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2016/08/24

懲治部隊   梅崎春生

 

 四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いたことがある。その男の自ら語る経歴によれば、学習院から江田島の海軍兵学校に入り、在学中脱走、東京をうろついていたら陸軍の憲兵につかまった。東京には海軍経理学校があったが、経理生徒の帽子には白線が入っている。そこで怪しまれたのだ。(ここらの話し方は実にリアリティがあって、これは本当かも知れないと思ったほどだ。)陸軍から海軍に引き渡され、横浜の大津刑務所に未決囚として入れられた。

「軍法会議にかかると、大変ですからねえ。服役して、それが済んでも、娑婆(しゃば)には帰れない。十一分隊というのに入れられる。十一分隊というのは、囚人上りばかりの部隊です。もしそこまで行けば、おれの運命も変ったかも知れないが、幸いに未決のまま終戦となりました」

 その会話をそっくり小説の中に取り入れようと思ったが、相手が名代のうそつき男だから、大津刑務所だの十一分隊だのが実在したものかどうか、疑わしいと思ったので、新聞社に調査を依頼した。すると新聞社の報告では、大津刑務所はたしかに実在したが、十一分隊というのはどうも怪しい。懲治分隊というのを十一分隊と聞きあやまったのではないかとのこと。そう言えば、懲治と十一は発音が似ている。だから小説では、懲治部隊として出した。

 それから二年ほど経って、野口富士男氏『海軍日記』が出版され、一冊が送られて来た。こちらも海軍で苦労した組なので、身につまされて読み進んで行くうちに、十一分隊が出て来たのでおどろいた。横須賀海兵団には十一分隊という特別の部隊が実在したのである。同書に曰く。

「十一分隊というのは、軍刑務所から戻って来たメムバアによって構成されており、胸に附けている名札の書体が活字風の明朝体になっていたので、誰にでも一目でそれとわかった。……」

 懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った。

 私も兵隊の頃しばらく佐世保海兵団にいたことがあるが、佐団にも軍刑務所出身ばかりを集めた部隊があった。何分隊だったか(九分隊だったような気もする)思い出せない。とにかくその分隊員に会ったら用心するように、と班長などから呉々(くれぐれ)も注意されていた。軍刑務所を出ると、兵曹でも兵長でも全部二等水兵になって、その分隊に入って来るのだ。海軍における出世の希望を全部とざされた連中だから、何をし出かすか判らない。その分隊の二等兵が、よその分隊の下士官をぶん殴(なぐ)っても、殴られた方の下士官があやまって引き退るというような状態で、私たちなんか遠くからその分隊員を見ただけで、びくびくしていた。

 もっとも彼等は私ども如きの小者を相手とせず、反抗しがいのある相手を探し求めて、肩で風を切りながら、団内を横行していたようである。彼等の心事や行動を、一篇の小説に仕立ててみたいと、今思わないでもないが、なにぶんにも分隊の名称も忘失してしまったくらいだから、手のつけようがない。やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年二月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風景』は昭和三五(一九六〇)年に刊行された、「紀伊國屋書店」創業者の田辺茂一が発案した来店者に無料で配布するタイプの小冊子型文芸雑誌で、作家舟橋聖一を中心とした「キアラの会」が編集・発行した。

「懲治部隊」梅崎春生は「懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った」と述べているが、実際にこの名を持つ、このような部隊は実在したウィキの「陸軍教化隊」によれば、陸軍教化隊とは『日本軍の部隊の一つで、犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた特別の部隊である。問題とされた兵士を一般部隊から隔離して軍紀を維持し、特別教育と懲罰を加えて更生を図ることが目的であった』とし、そこには大正一二(一九二三)年以前は「陸軍懲治隊(りくぐんちょうじたい)」と呼称したとあるのである。

「四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いた」恐らくは昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から同年十一月十八日号まで連載した長篇「つむじ風」のことである。このモデルの男については、梅崎春生は先に電子化した「モデル小説」でも述べているので参照されたい。

「横浜の大津刑務所」恐らく、現在の神奈川県横須賀市大津町にあった「横須賀海軍刑務所」のことと思われる。デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「横須賀海軍刑務所」を参照されたい。

「野口富士男」(明治四四(一九一一)年~平成五(一九九三)年)は小説家。戸籍名は「平井冨士男」。ウィキの「野口富士男」によれば、東京麹町生まれ。大正二(一九一三)年に『両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが』留年して昭和五(一九三〇)年に中退の後、文化学院文学部に入り直して昭和七(一九三三)年に卒業、『紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが』、昭和一〇(一九三五)年、『紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆』した。後に一年ほど『河出書房に勤務』した(その昭和一二(一九三七)年に母方の籍に入って平井姓となっている)。『第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員』、昭和二五(一九五〇)年頃になると、『創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念』、約十年を『費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語っ』ている。この頃、『東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営』。昭和四〇(一九六五)年、千五百枚の「徳田秋声伝」で『毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し』、「わが荷風」「かくてありけり」(読売文学賞)、「なぎの葉考」(川端康成文学賞)などを書いた。他の代表作に小説「暗い夜の私」(昭和四四(一九六九)年)などがある。『膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦』氏が「六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む」(文春新書、二〇〇八年)『で一端を明らかにした』。二〇一一年、野口冨士男生誕百年記念出版として、昭和二〇(一九四五)年八月十五日から昭和二二(一九四七)年一月十二日までの日記(一九四五年八月十五日から同年八月二十四日までは『海軍日記』から転用)が、『越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された』とあり、「やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった」という梅崎春生の謂いがよく判る]

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