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2016/08/06

芥川龍之介 手帳4-19~33 / 手帳4~了

《4-19》

○國書 御仕置仕附

[やぶちゃん注:「國書」は「くにがき」で、旧日本の地方行政単位の各国の公式記録の意味か?

「御仕置仕附」「おんしおきしつけ」と読むか。江戸時代に罪人を法に照らして処罰することを「仕置」と言うから、その「仕置き」を実際にどう「仕附(しつ)け」たか(処理したか)を記す記録か?]

 

〇遊女屋宿泊人帳 ×月×日英人カツテ 八千代 寄合町遊女屋 筑後屋平藏

[やぶちゃん注:底本の新全集では二箇所の「×」の右にママ注記する。

「寄合町」長崎丸山遊郭の内である。]

 

○仕置伺 入牢帳 窂溜諸願伺 無宿平九郎女房殺害に付御仕置伺 御用留 別封留 諸證文帳 犯科帳 唐阿蘭陀申渡 萬延元年埋地日記

[やぶちゃん注:「窂溜」「窂」は牢に同じいが、これは恐らく「らうため(ろうため/ろうだめ)」で牢 内で重病になった者及び十五歳未満の者を入れた施設のことではあるまいか? 江戸では浅草と品川に存在した。

「御用留」「ごようどめ」で、幕府・諸藩の役所や町村の役人の手元で記録された公用の文書控簿を指す。

「別封留」不詳乍ら、他の文書控えとは別にして封をしたものの謂いであるから、重要或いは機密扱いの文書を指すか。

「唐阿蘭陀申渡」「たうおらんだまうしわたし(とうおらんだもうしわたし)」と読む。鎖国時代の限定通商していた中国やオランダ船への通告文書類を指すようである。

「萬延元年」一八六〇年。

「埋地日記」奉行所から命ぜられて長崎の居留地埋立造成実務に当たった庄屋北野織部が残した勤務日誌。受注した安政六(一八五九)年九月から翌萬延元年の歳末に至る本事業の外、附帯事業完了までを詳細に記録する。]

 

115冊――Shocking

[やぶちゃん注:何の書類か不祥。気になる。仕置き帳か。]

 

○燈明臺一件

[やぶちゃん注:「燈明臺」は燈籠型の灯台のこと。]

 

○午十一月三日溜入   無宿

○未正月十八日入牢   平八郎

            申四十才

○右のもの吟味仕候處唐人邪教之爲―忰に付

[やぶちゃん注:「忰に付」意味不明。]

 

《4-20》

○東京圖書館で見べき本 長崎志續篇 長崎實錄大成 長崎港草 長崎夜話 長崎聞見錄(見聞?) 通航一覽 長崎三百年(櫻痴) 天主實義

[やぶちゃん注:「東京圖書館」国立国会図書館の前身である帝国図書館のこと。実際に正式名称を「東京図書館」と呼んだ古い一時期がある(それや詳しい沿革はウィキの「帝国図書館」を参照のこと)。

「長崎志續篇」正篇の「長崎志」は江戸中期の長崎の地役人(享保六(一七二一)年、「御用向幷御書物役」に任ぜられる)であった田辺茂啓(元禄元(一六八八)年~明和五(一七六八)年)が、明和元(一七六四)年から実に三十年の歳月をかけて編纂した「長崎実録大成」(天領の貿易都市長崎の政治・経済・文化・社会を詳しく述べた総合地誌で長崎奉行所に献上されている)。同書はさらに茂啓本人によって明和四年分まで書き継がれ、これが「長崎志正編」(全十六巻)となった。その後、奉行の命令で別人の手によって「長崎志続編」(全十三巻)が書き継がれている、そちらの方。

「長崎實錄大成」前注下線部参照。

「長崎港草」「ながさきみなとぐさ」と読む。長崎の郷土史家熊野正紹(せいしょう ?~寛政九(一七九七)年)による長崎地誌で寛政四(一七九二)年成立。全十五巻。

「長崎夜話」「長崎夜話草(ながさきやわぐさ)」のことであろう。西川如見著で全五巻からなる。自らの長崎の見聞を子の正休に口述筆記させたもの。長崎の由来、海外長崎貿易などに始まり、長崎の風俗・人情・孝子・烈婦などの人物記事、更に特産物・土産物などにまで言及している。享保五 (一七二〇) 年成立。

「長崎聞見錄(見聞?)」「聞見(ぶんけん)」でよい。京の医師広川獬(かい)が 著した長崎の見聞録。広川は寛政二(一七九〇)年と同七(一七九五)年の二回訪れ、それぞれ実に三年間も滞在している。本書の刊行は寛政一二(一八〇三)年。「しょくらとを」(チョコレート)や「かうひい」(コーヒー)の文献上の登場は本書とも言われているようである。

