカハナカミキリ Aredolpona succedanea グーグル画像検索「Aredolpona succedanea

「マツノキクイムシ」多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科カワノキクイムシ亜科マツノキクイムシ Tomicus piniperda グーグル画像検索「Tomicus piniperda

「アリジゴク」先の梅崎春生「アリ地獄」の私の注を是非、参照されたい。グーグル画像検索「アリジゴク」。]

郵便のことなど   梅崎春生

 

 私が世田谷から練馬に引越して来てもう五年にもなるが、練馬郵便局の郵便の遅配には、ほとほと手を焼いている。引越し当初はそうでもなかったが、一年ぐらい経ってから遅れ始め、そのまま、慢性便秘のような状態となって今日に及んでいる。初めのうちこそやきもきしたり、怒ったり、郵便課長に抗議を申し込んだりしていたが、いくら抗議を申し込んでも向うはあやまるだけで事態は好転しないので、近頃では黙って眺めている。

 二月二十日付「読売新聞」、福原麟太郎氏の「暦日なし」という随筆の中に「うちでは最近さきほどの日曜に一枚のはがきも来ず、あまり不思議だから郵便局へ電話をかけてたずねたら云々」という一節があるが、わが練馬局においては郵便が全然来ない日は、二三年前からざらであって、めずらしくも何ともない。二日間続けて来ないことだって、一月の中に二度や三度はある。三日四日無配という日もあって、五日目あたりに厚さ一尺ほどの郵便物をどさりと投げ込んで行く。一休どういうことになっているんだろうと思う。

 それから他の局区内の住民の話を聞くと、郵便は午前便と午後便と二度来るそうであるが、私のところは一日一回だけ。大体午後三時頃一遍で、その時刻までに来なきゃ、その日は欠配である。一日に二度来ることが一年に何度かあるが、めずらしいことがあればあるものだと、そんな日は我が家ではお赤飯をたくならわしになっているくらいだ。日曜日の局員の勤務は午前中だけだから、私の家まで廻り切れないらしく、日曜祭日は原則として配達はない。

 平常の配達状態がこれだから、昨年末の全逓(ぜんてい)争議による混乱はものすごかった。遅れのひどかったのは、都内では中野、足立、葛飾、練馬だったそうで、五日とか六日とかの遅れ方ではない。配達の順序も混乱していて、つまらないデパートの広告などが割に早く着き、重要なのがなかなかやって来ない。雑誌、単行本、新聞のたぐいは全然遅配。余りのことに郵便課に電話をかけたら、当方で只今取り扱っているのは普通郵便とはがきだけで、雑誌新聞のたぐいには手が廻らなくて、そこらに積み重ねてあるという。ではこちらからいただきに上りたいがと言ったら、取りに来ても、積み重ねたまま整理してないから、むだだとの答えであった。だから私はあきらめた。その中練馬局が郵便や小包だらけになって、人間のいる場所がなくなって、局長や課長や局員は建物の外で執務しなければならなくなるだろう。その日まで待つ他はない。

 普通郵便物も大いに遅れた。会合、試写会、告別式の通知などが、ほとんど期日過ぎて到着した。もっとも私は出不精で、いろんなことに義理を欠く傾向があるが、昨年の十二月に限り郵便遅配という大義名分があって、正々堂々と義理を欠くことが出来た。よろこんでいいのか、悲しんでいいのか。

「新潮」の新年号(十二月初めに発行)などが手元に届いたのは、年末から年始にかけてである。アルバイトはも少し早く入っていたらしいが、私の家は午後三時頃の組なので、かく遅れたものだろう。一日に四回も、どさっ、どさっと投げ込まれる日もあって、私たちの眼を見張らせた。しかし雑誌だの単行本だのというものは、毎日少しずつ送られて来るからこそ読む気になるものであって、いっぺんに何十冊と送られて来たら具合の悪いものである。正月ちょっと信州に行き、五日に戻って来たら、また雑誌のたぐいが(年賀状は別にして)二尺五寸ぐらいたまっていた。完全に月遅れ雑誌である。

 それですっかり届いたかというと、今日(一月二十三日)に到るまで未着の郵便が若干ある。破損したのか抜き取られたのか判らない。「週刊現代」から十二月五日付はがきで、某菓子店の菓子を送ったと言って来たが、現物は未だに到着しない。途中で誰かに食べられてしまったのだろう。「週刊現代」の方では、私が食ったと思っているだろうから、割の合わない話である。

 このような未着をのぞいて、年末年始の突貫工事で一応遅配はおさまったようだが、正月を過ぎてアルバイトが引揚げたとたんに、また遅配が始まった。てきめんなものである。たとえば今日でまるまる三日間、私は一過の郵便物も受取っていない。

 どうしてこんなことになるかと言えば、練馬局区内は以前は田畑が大部分を占めていたが、東京都の人口増加につれて急速に家が建ち、郵便量が激増したからである。郵便物が激増すれば、どうすればいいか。配達人を激増させる以外に手はない。ふやさなければ郵便物はたまるにきまっている。これは小学生にも判る理窟だが、実際にはふやされていないらしい。行政機関職員定員法という法律があって、ふやせないのだそうであるが、法律というのは人民を守るためにあるもので、人民を困らせるためにあるのではないと私は思う。政治の貧困と言えば結論として月並だが、生活の不便を私たちに押しっけて平然としているものがどこかにあり、その平然さを支えているどす黒いものがその背後にあり、そいつらと当分対決して行かなければならないことだけは確かだ。

