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2016/08/04

芥川龍之介 手帳4-13

《4-13》

François Solier : avis au Lecteur L’Histoire ecclésiastique des îsles et Royaumes du Japon

[やぶちゃん注:以上はフランス人のイエズス会司祭フランソワ・ソリエー(一五五八年~一六三八年)で、日本に於けるキリスト教布教と迫害の歴史を記した「日本教会史」Histoire ecclésiastique des îles et royaume du Japon 一六二七年)のこと(抹消部「avis au Lecteurフランス語で「序文」の意)。

 

○本蓮寺はChristian church Saint Johan Juans ヨハネ・バティスタなり(墓しらべこはし 文久 慶應) 故にその濱邊から墓石出る事あるべし

[やぶちゃん注:「本蓮寺」再度、注しておく。長崎県長崎市筑後町にある日蓮宗聖林山本蓮寺。本蓮寺公式サイト内の「寺院概要」の歴史によれば、『日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが』、『長崎のこの地にはじめサンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院ができ、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした』。『純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります』。『大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺を建てるに至ります』。『キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍したと伝わります』とある。ウィキの「本蓮寺」によれば、天正一九(一五九一)年『来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられ、聖ジョアンバウチスタ教会も併設された』が、慶長一九(一六一四)年に『発布された禁教令により破却され、その後の』元和元(一六二〇)年、『発星院日真の弟子日恵が長崎に来て』、『跡地に一宇を建立』。正保五(一六四八)年(年)、『江戸幕府より朱印状を下付される』。なお、安政二(一八五五)年から四年の間、『長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が』この寺に『寓居し』てもいる。原爆投下により、全山焼失したが、昭和二九(一九五四)年に再建されている、とある。Saint ヨハネ・バティスタ」の綴りはポルトガル語ならば“São João Baptista”である。

「文久 慶應」「文久」は西暦一八六一年から一八六四年までで、次に元治を挟んで、「慶応」が一八六五年から一八六八年まで。]

 

○トウドのサンタの寺院 師範學校 後の山を唐渡山と云ふ あて字

[やぶちゃん注:これは長崎で最初に建てられた教会「トードス・オス・サントス教会」(現存せず)のことをメモしたものである。現在の長崎市夫婦川町のその跡には臨済宗華嶽山春徳寺が建っている。「長崎県文化振興課」の公式サイト「旅する長崎学」の「ながさき歴史散歩」内の10回 鐘の音が鳴り響く教会ストリートに以下のようにある。十六世紀中頃の『長崎は、日本初のキリシタン大名大村純忠の領地でした。家臣長崎甚左衛門純景が、唐渡山(とうどさん)と呼ばれる裏山にお城を構え、小さな村落があるにすぎませんでした。甚左衛門は、純忠の重臣で、純忠の一字をもらって純景と名乗り、純忠の娘を妻にし、純忠と一緒にキリスト教の洗礼を受けています。この長崎に最初の教会が建ったのは』永禄一二(一五六九)年のことで、『宣教師のヴィレラが甚左衛門から住居として与えられた廃寺をリフォームしたものでした。これが、トードス・オス・サントス教会』(Todos os Santos:ポルトガル語で「諸聖人に捧げられた教会」の意)『で、今は春徳寺となっているこの場所にあったとされます。裏の山を"トードサン(唐渡山)"と呼ぶのは教会の名残だともいわれているんですよ。その後、この場所には、キリシタン学校であるセミナリヨやコレジヨ』(ポルトガル語由来で孰れも神学校のことで、後者は本邦の切支丹が主導したものに冠されたようである)『も移ってきました』。『現在、この春徳寺の庭では、教会時代の遺構として残る生活に欠かせない切支丹井戸と出土した大理石を見ることができます。蓋を開けて中を覗かせてもらいました。徳川幕府の禁教令で破壊されても、奇跡的に残った白い大理石。祈りを捧げた祭壇用なのか、はたまたパンをこねるための調理用なのかはっきりしたことはわかりませんが、教会があった時代の面影を感じることができる貴重なものです』とある。「師範學校」は不審。調べたが、長崎師範学校はこの時期には、この近くにはない。]