「通航一覽」江戸幕府の命により、大学頭林林復斎らによって編集された歴史書(対外関係史料集)。内容は永禄九(一五六六)年から文政八(一八二五)年頃までの実に二百六十年近くに及ぶもので、全三百五十巻。嘉永六(一八五三)年の復斎による序文があることから、この頃に完成されたと考えられている。国別・年代順に配列されてあり、蝦夷地関係は第七~八の「魯西亞國部」に含まれている。時を同じくして、黒船来航によって、文政以後の外交資料の整理が必要不可欠となった。このため、林鶯渓(復斎の長男であったが父復斎が、復斎の甥で大学頭家(第一林家)の当主であった林壮軒が死去、急遽、復斎が家督を継承することとなり、弟の学斎とともに大学頭家に戻った。それにより鶯渓は第二林家の家督を継承して幕府儒者に任ぜられた。鶯渓は父の没後にも大学頭家を継承していない)と、復斎の片腕として「通航一覧」編纂に参加した幕臣宮崎成身(せいしん)を中心として「通航一覧続輯(ぞくしゅう)」百五十二巻が編纂され、こちらは安政三(一八五六)年に完成している(以上は主にウィキの「通航一覧」に拠った)。

「長崎三百年(櫻痴)」「櫻痴」は「あうち(おうち)」と読み、で政治家で作家でもあった福地源一郎(ふくちげんいちろう 天保一二(一八四一)年~ 明治三九(一九〇六)年)のペンネーム。以下、ウィキの「福地源一郎」によれば、長崎新石灰(しっくい)町で儒医福地苟庵(こうあん)の息子として生まれ、十五歳の時、長崎で通詞名村八右衛門の下、蘭学を学んだ。安政四(一八五七)年に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って、江戸に出、以後、二年間ほど、イギリスの学問や英語を学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事、万延元(一八六〇)年に御家人に取り立てられ、文久元(一八六一)年には柴田日向守に通訳として随行して文久遣欧使節に参加、ロシア帝国との国境線確定交渉に関わった。慶応元(一八六五)年には再び幕府使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学んで、西洋世界を視察、その時、ロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また、西洋の演劇や文学にも興味を持ち始めた。江戸開城後の慶応四年閏四月(一八六八年五月)には、『江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。その後、徳川宗家の静岡移住に従い自らも静岡に移ったが、同年末には東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流した。その後下谷二長町で私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開き(後に本郷に移転)、英語と仏語を教えている』。明治三(一八七〇)年、『渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ』、明治六(一八七三)年には『一行と別れてトルコを視察して帰国』、明治七(一八七四)年、『大蔵省を辞して政府系の『東京日日新聞』』(現在の毎日新聞の前身)『発行所である日報社に入社(主筆、のち社長)、署名の社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。政治的立場としては漸進主義を唱えて、自由党系の新聞からは御用主義、保守主義と批判されたが、政界に親しくした』。明治八(一八七五)年に『新聞紙条例と讒謗律が発布された際には、その適用について各新聞社が共同で政府へ提出した伺書の起案を行った。また同年には地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務め』ている。明治一〇(一八七七)年に『西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向き、山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、現地からの戦争報道を行ってジャーナリストとして大いに名を上げた。この東京への帰途に木戸孝允の依頼で、京都で明治天皇御前で戦況を奏上する』。翌明治十一年には『渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府議会議員に当選し、議長となった』。明治一四(一八八一)年には私擬憲法「国憲意見」を起草、また、「軍人勅諭」の『制定にも関与した。この年、『東京日日新聞』は』一万二千部を『発行するようになる。この頃、下谷の茅町の自宅は池端御殿と称されて、多くの招待客が訪れていた』。明治一五(一八八二)年、『丸山作楽・水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙等を政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した』。『たびたびの洋行以来、親しい市川團十郎や守田勘彌、中村宗十郎などと演劇論を語り、新しい演劇に取り組み』、明治一二(一八七九)年以降は『フランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供した。その後、演劇改良論を書き始め』、明治一九(一八八六)年の「演劇改良会」の『発起人に加わるなど、次第に演劇改良運動とそれを実践する劇場の開設に執念を燃やすようになる』。明治二〇(一八八七)年以後は歴史著作も執筆、その翌年頃からは『小説も手を染め、政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説などを執筆』 、明治二十二年十一月には『千葉勝五郎とともに、東京の木挽町に歌舞伎座を開場した。福地はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者となって活歴物や新舞踊などの脚本を多数執筆し、市川團十郎らがこれを演じた。代表作に』「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」「春日局」などがある。明治二十四年から『やまと新聞』に『小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格となって評論活動を続け』た。しかし、明治三六(一九〇三)年に『團十郎が死去すると舞台から手を引き、翌年の』第九回『衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、この時には既にかつて福澤諭吉と並び称されたような社会的影響力は失われて』おり、三年後、議員在職中に死去した。歴史読物の「長崎三百年」は明治三五(一九〇二)年の刊行。