 三年ほど前私はメーデー事件の証人となり、通計五日間証言を行なった。証言なんてずいぶんくたびれる仕事で、日当として三百円前後支給されるが、三百円ぐらいではおぎないがつかない。そのメーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった。真実を述べますと宣誓して、真赤なうそを述べたのだから、もちろんこれは起訴されねばならぬ。ところが検察側は、これを不起訴処分にした。被告団や弁護側が怒るのは当然の話で、偽証しても起訴されないのなら、すねに傷持つ証人は皆自分の都合のいいうそを並べ立てるにきまっている。さらに裁判長が「同証人を不起訴にした検察側の態度は、今後証人として立つ警察官の偽証防止の見地からみて、はなはだ遺憾であった」と見解を述べたら、東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した。何が影響をおよぼす性質のものでないのか。大いに影響をおよぼすことは、中学生にだって判ることだ。こういうむちゃなどす黒い談話が平然と語られることに、私たちは強く注意を払わねばならない。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年三月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「私が世田谷から練馬に引越して来て」の後には「(昭和三十年転居)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、本文中で日曜の配達がないという不満が綴られているが、この当時は日曜の郵便配達が普通に行われていた。総務省公式サイト内の「情報通信統計データベース」の昭和四八(一九七三)年版「通信白書」のこちら(PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『郵便の配達は、明治以来毎日行われてきたが』、昭和二六(一九五一)年一月、『事業合理化の見地から一部の局で一時日曜配達の廃止を試みた。その後、我が国においても日曜週休制が普及し、日曜配達の必要性は次第に希薄となり、また日曜日に到着する郵便物も減少してきたため』、昭和四〇(一九六五)年五月から『東京神田局をはじめとして速達郵便を除き、日曜配達休止が試行され』、昭和四三(一九六八)年からは『本実施された』とある(下線やぶちゃん)。ネット上の外のデータでも一九六五年五月九日に東京神田の郵便局が全国に先駆けて一般郵便物の日曜配達を中止した、とする記載を現認出来た。因みに、私は幼稚園児であったが、この時、春生と同じ練馬区大泉学園に住んでいた。

「福原麟太郎」福原麟太郎(明治二七(一八九四)年~昭和五六(一九八一)年)は英文学者で名随筆家としても知られた。

「昨年末の全逓(ぜんてい)争議」「郵政労働運動の戦後史」(PDF)という資料によれば、この前年の昭和三四(一九五九)年十二月の項に、『全逓、団交権再開闘争で時間外拒否闘争。滞貨』(未配達滞留郵便貨物)全二千万通を『超える』とある。

「二尺五寸」七十六センチ弱。

「突貫工事」年末までの二千万通に、膨大な年賀状が加わったことから、完全に郵便システムがマヒしてしまうことを恐れ、推定だが、非組合員とアルバイトが年末年始に不眠不休レベルの作業をこなしたことをかく言っているものと思う。

「行政機関職員定員法」昭和二四(一九四九)年五月三十一日附法律第百二十六号。郵政省は二十六万六百五十五人とある。なお、この法律は翌年の昭和三六(一九六一)年四月一日から「国家行政組織法」となって廃止されている。

「メーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった」梅崎春生も現場でルポルタージュした(私の電子テクスト「私はみた」及び「警官隊について」などを参照されたい)昭和二七(一九五二)年五月一日の第二十三回メーデーで、皇居前広場に入った一部のデモ隊に対し、警察官が拳銃を発砲、デモ隊に死者一名(都職労の一人で背中か心臓を撃ち抜かて即死)の他、法政大学生警棒で殴打されて死亡、警官らによる暴行障害行為によって千人を超える多数の重軽傷者が出た「血のメーデー事件」公判(デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、内、騒擾罪で二百六十二人が起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したために長期化し、昭和四五(一九七〇)年一月の東京地裁による一審判決は騒擾罪の一部成立を言い渡したものの、昭和四七(一九七二)年十一月の東京高裁による控訴審判決では騒擾罪の適用を破棄、被告の内、十六名が暴力行為等の有罪判決を受けた以外は無罪が言い渡され、検察側が上告を断念して確定)に於いて、警察官の拳銃発射が問題となった。発砲した警視庁第七方面第三中隊五名の内、四名の発砲は不法なもの(銃使用が許容される生命の危険に関わる緊迫したケースではない)であったが、彼らの隊長であった渡辺政雄警視(後に公安二課一係長)は「一人の巡査を助けに、止むを得ずピストルを撃った」旨の噓の「拳銃発射報告書」をこの四人の巡査に書かせ、その虚偽の報告書に基づいて渡辺政雄警視本人が昭和三二(一九五七)年七月と八月の二回、証人に立って、「五人ののがピストルを撃ったが、そは一人の警官がデモ隊に暴行さ、殺さそうになったので、その巡査を助けだ。これらの警官はいずれも地面とを狙って撃ったので、危害は加えていない。私は五人の警官に別個に会って、そういう報告を聞いた」と証言した。とこが、後の公判で当の四人の巡査らがそれが噓であったこと認めてしまう。渡辺警視は弁護団か厳しく追及され、「部下の発砲が不法なのであるらしいとわかったので、噓の報告書を部下に書かせた」と、法廷で自偽証したことを認た。弁護団は渡辺警視を偽証罪で告発、裁判長公正な裁判のたに厳正な処分を検察側に要求したが、その結果は渡辺警視は逮捕ず、不起訴処分となった(以上は『「冤罪と誤判」 前坂俊之著 田畑書店』(一九八二年五月刊)の一部(PDF)他、複数の資料を参照した)。

