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2016/08/07

芥川龍之介 手帳5 (1)

芥川龍之介 手帳5

 

[やぶちゃん注:現在、この資料は不明であり、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《5-1》のような表示はない。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳5」の記載推定時期は、構想メモのある決定稿作品から推すなら、大正七(一九一八)年(「枯野抄」同年十月『新小説』)から「河童」(昭和二(一九二七)年三月『改造』)をまず措定は出来る。]

 

   五

 

社交の foundation lie なり 精々 truth suggest する lie なり 斷じて truth にあらず

 隣人を如何に思ふやを正直に云ふとせよ 社交は必死せん

 最も幸福なる社交の結果は完全に相互を輕蔑する場合に起る 孟子曰大人を見る時は之を藐す この眞理に觸れたるものなり

[やぶちゃん注:foundation」基礎・土台・下塗り。

suggest せる」暗示させる・示唆させる・それとなく感じさせる・思わせる・連想させる・心に浮かばせる。

「孟子曰大人を見る時は之を藐す」「孟子」の「盡心章句下 三十四」の言葉。以下に引く。

 

孟子曰、説大人則藐之、勿視其巍巍然、堂高數仭、榱題數尺、我得志弗爲也、食前方丈、侍妾數百人、我得志弗爲也、般樂飮酒、驅騁田獵、後車千乘、我得志弗爲也、在彼者皆我所不爲也、在我者皆古之制也、吾何畏彼哉。

(孟子曰く、「大人に説(と)くときは、則ち、之れを藐(かろん)じて、其の巍巍然たるを視ること勿かれ。堂、高きこと數仞(じん)、榱題(すいだい)數尺、我れ、志を得るとも爲(せ)じ。食前に方丈・侍妾數百人、我れ、志を得るとも爲じ。般樂(はんらく)して酒を飮み、驅騁(くへい)して田獵(でんらう)し、後車(こうしや)千乘、我れ、志を得るとも爲じ。彼に在る者は、皆、我れの爲ざる所なり。我に在る者は、皆、古への制なり。吾れ、何ぞ彼を畏れんや。」と。)

 

・「巍巍然」見かけ上の「富貴で勢いの盛んなさま」を指すネガティヴな意。

・「榱題」「榱」は垂木で、「題」はその垂木の軒下に出た小口(こぐち)。ここはそれが長く突き出ている豪家の謂い。

・「般樂」大いに遊び楽しむこと。逸楽。

・「驅騁して田獵し」車馬を駆けって田野に狩りをし。

・「後車千乘」後に千台のもの車を従えること。

即ち、「富貴と権勢に富んだ者に対して話を説かんとする時には、その相手の総ての現象的属性を軽く見て説かねばならぬ。その相手の富や権威やそれに付随する諸々の物や者などという下らぬ対象を決して意識してはならぬ。」の意。]

 

○待合の女將着物をうると云ふ 友だちと車にのりてゆく 自動車澤山とまつてゐる ねまきをきてゐる故引返す 銀座通り坂になる 上に春菊をつむ女あり

[やぶちゃん注:これは或いは芥川龍之介の見た夢記述ではあるまいか? 無論、それを構想の素材としようとしたものかも知れぬが。]

 

○⑴鴻門の會⑵阿房の火(封蜀の事)⑶蜀中⑷殺大公⑸九義山

[やぶちゃん注:あの項羽と劉邦の壮大な活劇を芥川龍之介が小説にしていたら、これはまた、とても面白かったろうになぁ! 残念!

「阿房の火」秦の始皇帝が建てた大宮殿阿房宮(あぼうきゅう)は、永く「史記」の秦の滅亡に関する記述から楚の項羽によって焼き尽くされた(その巨大にして豪壮さ故に三ヶ月に亙って火が消えなかったとされる)というのが現代までの定説であった。ところが、「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が中国で二〇〇三年に発表されている(ウィキの「阿房宮」に拠る)。

「殺大公」「大公」は「太公」と読み換えるなら、これは劉邦の父劉太公で、彼は彭城の戦いで劉邦が項羽に大敗した際、劉邦の妻呂雉(りょち)とともに項羽に人質として捕らえられ、その後の広武山の戦いの折り、項羽が大釜を用意し、「汝の父親を釜茹でにされたくなければ、潔く私に降伏せよ」と劉邦を脅迫したことを指すのではあるまいか? 因みに参照したウィキの「劉太公」によれば、この時、劉邦は『秦末の動乱の時期に項羽と共に楚の懐王に仕えていた時のことを持ち出し、「我々は義兄弟の契りを交わした間柄だ。つまり私の父は、お前にとっても父だ。釜茹でを執行するのならば、やればよろしい。よく茹で上がったならば、その煮汁を私にも一杯分けてくれ」と、言って全く相手にしなかったという』とある。

