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2016/08/20

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   貧福、定まり有り

    貧福有ㇾ定(ひんふくさだまりあり)


Hinphukusadameari

此世の有樣、能きもあしきも前業(ぜんごふ)による事、いふは更なれど、殊に貧福の分ち計り正しきはなし、都京極春日のわたりに、甚六といふ者あり。俄かに家とみ、豐かなれば、世に沙汰する。此の男、工商の家業もなく、士農の勤めもせず、醫(い)にあらず、巫(ぶ)ならず、何によつて德をつき、かく富裕に成りぬらん。疑ふらくは盜賊(たうぞく)の徒(と)か、博奕(ばくえき)の手利(てきゝ)か、と、いふほどに、其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて、一和尚(わじやう)三太夫といふ者に、ひそかに此の不審を問はする。甚六が云く。疑ひはさる事に侍り、我れ、衣服、金銀のゆたかなる事、大事の所作(しよさ)によつて也。他人は申すにおよばず、妻子從者(じうしや)にも深く包みて申さぬ事なれども、各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り。我れ、元來、家、貧しく、身、つたなければ、朝(あした)の煙(けむ)り、たえだえに、夜の肌、衾(ふさま)、薄し、ねらぬまゝに思ひ出づるは、賣買(ばいばい)も、道、うとく、細工も刀(かたな)きかず、さる無骨(ぶこつ)の身は、奉公せんも扶持(ふち)する人なし。強盜は又、さすが、恥しくもおそろし、果報を天に任せ、人の落したらん物を拾はんと思ひ、夜每に小路々々(こうぢこうぢ)をありくほどに、或時は帽子、かづら、紙扇(かみあふぎ)の小分(せうぶん)を、ひろふ折りもあり。宵より朝(あした)迄、一物(もつ)も得ぬ事も、又、多し。ある夜、さる所にて金子三百兩をひらふ。それより、かやうの有德と成り侍る。今に至りて、月夜には、そことなく縱橫(じうわう)に、ありく。されど、身の貧しき時のごとき、更くる迄も、をらず、歸る也、と、かたる、もとより、三太夫は欲心無道の男、うらやましく、扨、珍しき事をもたくみ出で給ふ事よ、と、いひて、甚六は歸しぬ。扨、つくづくと思ふ。此の事、人に披露せば、外(ほか)に此のたぐひの者、出來べし、と暫し包みて、己(おの)れ、又、甚六を眞似て、ひろひに出で、傾城町こそ、金銀もてる若き者共の往來(ゆきゝ)する所なれば、落し置く事もあらめ、と、才覺(さいかく)らしく九條の町に行くに、畑(はた)の細路(ほそみち)を黑面(こくめん)にうつむきて、爰を大事と目をくばる、道の左右(さう)に相向(むか)うて革袋(かはぶくろ)などやうの物ふたつ有り、月さへ入りてくらき夜なれば、定かならねど、嬉しさ限りなく、兩の手にて、一度に、つかむ。見れば、一つは古き馬の沓(くつ)、ひとつは大きなる蟇(ひきがへる)にて在りし、驚きてなげ捨て、猶、こりずまの、淋しきかたこそ心惡(にく)けれ、と、あわてありく、ある人の門に、くろき小袖とみえし在り、あはや、と立ちよつて、引きあぐれば、人くふ犬の黑きが、餘念なくねいり居たる、なじかはこらふべき、散々にくらひつかれ、はうはう逃げて歸るとて、若侍の、遊女町より醉(ゑ)たゞれて歸るに、情(なさけ)なく行きあたる、惡(にく)きものゝしわざ、と刀(かたな)を拔きて追ひつくるに、足は早くて逃(のが)れ去りぬ。あくる夜も猶、殘り多く思ひ、又、出る。今夜は觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ、東畑(ひがしはた)を、さすらふ。爰かしこ、みぬくまもなく、搜せども、ちり計りの物も、ひろはず。打腹立(うちはらだ)ちて歸り足に、白川堤(しらかはづゝみ)の柳かげに、女のかづら有り、是よ、と、いひて、引きあぐれば、黑蛇の、俗に、からすぐちなは、といふ物也けり。取るや否や、腕くびにまとひつきて、ふれども投(なぐ)れども更に解けず。片手を添へて、もぎはなさん、とすれば、同じくまき添へて兩手(りやうしゆ)ひとつにしむる。せんかたなく其さまながら宿に歸り、人の力(ちから)にて漸々(やうやう)とき捨てけり。此の後、おのが貧分(ひんぶん)の因果を知りて、おもひとゞまりにけり。おもふに蛇は陽蟲(やうちう)にて、夏出で、冬蟄居し、晝、ありき、夜、かくるゝ物なるに、夜かげに是が手にかゝる事、貪心(どんしん)のまよひを天のにくみ給ふより、災難にあひける物ならし。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「都京極春日」現在の京都府京都市西京区大原野南春日町附近か。他にも「春日」と名うつ場所はあるが、孰れも「京極」と冠するのが不審であるからである。この「京極」とは通り名ではなく、平安京に於ける東西の果て(の外)の謂いと読む。

