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2016/08/31

終戦のころ   梅崎春生


 

 もうあれから、五年近くも経つ。あの頃の生活(生活と言えるかしら)の細部、こまごましたディテールの大半は、すでに私の記憶から薄れかけている。

 たとえば、私の毎日に密着していた、いろんな事物のあり方や名称など。書こうとしても、あやふやだ。ただ、当時の気分、不吉に重苦しく、私にかぶさっていたものの感じだけは、年を経るにつれて、葉肉を失って葉脈だけになった朽葉のように、いよいよ鮮明な形をとってくるようだけれども。

 

 終戦のころ、私は鹿児島児桜島の、袴腰というところにいた。所在海軍部隊の、通信科下士官としてである。部隊と言っても、兵舎などは持たぬ、洞窟住いの急造部隊であった。公式の名はたしか、第四特別戦隊(?)第三十二突撃隊鹿児島分遣隊という。水上特攻基地、小艇に爆薬を装置して敵艦に体当りする、その小艇の基地だ。しかしその小艇(震洋とか回天とかの名がついていたが)の姿を、今思っても、私はこの基地で見た記憶が全然ない。通信科の仕事が忙しくて、つい見そびれたのかとも思うが、あるいはそれらの小艇は、終戦までにこの基地に、とうとう間に合わなかったのかも知れない。きっとそうだろう。しかし艇がいなくても、部隊はちゃんとあった。そしてえいえいと仕事をしていた。(今のお役所そっくりだ。)とにかく意味なく忙しい部隊であった。あまり忙しいので、へんな得体の知れない病気になった程だ。今でも私には、仕事が忙しくなると、すぐ原因不明の病人になる癖があるが、桜島においても、だいたい同様の症状であった。精神にも肉体にも、その中核部において、昔から私にはかくの如く、はなはだしくしんが弱いところがある。

 この桜島での勤務を、特に忙しく辛いと感じたのも、ある理由はあった。実は私が桜島部隊附を命ぜられ、佐世保通信隊を出発したのは、昭和二十年五月のことである。ところが実際に私がここに到着したのは、七月十一日の夕方であった。二箇月もかかっている。どうしてこんなことになったかというと、その命令の出し方が悪かったのか、道を間違えたのか、私は桜島にやって来ずに、鹿児島郊外の谷山分遣隊に行ってしまったからである。以下は私の想像だけれども、谷山の通信長たちはこの間違いを、奇貨居(お)くべしとなし、私をそのまま使ってしまったのである。軍隊も官僚に似たところがあって、人員を一人でも余計、自分の所属に確保しておこうという、妙な傾向があった。その犠牲(?)となって、私は谷山隊所属となり、無線自動車の係りに配属された。無線機械を積んだ装甲自動車で、乗員は電信兵が二人、暗号係が私。その三人をのせて、性能検査並びに演習のために、薩摩半島の各水上特攻基地を経巡(へめぐ)ってあるいた。歴訪した基地の名も、移動したコースも、私はほとんど忘れてしまったが、海中に浮んだ甑島(こしき)の風景が、今でもつよく頭に残っているのをみると、吹上浜点在の基地を廻って歩いたらしい。最後に私達は、坊津という基地にいた。

 軍隊に入って、この一箇月余の旅行ほど楽な期間は、私にはなかった。なにしろ積みこんだ無線機の性能が悪くて、一度も谷山と連結がとれないのである。電信係も始めの中こそは努力していたようだが、後になると全然それを放棄して、基地に到着すると、その基地隊の通信兵に連結を托して、運転手もろともさっさとどこかへ遊びに行ってしまう。電信がとれなければ、暗号翻訳のしようもないので、すなわち私も遊ばざるを得ない。本来なら基地隊か自動車内に寝泊りしなくてはいけないのだが、それもごまかして、民家や旅館に泊めて貰う。昼はハイキングに行ったり、ウナギ捕りに行ったり、夜は夜で航空用一号アルコールを仕入れてきて、盛大な酒盛りを開く。基地だから、そこらの山の中に入れば、アルコールはドラム鑵でいくつでも転がっていた。飲む分には無尽蔵である。食事は基地隊から、ちゃんと届けて呉れる。つまり食うだけ食って、あとは何をしてもいいのである。だから私はこれを利用して、放埒(ほうらつ)な中学生のように、存分に食い、存分に飲み、存分に遊び廻った。身体のことなんか、どうだっていいと思っていた。どんな放恣(ほうし)をも許そうとするものが、私の内部にあった。――こんな楽な境遇は、過去にもあまりなかった。そして将来には、絶対にあり得ない。これが最後だ、ぎりぎりの最後だ、ということを、私ははっきり感じていた。全身をもって、直覚していた。だからこの恵まれた状態の、一分一秒を生きることが、自分の全部であることを私は感じていた。その意識が、私のすべての放恣を支えていた。このようにひりひりした生の実感は、私の生涯の他の部分では、あまり味わい得ないだろうと思う。

