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2016/08/16

譚海 卷之一 江戸鈴ケ森罪所榎事

江戸鈴ケ森罪所榎事

○品川鈴が森にある榎樹(えのき)は、八百屋お七死刑に處せられたる年うえられたりと云(いふ)。又麻布一本松とて其所に年經し松有(あり)しが、安永元年三月目黑大火事にて江戸御城桔梗(ききやう)の御矢倉(おやぐら)をはじめ、深川・淺草・山谷まで燒たる大火に燒失して、今あるは後に植(うゑ)かえたる也。

[やぶちゃん注:本「譚海」は津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)が安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙って見聞した奇譚を載せたものであるから、ここに出る年代はその辺りを起点に計算されたい。

「鈴ケ森罪所」「品川鈴が森」現在の東京都品川区南大井にあった鈴ヶ森刑場のこと。ウィキの「」によれば、『江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった』。『元々この付近は海岸線の近くにあった』一本の『老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという』。慶安四(一六五一)年に開設され、元禄八(一六九五)年の検地記録によると、間口四十間(約七十四メートル)、奥行九間(十六・二メートル)、であったとする。明治四(一八七一)年に閉鎖されるまで二百二十年の間に十万人から二十万人の『罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている』。『当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時』、『浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている』。『最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている』。『反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された』とある。

「八百屋お七死刑に處せられたる年」八百屋お七は天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日)処刑されたとされる。但し、参照したウィキの「八百屋お七」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加或いは省略した)、『古来よりお七の実説(実話)として「天和笑委集」と馬場文耕の「近世江戸著聞集」があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史資料として戸田茂睡の「御当代記」の天和三年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録「御仕置裁許帳」には西鶴の好色五人女が書かれた貞享三年(一六八六年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない』。『東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、「天和笑委集」や「近世江戸著聞集」を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の「御当代記」のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している』。『しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は「御当代記」は後から書き入れられた注釈を含め、戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和三年』に『お七という女が江戸の町で放火した、ということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど、江戸で発行された「天和笑委集」と大阪の西鶴が書いた「好色五人女」に、違いはあれど、八百屋の娘お七の恋ゆえの放火、という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか三年後に出版されている事から、少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろう、としている。もしも、お七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずの、お七の事件からわずか三年後の貞享三年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている』とある。「譚海」執筆当時は既に百年前後が経過している計算になる。榎の寿命は凡そ四百年とされる。

「麻布一本松」現在位置や松の由緒(伝承)は宮村霞氏のサイト「麻布細見」の「麻布一本松町」を参照されたい。

「安永元年三月目黑大火事」明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に目黒行人坂の大円寺(現在の東京都目黒区下目黒一丁目)から放火によって出火した「明和の大火」のこと。この後の同年十一月十六日に後桃園天皇即位の外、本大火を含む多発した火事風水害によって「安永」に改元された。「譚海」の起筆は安永五(一七七七)年である直近の五年前であるから、植え替えほやほやである。

「桔梗(ききやう)の御矢倉(おやぐら)」桔梗門は二重橋の東北直近にあり、「内桜田門」とも呼ばれる。名前の由来は、昔、この門の瓦に江戸城を作った太田道灌の家紋である桔梗紋がついていたことからとも伝える。]

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