・「巫(ぶ)」「神降ろし」をする下級の神職、或いは民間の祈祷師。

・「德をつき」この「つき」は他動詞の「付く」で「身につける」の意。

・「手利(てきゝ)」手業(てわざ)の優れている者。腕利き。

・「其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて」その町方の甚六の家の者以外の者どもが、彼が何か不法な行為に手を染めて裕福になったのだと邪推し、それによって町方一同が連帯責任を負わされて罰せられる(知っていたのに訴え出なかったという不作為犯である)かも知れない、とお上を恐れ、そうした後の難儀を想定、それを防ぐために合議して。

・「一和尚(わじやう)」狭義にはかく読んだ場合は、律宗・法相宗・真言宗で授戒の師となることの出来る修行を積んだ高僧を指すのであるが、名を「三太夫」と称し、後に本文で「三太夫は欲心無道の男」と出、何より、挿絵に出るその「三太夫」の姿形(どう見ても遊び人である)から、この「和尚」とは一種の、ある程度、その時代の裏世界にも通じた、いろいろなトラブルの際の交渉人、何でも屋「三太夫」という手合いと見てよかろう。

・「大事の所作(しよさ)」さる重大なある出来事に遭遇したこと。

・「各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り」今、あなたのおっしゃったように町衆が皆、後々に降りかかるかもしれない禍いなどを心配し、あなたに私を質すよう依頼したということを知りまして、申し上げるので御座います。

・「かづら」頭髪の少ないのを補うために添える毛髪。かもじ。添え髪。

・「小分(せうぶん)」とるに足らない金にもならぬ物。

・「傾城町」「けいせいまち」と読み、所謂、遊里遊郭、「いろまち」のこと。

・「才覺(さいかく)らしく」小賢しく智恵を働かせたつもりで。

・「九條の町」現在の京都市営地下鉄烏丸線「九条駅」(烏丸通と九条通が交差する九条烏丸交差点の地下)のある京都市南区東九条南烏丸町附近か。

・「馬の沓(くつ)」蹄(ひづめ)を保護するための藁(わら)や皮革・和紙などで作った馬用の履物。

・「こりずまの」「懲りずま」で一般には副詞として「懲りずまに」で用いられる。「ま」は「~のような状態である」の意を表す接尾語で、全体で「前の失敗に懲りもせずに・性懲りもなく」の意である。

・「淋しきかたこそ心惡(にく)けれと、あわてありく」傾城町に入る、畑中の淋しげな細道だったからこんないぶかしくもつまらぬ拾い物をこそしたのだ、と、慌てて相応な屋敷のある方へと向かって歩いてゆく。