『東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した』この当時の、とんでもない東京地検公安部長の姓名を調べようとしたが、行き当たらなかった。御存じの方は是非、お教え願いたい。その不法にして不道徳な男を永遠に忘れぬよう、名をここに刻したいと思う。]

諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事

     二 座頭旅にてばけ物にあひし事


Zatoukuwaru

 ある座頭みやこのものにて有りけるが、田舍へ下るとて弟子を一人めしつれ、かた山里をとをりしに、日くれ、とまるべき宿なくて、ある辻堂にとまりけるに、夜半すぐるほどに、女の聲にて、

「これはいづくよりの御きやくにて侍るぞ。わが庵みぐるしくは候へども、是れに候はんよりは一夜をあかし給へ」

といふ。座頭きゝて、

「御心ざしのほど忘れは侍れども、たびのならひにて候へば、こゝとてもくるしからず候ふ。そのうへ、夜のほども、ちかく候へば、參るまじき」

といふ。弟子、申すやう、

「御心ざしのほどにて候ふに、かやうなる所に御とまり候はんよりは、たき火などにもあたり、湯水のたよりよく候はんまゝ御越し候へ」

と申す。かの女もひらにと、申しけれども、とかく、われらはこゝがよく候ふとて、物もいわずゐければ、

「しからば、此子を、すこしの間あづかり給はれ」

といふ。

「いやいや盲目のことなり、ことに夜中にて候へば、あづかり申す事なるまじき」

と、かたぎつて申しければ、

「それはあまりにつれなき事にて候ふ、ぜひにあづけ申す」

とて、さし出だす。弟子申すやう、

「少しの間にて候はゞ、それがし、あづかり候はん」

と申せば、師匠きゝて、大いにいかり、

「無用也」

と申せども、

「別のしさいあらじ」

とて、弟子、子をあづかり、ふところにいだきゐければ、女、かへりぬ。少しの間に此子ふところにて大きになりければ、師匠に、かく、といふうちに、此子、十四、五さいほどの子となりて、かの弟子をくひにかゝる。弟子、

「こはなにごとぞ」

とかなしむうちに、ほどなく、くひころしけるに、又、さいぜんの女の聲にて、

「師匠の座頭どのに、いだかれよ」

と云ふ。座頭きもをつぶし、家につたわるわきざし、□□箱にありけるが、取り出だし[やぶちゃん字注:底本では二字の判読不能字の右に『琵琶』と編者注する。]、

「なに物にても我にかゝらば一さし」

と、ぬきもちゐければ、此脇指(わきざし)に、をそれて、よりつかず。女、

「なにとていだかれぬぞ」

としかりければ、子のこゑとして、

「何としてもそばへよられず」

と云ふ。しばらく問答して、かの女も、いづくとなく歸りぬ。座頭、おもふやう、扨(さて)もおそろしき事にあひつるものかなと、脇指をはなさずもちゐけるほどに、夜もすでにあけぬ。さらば、立ち出でんとおもひ、道にかゝりてあゆみ行く、しかる所に、だれともしらず、人にゆきあひけるが、此人申すやう、

「いかに、座頭どの、今日はいづれより出でられ、いづれかたにとまり給ふぞ」

ととふ。座頭、有りし事ども物がたりしければ、

「それには、ばけ物のすむ所なり。ふしぎのいのちをたすかり給ふものかな。まづまづこなたへ入らせ給へ。くはしく御物がたりをも承り候はん」

とて家に入れ、いろいろの馳走(ちそう)をして、

「さて件(くだん)の脇指を一目(ひとめ)御みせ候へ」

といふ。座頭しあんして、

「いや此脇指は人にみせ申す事なり申さず」

とて、はばきもとをくつろげゐければ、又、かたはらより、

「見せずは、くひころせ」

と云ふ聲、あまた聞へける。扨(さて)は件(くだん)のばけ物ぞと心得、脇指をぬき、四方八方、きりはらひければ、しばらく有りて世間もしづかにそらもはれて、まことの夜こそ明けにける。それより座頭は、あやうき命をたすかり、やうやう都へ歸りけると也。此脇指、三條小かぢがうちたる銘の物なるゆへに、そのきどくありけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三巻頭「いかなる化生(けしやう)の物も名作の物には怖るゝ事」に基づく、完全な同話。挿絵の右キャプションは「座頭ばけ物にくいころさるゝ事」。

「御きやく」「御客」。

「御心ざしのほど忘れは侍れども」不審。「忘れずは侍れども」ではなかろうか? 「ずは侍り」は「ずはあり」の丁寧表現ととれ、「ずはあり」は「ずあり」の強調表現であるから、「有り難いお志しの程は、これ、深く心に刻みおいてはおりますけれども」の謂いである。

