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2016/08/26

私のノイローゼ闘病記   梅崎春生

   私のノイローゼ闘病記

 

 ノイローゼにもいろんな種類や症状があるらしい。ここでは私の場合を書く。

 昭和三十三年秋頃から、調子がすこしずつおかしくなり始めた。

 その遠因として、血圧のことがある。その一年ぐらい前、囲碁観戦のために鶴巻温泉に行った。観戦の余暇にある人と碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。何とも言えないいやな気持で、痙攣(けいれん)のようなものがしきりに顔を走る。横になって医師を頼んだ。医師が来て血圧をはかったら、最高が百七十あった。根を詰めて碁を打ったせいだろう。二日ばかり安静にして東京に戻った。血圧は百三十に下っていた。

 それに似た発作が、その後三度ばかり起きた。街を歩いて起きると、あるいは起きそうになると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。または医者を呼んでもらう。注射してしばらく安静にしていると、元に戻る。

 いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった。

 死と言っても、死について哲学的省察をしているわけではない。また自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。やり切れなくなって酒を飲む。口の端に歌がうかび上って来る。

「……北風寒き千早城」

 軍歌の一節だが、この文句が一番頻繁に出て来た。私は今でもこの一節をくちずさむと、当時の荒涼とした不安な状態を思い出す。

「これはおかしい」

 と私は思った。私は身近に何人もノイローゼの患者を知っているし、私自身青年時代にその状態になったことがある。青年の時のは被害妄想を伴っていて、下宿に住んでいたが、壁の向うや廊下で私の悪口を言うのが聞える。何でおれの悪口を言うのかと女中を難詰したり、揚句の果て下宿の婆さんを椅子で殴って、留置場に一週間入れられたことすらある。それにくらべると今度のは執拗に憂鬱で、その憂さを晴らすすべもない。

「これはやはり病的だ」

 私はついに旧知の広瀬貞雄君(その頃松沢病院勤務の医師)の自宅を訪ねて、相談をした。広瀬君はいろいろ私の話を聞いて、やはりノイローゼと診断した。

「すぐ入院した方がいい。早けりゃ早いほどなおりが早いですよ」

 私は納得した。が、すぐ入院するわけには行かない。今は精神安定剤などがあるが、当時としては持続睡眠療法や電気ショックが主で、持続睡眠療法は退院後半年か一年ぐらい精密な仕事が出来ないとのことである。

 私は給料生活者ではないので、入院費と一年徒食する金を用意しなければならぬ。当時私は三社連合(西日本、中部、北海道新聞)に連載小説を書いていた。それを書き終えれば大体一年分ぐらい徒食出来るだろう、という計算で、他の仕事は全部断ることにした。一回分が一時間で書ける。苦虫をかみつぶした表情で、おろかしい人間たちの絵そらごとを書く。「人も歩けば」という題で、もし読者の中にこれをお読みになった方があれば、私がそんな状態で書いていたことを了解して下さい。苦虫はかみつぶしていても、サービス精神はよろしきを得たとみえ、割に評判がよく、二百五十回の予定が三百四十回ぐらいに伸びた。映画にもなって、徒食の我が家の家計をたすけた。一日一時間の仕事。あとは家人につきそわれて散歩や、ベッドに横になって読書。むつかしい本やまとまった小説は読めない。集中力が散漫して、手に取る気もしない。せいぜい随筆集や旅行記、雑誌や週刊誌のたぐいで、もっぱら心をまぎらわすためである。またはテレビ。

 テレビを子供たちと見ていると、おかしい場面が出て来ると子供らは笑う。私だけが笑わない。おかしくないからである。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのであるが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻(どんま)している。私から笑いはなくなった。その癖ひどく涙もろくなる。気分としては荒涼たるものだ。酒を飲んでもなぐさまない。悲しい歌ばかりが口に出て来る。

「……北風寒き千早城」

「……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」

 この病的な状態を、精神力で直そうというのは無理だ。かえって悪化させるだけだ、というのが広瀬君の説だ。それには私も賛成である。一刻も早く入院したかったが、経済的その他の事情で、半年頑張り、五月二十一日下谷のE病院に入院することになった。

 入院するに当って、私は条件をひとつつけた。持続睡眠はいいけれども、電気ショックだけはしないで下さい。私は電気ショックの如何なるものか知っていたので、自分をああいう目にあわせたくなかった。医師はそれを承諾した。私の病名は、

 鬱状態(不安神経症状)