「天主實義」前に注した通り、「天學初函」の「天學實義」の誤記であろう。]

 

通航一覽 エケレス語字書和解 不正唐物取扱候一件 異教徒人事帳 志賀九郎助書翰集 華夷重商考 唐方商賣荷物方大意 何番船書籍元帳(新渡書籍) 郷村記 豐後國切支丹宗門親類書 異宗一件書類 邪宗門ノ儀ニ付内密申上候書付 淸文鑑和解 和蘭字彙

[やぶちゃん注:編者は項を新たにしているが、明らかに「東京圖書館で見べき本」の続き。

「エケレス語字書和解」嘉永三(一八五〇)年に編纂に着手されたものの、未完のまま中断されてしまった英和辞書「エゲレス語辭書和解」のことであろう。阿蘭陀通詞であった森山多吉郎や同僚の西吉兵衛らが関わった(未完となったのは開国に向けて政治実務が多忙となったためであった)。

「不正唐物取扱候一件」「仕置例類集」(各奉行から老中に仕置の伺を立てたものの中から、老中が評定所に諮問した事件について、評定所が行なった評議例を整理分類したもの。評定所刑事事件事例集で、裁判の準則としたもの)の中に「二十七 上 出所不正之唐物取扱候部 密買并不正之品と乍存買請又者引請候類・密買之ものを見遁候類・不正之品と乍存世話いたし候類・不正之品と乍存致売買候類・無手板ニ而致売買候類」というのがある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「異教徒人事帳」不詳。奇妙な名前で、誤記が疑われる。

「志賀九郎助書翰集」長崎稲佐の庄屋志賀九郎助(後に親憲に改名)が息子のロシア語通詞であった志賀浦太郎(親朋:文久元(一八六一)年二月二日にロシア人に頼まれてロシア船に乗って横浜から箱館に行っていた)に宛てた書翰集。文久元年から慶応元(一八六五)年迄と、明治八(一八七五)年一月三日の九郎助の手紙が纏められている。「東京大学史料編纂所」公式サイト内の「長崎県下幕末維新期史料調査」で一部が読める。

「華夷重商考」江戸中期の天文学者西川如見(じょけん 慶安元(一六四八)年~享保九(一七二四)年)が元禄八(一六九五)年に著わした日本初の世界地誌。

「唐方商賣荷物方大意」「阿蘭陀方唐方商賣荷物元拂等大意譯書類(おらんだかたからかたしょうばいにもつもとばらいなどたいいわけしょるい)」という古文書なら、早稲田大学図書館公式サイト内の「古典籍総合データベース」内で読める。

「何番船書籍元帳(新渡書籍)」外国から流入する書籍類を監視管理するためと思われる書籍元帳(しょじゃくもとちょう:書籍名と数量を書き上げたもの)。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションの「長崎舶載唐本書籍元帳」で一例を画像で読める。

「郷村記」大村藩が天和元(一六八一)年以来、百八十年をかけて安政の改革の一環として最終的に文久二(一八六二)年に完成させた旧大村藩領東西彼杵地方に対する農村調査記録。全七十九巻。

「豐後國切支丹宗門親類書」安部光五郎氏の論文に「豊後国大分郡玖珠郡キリシタン宗門親類書について」というのがある。

「異宗一件書類」安政三(一八五六)年の密告による「浦上三番崩れ」(ウィキの「浦上三番崩れ」によれば、『浦上村のキリシタンに関する密告があり、密告者の中に棄教した「転び者」が含まれていたことから、この年の』九月十八日に『帳方(隠れキリシタン組織の指導者)吉蔵らキリシタン』十五人が『捕縛された』。『浦上一番崩れ』では、専ら、『訴えた庄屋の不正問題に話が移り、続く浦上二番崩れでは内部の慎重論もあって、「証拠不十分」による関係者の釈放の形で終わっていたのに対し』、『今回は実際に「転び者」による告発があったことから、取調は大規模かつ徹底的に行われ、吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。にも関わらず、長崎奉行はこの件を村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかったことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、キリシタンの存在を公式には認めなかった。なお、長崎県立長崎図書館には『異宗一件』と命名された事件に関する帳簿が現存している。非道な拷問が行われ、転んだまま仏教徒になってしまった人々もいた』とある)に関わる長崎奉行所の資料中に「異宗一件」「異宗徒」という簿冊名を見出せる。