「ひらに」何卒。是非とも。

「とかく、われらはこゝがよく候ふとて」ここも会話記号を附さないのは頷ける。「物もいわずゐければ」と後へ続く以上、上記の台詞は女にあからさまに答えたものではなく、弟子がそっちへ行きたいとぐずるのを、内輪で諭す師匠の言葉だからである。「我らはここが分相応なので御座るぞ、よいな。」というのである。

「かたぎつて」「かたきる」で「日本国語大辞典」に一方的に相手との交際や連絡を絶つという謂いを見出せる。出来ないときっぱり強く断って。ここまでの師匠の固辞があるのに、今度は子を預かて呉れなどとは言語道断という生理的拒絶感を思うと、自然な表現である。

「別のしさいあらじ」「しさい」は「仔細」で、ここは「不都合」「差し障り」の意。「別に、どうってこと、ありませんよ」。

「かく」「お、おっ師匠さま! こ、子(こお)が! な、何やらん、お、大きゅうなって参りまする!!」といったように叫んだのである。

「こはなにごとぞ」「こ、これっは! な、なんじゃあッツ!!!」

「かなしむうちに」歎き悲しみ、阿鼻叫喚する間(ま)もなきうちに。

「さいぜん」「先前」。

「なに物にても我にかゝらば一さし」「物の怪であろうが、盗賊の如き者であろうが、如何なるものをも我に襲いかかってきたら! これにて! 一刺し!」彼は座頭で目が不自由であるから、その子がみるみるうちに大きくなって頭から弟子を食い殺した(挿絵に従う)ことも知らず、女や子が変化(へんげ)のものと現認識しているわけではない点に注意しなくてはならぬ。それが後半の怪異のツボでもあるからである。

「ぬきもちゐければ」「拔き持ち居ければ」。

「をそれて」「恐れて」。但し、歴史的仮名遣では「おそれて」。

「はなさずもちゐけるほどに」「離さず持ち居けるほどに」。

「夜もすでにあけぬ」ものは見えずとも光りあるを僅かに感ずることはでき、また、虫の集く声の止んで、早朝の鳥の声が聴こえてきたのであろう。無論、それは総てが物の怪による演出、フェイクであることも知らんずに、なのである。なお、この時点で座頭は手探りして弟子の姿が消えており、多量の出血のあることなどを認知したであろうから、この時、かの女と子は、確かな人食いに鬼、変化のものと認識はしたはずである。

「いづれかた」「孰れ(が)方」。

「しあん」「思案」。

「はばきもとをくつろげゐければ」「はばき」は「脛巾」「行纏」「半履」などと書き、「脛巾裳(はばきも)」の略。旅行や外出の際に防護目的と、疲れを防止させるとして脛(すね)に巻きつけた布製のもの。後世の脚絆(きゃはん)と同じい。座頭がこの者(座頭が全く警戒しなかったのは声の主が男のそれであったからであろう)に気を許して、「はばき」のきつくまいたそれを緩めて足をくつろげ、ゆったりと座っていたところが。

『又、かたはらより、「見せずは、くひころせ」と云ふ聲、あまた聞へける』この声こそ、かの「女怪」の声なのである。それが「男」の「かたはらより」するということは、前の接待した「男」とは、それこそ、弟子を食い殺したかの「児怪」であったと読める。「あまた」というのは物の怪が複数いるというよりも、おどろおどろしく何重にも声が反響するという表現と読む。

「三條小かぢ」「三條小鍛冶」。平安時代の伝説の刀工三条宗近(生没年未詳)の流れを汲む刀工或いはその工房(古く、製鉄業者を相称して「大鍛冶(おおかじ)」と称したのに対し、特に刀鍛冶のことを限定して「小鍛冶(こかじ)」と呼んだ)。ウィキの「三条宗近」を参考までに引いておく。『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(十世紀末頃)『の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって』「十~十一世紀」・「十二世紀」等と幅があるとする。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』である。

「きどく」「奇特」。神仏の霊験(れいげん)。]

2016/08/23

諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事

諸國百物語 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:カテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」を創始し、全百話の電子化注を開始する。

 「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言えるのである。但し、著者・編者ともに不詳である(以下に示す「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)。ウィキの「諸国百物語」によれば、『伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一』とし、特徴としては「諸国」とある通り、『地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである』。『本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも』寛文三(一六六三)年の作者不詳の「曾呂利物語」『からの採用といわれる話は』二十一話にも及び、他にも先行する「沙石集」「奇異雜談集」「因果物語」「宿直草」などの古書を出所とする話も多い。以上の記載でも参考にさせて頂いた、基礎底本(後述)の太刀川清氏の解題によれば、『本書の怪異は幽霊が圧倒的に多く、全体の三分の一を占める』とあればこそ、十二分に怪異を味わって戴けるものと存ずる。

