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« 懲治部隊   梅崎春生 | トップページ | 道と人権   梅崎春生 »

2016/08/25

男兄弟   梅崎春生

 

 近頃日本にはやたらに人が多いという感じがする。街に出れば人がうようよ、タクシーに乗れば歩くより遅いし、汽車に乗れば満員で立ち通し。たまたま私が出かけると、混むのかも知れないが、うっとうしくてかなわない。

 実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている。しかし街や山や海に行ってみると、三倍か四倍になっているようにしか思えない。人が動き廻るせいであろう。以前は人々は家の中にひっそりしていて、あまり出歩かなかった。今は派手に動き廻るので、実際以上に多く見える。どさ廻りの芝居の捕り手みたいに、同一人が入れかわり立ちかわりあらわれる。実際は五六人だが、切り殺されてもごそごそ這って、袖からまた、

「御用。御用」

 と出て来るから、十何人もいるように見える。それに似ている。

 それと戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった。小さいのがうろちょろするのなら、うるさいという感じだけだけれども、大きいのがぶつかり合いながら右往左往する。うっとうしい感じは、そこからも来るようだ。

 人口が二倍近くになったと言ったが、どこで誰がそんなに生んだのだろう。私の友人や知己や近所の家庭を見ると、たいてい一人か二人、多くて四人どまりで、子供のいない家庭もずいぶんある。だからそれほど殖える筈はないのに、実際は殖えている。私の知らないところで、大量的に生んでいる人々がいるに違いない。

 もっとも医学や医薬の発達で、人間がなかなか死ななくなった。(子供も青年も中年も老人も。)生れて来る子供の六割か七割か何割かは知らないが、それが毎年人口のプラスになって行く。そういう事情もあるだろう。

 子供は昔の方が多かったような気がする。私の祖母(父方の)は十五人きょうだいで、その大部分が女であった。十五人も子供がいるなんて、私には想像が出来ない。私んとこは今二人だが、それの七倍半だ。子供はよくめしを食うから、いっぺんに二升やそこらはたかねばならないだろう。その十五人がそれぞれ嫁に行って、また子供をたくさん生んだ。で、私にはふたいとこが実にたくさんいる。もっとも十五人というのは、特別の例だろう。皆がそんな風(ふう)だったら、あの頃の日本の人口は飛躍的に増加した筈だ。

 おやじが結婚して、子供を六人生んだ。みんな男である。お婆さんの時はほとんど女ばかりだったのに、今度は全然男ばかりだ。今度は女を、今度こそは女を! という切ない予想を裏切って、男ばかりが出て来るものだから、お婆さんが嘆いた。

「どうしてこんなに、かたよるんじゃろか」

 六人もの男児をかかえて、おやじたちの苦労もたいへんだっただろうと、私は今にして考える。十五人は想像に絶するが、六人もの子供を育てる自信は、私にはない。今の二人だけでも、もて余している。今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである。当人たちがそう言っているんだから、間違いはない。(頑是ない子供たちに、反抗期なんて言葉を教えたのは、どこのどいつだろう。週刊誌あたりじゃないかと、私はにらんでいる)

 何か言いつけたって、素直に聞いたためしがない。口答えをする。

「自分のことは、自分でせよ」

「立っているものは、親でも使え」

 かえってこちらが使われる。怒ればふくれるし、ぶてば泣く。気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると、

「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」

「ぼくは第一反抗期だ」

 その反抗期がいつ頃終るのかと訊ねると、よく判らないけれどあと一年半ぐらいはかかるだろう、という返答である。そう言えば私たちにも反抗期はあった。第一第二と段階があったかどうか忘れたが、さまざまに反抗した。六人から入れかわり立ちかわり反抗されて、さぞや御両親さまはつらかったであろうと、私はお墓参り(めったに行かないが)の度に同情する。

 六人の中の次男が私である。姉も妹もない。だから私は女というものを、あまり知らない。青年になって女とつき合ったこともあるが、その時は主観的要素がずいぶん加わるし、向うも弱いところやマイナスの部分をひたかくしにしているので、真相はつかみにくい。やはりこんなことは、子供の時から観たり感じたりしないことには、見方が根なし草になる。

 女を知らないから、女が書けない。女が書けなきゃ一人前の小説家ではない、という俗説があって、同人雑誌を読むと、せっせと女を書いたりセックスを書いたり、勉強これ励んでいる向きもあるようだが、どうもその俗説に乗せられているんじゃないか。もちろん女が書ければ、それに越したことはないけれど、このことにのみ執するのは、事の根本をあやまるものである。女が書けなくても、小説家になれる。女抜きの小説を書けばいい。私みたいに。

 六人兄弟の中、上三人が戦争にかり出され、三男(忠生という名)が戦病死した。今五人生き残って、東京にいる。歩留りとしては、良好の方だ。忠生の戦病死について、当時隊長から手紙があり、急に死んだとあったが、病名は書いてなかった。終戦後その戦友が私を訪ねて来たので、いろいろ事情を聞いた。