・「なじかはこらふべき」反語。主語主体は「犬」。どうして野良の狂犬が「こらふ」、耐える、ただ静かなままにされていることがあろうか、いや、あろうはずがない。

・「とて」格助詞で「~しようとした際に」。

・「醉(ゑ)たゞれて」すっかりだらしなく酔っ払ってふらふらして。

・「情(なさけ)なく」あきれたことに運悪く。

・「殘り多く思ひ」やはり大枚を拾えるかもしれぬという未練が多く残って。

・「觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ」猿楽能役者の三世観世大夫音阿弥(「おんなみ」とも 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)の猿楽興行(ここは一般庶民向けであるから勧進興行)を見るために高く作った桟敷席の軒下辺りを目当てとして。音阿弥は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。ウィキの「音阿弥によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿・金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を押しのけて猿楽能が芸界の主流となる道を作って、祖父観阿弥、伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した』。『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』。『実父は世阿弥の弟四郎。この四郎については詳しい来歴は知れず、諱も清信とする後代の伝書、元仲とする近世の系図、久次とする説など一致を見ない。世阿弥・音阿弥という天才の間に埋もれた「殆ど見るべきものの無い存在」と見る向きもあったが、世阿弥から著書『風姿花伝』を相伝されたことが分かっており、最近では観世座の脇之仕手として兄を支えて大夫にも匹敵する活躍をしていた人物と考えられている。子の大成後はそのワキも務めたようだ』。『音阿弥の少年時代については不明だが、「三郎」の通称は祖父の観阿弥、伯父の世阿弥も使用したものであり、これを継承していることから、幼くして伯父・世阿弥の養嗣子になっていたと考えられている。間もなく世阿弥には実子の元雅が生まれるが、音阿弥の元服に際してこの「三郎」の名を与えたことからも分かるように、世阿弥は観世座の後継者として音阿弥を考えていた時期があると思われる』。『その期待に応えて成長した音阿弥は、二十代前半の応永二十年代からその活動記録があり、若くして観世座の次世代の担い手として活躍を始めていたことが分かる』。『しかしながら、応永二九年(一四二二年)、観世大夫の地位を受け継いだのはいとこの元雅であった。しかしこの頃世阿弥父子はその創作活動の充実と反比例するように、田楽の増阿弥などに圧され、将軍家の寵を失いつつあった。一方で音阿弥は青蓮院門跡義円の寵愛を受け、応永三四年(一四二七年)には義円の後援の元で勧進猿楽を行い、成功を収めた』。『正長二年(一四二九年)、この義円が還俗して将軍・足利義教となったことで、観世座の運命は大きく変わることとなる。義教は音阿弥を熱烈に支援する一方で世阿弥父子を冷遇し、永享元年(一四二九年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が中止となり、翌年には世阿弥の有していた醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪され、音阿弥に与えられている。またこの年の興福寺薪猿楽では、前年の元雅に代わり、音阿弥が大夫として参勤している。なおこの際、興福寺は彼の都合に合わせてか日程の変更・延長まで行っており、その権勢のほどがわかる。こうして「観世大夫両座」と言われるように、音阿弥の活動も独立性を強め、ついには観世座の主導権を握るに至った』。『そんな中で永享四年(一四三二年)元雅は伊勢で没し(暗殺説も)、同六年には世阿弥自身が佐渡に流罪となる。かくして観世座から世阿弥父子の勢力は一掃され、これを受けて永享五年、音阿弥は正式に観世大夫の地位に就き、名実ともに能楽界の第一人者となる』。『永享五年四月、音阿弥の大夫就任披露の勧進猿楽が、京の糺河原で挙行された。これを祝って人々が義教の元に参上していることから、この催しが義教の手で行われたものであり、音阿弥が将軍家の御用役者として認められていたことが分かる。諸侯は義教の意を迎えるためもあって音阿弥を厚遇し、将軍をもてなす席には音阿弥の能が欠かせぬほどであった』。『我が世の春を謳歌する音阿弥であったが、一方で同九年、突如義教の勘気を蒙っている。この事件は貞成親王の耳にまで届き、「不定之世毎事如此」と驚嘆させしめたが、赤松満祐のとりなしで十日ほどで許されている』。『嘉吉元年(一四四一年)、その赤松満祐が、自邸で義教を暗殺するという挙に出る(嘉吉の乱)。それはまさに、饗応のため呼ばれた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事であった』。『最大の後援者を失った音阿弥は一時困窮し、私的な勧進能を行うなどしてその打破に努めたようだ。文安元年(一四四四年)の勧進能では観客席の値段を下げるなどの努力をしている。一方で金春座とともに幕府に訴えて、他座が京で猿楽を舞うのを妨害したりもしている』(下線やぶちゃん)。『しかし義教の子・足利義政が長じて後の享徳元年(一四五二年)頃からは、その厚遇を受けることになる。応仁の乱の中でも能を見ていたほどの愛好家である義政は音阿弥を高く評価し、再び表舞台に引き上げた』。『六十歳を迎える長禄二年(一四五八年)頃には子の又三郎正盛に大夫の座を譲って出家し、以後法名の「音阿弥」を名乗るこの名は観阿弥・世阿弥の後継者としての自負を示すものであろう(一字目を並べると「観世音」となる)世阿弥同様に出家の後も第一線で活動を続け、寛正五年(一四六四年)には正盛が義政の後援で行った糺河原での勧進猿楽でも、「邯鄲」「恋重荷」「二人静」「養老」など二十九番のうち十二番でシテを務めている。この催しには義政・日野富子夫妻は無論のこと、関白二条持通、また有力守護大名たちが臨席し、観世座の権威を見せ付けた。同年には後花園院の御前で能を舞い、「老いて益々健在である」と義政を感嘆させた』。『とはいえ政情の不安もあり、暮らし向きはそれほど楽でなかったようで、文正元年(一四六六年)には相国寺の蔭涼軒を訪ね、押し売り同然に小歌・小舞を披露したことが記録に残っている』(下線やぶちゃん)。『翌二年に死去。一休宗純に帰依してその引導を受けたと『四座役者目録』などに語られるが、疑わしい』とある。宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)より二十三も年上で、宗祇が四十六の時に死んでいる。本篇はそもそも宗祇が出て来ないから、歴史的事実との齟齬などの問題の生じようはない。あるとすれば、ここで勧進興行をしている音阿弥は上記のどの時期のことかという点一つであろう。下線を引いた中期の足利義教暗殺直後の辺りの不遇な時期と考えると面白いが、話者の宗祇が如何にも若過ぎる(満二十歳)。寧ろ、この本文ではっきりと「音阿彌」と呼称していることを考えれば(引用の後の下線部分)、彼が隠居後、実際に「音阿彌」を名乗った長禄二年(一四五八年)頃から、経済的には苦しかったとする死去までの九年間辺りを措定すると、自然な感じにはなる気がする。

・「みぬくまもなく」「見ぬ隈もなく」。見なかった物蔭は一ヶ所としてないほどに。

・「歸り足」帰りがけ。

・「白川堤(しらかはづゝみ)」鴨川右岸の祇園白川の堤。

・「黑蛇」「からすぐちなは」俗称と黒い個体という条件から考えると、気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビによれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名Elapheは音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属の解説をご覧あれかし。

・「貪心(どんしん)」「西村本小説全集 上巻」では右に「とんしん」、左(二字全体に)に「むさぼる」とルビする。

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