 底本は昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の第二巻太刀川清氏校訂「百物語怪談集成」に所収するそれを基礎底本としつつ、私のポリシーに従い、概ね漢字を恣意的に正字化して示すこととする(底本は新字旧仮名遣仕様)。読みは私が振れると判断したもの、或いは難読と判断したものに限った(一部に歴史的仮名遣の誤りがあるがママとし、原則、注記しなかった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。本文は平仮名が多く、そのために却って読みにくくなっている箇所があるので、読点を私が一部に追加し、また、直接話法箇所は改行を施して読み易くした。一部に添えられてある挿絵は基礎底本に載ものをトリミングし、汚れを除去して各標題の後に示した。目録下の底本編者の附した丸括弧入りのノンブルは省略した。注は怪異をかったるくさせぬよう、なるべくストイックを心掛けることとするが、若い読者をターゲットとする注なれば、識者には言わずもがなの注も多かろうとは存ずる。悪しからず。今日から百日後は本年11月30日……その夜の怪異が今から楽しみである……【2016年8月23日始動 藪野直史】]

 

 

諸國百物語序

 

そもそも此百物語の出所を尋ぬるに、信州諏訪と云ふ所に武田信行といへる浪人あり。ある夜、雨中のつれづれに、伴なふ旅の若侍(わかさぶらひ)三四人よりあひ、四方山(よもやま)の咄をするついで、信行いへるやうは、昔より百物語と云ふことをすれば、かならずその座に不思議なる事ありといへり。いざ、こよひ語りて心見んとて、をのをの車座になみゐて、眞中に燈心百筋たてゝ、灯(ともしび)をとぼし、さて、咄をはじめ、順々にまわし、咄ひとつにて燈心一すぢづゝのぞきけるほどに、すでに咄も九十九になり、燈心も今一すぢとなり、何とやらん物すごき折ふし、座敷の天井へ大磐石(だいばんじやく)などのおつるごとく、おびたゞしき音して灯もきへければ、をのをのおどろきけるに、信行、さはがず、心得たり、といふまゝにとつておさへ、ばけ物はしとめたり。大きなる人の股(もゝ)にてあるぞ、火をともせといへば、手に手に灯をたてゝこれをとれば、その座につらなりし侍(さぶらひ)の股をとりふせゐたりけり。みなみな、どつと笑ひて退出しけり。そのとき執筆(しゆひつ)の書きしるしたる咄の書(しよ)を、今梓(あづさ)にちりばめ、世にひろめて老若男女(ろうにやくなんによ)のなぐさみ草とす。當時(そのとき)すでに百物語と云ふ雙紙(さうし)あれども、わらんべのもてあそび草にして、出所(しゆつしよ)正しからず。今、此雙紙は、その國々の諸人も聞きおよび、見及びたる咄の證據たゞしきをあつめ、五卷として諸國百物語と名付くると、しか云ふ。

 

[やぶちゃん注:「梓(あづさ)にちりばめ」その百話を書物に鏤(ちりば)め。上梓すること。「梓」は落葉高木の木大角豆(きささげ:シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata)の別名で、中国で本種を版木として用いたことに由来する。

「出所(しゆつしよ)正しからず」その話の出所(でどころ)がどれも正確でなく、話柄の一部にも事実は思われない不審な箇所が多い、というのである。本書の筆者の格別の自負が窺える附言である。

 

 なお、以下に全十巻分の目録が並ぶが、それぞれ各巻の頭に配することとした。]

 

 諸國百物語卷之一目錄

 

一  駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事

二  座頭旅にてばけ物にあひし事付タリ三小鍛冶(こかぢ)が銘の刀(かたな)の事

三  かわちの國くらがり峠道珍(どうちん)天狗に鼻はぢかるゝ事

四  松浦伊豫(まつうらいよ)が家にばけ物すむ事

五  木屋(きや)の介五郎が母夢に死人(しびと)をくいける事

六  狐山伏にあだをなす事

七  蓮臺野二つ塚(つか)のばけ物の事

八  後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經の功力(くりき)

九  京東洞院(ひがしのとうゐん)かた輪車(わくるま)の事

十  下野の國にて修行者亡靈にあひし事

十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩(わづらい)の事

十二 するがの國美穗が崎女の亡魂の事

十三 越前の國永平寺の新發意(しんぼち)が事

十四 せつちんのばけ物の事

十五 敦賀のくに亡靈の事

十六 栗田源八ばけ物を切る事

十七 本能寺七兵衞が妻の幽靈の事

十八 殺生をして白髮(はくはつ)になりたる事

十九 會津須波(あいづすは)の宮(みや)首番(しゆばん)と云ふばけ物の事

二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事

 

 

諸國百物語卷之一

 

     一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事


Itagaki

 するがの國の住人に儀本(よしもと)といふ人あり。あるよのつれづれに、家の子らうどうをあつめ、しゆゑんゆふけうをせられし折ふし、儀本、仰せられけるは、

「たれにてもあれ、此内に、せんげんの上のやしろまで、こよひ行きたらんや」

と、の給へば、日ごろ手がらをいふものども、おゝしといへども、是れは、きこゆるましやうのすむ所なれば、たやすく見て參らんといふもの、一人もなし。こゝに甲斐の國の住人板垣の三郎とて、代々ゆみやをとりてかくれなく、ぶゆうのほまれある人ありけるが、

