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« 環状七号線   梅崎春生 | トップページ | 芥川龍之介 手帳5 (4) »

2016/08/30

浅草と私   梅崎春生

 

 久しぶりで、浅草をみた。終戦後初めてのことである。観音さまから六区へ抜け、池のまわりや絵看板など眺めてあるき、常盤座に入ってレビューを見物した。

 

 むかし、といっても学生時代の頃、ひとしきり浅草にかよいつめたことがある。常盤座には、渡辺篤やサトウロクローがいた頃で、田谷力三などがオペラ館に立てこもっていた時分だ。毎日たそがれどきになると、本郷三丁目からバスにのって、浅草にかよった。あの頃の浅草は、雑然としたなかにも、安んじて溶けこんで行けるような雰囲気があった。毎晩、レビューを見たり、映画館に入ったり、女剣劇や漫才小屋をのぞいたり田原町で牛めしをたべたり、電気ブランを飲んだりした。たいてい私はひとりであった。

 

 今おもうと私がこんなに通いつめたのも、田舎から出てきて、浅草にエキゾティズムを感じていたせいもあろうが、この、浅草という土地では、自分がなんら特定の人間でなく、たくさんの人間のなかのひとりであるという意識が、私を牽引するおもな理由であったようだ。肩をおとして電気ブランを飲んだりかぶりつきから踊子の姿体をながめたりすることが、私にはひどくたのしかった。このたのしさも、ひとりだけの時だけに私にあった。友達と行くと、あまりたのしくなかった。

 

 私はいまでもありありと憶い出す。ひょうたん池の橋の上からのぞいた黒い水の淀みとか、あたたかい牛めしのねぎの匂いとか、神谷バーの喧騒だとか、そのような昔の浅草の風物のきれっぱしが、うたい忘れていた歌の一節のように、時折私の胸によみがえってくる。それは孤独であることの愉しさに直接つながっているようである。

 

 それから何時頃かわすれたが、ふと浅草が厭(いや)になって、そして私は浅草から足を遠ざけた。浅草がいやになったというより、浅草に通う自分の姿勢がいやになってきたのだ。その気持も、自分にはっきりたしかめていた訳ではない。ただ何となく気持が浅草にむかなくなってから、何年か経った。戦争が始まって、そして終った。

 

 この間久しぶりに浅草をたずねたのも、私の気まぐれではなくて、ある座談会をするための行程であったのだが、何年ぶりかの浅草は、全体をしろっぽい風が索莫と吹きぬけている感じで、仲店の彼方に玩具じみた小さな観音堂がたっていたり、池のまわりの食物屋も、俗悪な食欲を満たすために並んでいるような感じで、なにか親しめなく膜をへだてたような気持がした。行き交う人の数も、昔日以上の混雑の仕方だが、この人たちも昔の人たちとはちがうのだろう。レビューや映画館の絵看板もことさらどぎつくて、裸の女が荒縄でしばられていたりする絵が、道行く人人の眼をうばったりしている。

 

 入ってみると常盤座は満員で、バラエティーが始まったところであったが、しかし見ているうちに古く色観せた官能が胸にもどってきて、私はやがて舞台にひきいれられた。踊子たちも、昔より身体が美しくなった感じで、表の看板から想像したほど舞台は俗悪ではないようであった。年月が経ち社会は変ったけれども、この舞台だけはあまり変っていないような気がした。客席にまで、うっすらと便所のにおいがただよってくるのも、昔の常盤座のままであった。

 蹄子たちの顔にも、見覚えがあるのは一人も残っていなかったが、長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして、私は人々の肩や背の間から、あかるい舞台の動きにしばらく心をうばわれていた。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年八月号『新生』初出(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した。この注記は以下では略す)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。行空きが多く、彼のエッセイではこれは特異点である。而して追想と現在の観察による余韻が、よく行間に漂っている。

「学生時代の頃」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九三九)年に卒業した。自主留年で一年ダブっている(旧制大学は三年制であった)。