 

○私のカナリアよ ありねの銅版 白と茶 文久三年 空色ノニツチ 聖マリア 火花 靑葉 蠟燭 慶應元年3月17日○フロチザン脆いてありしに浦上の女三四人來りて云ふ Where is Maria? 教ふ 子抱けりと女云ふ 舊徒發見

[やぶちゃん注:興味惹かれる不思議な語句の羅列であるが、判るものが少ない。識者の御教授を乞う。

「文久三年」一八六三年。この年、長崎の外国人居留地の埋立工事が完成し、かのグラバー邸が建っている。

「ニツチ」「ニッチ」ならば、西洋建築に於いて厚みのある壁を抉って作った窪み部分、壁龕(へきがん)の意である。彫像や花瓶などを置く。

「慶應元年3月17日」厳密には元治二年(同年四月七日「慶応」に改元)で、グレゴリオ暦では一八六五年であるが、この日付は既に新暦のものである(次注の引用の「信徒発見」を参照)。

「フロチザン」フランス出身のカトリック宣教師ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean 一八二九年~一八八四年)のこと。ウィキの「ベルナール・プティジャンによれば、『パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた』。『大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで』知られる。『フランス生まれのプティジャンは』、一八五四年に『司祭に叙階され』、一八五九年に『パリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡り、那覇で日本語と日本文化を学んだ』。文久二(一八六二)年、『ついに横浜に上陸することができ、翌年長崎に渡った。任務は大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということであった。後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得た。こうして建てられたのが大浦天主堂である』。『プティジャン神父は』明治元(一八六八)年には『日本代牧区司教に任命され』明治六(一八七三)年に『キリシタン禁制が解かれると、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳などに力を注ぎ、明治一七(一八八四)年に『大浦で死去し、大浦天主堂内に埋葬された』。以下、「信徒発見」の項。『大浦天主堂は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は『フランス寺』『南蛮寺』と呼び』、『見物に訪れた。プティジャンは訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許していた』。『プティジャンが本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し』、『見学を許していたのには理由があった。長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信者がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである』。はたして一八六五年三月十七日(旧暦元治二年二月二十日)の『午後、プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた』十五人ほどの『男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。浦上から来た彼らこそ』三百年『近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。プティジャンは驚き喜んだ』。『プティジャンはこの仔細をヨーロッパへ書き送り、大きなニュースとなった。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきた。プティジャンは見学を装って訪れる日本人信者に対し、秘密裏にミサや指導を行う。しかし堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府やキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府から迫害や弾圧を受けることに』もなった。以下はウィキの「浦上四番崩れからの引用。しかし、この二「信徒発見」から二年後の慶応三(一八六七)年に『浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(旧暦六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八人が『一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った』。九月(旧暦八月)には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われ』ている。江戸幕府が瓦解すると、一八六八年三月七日(慶応四年二月十四日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』四月七日(旧暦三月十五日)に『示された「五榜の掲示」の』第三条で『再びキリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』五月十七日(旧暦四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した。この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席でさらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六時間にも『わたって浦上の信徒問題を議論することになった』。しかし六月七日(旧暦閏四月十七日)、『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(旧暦五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四名を『津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は『日本宗教自由論』を著して禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した』が、配流された者の数は実に三千三百九十四名、うち六百六十二名が命を落としていた。『生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に『故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。『浦上天主堂の境内の一角には、山口県萩市に配流された信徒らが正座させられ、棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。獄舎では、拷問石の上に太めの茎で編んだ葦簀(よしず)を敷き、全員がその上に座らせられ拷問、説諭を受けた』。『その中でも苛烈を極めたのが』、二十二歳の『女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け』、十八日目には『雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は』明治六(一八七三)年に『浦上に帰った後』、大正一四(一九二五)年十二月に『浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げた』とある。]

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