 というのである。

 それからもう一つ心配ごとがあった。

 ズルフォナールという薬がある。これを朝昼晩と服ませられる。この薬は睡眠薬だけれど、持続性があってなかなか覚めない。それを次々に服むから、だんだん蓄積されて、ついには一日中ほとんど眠るという状態になる。同時に抑圧がとれる。抑圧がとれて、酩酊(めいてい)状態になる。つまり酔っぱらいと同じことになる。精神も肉体もだ。御機嫌になってペらぺらしゃべるし、またエロ的にもなるらしい。それが私には心配であった。エロ的になって看護婦さんなんかに抱きついたりしたら、みっともない。

 出来るだけそんな状態におちいりたくない、という心構えというか抵抗というか、そんなのが私に働いていたらしい。素直な気持で療法を受ければいいのに、そんな変な頑張り方が、なおりを遅らせたのかも知れないと思う。無用な虚栄心であった。私は入院中日記をつけた。かんたんに眠らせられてたまるかという虚栄心からである。

 病室は北向きの個室で、窓から基地が見える。内臓その他の精密な検査を経て、その病室に入る。酒たばこは禁じられた。酒はそうでもないが、たばこだけはつらくて、禁止を解いてもらった。私は軍隊でも経験があるが、酒はすぐあきらめられるが、たばこはやめられない。

 この病院にも、アル中患者が何人かいた。やはり持続睡眠療法でなおそうというのである。しかし彼等は入院して酒を断(た)たれても、けろっとしている。麻薬中毒患者みたいな禁断症状はあまりないらしい。外国人はジンやウォッカなど強い酒をストレートでたしなむから、相当ひどいのもあるようだけれど、日本人はそうでない。気の弱さから酒をたしなむ。タコちゃんと呼ばれる中年男とてんぷら屋の息子という青年、両者ともアル中で当時入院していた。聞いてみると、彼等は朝から酒を飲んでいる。飲み出すとやめられない。一日中酩酊状態で、仕事が出来ない。そこで自発的に、あるいは肉親にすすめられて入院して来る。

「退院しても禁酒を続行出来るかどうか、心もとないですな」

 私の質問に答えて、タコちゃんはそう言って笑った。

 アル中の話はそれくらいにして、日記のことだが、結局私は毎日書き通した。字が乱れて判読出来ないところもあるが、とにかく書くことは書き通したのである。その日記によって治療経過を書く。

 

 五月二十二日夕方からズルフォナールを服(の)み始めた。二十三日の日記(抄)

「薬のせいかねむい。昨日からこの部屋をしばしばのぞき込む女。今朝は電話番号を教えて呉れという。電気治療で自宅の電話番号を忘れてしまったのだ」

「もうふらふらする筈なのに、しつかりしている。ビールを一本飲んだ程度。酒できたえたせいか」

 もうそろそろ利(き)き始めているのである。二十四日には、

「まだ利いて来ない。(やや足はふらつくけれど。抑圧は取れず、気分はむしろ憂鬱に傾く)」

 などとレジスタンスを試みている。

「午睡二時間、熱三十九度ぐらいある如し。(実際には六度三分)頭がぼんやりしている。一向にはればれしくなし」

 二十五日には、

「ややメイテイの傾向あり。けれどヨクアツはまだとれぬ。身体だるし。七時半(私の秘密)を見る。ちらちらして不快、ダレス死す」

 私の病室は二階で、テレビは階下の待合室にある。ふらふらするので、手すりにすがって階段を登り降りするのだ。特別見たいわけではないが、まだ覚めているぞという気持なのである。二十六日には、そろそろ音(ね)を上げている。

「ようやくふらふら(心身共に)して来た。ものが二重に見える。酔っぱらった時と同じ。新聞を読むのがつらい。薬いよいよ利いて来たのか。便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠っているからダメだとのこと。腸が眠るとは初耳なり、前代未聞なり」

 投薬と同時に通じがとまった。持続睡眠療法については、医学書であらかじめ調べて置いたのだが、便秘のことは書いてなかったので、怒っているのである。まことに厄介な患者だ。この日あたりから字が乱れ始めている。