 それによると忠生の部隊は蒙古にあり、太平洋戦争で香港作戦に転じ、また蒙古に戻って来た。そして内地帰還の令が出た。内地に戻って、召集解除である。よろこびにあふれた出発前夜、忠生は皆の前で白い錠剤をたくさんのみ、寝についた。翌朝見たら、死んでいた。忠生は衛生軍曹だから、薬は自由になる。白い錠剤は、睡眠薬であった。量を間違えたわけでなく、覚悟の自殺である。なぜそんな嬉しい日に、自殺をしたか。その理由を書こうと思ったら、もう紙数が尽きた。これは小説の方に廻そう。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている」二倍というのはドンブリもいいところ。統計局の公式データによれば、敗戦の昭和二〇(一九四五)年が七千二百十四万七千人であったものが、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で九千四百三十万二千人であるから、一・三倍である。因みに現在(統計局最終数値二〇一四年現在)は一億二千七百八万三千人で敗戦時の一・七六倍であるから、現在と比較するなら二倍近いとは言える。梅崎春生に好意的に、この数字を別な方向から見るならば、敗戦時の日本本土を除くアジア各地に於ける外地(当時の占領地区であった台湾などを含む)にいた日本人は、軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)及び民間人がそれぞれ約三百三十万人で、合合計六百六十万人、当時の日本の人口の一割近くだったと見られているこちらの記載による)とあるから、これらを当時の人口から無理矢理引いてみると、六千五百五十四万七千人であるが、それでもやっぱり当然ながら一・四倍にしかならない。しかし本土の人間の数を逆立ちしても「人口」とは言わない。やはり無理がある。春生が言うのは、終戦から少したった頃の落ち着いてきた市街を歩く人の多さと、昭和三十五年頃の銀座のの賑わい辺りの漠然とした「人ごみ印象」から出した「二倍」としか思えない。くどいが、厳密な「人口数」に基づく謂いではない。

「戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった」これも普通に読めば納得してしまうが、平均統計の数値でみると違って見える。例えば、昭和二〇(一九四五)年の二十歳の平均身長は男性で百六十五、女性で百五十三・二センチメートル、体重は男性が五十五・三、女性が五〇・七キログラムであったのに対し、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で二十歳の平均身長は男性で百六一・一、女性で百五一・五センチメートルで逆に下がっている。無論、これは単なる統計上の数字であって、僅かながらも着実な体躯向上は確かにあった。例えば、厚生労働省の三十歳代の男女の身長・体重を一九四五年から二〇一五年までグラフ化したこちらのデータを見ると、それは非常によく判る。これだと敗戦から十五年で男性で平均身長が約二センチ、女性で一センチ強、体重は男性で凡そ一・五キログラム増えている(但し、女性は微増か殆んど変化がないレベルである)。しかし、一センチと一・五キログラムは見た目、「高く」「ひろがっ」ては見えない。だからこれも前と同じく、大多数の栄養失調のガリガリの、ペラペラの薄い服で尾羽打ち枯らした感の国民や復員兵が意気消沈して力なく歩く敗戦後の巷と、復興し、「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十年代初頭(昭和三一(一九五六)年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述)の銀ブラ連中のガタイと煌びやかな恰好、踵が高くなった靴やハイヒールでカサ上げされたそれを感覚印象している、と私は思うのである。

「今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである」発達心理学上は精神発達の過程で著しく反抗的態度を示す時期を「反抗期」と呼称し、「第一反抗期」は自我意識の強まる三~四歳児の時期を指し、青年初期或いはそのプレ期に於いて、塞ぎ込むような非社会的様態が見られたり、一見、理由なく人に逆らって乱暴を働いたりしたりする反社会的行動をとる時期を「第二反抗期」と呼ぶ。これに照らせば、小学四年の第一反抗期は異様な発達遅滞ということになり、中学二年の女子で「自分のことは、自分でせよ」「立っているものは、親でも使え」と「かえってこちらが使われ」、しかも「怒ればふくれるし、ぶてば泣く」という単純で判り易い感情反応を示し、「気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると」、「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」という如何にも理路整然とした反応で応対するのは「理由なき反抗」の非でも反でもない、当たり前の誰にでもよく判る陳腐にして正常な屁理屈の「社会的行動」であるから、「第二反抗期」とは言えない。私が言いたいのは、「反抗期」であることを表明して或いは理由にして反抗する口実とするというのは、本来の「反抗期」の必要条件を全く以って満たしていない、ということである。

「これは小説の方に廻そう」これは二年後の昭和三八(一九六三)年『群像』連載(一月号~五月号)を指す。但し、実録小説ではなく、ここに書かれたような異様な形で戦地で自殺した実弟忠生をモデルとした人物を中心に配したモデル小説であり、仮託しつつも実の弟忠生の自殺の真因を明らかにした心理小説とは私には思えなかった(但し、読んだのは三十数年前のことで記憶が定かではない。近いうちに再読し、この記憶に誤りがあれば、後日、追記する)。なお、私は、梅崎春生の、こうした「書こうと思ったら、もう紙数が尽きた」という、彼がしばしば随筆擱筆でやらかす、無責任な(彼は無責任と自覚していないであろうが)書きっぱなしのエンディングはあまり好きではない(連載記事でそれを次の回の記事に書いたのなら、それは上手い書き方であり、実際、そうした書き方も彼はしている。それは彼のマジックにまんまと乗って読み続けさせられる点で少し癪だが、心憎くもとても好きな手法である)。紙数は云々は言い訳に過ぎない。私が言いたいのは本気の作家であるのなら、「今書かねばならないと思ったことを先送りするな」、である。明日があるかどうかも分からぬのに。これは、梅崎先生、あなたが一番、判っておられたはずでしょう……ただ、このケースでは小説のネタバレはしたくない、小説を読んでくれ、という含みとするなら許せなくはない。にしても、二年後は遅過ぎますよ、梅崎先生。……だってそれが「幻化」の後の予定作品だったら、どうしますか?……(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』であるが、梅崎春生はその間の同年七月十九日に入院先の東京大学病院上田内科に於いて肝硬変で急逝している)]

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