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2016/08/27

わが兵歴   梅崎春生

 

 佐世保鎮守府に召集されて、相ノ浦海兵団に入れられたのが、昭和十九年六月一日。私は二十九歳。同日に召集された中では、比較的老兵に属する。佐二補水九六八九号という兵籍番号を与えられた。その翌日新入団兵の半分は海兵団を出て、南方の島々に持って行かれた。

 私はその選にもれて、十日間を相ノ浦で過し、針尾海兵団に移された。学校出(専門学校以上)ばかりの分隊で、そこで予備学生の志願を勧められた。若い連中はたいてい志願したが、私は断った。断った心境や事情はいろいろあるけれど、要するに兵隊でいた方が気楽と思ったからである。

 兵隊でも何か特技をつけていた方がいいというので、暗号特技講習員として防府通信学校に行く。実際にそこにいたのは十日間ぐらいで、履歴表によると、「昭和十九年海人三機密第一号ノ一四四二依リ第二回暗号術特技兵臨時講習員ヲ免ズ」

 とある。第二号ノ一四四とは何か、今もって判らないが、推察するところサイパンも取られたし、暗号などを教えるのをやめて南方へ廻せ、というような内容だったらしい。佐世保海兵団に戻された。いつ南方に持って行かれるか戦戦兢々(せんせんきょうきょう)としていると、佐世保通信隊で暗号術講習があり、幸いそれにもぐり込むことが出来た。十一月に講習終了、実務につくことになった。それからだんだん水兵としての苦労が身にしみて判るようになる。

 苦労というのは、仕事のことじゃない。吊床訓練とか甲板掃除(陸上の兵舎でも甲板という)そして罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている。

 尻が痛くて、吊床であおむきに寝られないこともあった。吊床というやつは宙に浮んでふらふらと不安定で、私たち老兵の海軍生活の象徴みたいなものであった。

 十九年から二十年にかけて、私は指宿(いぶすき)海軍航空隊にいた。ここの勤務は最低であった。甲板(通信室と居住区)は広いし、吊床のフックは高いとこにあるし、若い獰猛(どうもう)な兵長らがいるし。先年西日本新開に指宿のことを書いたら、当時の兵長から手紙が来た。その一節。

「私が兵長時代、先生にもバッタを与えました由、時の流れとはいえ、すまん思いであります」

 たまりかねて下士官志願。三月、四月と講教を受けて、五月一日海軍二等兵曹となる。これで生活は楽になった。バッタも掃除も免ぜられ、食事も兵隊が運んで呉れる。それから鹿児島に転勤。各基地を転々とし、最後は桜島で終戦を迎えた。復員後すぐ小説「桜島」を書く。

「桜島」は私小説か実録のように思われるかも知れないが、出て来る人物、吉良兵曹長、見張りの兵、耳のない妓など、皆架空の人物である。私がつくり出したのだ。もっとも架空なのは「私」という人物で、実際の私は遺書も書かなかったし、美しく死にたいなどと思ったことは一度もない。

 第一死に直面していなかった。米軍が関東に上陸しても、また吹上浜に上陸しても、敵が兵力をさいて桜島を攻略する筈がない。地図を見れば判るが、九州の下端にぶら下った余計者のような島で、全部が洞窟陣地で、爆撃にあっても平気である。実際一度も爆撃を受けなかった。本土九州が全部平定されてから桜島攻略にとりかかるだろうというのが私の予想で、自分の生死について私ははなはだ楽天的であった。それに海軍は食糧をたくさん蓄積していて、三度三度たっぷり食べることが出来た。(その点陸軍は窮屈で、一度の食事が湯呑み一杯ぐらいだと、鹿児島で会った陸軍の兵隊から聞いた)

 通信は三直制(三度に分れて交替で当直に立つこと)で、私は直長。兵隊は皆私の直(ちょく)に入りたがった。私は部下を決して殴(なぐ)らなかったし、居眠りをしていると表へ引きずり出すふりをして居住区に帰らせるし、人気の点では最高であった。しかし上の方からは、私の直は能率が上らないと、時々文句を言われる。こちらを立てれば、あちらが立たぬ。

 ある日、夜の当直が終った時、涼を取るために近くの丘に登った。兵の一人が私に向かって、

「一体これから戦況はどうなるか。日本はどうなるのか」

 と質問した。私は考えて、

「何か急な事態が起って、アメリカとソ連と戦争を始めたら、日本は放っとかされて、おれたちは生き延びるだろう」

 と説明した記憶がある。今思うと、何と虫のいいことを考えたものか。でも私には無条件降服ということは、あり得ないと思っていた。あの頑迷な軍人どもが、降服する筈がない。国民を道連れにして、やけ戦さを続けるに違いない。

 そういう心境で終戦を迎えたから、私はうれしかった。八月十五日午後昼寝をして、夕方六時からの当直に立つために暗号重に入る。義務として暗号控えを調べたら「終戦」の二字が眼に飛び込んで来て、私はいささか動転。暗号士に「ほんとですか」と確かめ、真実だと判ると、私は壕を飛び出し、そこらあたりをぐるぐる歩き廻った。とても暗号なんか翻訳している気分にはなれなかったのである。

 九月一日付で海軍一等兵曹となる。実際は八月二十六日に復員した。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。名作「櫻島」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)のモデル事実や、実際の梅崎春生の感じ方などに、やや意外の感を受ける諸君も多いかも知れない。

「相ノ浦海兵団」現在の長崎県佐世保市大潟町にある陸上自衛隊相浦駐屯地の前身。

「針尾海兵団」佐世保湾と大村湾に挟まれた針尾島の南端にあった新兵及び海軍特別年少兵教育を主目的とした海兵団。戦後は陸上自衛隊針尾駐屯地となったが閉鎖、跡地が例のハウステンボス(長崎県佐世保市ハウステンボス町)である。

「防府通信学校」昭和一八(一九四三)年に開設された防府海軍通信学校のこと。現在の山口県防府市航空自衛隊防府南基地が跡地。

「指宿海軍航空隊」ひろ兄氏のブログ「海とひこうき雲」の「指宿海軍航空基地跡」が写真(当時の施設配置図有り)が豊富で必見。昭和二〇(一九四五)年には特攻基地に変貌、知覧基地・鹿屋基地同様、沖縄戦への本土最前線の要衝となった。]

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