「二十七日。便秘のことF医師に相談すると、十日や二十日の便秘は平気の由。少しムチャだと思うが致し方なし」

「テレビ見ようか、うちへ電話かけようかと思うけど、メソドウくさい気分あり。つまり酔っているのだ」

 ようやく酩酊を自覚している。

「F医師頭クラクラしないかと聞く。しないと答える。いずれクラクラする状態になるらしい」

「看護婦さんスカートまくり上げる。行儀悪いねとたしなめる」

 ここらはもちろん記憶にないが、あとで読んでぎょっとした。私がエロ的になって、看護婦のスカートをまくり、たしなめられたのかと思ったのだ。つきそいの人に調べてもらったら、看護婦が暑いから自発的にまくったことが判り、ほっと安心した。

 二十八日。

「十一時回診。黒幕をつける。まっくらになる」

 とある。外界からの刺戟をさえぎるためだろう。そのために墓地が見えなくなった。

「午後ぐつすりと眠る。夕方コツコツと音がする。はいと答えるとタコちゃんよりKさん(つきそいの人の名)へと手拭い。タコさんというのは酒屋主の由。持続。予よりあとに入る」

 字体も乱れているが、文章もへんになって来た。

「E先生数え年にて、四十一、なりとぞ。おどろき也。日記もこれでおしまいらしい」

 部屋はまっくらな筈だが、書いているところをみると、時々カーテンをあけてもらったのか。しかし日記欲は強く、二十九日も長々と書いている。我ながらあっぱれだ。

「七時起床。早くヨクアツが取れなきゃこまると思う。まだとれてない。眠る。十二時起きる。月見そば。うまくもまずくもなし。ただ食べるだけ」

 ほんとにこの頃は食物は口に押し込むだけで、うまさなんか全然感じなかった。義務で食っている。

「夜プロレスを見る」

 まだ頑張っているところがいじらしい。ぼんやりした記憶では、テレビが二重に見えるので、片目で見ていた。そんな状態でテレビが面白い筈はない。

 五月三十日になると、半分ぐらいは何を書いてあるか判らない。みみずののたくったような字で、書こうとする努力だけは判るが、意味が判らない。やっと読めるのは、

「三週間もやられたらゼツボウ也」

 何をやられたらなのか、とにかくゼツボウしている。

「夕方S君と碁を打つ。初め対にて次に六目。共に勝つ。S君二・二六事件の時のジキカン長(オヤジが也)三十七歳」

 碁を打っているし、つきそいのKさんの補筆によれば、夜テレビで巨人対国鉄戦を見ている。夢遊状態でありながら、一応人並みのことをしている。S君というのは銀行勤務で、何の症状で入院していたのか記憶にない。いい青年(?)であった。

 六月一日。

「朝食赤飯。ツイタチだから。タコちゃん文春別冊(デンワの写真)を持って来る。どういうわけか」

「昼食後医書をたずさえ、先生のところに談判に行く。便ピのことやいろいろ」

 Kさんの話では、もうこの頃は呂律(ろれつ)が廻らなくなっていたそうだ。酔っぱらいと同じくれろれろで、先生も迷惑だったろう。でも談判におもむくとは、意気さかんと言うべきだろう。いや、意気さかんというより、泥酔者と同じく鼻息が荒くなっていたのだろう。

 六月二日。Kさんの補筆で、

「朝食前、タコちゃん、キリン(S君のあだ名)と話す」

 とある。何をしゃべり合ったか知らないが、厭人癖はなおったらしい。同病相憐れむという気分なのかも知れない。酩酊状態から覚めても、私は彼等と親しくつき合った。私の字で、

「昼食エビライス(カミヤ)ケレドネ、ウドンだったので、それを食う」

エビライスを注文したが、病院の食事がうどんだったので、その方を食べたという意味だ。食欲が減退していて、エビライスよりウドンをえらんだのである。

「今日が一番足がふらつくような気がする」

 しかし字体から見ると、三十日と一日がもっとも乱れていて、二日以後の字は割にはっきりしている。峠を越したので、ふらつきの自覚が出て来たのだろう。極端にふらついている時は、かえってふらつきを自覚しないものだ。

 あとで人に聞くと、私は廊下を歩く時、大手をひろげて歩いていたそうだ。平均をとるために、そうしたのだろう。

 六月三日。

「朝回診ありたれど、眠っていたので通過。十一時半まで眠る。昼食後ひる寝。その後週刊誌のクイズを考える。夜(事件記者)を見て眠る」

 よく眠りに眠っているが、クイズを考えたりテレビを見たり、知的(?)な活動をしている。これからもう覚める一方である。

 五日にはもう散歩を許されている。ふらつく感じはほとんどなくなったが、頭はまだぼんやりしている。散歩が許されて嬉しかったので、雑誌だの果物だの、いろんなものを買い求めて戻って来た。もう死のことはあまり念頭になかった。木々の緑や街のにおいが、私にはなつかしかった。この頃から生活は快適になる。仕事はしないでいいし、寝たけりゃ寝ればいいし、散歩も出来る。やはり効果があったのである。