「それがし參らん」

と申す。儀本、なのめならずおぼしめし、すなはちしるしを給はりければ、板垣は御前(ごぜん)をたち、大かうの人なれば、物のてともせず、すぐに淺間へまいられける。ころは九月中旬のことなれば、月さへわたる森のうち、嵐はげしき落葉のおと、すさまじき山みちを、心ぼそくもすぎゆきて、上のやしろの御まへに、しるしを立てをき、歸られける。かゝる所へ、いづくともなく白きねりのひとへきぬをかづきたる女ばうに行きあひたり。扨(さて)は、おとにきく、へんげの物、我を心みんとおもふにやと、板垣、はしりかゝつて、かづきのきぬを引きのけて見ければ、まなこは一眼(いちがん)にて、ふりわけがみの下よりもならべる角は、かずをしらず、うすけしやうに、かねくろくつけ、おそろしきこと、たとへていはんかたもなし。されども板垣はさわがずして、なにものなればとて、腰の刀に手をかくれば、けすがごとくに、うせにけり。板垣はしづかに立ちかへり、儀本の御まへに參り、

「しるしをたておき歸り候ふ」

と申し上げれば、御前の人々、

「板垣なればこそ、つゝがなくかへり候ふ」

と、をのをの、かんじあひけり。

「扨(さて)めづらしき事はなかりけるか」

と、御尋ね有りければ、

「いや、なに事も御座なく候ふ」

と申し上げる所に、さしもくまなき月の夜、にわかにそらかきくもり、ふる雨、しやぢくのごとく、はたゝがみなり、おびただし。一座の人々、儀本をはじめ、けうをうしなふ所に、こくうより、しわがれたる聲にて、

「いかに板垣さんげせよ」

と、たからかに、よばはりける。その時、御まへなる人々、

「見申されたる事あらば、御前にて有りのまゝ申し上げられよ」

と、をのをの申されけるゆへ、板垣このていならば、とてもいのちはあるまじとおもひ、淺間にての有りさま、のこらず申し上げけれども、雨風なをもやまずして、いかづち、おびたゞしくなり、時々、いなびかり、殿中にみちみちて、すさまじきこと、いふばかりなし。

「いかさま此ていならば、板垣をとられんとおもふぞ、いそぎ長持へ入れよ」

とて、板垣を長持に入れ、をのをの、まわりに番をしけるに、やうやう、そらはれ、夜もあけゆくほどに、板垣を長持より取り出ださんとてあけゝれば、中には、なにも、なし。

「是れはいかなることぞ」

と、おのおの、ふしんをなして儀本に、かくと申し上げる所に、こくうより二三千人の聲として、一度に、どつと、わらひけるを、はしり出でてみければ、板垣がくびを、ゑんの上へおとして、そのすがたはみへずなりにける、となり。

 

[やぶちゃん注:「曾呂利物語」(冒頭注参照)巻一巻頭「板垣の三郎高名の事」に基づく。原典では「駿河の國大森、今川藤(いまがはふじ)」を主人(城主)とするが、コンセプトは全く変わらない。挿絵の右キャプションは「いたがき參郎へんげの物にあふ事」であろう。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子論文「曾呂里物語』の類話によれば、江本裕氏の指摘として、『「儀本」には今川義元、「板垣の三郎」には武田信玄の重臣板垣三郎佐衛門信形が想起されるとする。なお、板垣が化物と遭遇したという「千本」の上の社(不明)は、『諸国百物語』には「浅間」とある。現在の静岡浅間神社(静岡市)のことか。この浅間神社については、信玄と義元がそれぞれ当社との関わりを重視していた(『静岡県の地名』日本歴史地名大系、平凡社)。本話は、信玄の家臣板垣三郎が、府中の今川義元のもとで、その勇者ぶりを示すために肝試しに出かけた話か』と記しておられる。

「らうどう」「郎等」。

「しゆゑんゆふけう」「酒宴遊興」。

「せんげん」後に出る「淺間」で、概ね、富士山を信仰崇拝の対象とする浅間(せんげん)信仰に基づく、各地の山や周辺一帯の地域で最高地点に近い箇所にそれを祀った。

「ましやう」「魔性」。

「ぶゆうのほまれ」「武勇の譽れ」。

「なのめならず」「斜めならず」で「格別な気勢なりと」。

「しるし」後日、そこに行ったことを確かに示すために遺留し置く証拠となる物品。

「大かう」「大功」(既に非常な勲功を立てていること)或いは「大巧」(非常に武勇に長けていること)。

「物のてともせず」文法的構造に不審があるが、「物ともせず」の意でとっておく。

「白きねりのひとへきぬ」真白な上質の練糸で織った絹織の単衣(ひとえ:裏を打っていない衣)。

「かづきたる」被っている。

「女ばう」「女房」。

「心みん」「試みん」。

「うすけしやう」「薄化粧」。

「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。

「なにものなればとて」校訂者の太刀川清氏がここに会話記号を附さなかった意図は私は判る。怪異は場合によっては最初に言上げすることによって負けることがあるからで、ここも私は心内語ととりたい。

「さしも」副詞で「その時まであれほどにすっきりと」。

「しやぢく」「車軸」。

「はたゝがみなり」「霹靂神(はたたがみ)鳴り」鳴り轟く雷鳴(神鳴り)の意の一語の名詞としてとる。その方が朗読のリズムに合い、怪異の勘所を崩さぬからである。

「けうをうしなふ」「けう」は「興」であろうが、だとすると歴史的仮名遣は誤りで「きよう」である。しかし、ある意味、主人が物好きでやらねばよいのにやってしまった座興の興の余裕が驚くべき雷鳴によって失われるの謂いとしては自然である。或いは、「興」が忽ち、「消えてなくなる・ふっとんでしまう」の「消失(けう)す」が頭にあってかく記してしまったものとも読める。