「常盤座」「ときわざ」と読む。明治二〇(一八八七)年に開業した劇場・映画館(この後の昭和五九(一九八四)年に休館し平成三(一九九一)年に閉鎖された)。ウィキの「常盤座によれば、『浅草公園六区初の劇場で、当時流行の道化踊の興行のために、根岸浜吉の根岸興行部が常磐座(読み同)として開業した。「浅草オペラ」発祥の劇場でもある。のちに常盤座、トキワ座と改称した』。昭和八(一九三三)年四月一日に『古川緑波(古川ロッパ)、徳川夢声らが常盤座で、軽演劇の劇団「笑の王国」の旗揚げ公演を行なった』。以来、昭和一八(一九四三)年六月の『同劇団解散まで、常盤座を根城にした』。同年五月、『松竹がパラマウント映画と設立・運営していた松竹パ社興行社がパラマウントが撤退、同年六月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足、常盤座は新宿昭和館とともにこの系列に加えられた』。『第二次世界大戦が終結、日本が復興に向うとともに、常盤座も復興に向か』い、本記事が書かれた昭和二三(一九四八)年三月に『常盤座は、日本で初めて踊りを取り入れたストリップショーを開催、浅草六区のストリップ興行の嚆矢となった』とあるが(月は別サイトで確認)、春生の叙述からはストリップの印象はないが、既に行われていた。彼がこの時見た出し物はそれではなかったものか。

「渡辺篤」(わたなべあつし 明治三一(一八九八)年~昭和五二(一九七七)年)は俳優。本名は渡辺総一。ウィキの「渡辺篤俳優によれば、『浅草オペラを経て映画界に入り、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の一任者となった』。『戦中は古川ロッパと行動を共にし、戦後は黒澤明監督作品に常連出演した』。詳細事蹟や出演作品はリンク先を参照されたい。私は個人的には最後(推定)の映画出演となった黒澤明の「どですかでん」(昭和四五(一九七〇)年・四騎の会)の「たんばさん」役が何故か印象に残っている。

「サトウロクロー」生没年など詳細データが見当たらない。渡辺篤と名コンビとして知られた戦前の喜劇役者。あるサイトには目の周りに墨を入れ、長く口鬚を垂らしていた、とある。識者の御教授を乞う。

「田谷力三」(明治三二(一八九九)年~昭和六三(一九八八)年)はオペラ歌手。ウィキの「田谷力三によれば、『正統派のテノール歌手だけでなく、浅草オペラの花形として、多くの人に愛された』。事蹟はリンク先を見られたい。

「オペラ館」旧東京市浅草区公園六区二号地にあった映画館・劇場。ウィキの「オペラ館によれば、明治四二(一九〇九)年五月に開業、昭和一九(一九四四)年三月三十一日に閉鎖廃業した。

「田原町」「たわらまち」と読む。現在の東京都台東区西浅草一丁目附近。東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の「田原町駅」として名が残る。

「電気ブラン」ウィキの「電気ブランによれば、現在の東京都台東区浅草にある「神谷バー」の創業者神谷伝兵衛が作ったブランデーが混合されたアルコール飲料。『当時電気が珍しかった明治時代に誕生した、ブランデーベースのカクテルである。大正時代に流行した文化住宅・文化包丁などの』「文化~」と『同様に、その頃は最新のものに冠する名称として』「電気~」が『流行しており、それにブランデーの「ブラン」を合わせたのが名前の由来である。発売当初は「電氣ブランデー」という名で、その後「ブランデー」ではないことから現在の商標に改められた』アルコール度数は当時、四十五度と有意に高く、『口の中がしびれる状態と、電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博した。ただし発売元の合同酒精では、電気ブランという名称の由来は「電気との言葉がひどくモダンで新鮮に響いたから」とし、「口の中が痺れるため」という説は否定している。ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草が配合されている。材料の詳細、配合の割合は今も秘密にされている』とある。太宰治の「人間失格」の中で、登場人物の堀木は『酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証』すると記す。確かに。口当たりがよく私も好きだが、吞み過ぎると確実に足にくる。

「かぶりつき」劇場用語。最前列の客席を言う。参照した小学館の「日本大百科全書」松井俊諭氏の解説によれば、『名称の由来は、かぶりつくように見物する席だからという単純な説もあるが、別に、江戸時代の歌舞伎(かぶき)では舞台で本物の水や泥が使われることが多く、最前列の席には、跳ね返りをよけるかぶりものがついていたためともいう』とある。

「長いこと触れなかったオルガンのキーを、胸のなかで久しぶりに押すような気持がして」とても素敵な表現ではないか。]

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