 こんな訳だったから、桜島転勤の電報がきた時は、私は全くがっかりした。桜島は相当大きな基地で、分遣隊のみならず、四特戦(?)の司令部もそこにあって、忙しいところだとは充分に予想がついていたから。そしてその予想は違わなかった。七月十一日入隊。そしてたちまち、得体の知れない発熱。ということになったらしい。その状況は、私の記憶からほとんど消え去っているが、飛び飛びに書いた日記だけが、今も私の手元に残っている。それをそのまま、写してみよう。

「七月二十三日

 朝六度六分。夕七度二分。

 白い粉薬を貰う。やはり原因は判らず。昨夜は八度五分。

 看護科にコーロギ兵曹というのがいる。字はどう書くのか。面白い姓だ。

 来てから、病気つづきで、当直に立たないから、谷山に帰そうかと、司令部の掌暗号長が言った由。

 八月二日

 此の間から敵機が何度もきて、鹿児島市は連日連夜炎をあげて燃えている。夜になると、此の世のものならぬ不思議な色で燃え上る。

 身体の具合は相変らず悪い。何となく悪い。(胃がひどく弱っている)

 昨夜は大島見張所が、夜光虫を敵輸送船三千隻と認めて、電を打った。

 東京から便りなし。家からも。

 八月九日

 鬼頭恭而が召集されてきているのに会い、一しょに酒を飲みに行った夢を見る。大浜信恭も出てくる。

 昨夜は夕食に、ジャガ芋つぶしたのを少量、焼酎少量のみ、零時より直(ちょく)に立つと、やはり腹の調子ひどく悪し。気分重く、生きた感じなし。

 八月十五日

 朝五時に起きて、下の浜辺で検便があった。朝食後受診。依然としてカユ食。

 夜九暗から当直に行った折、着信控をひらいて見て、停戦のことを知る。愕然(がくぜん)とす」

 桜島での日記は、以上で全部。支給された粗末な軍隊用手帳に、小さな鉛筆の字で書いてある。

 八月十五日は、良い天気であった。この日のことは、割に覚えている。検便というのは、赤痢が流行していたから、その為のものである。砂浜に自分でそれぞれ小穴を掘って、その中に排泄したものを、軍医長に見て貰うという簡単な仕組み。すこしでも妙な便だと、すぐ霧島病院送りとなる。(兵たちは皆これを恐れていた。海軍の病院生活とは、絶対に楽な生活ではなかったから)

 私は腹が悪いくせに、この日は便秘していた。(と思う。)

穴は掘ったけれども、排泄(はいせつ)物がなかったから、また砂をかぶせて、近くにいた軍医長のところに行って、そう具申すると、軍医長が眼をいからせて、私をきめつけた。

「しかしお前は、紙で拭いていたではないか!」

 出なくても習慣で拭くんだ、と私は抗弁し、それから二三押問答をした。しかし軍医長はどうしても、そんな私の上品(?)な習慣を認めようとはせず、じゃ掘り返して実証して見せろ、ということになった。悪い便をして私が隠している、と邪推しているのである。しかし広い浜辺のことだし、埋めた穴の跡は無数にあるし、まだしゃがんでいるのも沢山いるという具合で、どれが私の穴の跡か判りゃしない。命令だから仕方なく、とぼとぼと自分の穴を探してあるいた気持を、私は今でも思い出せる。敵がもう直ぐ上陸するかも知れないのに、何というばかげたことだろう、と誠に情ない気持で、臭いで充満した砂浜をうろついていたのである。その気持は鮮かだが、穴を探しあてたかどうかは、記憶にない。また先刻は排泄物がなかったと書いたが、あるいは軍医長の邪推があたっていたのかも知れない、とも思う。なにしろ五年前のことだから、そんな細目はすっかり忘れてしまった。