「こくう」「虛空」。

「さんげ」「懺悔(さんげ)」。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは我ら(変化(へんげ)のもの)に遇ったことを、主人に「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。

「てい」「體(てい)」。様子・状態。

「ふしん」「不審」。

「そのすがた」物の怪の姿であるが、実体として見えていた訳ではないから、物の怪の気配が辺りの急速な鎮静静寂化とともに消え失せたと読むべきであろう。]

ハゼ釣り記   梅崎春生

 

 本誌先号の巻頭「絵と随想」欄に、私は「釣好き」と題する文章と画をかき、莫大(と言うほどではないが)の稿画料を貰った。これをどう費消すべきや。少時頭をかたむけて、私ははたと膝をたたいた。これは魚で得た稿画料だから、魚釣りに使ってやろう。あの文章にも書いた通り、私はほとんど東京では釣りに行ったことがないから、これが絶好の機会というものだ。

 早速家族をあつめて相談してみると、皆賛成で、ことに子供たちは大賛成で、魚釣りは社会科ならびに理科の勉強になるから(舟宿の仕組みや釣師の生態が社会科で、魚の分布状態や生態が理科だそうだ)学校を休んでも行きたいとの熱の入れ方である。その向学心の旺盛(おうせい)なこと、私の小学生の時にそっくりで、血は争えないものだとつくづく思った。

 でも、家族四人だけで舟一艘を借り切るのはもったいないから、遠藤周作君に電話で口をかけてみたら、

「もし舟がひっくり返ったら、かなづちで泳げないし、それに、ぼ、ぼくはあの、ミミズのたぐいが恐いものですから……」

 ミミズが恐いだなんて、日本男児にもあるまじきことだと思うが、折角恐がっているものを、無理に連れて行くわけにも行かない。

 で、十月二十三日。当日はいい天気で、風もなく、絶好の釣日和である。車を駆って浅草橋の舟宿に着いたのが午前九時半。同行者は新潮社のT君とS君、講談社のK君という顔ぶれで、うちと合わせて合計七人だ。

 目的はハゼ。私一人なら、も少し専門的な魚釣りをしたいのだが、うちのも前記三青年も釣りには初心者ばかりなので、大衆的なハゼ釣りというところに落着いた。つき合いだから、仕方がない。

 さわやかな河風を切ってと言いたいところだが、実状はどぶくさい河水をかきわけて、われらが乗舟はエンジンの音も軽やかに走り出した。途中で餌宿に寄ったら、ゴカイは売切れで、余儀なくイソメを買う。今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属するから、ここでは省略する。

 大きな橋を二つくぐって、海に出る。海に出ても、潮のにおいはしない。するのは芥(ごみ)のにおいだけ。見ると彼方に芥で島をつくっている。こんなところで釣るのはいやだから、更に遠出して大森沖に行き、釣り出したのが午前十一時。水深は二尋(ふたひろ)ぐらいのところだ。

 先ず最初に釣り上げたのがうちの長男で、四寸ばかりの型のいいやつである。それから長女、それから家内と、釣り上げるのは女子供ばかりで、男たちは顔を見合わせて苦笑、かつはあせっているうちに、私の竿にぶるると手ごたえがあり、三寸ぐらいのを引っぱり上げた。

 毎度のことながら、釣り上げる時の気持はこたえられない。

「フグだ。フグが釣れた」

 と、T君が騒ぎ立てたので、見たら一寸五分ぐらいの可愛らしいメバルであった。メバルと判っても、彼は気味悪がって、船頭さんに頼んで外(はず)して貰っていた。

 外道(げどう)としては他に長男が、スマートな魚を一匹釣った。舟中大騒ぎして(私と船頭は別だ)アユだヤマメだと評定していたが、東京湾にアユだのヤマメだのがいるわけがない。マルタの子供なのである。長男は大騒ぎされて、にこにこと鼻をうごめかしていた。

 あちこち移動して戦果を上げ、午後一時半、昼飯にしようということになった。船頭がテンプラの準備をしている間、私たちはウイスキーを傾けた。今夏信州の霧ガ峯に登った時もそうだったが、こんなところで飲むウイスキーは、安ウイスキーでも、スコッチみたいな味がするものである。男四人でまたたく間に一瓶空にしてしまった。

 船頭さんのてんぷら。これがまた絶品で、銀座の一流店もこれには及ばない。潮風に吹かれながら食べるから絶品なのであって、前記ウイスキーと同様である。

 てんぷらはハゼだが、そのハゼは舟宿から用意して来たもの。われらが釣ったのは、あとで他人に見せびらかすのに必要でもあるし、惜しくて供出する気にはなれない。

 こういう具合に、一時間ばかりかけて、われらは大いに飲み、大いに食って、陶然となった。

 ウイークデイだから、海面に釣舟はちらほらと見えるだけで、日はうららかに照っているし、四辺はしんと静かだし、全くいい気分である。

 午後はまた場所を移動して釣り始めた。

 時々他の釣舟とすれ違う。どのくらい釣り上げたか、お互いに探り合うような眼付きで、すれ違う。

 四時半になって、夕風がやや肌にしみて来たから、竿をおさめた。おのおの釣果をしらべてみると、K君が六十匹ぐらい、私もその程度、新潮組は意外に振わず、T、Sの両君を合わせて五十匹程度であった。新潮社はハゼには弱いらしい。

