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2016/08/22

夜戦   梅崎春生


 太平洋海戦史をひもとくと、電波兵器の発明が、海戦の様相を大きく変化させたことが判る。日本の軍艦にも電波探知機はあったが、米艦のそれにくらべると、精度に雲泥の差があった。

 もともと日本海軍は夜戦が得意で、碧い眼よりは黒い眼の方が夜はよく見えるという関係もあり、また数十年の伝統、それから数十年の猛訓練で、夜戦では絶対勝利の信念を持っていたらしいのだが、電探以下の電波兵器の出現によって、すっかりだめになってしまった。いくら黒い眼がよく見えたって、その前に電波の方が見てしまうのだから、勝負にもなりやしない。

 数十年の伝統と猛訓練が、一挙にくつがえり、何のための猛訓練だったか、わけがわからないことになった。

 近代戦というものは、もはや体力や精神力の優劣で争われるものでなく、器械や技術で戦われるものだから、器械や技術に一歩先んじられたら、それまでだ。

 文学は海戦とは違うから、同一にとりあつかうことは許されぬが、文学にもそれに似た現象があるように思う。小説とは自分の生活をきびしく見詰め、それを文章に表現することだという信念で、十年の苦節を積み、社会から疎外された場所に自分を置き、一剣を磨き来たっても、小説の方で変化してしまえば、十年の一剣も帝国海軍の夜戦と同じで、もう使いものにならなくなってしまう。

 小説というものは、文章の巧拙でなく、生き方や感じ方や考え方、それらを根幹として成り立っている。生き方とか感じ方は、時代によって変るし、変らざるを得ない。不動の生き方というようなものは、当今のように変転のはげしい時代には、存立を許されないだろう。

 だから、十年苦節も学校出たての若僧も、時代の曲り目ごとにおいて、同じスタートラインに立たされることになる。その点では、十年苦節組の方が、年齢によって硬化しているだけに、損なのである。損になっているだろうと私は思う。

 映画の方にも、そんなことがあるだろうと思う。映画の世界のことはよく知らないが、映画はエジソン(だったかな)が発明して以来、短時日に急速に発展、変転してきた。トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がするのに、色彩、シネマスコープ、シネラマと、次々に変り行く気配がある。

 その変るたびに、映画製作に直接たずさわる人々は、大げさに言えば、やはり同じスタートラインに立たされることになる。

 折角黒白画面に美を盛り上げることに苦労して会得したのに、皆が色彩映画になれば、その技術はとたんに御破算になるのである。

 全体の発展のためには余儀ないとしても、個人として見れば残念なことであろう。

 人造米というのがあった。あれも苦労して考案し、パテントか何かとったらしいが、とたんに米が豊富に出廻って、器械の持ちぐされになった。帝国海軍の夜戦と同じである。

 あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年四月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。展開が脱線的で面白い。しかし最後に「あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである」とした、本論が何だったのか、判らぬのが、消化不良ではある。

「映画はエジソン(だったかな)が発明」一応、正しい。ウィキの「映画史」から引く。一八九三年(明治二十六年)に『アメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し』、一八九五年三月に『パリで開催された科学振興会で公開』、同年十二月二十八日に『パリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた』のを嚆矢とする。『他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた』。『エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる』。『リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など』の計十二タイトルで、『いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった』とある。

「トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がする」ウィキの「トーキー」によれば、“talkie”は『映像と音声が同期した映画のこと。talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture movie と呼んだのにならったもので』、『発声映画が最初に上映されたのは』一九〇〇年(明治三十三年)の『パリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに』十年以上を『要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり』、一九二三年(大正十二年)四月に『ニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された』。『発声映画の商業化への』第一歩はアメリカで一九二〇年代後半(大正末から昭和最初期)に始まり、“talkie”という名称も、この頃に生まれたものである。『当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた(しゃべらないので「トーキー」ではない)。世界初の長編トーキーは』、一九二七年(昭和二年)十月に公開されたアメリカ映画「ジャズ・シンガー」(The Jazz Singer:アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督/ワーナー・ブラザーズ製作・配給)『であり、ヴァイタフォン方式』(Vitaphone:ワーナー・ブラザーズが開発したフィルム映像と録音された音を同期させるトーキー映画のシステム名)だった。『これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった』。翌一九二八年に、『サウンドトラック方式を採用した』、かのウォルト・ディズニー(Walt Disney)の監督した「蒸気船ウィリー」(Steamboat Willie)が公開された。これは『短編ながら、初のサウンドトラック方式による映画であると共に、トーキーとして初めてのアニメーション映画でもある』。

