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2016/08/27

譚海 卷之一 江戸下金商賣御掟の事

江戸下金商賣御掟の事

○江戸に下金(したがね)商賣免許の者六十六人有(あり)、上より符(ふ)を給はり居る也。世間流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。此中(このうち)古金(こきん)と稱する品四十三種あり、慶長金も此品の内也。慶長已來通用の金は四十四種より段々ありといふ。今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの也とぞ。甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也。

[やぶちゃん注:「下金商賣」下金屋(したがねや)と言って、江戸時代には各地方から買い集めた金・銀の地金(じがね)を金座・銀座に売り込むことを商売にしていた者がいたが、その商人(あきんど)のことである。

「世間流布する所の金の品三百六十五種」これは結局、金銀の含有量の異なる貨幣、或いは同じでも、違った形・違った名称・違った時期の金銀含有貨幣の内、現在(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)でも実用通貨価値を保有する貨幣種数を指すと考えてよかろう。

「符」「絵符」「会符」などと書いた「えふ」江戸時代に街道運送の優先的取扱を図るために公家や武家などの荷物につけた、何よりも輸送で最重要とされて優先処理される御用札のことであろう。

「古金(こきん)」この読みは甲斐で天正年間(一五七三年~一五九二年)以前に鋳造されたとされる貨幣の一種(大判)である「古金大判(こきんおおばん)」から推定した(これは天正一六(一五八八)年初鋳とされる「天正大判」(主に豊臣家が金細工師後藤四郎兵衛家に鋳造を命じた大判貨幣。「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」・「天正長大判」及び「大仏大判(だいぶつおおばん)」が知られる)より古い時代のものとされるそうである)。

「慶長金」慶長大判のことか。江戸時代の初期の慶長六(一六〇一)年から発行された大判貨幣で、墨書・金品位及び発行時期などによって数種類に細分類される。参照したウィキの「慶長大判」によれば、『慶長大判、慶長小判および慶長一分判、慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼び、徳川家康による天下統一を象徴する貨幣として位置付けられる』とある。

「今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの」この「歩」は広義の「歩合」の意で全体の四割の謂いであろう(狭義では千分の一になっておかしくなるからである)。当時(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)「通用の小判」というと、最新の発行小判では「元文小判(げんぶんこばん)」である。元文元(一七三六)年五月から鋳造が始まり、同年六月十五日から通用開始された一両の額面を持つ小判で、参照したウィキの「元文小判によれば、金が六十五・三一%、銀が三十四・四一%(雑〇・二八%)とあるからドンブリで銀四割ほどというのはおかしいとは思われない。

「甲州金」狭義には日本で初めて体系的に整備された貨幣制度及びそれに用いられた金貨の称。ウィキの「甲州金より引く。『戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『まで鋳造されていた』(戦国期の前史は省く。リンク先を参照されたい)。『武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て』、再び、『幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという』。甲州金は元禄九(一六九六)年)に一時、『通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される』。『近世の甲州金は』、慶長一三(一六〇八)年)から翌慶長一四(一六〇九)年に『かけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは』慶長六(一六〇二)年に『慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている』。『江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている』。『幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した』。『このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した』。文久元(一八六一)年には『甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという』とある。

「甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也」推測であるが、これは、甲州の金座で、金をたった一割しか含有しない、古くなって使用に堪えなくなった鋳造貨幣を一枚だけ潰そうという時(そして無論、そこから金を抽出出来れば、するのであろう)でも、必ず事前に潰すことを公儀に伺いを立てた上で潰すという風に読んでおく。何か、誤りあれば、識者の方、御教授を願う。]

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