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2016/08/31

芥川龍之介 手帳6 (1)

芥川龍之介 手帳6

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《6-1》のような表示はない。

 本「手帳6」の原資料は新全集の「後記」によれば、大正一〇(一九二一)年大阪毎日新聞社発行の上下十四センチメートル、左右六・七センチメートルの右開き手帳であるとある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であり、更に未定稿遺稿の「澄江堂遺珠」の一部もここに含まれている(リンク先は私のPDF全注釈版(画像による原本の可能な限りの復元版)。ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔」』も参照されたい)。]

 

   六

 

○庭の空に蟬一聲や月明り

○舊事記誦先代之舊辭――古事記

              >多田義俊

    太平記未來記の條

[やぶちゃん注:「舊事記誦先代之舊辭」これは恐らく史書「先代旧事本紀」(「旧事紀」「旧事本紀」とも呼称。全十巻)中の古い記載(「舊辭」)の謂いであろう。同書は天地開闢から推古天皇までの歴史を記し、序文に聖徳太子・蘇我馬子らが著したとあるものの、現在では大同年間(八〇六年~八一〇年)以後から、九〇四年から九〇六年以前に成立したとみられている。参照したウィキの「先代旧事本紀によれば、『本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが』、『江戸時代の国学者多田義俊』(後注参照)『や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている』とある。

「太平記未來記」これは「太平記」に載っている聖徳太子が書いたとされるノストラダムスも吃驚の予言書「未来記」のことである。「太平記」の巻六の「正成天王寺の未來記披見の事」に出る。

   *

人王(にんわう)九十五代に當たつて、天下一度(ひとたび)亂れて、主、安からず。この時、東魚(とうぎよ)來たつて、四海を呑む。日、西天(せいてん)に没すること、三百七十余箇日、西鳥(せいてふ)來たつて、東魚を食らふ。その後、海内(かいだい)一(いつ)に歸すること、三年、獼猴(みこう)のごとくなる者、天下を掠(かす)むること三十餘年、大凶變じて一元に歸(き)すと云々。

   *

文中の「人王九十五代」はまさに後醍醐天皇に相当し、「西鳥」は楠正成、「東魚を食らふ」は京の六波羅探題が滅ぼされること、「獼猴」は尾長猿で足利尊氏以下の足利氏、ということになるか。同書の断片は、かの「平家物語」の巻八の「山門御幸」にも登場する。

   *

法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は法闕(ほうけつ)を去つて西海(さいかい)へ、攝政殿は吉野の奥とかや。女院(にやうゐん)宮々は、八幡(やはた)、賀茂、嵯峨、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山の片邊(かたほとり)について、逃げ隱れさせ給へり。平家は落ちぬれど、源氏は未だ入り替はらず。既にこの京は主(ぬし)なき里にぞなりにける。開闢(かいびやく)より以來(このかた)、かかる事あるべしとも覺えず。聖德太子の「未來記」にも、けふの事こそゆかしけれ。

   *

この「法闕」は宮城の意、「攝政殿」は藤原基通。しかし、この「未来記」、肝心の纏まった原書は伝わっておらず、如何にも怪しげな偽書の臭いプンプンのトンデモ本である。

「多田義俊(元禄一一(一六九八)年~寛延三(一七五〇)年)は国学者で有職故実家。浮世絵草紙作家として「多田南嶺」とも称した。「旧事記偽書明証考」(享保一六(一七三一)年)で本書を偽書と断じている。]

 

○美しき humor. マダムボヷリイ

[やぶちゃん注:言わずもがな、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』(Revue de Paris)に連載された。詳しい梗概はウィキの「ボヴァリー夫人」を参照されたい。]

 

○髻【文覺 業平】 久夢日記 天和三年の事

[やぶちゃん注:「久夢日記」筆者不詳の江戸後期延宝より貞享(一六七三年~一六八七年)に至る三都の巷談を記した日記風随筆。文中に「今文化三寅年云々」とあることから編はずっと後の、その頃(一八〇六年)と考えられる。

「天和三年」一六八三年。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここ以降。]

 

○髮を切つて釋迦に入學試驗を祈る(お百度) 祖母に内證 使に行くと云ふ 髮のぶら下り居るはおのれなり

○仙人の松に上り登天の話

[やぶちゃん注:後者は「仙人」(大正一一(一九二二)年四月『サンデー毎日』)の構想。]

 

○ピアノの鍵盤に number をつけ春雨をひく 房子の夫

[やぶちゃん注:この後の部分からが、中国関連の記載となる。]

 