「でも、メバルを釣ったのは、僕だけだから……」

 いくらメバルでも、一寸五分じゃ話にもなりはしない。

 家内は三十匹。子供たちもそれぞれ二十匹ずつ釣った。

 新聞の釣欄によると、東京湾のハゼは大繁昌で、一束二束は楽だと書いてある。今日の釣果ではちょっと恥かしいというわけで、他人に発表する時は百匹を足すことにしようと、相談は一決した。その計算で行くと、私の釣果は百六十匹ということになる。

 舟脚も軽く浅草橋に戻って来た。静かな海面から戻って来ると、都会とは何とうるさいところだろうと、身にしみて判る。

 女子供は先に家に帰し、男たち四人で新宿におもむき、行きつけの店を二三廻って、獲物を見せびらかした。入れものの中では、ハゼがひしめき合い、まだ生きているのもいて、ほんとにハゼという魚は可愛らしい顔をしている。

 最後に「梅平」に落着き、ハゼを空揚げにして貰って、それを肴(さかな)に祝盃を上げ、それから解散した。

 その翌日から三日間、私は晩酌の肴に、ハゼばかりを食っていた。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年一月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「本誌先号」の後には「(昭和三十四年十二月号「小説新潮」)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、その先月号に梅崎春生が書いたという「釣好き」という文章は底本全集には所収しない。

「ハゼ釣り」東京湾には条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種が棲息するが、一般に東京湾内で「ハゼ釣り」の対象として人気があり、天麩羅にして美味いものはゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus ではある。

「ゴカイ」現在は環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。

「イソメ」多毛綱 Polychaeta に属する多様な種を釣り餌として「ゴカイ」「イソメ」と呼ぶが、狭義の「ゴカイ」とは縁遠い種を「ゴカイ」と平気で呼び、「イソメ」でないとんでもない種を広汎に「イソメ」と今も名づけているので、現物を見ないと分からぬが、ゴカイが「売切れで、余儀なく買う」と言っている以上、釣餌としては明らかに格下がりで(その代り安い)、体が柔らかく、直(じき)に切れたり、針から外れてしまう印象の謂いからは、私はこれはゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus ではないかと思う。前記のカワゴカイに似るが別種で、「バチ」「エバ」などと呼称する種で、大潮時に起こる群泳生殖で知られる。私がブログ・カテゴリ「博物学」で十回に分けて電子化注した新田清三郎氏の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて』に出て来るそれで、まさにその研究対象の「いとめ」棲息地はこのロケーションの近くである(なお、カワゴカイ類と本種の違い等については同第一回目の私の注を参照されたい)。なお、現在では、「イソメ」と称する格安の釣り餌は朝鮮・中国産で本邦に産しない多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ科アオゴカイ Perinereis aibuhitensis であるが、本記事の頃に既にこれが一般流通していたかを考えると、やや疑問なので外しておきたく思う。

「今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属する」梅崎春生が「社会科」と言っているのは所謂、廃液による水質の汚染問題であろう(因みに、「公害」という単語は一九六〇年代前半には国語辞典には載っていなかった)。東京湾のカワゴカイ類の棲息していた東京湾奥の河口附近は家庭や工場のゴミや廃液の投棄によって有害物質(後の「ヘドロ」)が多量に堆積し、生物化学的酸素要求量(Biochemical oxygen demandBOD)が異様に高くなっていたと考えられ、この頃にはカワゴカイが激減していたものと思われる。多毛類は水質悪化にもかなりの耐性を持つ種が多いが、あの時代のそれは想像を絶していたと思われる。今一つ、それに連動して全国的にゴカイ採取が割に合わなくなって、ゴカイ採取に従事する人間が減ったとも考えてよいであろう。邦画の名作三本に私が必ず入れる小栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)の中で、「ゴカイじいさん」がゴカイ獲りの小舟から落ちて死ぬシークエンスがあるが(舞台は大阪)、あの時代設定は昭和三〇(一九五五)年であった

「大きな橋を二つくぐって、海に出る」浅草橋で乗船しており、隅田川をそのまま下って大森沖へ向かっているから、永代橋と勝鬨橋と思われる。

「芥で島をつくっている」隅田川河口から東京湾に乗り出たところから真西六キロメートルほどの位置に現在の夢の島が見えたはずである。

「二尋(ふたひろ)」三メートル六十三センチほど。

「四寸」十二センチ。

「三寸」九センチ。

「一寸五分」三センチ。                        

「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れか。

「マルタの子供」条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtii のこと。マルタウグイとも呼ぶ。本邦では神奈川以北の太平洋側及び富山以北の日本海側の、主に沿岸部から河川河口部の汽水域に棲息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚。幼魚は一年ほど、河口付近で過ごして七~九センチメートルほどに成長してから海に降る。参照した