「九義山」不詳。所謂、項羽自吻のコーダへと繋がる四面楚歌で知られる、垓下の戦いの前、項羽は滎陽(けいよう:現在の河南省滎陽市)の北の広武山に陣している。「九」と「広(廣)」、「義」と「武」は崩した場合、似ているとは私は思う。]

 

〇三つの寶 Eastern Tales.

[やぶちゃん注:「三つの寶」は大正一一(一九二二)年二月『良婦之友』に初出する芥川龍之介第六番目の童話で、王と王子と王女の西洋風の三幕物の劇である。]

 

○虹霓關

[やぶちゃん注:「虹霓關」とは京劇の題名で、日本語では「こうげいくわん(こうげいかん)」と読む(中国を音写するなら「ホォンニィーグゥァン」か)。「隋唐演義」の一節を素材とした歴史物で、隋末の群雄割拠の頃、揚州(現在の江蘇省揚州市一帯)の要めである虹霓関の守備大将であった夫が反乱軍に殺される。妻の女将東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は見たことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年十月に京劇の女形の名優梅蘭芳(メイランファン)の二回目の来日の際に演ぜられた「虹霓關」を観劇している、とある(さらに山田氏は、梅蘭芳の初来日は大正八(一九一九)年であるが、その時ではなかったことは『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』と記しておられる。ただ、この「虹霓關」観劇の記載は現在の複数の龍之介詳細年譜では記載がない。しかし、宮坂覺氏の新全集年譜の同年十月二十七日の条に龍之介が『演劇新潮』主催の談話会に出席したとあり、その同席者の中にまさに梅蘭芳の名を見出せる。芥川龍之介「侏儒の言葉」に『「虹霓關」を見て』がある。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「虹霓關」を見て』を参照されたい。]

 

○ほんたうを云ふ時もウソかと思ふ程噓が上手だ

○夢――廣瀨淡窓――旭窓(子) 孫は?――I 夢窓だらう――先生

[やぶちゃん注:これは子供の病氣――一游亭に――(大正一二(一九二三)年八月)の冒頭に使用されている(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト。四年前に行ったもので、今回の私の注とはかなり異なるが、それも面白いと思う。参照されたい)。

   *

 夏目先生は書の幅(ふく)を見ると、獨り語のやうに「旭窓(きよくそう)だね」と云つた。落款は成程旭窓外史(きよくそうぐわいし)だつた。自分は先生にかう云つた。「旭窓は淡窓(たんそう)の孫でせう。淡窓の子は何と云ひましたかしら?」先生は即座に「夢窓(むそう)だらう」と答へた。

 ――すると急に目がさめた。蚊帳(かや)の中には次の間(ま)にともした電燈の光がさしこんでゐた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換へてゐるらしかつた。子供は勿論泣きつづけてゐた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはひらうとした。すると妻がかう云つた。「いやよ。多加(たか)ちやん。又病氣になつちやあ」自分は妻に聲をかけた。「どうかしたのか?」「ええ、お腹(なか)が少し惡いやうなんです」この子供は長男に比べると、何かに病氣をし勝ちだつた。それだけに不安も感じれば、反對に又馴れつこのやうに等閑(なほざり)にする氣味(きみ)もないではなかつた。「あした、Sさんに見て頂けよ」「ええ、今夜見て頂かうと思つたんですけれども」自分は子供の泣きやんだ後(のち)、もとのやうにぐつすり寢入つてしまつた。

 翌朝目をさました時にも、夢のことははつきり覺えてゐた。淡窓は廣瀨淡窓(ひろせたんそう)の氣だつた。しかし旭窓だの夢窓だのと云ふのは全然架空の人物らしかつた。さう云へば確か講釋師に南窓(なんそう)と云ふのがあつたなどと思つた。