○三遊洞 徐霞客遊地

[やぶちゃん注:「三遊洞」中華人民共和国湖北省西部の長江の三峡の下流の港町宜昌から十キロメートルほど離れた北西の西陵山の絶壁にある洞窟。白楽天と彼の弟白行簡、そして元稹の三人がここを訪れ、それぞれに詩を詠み、そのうちの白楽天が詠んだ「三遊洞亭」がここの歯岩壁に刻まれた。その二百年後の宋代には蘇軾・蘇洵・蘇轍の父子三人もここを訪れたことから、唐の「前三遊」に対し、彼らは「後三遊」と呼ばれる。張飛が宜都の太守であった時、兵士の訓練をするために台を作って太鼓をたたいたとされる場所も三遊洞にある(「中国重慶黄金假期国際旅行社有限公司」公式サイト内のこちらの記載を参照した)。

「徐霞客遊地」この「地」は底本の編者の誤判読で「記」であろう。「徐霞客遊記(じょかきゃくゆうき」なる書が存在するからである。明末の徐弘祖(一五八六年~一六四一年)の著作。徐弘祖は江蘇省江陰の生まれで、生家は代々官僚を出した家柄であったが。一度、科挙に失敗した後は、ひたすら読書に努め、特に地理書に関心を持った。しかし古典の字句の机上解釈に終始する従来の学問にあき足らず、自分の眼で実際の自然を観察しようと、二十二歳より旅行を始め、死の前年の五十五歳に至るまでの三十年間、その足跡は当時の国内の十四省(東北・西域・四川・チベットなどを除く)殆んど全国に亙った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。前の「三遊洞」磨崖のことがそれに書かれていたのをメモしたものか。]

 

Trapist 白雲觀――北京

[やぶちゃん注:“Trapist”“Trappist”の誤りであるが、トラピストはキリスト教カトリック修道会トラピスト会を指す語で、ここで芥川は白雲観が中国での道教の厳格な修行場として、トラピスト修道会に匹敵するという事前情報を書き込んだものであろうか。]

 

○船室のリンネルの窓かけに入日

 水夫らが甲板を拭ふ椰子の實よ海よ

 海上のサルーンに常磐木の鉢ある

 支那人のボイが入日を見る額の廣さ

 アメリカ人がうつタイプライタアに荒るる

 荒るゝ海に鷗とび甲板のラシヤメン

 星影に船員が仰ぐ六分儀

 水平の赭水紫立つ朝なり

 ジヤンクの帆煙るブイの綠靑色

 川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶

 アンペラ 布帆 丹色の赤 綠 コバルト 藍

 藍衣黑衣の支那人 倭寇

 船尾に煤けたる日章旗

 黃旗 赤布包の棺 ジヤンク四五人 葬をおくる舟

 柳 山羊 アンペラ屋根 菜

 鴨群 四つ手網(大)

[やぶちゃん注:「ボイ」ボーイ。

 

「川の病む黃疸 舟の帆の日陰蝶」までの十句は新傾向或いは自由律俳句の試みと思われる。

「常磐木」常緑樹全般を指す一般名詞。

「ラシヤメン」は漢字では「羅紗緬」「羅紗綿」などと書き、本来は綿羊、ヒツジのことであるが、本邦では専ら、「外国人を相手に取っていた遊女」「外国人の現地妻や妾となった女性」を指す差別蔑称。ウィキの「羅紗緬(らしゃめん)によれば、幕末開国後の一八六〇年頃(安政六~七年から万延元年)から『使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる』とある。

「六分儀」天体の見かけの高度を測るための携帯用器械。望遠鏡・二枚の反射鏡・円周の六分の一(六十度)の目盛りをつけた弧などから成る。正確な船の位置を求める天文航法に使用する。

「赭水」音は「しやすい(しゃすい)」であるが、ここは「あかみづ」と訓じたい。黄土が解けた赤っぽい川水(恐らくは長江)の謂いであろう。

「ジヤンク」“Junk”は中国における船舶の様式の一つの外国人の呼称で、中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の“jōng”、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の“junco”に由来するとされ、漢字では「戎克」と表記するが、これは当て字であって、中国語では「大民船」又は単に「帆船」としか書かない(ウィキの「ジャンク(船)」に拠った)。

「アンペラ屋根」「筕篖」とも書く。「アンペラ」はインド・マレー地方原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科アンペライ属アンペライ Machaerina rubiginosa(単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサJuncus effusus var. decipens に似、用途も同様なことから「アンペラ藺(い)」とも呼ぶが、目レベルで異なる全くの別種である)。茎は直立し、一メートルほどで下部に数枚の鱗片葉を持つ。このの茎で筵を編む。一説にポルトガル語の“amparo”(日覆い)からとも、また、茎を平らにして敷物や帽子などに編むことから「編平(あみへら)」が転じたする説がある。]

 