 しばしば大部屋に遊びに行って、花札をやったり碁を打ったりした。そして各患者とつき合い、彼等の生態を観察する余裕も生じた。だんだん散歩の範囲もひろがって、動物園に行ったり、入谷(いりや)鬼子母神の朝顔市に行ったりした。足を伸ばして本郷竜岡まで本因坊戦第一局を見に行ったこともある。つきそいのKさんを連れて行ったら、今は亡き村松梢風先生が、Kさんを私の女房と思ったらしく、ていねいにあいさつをされた。

「この人、僕の女房じゃないんです」

 と説明するわけにも行かず、私は困った。

 七月十日に退院。皆と別れるのがつらかった。退院に当って先生の指示は、

 一、食事後四十分は横になること

 二、酒は秋まで飲まぬこと

 の二条であった。

 七月十日の日記。

「空は曇り、今日より自由はわが手に戻る」

 などと書いてある。帰宅して翌日、蓼科(たてしな)高原に行った。一夏をそこで過した。半年か一年仕事が出来ないということが頭にこびりついていて、あるいはそれを利用して、毎日遊び暮した。ある日蓼科に映画会社の人が来て「人も歩けば」を映画化したいと言う。早速承諾して、金が入り、結局持ち金が全部なくなるまで、一年近く仕事をしなかった。生来怠け者なのである。

 指示の第一条は今も守っている。第二条の方は、秋とは何か。立秋をもって秋となすと都合よく解釈して、八月七日頃から飲み始めた。それを某雑誌に随筆に書いたところ、先生がそれを読んで、

「秋というのは九月頃からという意味だったのに、立秋とは一杯食わされました」

 と電話がかかって来た。

 以上が私のノイローゼ闘病記である。

 教訓。病気にかかったら、どんなことがあっても自己診断をせず、早期に専門医にかかること。私の場合は入院がすこし遅過ぎた。ことにノイローゼなどは、自分の精神力にたよってはいけない。医者に体をあずけてしまうに限る。ひとりでじたばたすればするほどひどくなる。

 それから鬱病、鬱状態は、朝起きた時が一番憂鬱である。ふつうの人間なら、朝は一日の初めであるし、活気に満ちている。活気に満ちるほどではなく、とにかくやろうという気持になっている。それなのに、

「ああ。また一日が始まるのか」

 と気分が鬱屈し、沈滞した気分におそわれるのは、あきらかに病的である。そんな自覚がある人は、直ぐさま専門医に相談する方がいい。ただし宿酔の場合は別である。あれは体の不調と自己嫌悪で心が真黒になっているのだから、一時的なものである。放って置けばなおる。しかし毎日宿酔ばかりしているような人は、アル中のおそれがあるから、診断を受けるべきだろう。

 私の場合一年間仕事をせず、損をしたような気がするが、また得がたい経験だと思えばそう損でもない。

 思えば私は体の具合の変る時、つまり青年期、それから厄年に不調がやって来た。これからしばらくは平穏状態が続くだろう。六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ。すると私の場合は野球にたとえると、二塁の曲り角だったんだろう。そんなところでわが結論は終る。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年六月号『主婦の友』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は昭和三四(一九五九)年五月に本篇に「K病院」として出る台東区下谷にある近食(こんじき)病院に『入院し、持続催眠療法を受ける。七月に退院し、蓼科山荘にて身を養う』とあり、この年の八月にはやはり本文に出る「人もあるけば」が中央公論社より単行本で刊行されている(新聞三紙での連載開始は昭和三十三年五月で連載完結は翌昭和三十四年の入院直後の六月であった。なおこの作品は底本全集には不載で私自身、読んだことがない。梗概は後の注のリンク先を参照のこと)。当時、春生は四十四歳であった。なお、梅崎春生ファンならすぐにお気づきであろうが、ここに書かれた入院中の事実は、かなりの部分が、遺作となった「幻化」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)で、主人公久住五郎の精神病院入院回想シークエンスの各所にリアルに生かされてあることが判る。なお、この近食病院にはこの前年の昭和三十三年の五月に妻恵津が心因反応の病名で翌六月まで入院しており、同年譜には、本篇冒頭に書かれている通り、その記事に続いて、『梅崎自身も秋ごろから心身の違和を覚えるようになる』とある。妻の「心因反応」と春生の「鬱病」には強い連関性が認められるように感じられる。或いは、春生の鬱病(彼の発症にはアルコール性精神病の関与も私は疑っている。但し、妻恵津はこれを強く否定している)は実はこの年から始まっており、それに敏感に感応した結果、恵津は境界例である「心因反応」を起こしたのではなかろうか?