一九三〇年代(昭和五年から同十三年代)に入ると、『トーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった』。日本映画では昭和六(一九三一)年の「マダムと女房」(五所平之助監督・田中絹代主演・松竹キネマ製作)が『初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった』とあり、同ウィキの「アジアにおける移行」によれば、一九二〇年代から一九三〇年代(大正九年から昭和一四年)の日本は『世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった』。実は本当の日本初のトーキー映画は劇作家として知られる小山内薫が監督した「黎明」(昭和二(一九二七)年・松竹)であったが、『技術的問題から公開には至らなかったともいわれている』。『サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は』昭和四(一九二九)年に二本の部分トーキーの映画「大尉の娘」(落合浪雄監督・水谷八重子主演)と「藤原義江のふるさと」(溝口健二監督)を『製作した。次いで松竹は』昭和六(一九三一)年に『初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなっ』ている。その間、二年の『月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ』八割が無声映画で、『当時の日本映画界をリードしていた』二人の『監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのは』実に、それぞれ昭和一〇(一九三五)年と昭和一一(一九三六)年のことであった。その後、昭和一三(一九三八)年の段階でも、日本(国産の謂いであろう)では三分の一の映画が無声映画だった(以上、下線はやぶちゃん)。『日本で無声映画の人気が持続した背景には活動弁士の存在がある。活動弁士は無声映画の上映中にその内容を語りで解説する職業である。黒澤明は後に活動弁士について、「単に映画の筋を語るだけでなく、様々な声色で感情を表現し、効果音を発し、画面上の光景から喚起される説明を加えた(中略)人気のある活弁士は自身がスターであり、贔屓の活弁士に会うにはその劇場に行く必要があった」と語っている』。『映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べている』。『西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた』。『同時に、活動弁士という職業があったおかげで、映画会社はトーキーへの設備投資をゆっくり行うことができ、製作スタッフも新技術に慣れる期間を十分にとることができた』。以上の記載から考えると、梅崎春生が映画がトーキーになったと感じたのは昭和一〇(一九三五)年から昭和一三(一九三八)年の間辺りと考えてよく、丁度、この頃、春生は熊本五校を卒業して、東京帝大に進学(昭和一一(一九三六)年三、四月)、無頼風の大学生活を送っていた時期と一致する。そこから本記事までは十九から二十二年ほどしか隔たっていないから、「トーキーになったのはこの間」という感覚は、必ずしもおかしくはないと言える。

「人造米」ウィキの「人造米」から引く。『米の代用食料として「麦」や「とうもろこし」などのでんぷん質から作った米状』食品。『戦後の食糧難の頃に食料問題を解決する手段として麦やトウモロコシのでんぷん質を加熱糊状にしてから』、『米粒の形に圧縮成型する方法で米の代用品を製造する方法が開発された。この米の代用品は人造米と呼ばれ』、昭和二八(一九五三)年十月二十七日の『閣議では「人造米育成要綱」『が決議されるに至り、国は国内にある多くの食品メーカーに人造米の製造を奨励した。人造米はその製法が簡単であり製造ラインに多額の投資をする必要もなかったため、人造米を作る工場はこのような国の働きかけも後押しするかたちで急速にその規模を拡大した。また、ビタミン等を添加した強化米を作るにも、原料に練り込むだけでよいという利点があった』。『しかし、国民の人造米に対する評価は「外米より不味い」とか「うどんを細かく刻んだようだ」など散散なものであったため、発売当初は物珍しさなども後押ししてそれなりに売れたものの「人造米育成要綱」の決議からわずか数ヵ月後の』昭和二九(一九五四)年の『春を過ぎた頃から全く売れなくなり、次第に製造量は減少した。そして』昭和三十年代前半には『市場から姿を消した』とある(私は昭和三十二年生まれで、食ったことはおろか、見たこともない)。『普通の米とまったく同じように炊く事ができ』るもので、『国などは、味が不味いのをごまかす方法として「米と人造米を同量混ぜて炊くと美味い」などと盛んに喧伝したが、売れ行きが向上する事はなかった』。『発売当時の価格は』一キログラム当たり八十円から八十五円程度で(昭和二十九年の本物の米価を調べると、一キロ当たり百二十円相当である)、製造のピークは昭和二十九年一月頃で、月産約四百トンほどだった、とある]

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