 そしてその日の正午、ラジオの天皇の放送があった。鹿児島に来て以来、私は新聞を全然見ていなかった。だから情勢がどうなっているのか、ほとんど判らない。暗号をやっている関係上、戦況につゝいて少しは知っているが、それも部分的なもので、ことに味方損害の電報や重大電報は、士官が翻訳することになっていて、私たちの目に触れない仕組みになっていた。たとえば原子爆弾についても、私は暗号部下士官であるにも拘らず、ずっと後まで投下されたことを知らなかった。だからこの日の放送の意味も、ほとんど予測できなかった。激励の放送だろう、などと考えていたようである。今この文章を書いていて、たしかにあの朝、戦争が終ったという放送ならいいんだがなあ、と考えたことが記憶のすみに残っている。しかしこれは、あとで無意識に補足した、贋(にせ)の記憶であるらしい。身体の不調の故をもって、私は当直以外の時間は、居住区に休んでいていいことになっていたから、その放送の時間も、私は聞きに行かなかった。聞いたって仕方がないじゃないか、そんな気持だったのだろう。その頃私は当直外は、寝台に横になって、眠っているか本を読んでいるだけであった。所持していた本は唯一冊。佐世保を出る時貸本屋で借り放してきた、世界文学全集の戯曲篇という本。この一冊を繰返し繰返し読んでいた。読んで愉しむとか勉強するとかの気持では全然なかった。何もしないで醒めていることが、私には耐え切れなかったのだ。活字に眼を曝(さら)していると、それがいくらかでも紛れる。そんな気持で、この一冊を私は、少なくとも三四回は読み返したと思う。丹念に、一字一字をひろって。――そんなに執心して読んだのに、ふしぎなことには、今あの本の内容を、私はほとんど思い出せない。やっと思い出せるのは、「朝から夜中まで」という短

い一篇だけだ。三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだったのに、頭に全然残っていないのは、本当にふしぎなことだ。――で、この時も、これを読んでいたことは確かだ。放送が済んで居住壕に入って来た兵に、読みさしの本をばたりと伏せて、今の放送は何だった、と訊ねた記憶が私にあるから。雑音でがーがーして聞きとれなかった、というのがその答えであった。

 昼間はそれで過ぎて、夜九時、当直に行く。居住区の壕と通信室の壕は、少し離れていて、歩いて五分、夜中だと暗いから十分位かかる。樹々にはさまれた山道だ。そこを手探りで歩き、通信壕に入り、前直と交替中継ぎを済ます。私は直長だから、その席に坐って、その時も慣例に従って、前直の着信控を無意識に一枚めくると、いきなり、終戦、という文字が眼に飛び込んできた。その時の気持は、やはりうまく書けない。しかし日本人なら誰でも、あの終戦を知った瞬間の経験がある筈だから、私のも大部分の人々のと、ほぼ同じだったのだろうと思う。「愕然とす」などと日記に書いたが、その瞬間が過ぎると、私に突然異状な発汗の状態がきて、居ても立っても居られなくなってきた。私の直ぐそばに、赤沢(?)少尉という司令部の暗号士が腰かけていて、私はいきなり立ち上ってその少尉に、これは本当か、というようなことを口早やに問いかけた。赤沢少尉は確か召集前は、尾久かどこかの小学校の教師だったという、おとなしい若い男だったが、私の質問に答えて、本当だ、と言いながら、ある笑いを私に見せた。その笑い顔を、私は今もって忘れない。ありありと思い出せる。それはある羞恥に満ちた、喜悦と困惑と安堵と悲哀が一緒になったような、複雑な翳(かげ)をもった微妙な笑いであった。この少尉とは私的にも公的にも、ほとんど交渉はなかったけれども、この人間的な笑いの故をもって、私は今でも彼に親愛感をかんじている。

 それから私は、便所に行きたいから、と少尉にことわって、壕を飛び出した。狭い壕の中で、いつもと同じく電信機の音が、ぱちぱちと鳴っている。いつもと同じという事が、なにか解(げ)せなく、不当な感じであった。外に出て力いっぱい放尿して、それでもどうしても落着かないから、夜道を一散に駈けのぼって、どういうあてもなかったが居住区へ戻ってきた。居住区に入ってくると、その一番奥に腰掛けをならべて、電信の先任下士が寝ていた。それを私は力まかせに揺りおこした。そして戦争が終ったことを、低い声で告げた。先任下士は薄眼をあけてそれを聞き、うなずいて、また眼を閉じた。何だか苦しそうな表情に見えた。予期したほどの反応は得られなかったが、とにかく他人にしゃべったことだけで、私はいくぶん落着きを取戻し、居住区を出て、ゆっくりと夜道を通信室の方へ戻って行った。頭上の樹々の聞から星が見え、崖の下からはしずかに濤(なみ)の音が聞えていた。はっきりした喜びは、その時初めて私にきたように思う。私個人の身柄に関しても、ひとつの事が終焉(しゅうえん)して、別の新しいことが始まるのを、実感として自覚することが出来た。