「広瀬貞雄」廣瀬貞雄(大正七(一九一八)年~平成一九(二〇〇七)年)は知られた精神科医で後に日本医科大学名誉教授となった人物であるが、この医師はかなり問題のある人物である。所謂、「臺実験(うてなじっけん)」事件に於ける執刀医だからである。ウィキの「臺実験」によれば、一九五〇年頃に東京都立松沢病院において発生した人体実験事件で精神科医の臺弘(うてなひろし:後の東京大学教授)の指揮の下、当時の松沢病院勤務の精神外科医であった廣瀬が、精神外科手術に便乗して約八十人の患者から無断で生検用脳組織を切除した事件で、『ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から、組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後であ』った。その約二十年後の石川が昭和四六(一九七一)年三月に日本精神神経学会に於いて臺を当時東大講師であった精神科医石川清がこれを『告発したことから、東京大学や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった』とある。

「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院である東京都立松沢病院。

……北風寒き千早城」遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものに少し手を加えて再掲しておく(リンク先はブログ分割版の出現箇所)。これは、大正三(一九一四)年作の海軍軍歌で、所謂、「桜井の別れ」、河内の武将で後醍醐天皇の名臣楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死したが、その今生の別れとなった正成・正行父子が訣別する西国街道桜井駅(櫻井の驛)での逸話に基づく「楠公父子(なんこうふし)」(作詞・大和田健樹/作曲・瀬戸口藤吉。著作権は詞曲ともに消滅している)の二番の末尾の一節であるが、実は「旗風高き千早城」で、「北風」ではない。「幻化」も「北風」でこれはどうやら梅崎春生自身の記憶違いか、海軍内での替え歌かも知れぬ。天翔氏のサイト「天翔艦隊」の軍歌のデータベースの「楠公父子」から全歌詞を引くが、恣意的に漢字を正字化した。仮名遣も歴史的仮名遣にしようとしたが、実際の歌曲として詠んでもらうために特異的に現代仮名遣のままとした(リンク先ではミディで曲もダウロード出来る)。

   *

   楠公父子

一、

天に溢(あふ)るるその誠

地にみなぎれるその節義

楠公父子(なんこうふし)の精忠(まごころ)に

鬼神(きじん)もいかで泣かざらん

二、

天皇(すめらみかど)の御夢(おんゆめ)に

入るも畏(かしこ)き笠置山(かさぎやま)

百萬の敵滅ぼして

旗風高き千早城

三、

七度(ななたび)人と生まれ出で

殲(つく)さで止まじ君の仇(あだ)

誓いの詞(ことば)雄雄しくも

千古(せんこ)朽ちせぬ湊川(みなとがわ)

四、

その名もかおる櫻井の

父の遺訓(おしえ)を守りつつ

葉はその陰に生い立ちし

楠の若葉のかぐわしさ

五、

再び生きて還らじと

かねて思いし合戰に

四條畷(しじょうなわて)の白露(しろつゆ)と

消えても玉の光あり

六、

忠勇義烈萬代(よろずよ)の

靑史を照らす眞心は

死せず滅びず永久(とこしえ)に

日本男兒の胸の血に

   *

なお、「千早城」は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に鎌倉末から南北朝期にあった楠木正成の城で、元弘二/正慶元(一三三二)年の正成の奇策防衛戦で知られる「千早城の戦い」で名高い。

……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」明治三八(一九〇五)年に作られた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)。日露戦争時の戦闘を背景とする歌詞で全一四番から成る。この知られたフレーズは、その第一番の後半部。

   *
 

一、

此處(ここ)は御國を何百里

離れて遠き滿洲の

赤い夕陽に照らされて

友は野末(のずゑ)の石の下(した)

 

   *

全歌詞はウィキの「戦友軍歌を参照されたい。私はこの歌というと、栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)で「きっちゃん」(松本喜一)が歌うそれが忘れられない。