   *
 
「廣瀨淡窓」(たんそう 天明二(一七八二)年~安政三(一八五六)年)は儒学者で教育者。漢詩人としても知られる。ウィキの「広瀬淡窓」によれば、豊後国日田(ひた:現在の大分県日田市)の人で、『淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘』がいる(広瀬旭荘(ぎょくそう:文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)も儒学者・漢詩人)。『豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が』十歳の『時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰(まつした ちくいん)に師事し、詩や文学を学んだが』、淡窓十三の時、『筑陰が豊後佐伯毛利氏に仕官したため』、師を失なった。十六歳の『頃に筑前の亀井塾に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い』、十九歳の『暮れに退塾し帰郷。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選』んだ。文化二(一八〇五)年には長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へ発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等』以降、十代の塾主によって明治三〇(一八九七)年まで『存続、運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は延べ』四千人を『超える日本最大級の私塾となった』。また、淡窓は嘉永六(一八五三)年から『晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら』、白丸を一つ『つけ、食べすぎなどの悪いことをしたら』、一つ、『黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが』一万に『なるようにするものだった』。一度目は六十七歳に達成、二度目の万善を目指して継続していたが、七十三歳の八月頃で記録は途絶えている。淡窓の享年は七十五であった。『淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天』『から報われるとする。淡窓の説く』、『この応報論は「敬天思想」といわれ、近年まで主な研究対象になっていた。最近は主に、実力主義教育を採った組織としての咸宜園研究や、淡窓自身の漢詩研究になっている』とある。

「旭窓(子)」前注に出した淡窓の末弟広瀬旭荘はウィキの「広瀬旭荘」では「荘」であるが、「長良川画廊アーカイブズ」の「Web書画ミュージアム」の「広瀬旭窓」ではご覧の通り、「荘」ではなく「窓」とあり、しかも「ひろせきょくそう」とルビしている。なお、彼は淡窓の「末弟」であって「子」ではない訳だが、これでよいのである。何故なら、これは夢記述だからである。

「孫は?――I 夢窓だらう――先生」芥川龍之介が「孫は?」と問うて、「夢窓だらう」とダ洒落ちゃう「先生」は無論、夏目漱石であろう。]

 

don’t speak to a Japanese in such All right, he is always a decendant of gods.

[やぶちゃん注:「決してそのような全的立場に立った信念から日本人に説いてはなりません、彼は常に神々の子孫なのです。」か? キリスト教が渡来した当時の宣教師が後続の宣教師に語りそうな誡めである。]

 

truly. here (this is hell, hell is nowhere but here.) thema.

[やぶちゃん注:『「本当に。ここ(これは地獄である、地獄は何処にもない、しかし、ここ以外には)」というテーマ』か? これは私は直ちに「山間曠野樹下空中、何處(どこ)へでも忽然として現(あらは)れる。云はば目前の境界(きやうがい)が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱(くげん)を現前(げんぜん)するのである。自分は二三年前から、この地獄)じごく)へ堕ちた」と僧が語り出す「孤獨地獄」を想起するのであるが、これは大正五(一九一六)年四月の『新思潮』で古過ぎること、英文で書かれているというのも気にはなる。信徒がまさに地獄絵そのものの拷問を受けた禁教令下の切支丹物の一断片と読むべきか。]

 

Every school is a humbag. We sell our taste, moral,―― our whole personality to school-education merely to get the way of bread-winning.

[やぶちゃん注:「humbag」はママ。これは「humbug」(ぺてん・ごまかし・まやかし・ペテン師・見かけだけのもの)のスペル・ミスではあるまいか? そうだとすると、「あらゆる学校という存在はマヤカシである。我々は、単にパンを勝ち取る方法を取得するためだけに、学校教育に、我々の嗜好や道徳――即ち、ありとあらゆる個人の持ったところの個性を――売り渡してしまう。」の謂いと読める。しかしアフォリズムとしてはパンチが足りない。発表されたものには同様のアフォリズムは見当たらない。筑摩版全集類聚の脚注はこれを「大導寺信輔の半生――或精神的風景画――」(大正一四(一九二五)年)と関連附けている(「四 學校」であろう)が、私は必ずしもこのメモにそれと強い関連性を認めない。確かに、「大導寺信輔の半生」の「學校」の個々のそれを帰納すると、この命題は引き出されはするとは言えるけれども。

 

Family-system is hell. Every member of a family sacrifices oneself more or less for the family. What a disgust !

[やぶちゃん注:「家庭というシステムは地獄である。家族を構成する総てのメンバーは家族のために多かれ少なかれ、自分を犠牲するのである。何と言う、厭わしさ!」。しかし前同様にアフォリズムとしてはパンチがやはり足りない。やや似た雰囲気を持つものは「或阿呆の一生」の、

 

       三 家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

であろうか。]

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