 あの日の開放感を、今も私はなつかしく思い出すのだが、も一度現実に味わいたいとは思わない。床上げの日が嬉しかったからと言って、もういっぺん大病にかかりたい、と思わないのと同じだ。もう病気にかかってはならぬ。

                            

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年八月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇は名作「桜島」の背景的な事実(作品とは異なる)を語っていて非常に興味深い。「桜島」は私の注釈附きのPDF全一括版及び、ブログ分割版があり、ここに出る地名や語句の殆んどをそこで注しているので、繰り返さない(リンク先の注は私渾身のもので相応に自負する自信作である)。また、梅崎春生の敗戦の年の日記は「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」で電子化注しているのでそちらも参照されたい(春生「そのまま」と言っているが、一部に省略が見られれれる)。以下、この一篇を久々に再読した私に疑問な二、三の語についてのみ注しておく。

「四特戦(?)の司令部」この謂いからはこの「四特戦」というのも海軍部隊の特殊作戦部隊名と思われるが、ネット検索では不明。梅崎春生が「(?)」しているから、謂い方が違っているものか? 識者の御教授を乞うものである。

「得体の知れない発熱」私は幾つかの梅崎春生の生涯の病歴を見るに、或いは彼は現在の高機能自閉症スペクトラム、或いは、その境界例に分類されるような様態を持っていた可能性を最近はかなり疑っている。例えばこの原因不明の発熱というのがそれで、私が実際に接してきた一部の高機能障害を有した生徒の中には、しばしば、情緒不安を起こすと有意に実際に熱が上がる症状を呈する者がいたからである。

「世界文学全集の戯曲篇」『「朝から夜中まで」という短い一篇』ゲオルク・カイゼル作の戯曲「朝から夜中まで」で、可能性としては、新潮社昭和四(一九二九)年刊の「世界文学全集」の第三十八巻「新興文學集」で、国立国会図書館の書誌情報によれば、内容はイリヤ・エレンブルグ「トラスト・D..-ヨーロッパ滅亡物語」(昇曙夢訳)/グレーブ・アレクセーフ「前にたつものゝ影」(米川正夫訳)/ゲオルク・カイゼル「朝から夜中まで」(北村喜八訳)/ルイヂ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」(本田満津二訳)/チャベック兄弟「虫の生活」(新居格訳)/ミハイエル・プリシブィン「アルパトーフの青年時代」(蔵原惟人訳)で戯曲集篇ではないものの、「朝から夜中まで」「作者を探す六人の登場人物」「虫の生活」の三篇は戯曲であり、この本である可能性はかなり高いと思う。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「朝から夜中まで」(Von Morgens bis Mitternachts)はドイツの戯曲で全二部七場。一九一六年の出版で翌年初演された。ドイツ表現主義戯曲の代表作とされるもの。公金を持逃げし、都会的遊興に逃避し、最後に幻滅と絶望から自殺する銀行員を通して、現代文明の不毛と資本主義社会の冷酷さをえぐりだした作品である。ドイツ表現主義の代表的劇作家であったゲオルグ・カイザー(Georg Kaiser 一八七八年~一九四五年)は初め風刺喜劇を書いていたが、一九一七年に歴史劇「カレーの市民」の上演によって注目され、次いで一連の社会的テーマの作品である「朝から夜中まで」、「珊瑚」及びその続編「ガス・一部」「ガス・二部」 の〈ガス三部作〉」で現代社会のメカニズムのなかにひしがれる人間の姿を描き出した、とある。

「三絶とまではゆかずとも、韋編一たびは絶つほどだった」「三絶」は「韋編三絶(いへんさんぜつ)」のこと。孔子が晩年、「易経」を好んで読み、綴じた革紐が何度も(「三」は中国では「多数」の意)切れたという「史記」の「孔子世家(せいか)」の故事によるもので、「繰り返し読むこと・熟読すること」の譬え。「韋編三たび絶つ」とも言い、あとはそれを受けたものである。]

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