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2016/08/17

続「乱れ髪」   梅崎春生

 

 九、十の二日第十三期本因坊戦があって、私は観戦記者として観戦した。私は年に一度や二度、こんな大勝負を見る機会があるが、いつ見ても気合がはいっていて、感銘させられる。やはり玄人の勝負は、素人の勝負とちがって、気迫がこもっているものだ。

 玄人のそれが素人とちがって気迫がこもる所以(ゆえん)は、我々の碁だったら勝っても負けても大したことはないが、専門家がもし負けたら、それだけ成績が下り、収入に響いてくることに一因があると思われる。ただ個人の面子(メンツ)だけで負けられぬのではなく、全生活をかけても負けられぬのである。だからひたむきになり、そのひたむきさが私たちの心をうつのだ。

 数日前の憂楽帳欄で、阪本勝氏が「乱れ髪」の中で「あの乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てるのだ」と書き、つづいて政治家の堕落を嘆いているが、収入に響くという点からしても、髪を乱しても勝負には勝たねばならぬ。

 ところが政治家の場合は、良い政治をしていては、大した収入にならぬ。膨大な収入を得るためには、どうしても悪い政治をやらねばならない仕組みに、いまの社会はなっている。だからいまの政府は、国民の嘆きを無視して、悪い政治を強行しようとしているのである。彼らが乱れ髪になるのは、選挙の時だけだ。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年七月十一日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本の解題に、この『続「乱れ髪」』というだについて、これは『同じコラム欄の七月七日号に阪本勝が「乱れ髪」のタイトルで執筆したのを踏まえて〈続〉としてもの』である旨の注記がある。『数日前の憂楽帳欄で、阪本勝氏が「乱れ髪」の中で「あの乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てるのだ」』と梅崎春生は述べているだけであるが、「乱れ髪に象徴される勝負のきびしさが、大衆の心をかき立てる」という下りは囲碁将棋の対戦とは読める。「数日前」とあるから、ここで梅崎春生が述べている「第十三期本因坊戦」ではないと思われるが、或いは直近に行われる予定の「第十三期本因坊戦」に絡めて囲碁の対戦の真剣勝負を阪本は語った者かも知れない。当該の阪本記事を御存じの方は、お教え願えれば幸いである。

「第十三期本因坊戦」は本因坊高川格と挑戦者杉内雅男戦。予想は五分五分と言われたが、二勝四敗で杉内が敗れている。しかし参照したウィキの「杉内雅男」によれば、勝者『高川は後に、この時が本因坊』九『連覇中の最大の危機と述べた』という。

「阪本勝」(まさる 明治三二(一八九九)年~昭和五〇(一九七五)年)は戯曲作家で政治家。衆議院議員を一期、兵庫県知事を二期、務めている。ウィキの「阪本勝」によれば、『兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で眼科医の家に生まれる。家は尼崎藩の藩医の家柄であった。北野中学校・第二高等学校を経て』、大正一一(一九二二)年に『東京帝国大学経済学部を卒業、学生時代は新人会(前期新人会)に属した。北野中学時代の同級生には、後に洋画家となった佐伯祐三がいた』。『卒業後は福島県立福島中学校の英語教諭や大阪毎日新聞学芸部記者などを務めたが、水平社運動との関わりなどで』大正一五(一九二六)年三月に『大阪毎日新聞を辞し』、翌年には『関西学院大学の講師となった』。また、『同年に賀川豊彦、河上丈太郎らの勧めで兵庫県議会議員選挙に日本労農党から出馬して当選』(一期目は神戸市、二期目以後は尼崎市)、『県議会議員活動の傍ら、社民系の政治団体「社会思想社」に所属して『洛陽飢ゆ』や『戯曲資本論』などを発表し、プロレタリア文学や唯物史観評論の分野で活躍した。しかし』、三期目の『当選直後に選挙違反の疑いを受けて失格とされ、以後は実家の病院を経営しながら』、『作家活動に入』った。昭和一五(一九四〇)年に『元兵庫県知事の湯沢三千男が理事長を務める大日本産業報国会に招かれて文化部長に就任、続いて湯沢が内務大臣のもとで行われた』昭和一七(一九四二)年の第二十一回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では『大政翼賛会推薦候補として兵庫県』第二区『から立候補し、当選した。同年には『新世界観の構想』を著し、次第にファシズム・浪漫主義への接近を見せ』た。敗『戦後は神戸市から招かれて民生局長となるが』、昭和二一(一九四六)年に『公職追放処分を受け』ている。追放解除後の昭和二六(一九五一)年には『日本社会党公認で尼崎市長選挙に出馬し、現職で保守系の六島誠之助が有利とされた下馬評を覆して当選する』。『当選後は市長室の扉を施錠せず』、『市民に開放したのを皮切りに、尼崎港沖の防潮堤建設指揮や当時不十分であった労働保険・市民保険制度の導入、尼崎競艇場の誘致、ハエ・カ撲滅運動などを行った』。昭和二九(一九五四)年、『兵庫県庁では岸田幸雄知事と吉川覚前副知事の政争に端を発する混乱が尾を引き、年内にも出直し選挙が行われる公算が強まっていた。社会党は左派・右派統一推薦候補として阪本に知事選挙への出馬を要請し、保守分裂で岸田・吉川の両陣営が疲弊した間隙を衝く形で両名に大差を付けて当選する』。『知事在任中は、瀬戸内海沿岸地域に比べて発展が遅れていた内陸部や北部の振興に尽力し「文人知事」として親しまれた。昭和三三(一九五八)年の『知事選挙で再選された後は「県営ギャンブル全廃」を掲げて神戸と明石の競輪場を廃止する方針を表明し、跡地はそれぞれ御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム)および県立明石公園球技場兼自転車競技場となっている』(ここに出る彼の記事は、その知事在任中の執筆ということになる)。昭和三七(一九六二)年、二期目の任期満了に際して、「知事は三期以上務めるべきではない」として出馬しなかったが、翌年四月の統一地方選挙においては『東京都知事選挙に革新統一候補として立候補したが、自民党が推薦する現職の東龍太郎に敗れて落選し』ている。]

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