○ゴルフ人に芝生靑々

 春日にとぶ首白がらす

 花菜畑に灰色煉瓦の墓二つ

 紅桃の中に西洋館ある啼鴉

[やぶちゃん注:「首白がらす」スズメ目スズメ亜目カラス科カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus の淡色型(後の引用の下線部参照)。ウィキの「コクマルガラスによれば、『種小名dauuricusは、ダウーリア地方(「ダウール族の国」、バイカル湖の東)に由来』し、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、モンゴル人民共和国、ロシア東部』に分布し、『日本には越冬のため本州西部、特に九州に飛来する(冬鳥)。(稀に北海道、本州東部、四国にも飛来することがある。)』。全長三十三センチメートルで、『日本に飛来するカラス属では最小種。全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頚部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる』。『嘴は細く短い』とある(下線やぶちゃん)。ウィキ写真を参照されたい。]

 

Avenue Joffre

 能成に似る印度人の巡査

 アカシアの芽匀ふ路ばたのアマ

 馭者の一人は眠る白馬なり麥畠

[やぶちゃん注:正しくは“Avenue de Joffre”で、上海のフランス租界にあった通りの名前。現在の淮海路。孫引きになるが、OKA Mamiko氏のサイト「亞細亞とキネマと旅鴉」の中の「堀田善衛:『上海にて』」の引用の中に、『旧仏租界の大通りである、中国人たちが法国梧桐(フランス桐)と呼んでいるアカシヤの並木のある霞飛路(上海語でヤーフィロと発音した)は、そのフランス名は、Avenue de Joffre すなわち第一次大戦時のフランスの将軍であったジョッフル元帥の名をとってつけたものであ』る、とある。

「能成」哲学者で後に文部大臣となった教育学者安倍能成(よししげ 明治一六(一八八三)年~昭和四一(一九六六)年)。漱石山房の先輩であった。

「アマ」東アジア諸国に住む外国人の家庭で雇われている現地人の女中(メイド)或いは乳母のこと。しばしば「阿媽」と漢字表記し、中国語のように見えるが、ポルトガル語の「乳母・保母」の意の“ama”由来とされる。]

 

○クーリーの背中の赤十字に雨ふる

 緋の幕に金字けむる

 赤面の官人の木像かなし錫箔

 燈籠ならび線香長し

[やぶちゃん注:「クーリー」「苦力」(kǔlì)は本来は広く「肉体労働者」の意であるが、特に中国語では「港湾の荷積労務者」を指すことが多い。]

 

○鼠色の長褂兒

 黑色の馬褂兒

 雪毬にうす日さす竹林の前

 三階なれば櫻しらじらと(日本よりの)

 老爺が火をすりくるる小説の話

 世界戰爭後の改造文學の超國家性

 黑き門に眞鍮の鐶ある午後

 卍字欄に干し物のひるがへる靑空

 わが友が小便する石だたみの黑み草疎

 雅敍園の茶に玫瑰の花の匀

 杏の種をわりて食ふ三人

 時事新報社の暗き壁に世界圖

 千坎堂

 白き驢馬がころがる一匹は行キ(痒いんだよ――M氏)

[やぶちゃん注: 「鼠色の長褂兒」「黑色の馬褂兒」の「長褂兒」と「馬褂兒」は、前者が「タァクヮル」(tàiguàér)で、男物の単衣(ひとえ)裾が足首まである長い中国服のこと。後者は「マァクヮル」(măguàér)で、日本の羽織に相当する中国服の上衣で対襟のもの。何れも実は「上海游記」「十一 章炳麟氏」にズバリ、『しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる』と登場するのである。従ってこれはその時の章炳麟の着衣の覚書きと考えられるのであるが、こうした自由律がしばしばあることも厳然たる事実ではあるのである。芥川が覚書きとしつつ、それを(特に中国音の面白さを)自由律の句と捉えていた可能性も全くないとは、言えない気がするのである。

「鐶」「くわん(かん)」で、門扉に附いた環状の金属製の引き手。

「卍字欄」「まんじらん」は卍の字を崩した形を木材を組み合わせて連続して作った「卍崩し組子(まんじくずしくみこ)」の欄干。中国の古い家庭のや本邦の比較的古い仏教寺院に普通に見られる。

「雅敍園」上海にあった料理店の名。少なくとも後の日本の雅叙園とは全く関係がない。ある中文記載から一九〇九年には既にあったと思われる。

「玫瑰」日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」の意でよいと思われる。

「時事新報社」無署名の社説「脱亜論」明治一八(一八八五)年三月十六日に福沢諭吉が創刊した新聞『時事新報』に掲載された。この句はそうした事実を背景とした一句であろう。時事新報は上海に支社を持っていたものか。

「千坎堂」不詳。全く不明というのは、編者の誤判読か、芥川龍之介の誤記が疑われる。

M氏」恐らく中国滞在中の芥川の世話役であった大阪毎日新聞社上海支局長の村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)であろう。「烏江」と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任したが、上海で客死した。]

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