「ズルフォナール」やはり遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものを再掲しておく(リンク先はブログ分割版の初出箇所)。持続性熟眠剤スルホナール(Sulfonal)であろう。この綴りだと、近年まで医事で使用されたドイツ語では発音が「ズルフォナール」に酷似するのではないかと思う。平凡社「世界大百科事典」(第二版二〇〇六年刊)の「催眠薬 hypnotics」には「スルホナール」を挙げ(コンマを読点に代えた)、『バルビツレート以前に使用されているが、現在は特殊な場合以外には使わない。安全域が小さく、排出が遅い。精神科疾患に一回』〇・五グラムとある(この「バルビツレート」(barbiturate)は不眠症や痙攣の治療、手術前の不安や緊張の緩和のために用いられる中枢神経系抑制薬物で、向精神薬群を総称する「バルビツール酸系」薬物とは同義同語である。ウィキの「バルビツール酸系」によれば、『構造は、尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状の化合物で』、『それぞれの物質の薬理特性から適応用途が異なる』。『バルビツール酸系の薬は治療指数が低いものが多く、過剰摂取の危険性を常に念頭に置かなければならない』。一九六〇年代には、『危険性が改良されたベンゾジアゼピン系が登場し用いられている。抗てんかん薬としてのフェノバルビタールを除き、あまり使用は推奨されていない』。『乱用薬物としての危険性を持ち、向精神薬に関する条約にて国際的な管理下にある。そのため日本でも同様に麻薬及び向精神薬取締法にて管理されている』とあり、以下にチオペンタール・ペントバルビタール・アモバルビタール・フェノバルビタールといった薬剤名が示されている)。また、同じく「世界大百科事典」の、五郎が受けたところの「持続睡眠療法continuous sleep treatment」の項に、『鎮静・催眠性の薬物を投与して持続的な傾眠ないし睡眠状態にすることによって精神障害を治療する方法。ウォルフ O. Wolff』(一九〇一年)『がトリオナールを用いたことに始まるが,さらにクレージ J.Kläsi』(一九二一年)『がソムニフェンを使用して早発性痴呆や錯乱状態の患者を治療したことで精神病に対する一つの治療手段となった。日本でも下田光造』(一九二二年)『によって躁鬱(そううつ)病患者の治療にスルホナールが用いられ,これが盛んに行われた時期がある。治療期間は』十日から二十日前後で、『主として鬱病や躁病,精神分裂病の興奮状態などがその治療対象となった。しかし,精神障害の治療に向精神薬が導入されてからは定式的なこの療法が行われることはなくなっている』ともある(下線やぶちゃん)。ネット上の信頼出来る現在の精神医学・薬学系サイトなどでは、スルホナールは睡眠導入剤(睡眠薬)としては現在は全く使用されていないと断言している記載が多い。因みに、梅崎春生の小説を読んでいると、こうした「ズルフォナール」のような薬剤名や、前に注した「ヴァスキュラー・スパイダー」(vascular spider:クモ状血管腫)、「ハビバット」(halibut:ハリバット。春生は確か「鰈」の英語としているが、これは厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus のオヒョウ類を指す)等の、一般的でない外来語の特定単語の発音に対する、一種のフェティシズムを私は強く感じる。これは彼を病跡学的に検証する際の特異点であるように思う。

「ダレス死す」悪名高き日米安全保障条約の「生みの親」とされるアイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles 一八八八年~一九五九年)は、この年(昭和三十四年)の五月二十四日(春生が入院したはまさに五月)にワシントンD.C.で癌のために死去している。

「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「入谷鬼子母神」「いりや(の)きしもじん」と読む。東京都台東区下谷にある法華宗仏立山真源寺のこと。仏教を守護するとされる夜叉鬼子母神を祀り、この通称で古くから有名。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落でも知られる(以上はウィキの「真源寺」に拠る)。

「朝顔市」前の注でも参照したウィキの「真源寺」によれば、『当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているので』、『そのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり』、大正二(一九一三)年に『なって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが』、敗戦後の昭和二三(一九四八)年になって、『地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後』三日間(七月六日・七日・八日)に『当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している』とある。本篇の日付とも一致する。

「村松梢風」(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『「人も歩けば」を映画化したいと言う』私の好きな川島雄三の脚色及び監督(配給・東宝)で翌昭和三五(一九六〇)年二月九日に公開された。主人公砂川桂馬役をフランキー堺、彼の婿入りした先の姑を沢村貞子が演じている。梗概は「Movie Walker」の「人も歩けば」を。

「六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ」残念ながら梅崎春生は、この記事を書いた二年後の昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となった。]

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