「邪宗門ノ儀ニ付内密申上候書付」同一文字列で浦上四番崩れ絡みの文章を見つけたが、他の記載がリンクしたくない内容なので、敢えて「不祥」としておくことにする。知りたければ、上の文字列で検索すればすぐ見つかる。

「淸文鑑和解」《4-8》で既注。

「和蘭字彙」「おらんだじい」と読む。江戸末期の蘭和辞典で全十三巻。長崎出島のオランダ商館長H・ドゥフがF・ハルマの蘭仏辞典を参考にして長崎通詞らと協力して編纂し、文化一三(一八一六) 年に成立した蘭和辞典「道訳法児馬(どうやくはるま)」を蘭方医で幕府医官桂川甫周(かつらがわほしゅう)が校訂、安政二~五(一八五五~一八五八)年に刊行したもの。桂川は「解体新書」の翻訳にも参加している。]

 

《4-21》

○繪圖 唐船 商船 位牌

○肥前國浦上村百姓共紛敷宗體執行ひ候趣相聞候ニ付追々召捕一件吟味仕候趣左の通に御座候

 高木作右衞門御代官所

 肥前國彼杵郡浦上村山里中野郷字長與道

                 百姓

       巳五月廿七日入牢   吉  藏

  朱枠 ―― 未 ―――― 病死   未五十二才

 右のもの吟味仕候所年曆不相分先祖共より中野郷に住居高三斗七升八合取所農業致し家内八人相暮罷在候所淨土宗村内聖德寺檀家に候所

[やぶちゃん注:一部に読み句読点等を附し、また訓読文にして読み易く書き換えておく。但し、明らかに途中で切れている。

 

○肥前の國、浦上村百姓共(ども)、紛敷(まぎらはしき)宗體(しふたい)、執行(とりおこな)ひ候ふ趣き、相ひ聞き候ふに付き、追々(おひおひ)、召し捕ふ一件、吟味仕まつり候ふ趣き、左(さ)の通りに御座候ふ。

 高木作右衞門御代官所

 肥前の國彼杵(きつき)郡浦上村山里中野郷字(あざ)長與道(ながよみち)

                 百姓

       巳五月廿七日入牢        吉  藏

  朱枠 ―― 未(ひつじ) ―――― 病死   未五十二才

 右のもの吟味仕まつり候ふ所、年曆(ねんれき)、相ひ分らず、先祖共(ども)より中野郷に住み居(を)り、高(たか)三斗七升八合、取る所、農業致し、家内八人、相ひ暮し罷り在り候ふ所、淨土宗、村内、聖德寺檀家に候ふ所、

 

「長與道」ここには隠れキリシタンの秘密の礼拝堂「聖フランシスコ・ザビエル堂」があったという。

「聖德寺」「しやうとくじ(しょうとくじ)」は現在の長崎県長崎市銭座町にある天王山法輪院聖徳寺(寛永三(一六二六)年建立。この寺は山里村及び渕村一帯を管轄しており、所謂、浦上キリンタンの檀家寺であった。かの近代の悲劇「浦上四番崩れ」は、浦上キリンタンがこの寺との関係を絶とうとしたことに始まったとされる。こちらの記事を読まれたい。]

 

○ハンタマルヤ イナツショウ

[やぶちゃん注:「イナツショウ」不詳。]

 

○毎年十一月冬至前後キンタに當り候日をナタリヤと唱へナタリヤは出産と申事の由同日はエス誕生の日にて母ハンタマルヤ流浪中牛小屋に於て出産牛飼桶にて初湯を使ひ候故實ノ由何時もその前夜より佛前へ生魚酒等相備家内一同通夜

[やぶちゃん注:「ナタリヤは出産と申」ナタリアNatalia)は南欧から東欧にかけて広く見られる女性名であるが、これは後期ラテン語の「natele domini(主の誕生日=クリスマス)」の意である。]

 

《4-22》

ガラスサ等三十三篇を一應より定二應又は三應程も唱へ候儀にて飼牛有之候ものは米麥等相當へ當日は猶又同樣備物いたしetc.

[やぶちゃん注:「ガラスサ」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

〇萬事に唱候教文 ガラスサみちみち給ふマリヤおんみに御禮をなし奉りラナルジ樣は御身とともにましまして女人の中に於てわけていわくよみしきなり又御胎内のゼージヨース樣は尊きにてましますリヨースの御母サンタマリヤ樣われらが最後の時惡人なれとつつしんでたのみ奉るあめん

[やぶちゃん注:「ラナルジ」不詳。識者の御教授を乞う。

「ゼージヨース」不詳。識者の御教授を乞う。

「リヨース」イエス・キリストのことらしい。]

 

《4-23》

○天にまします御親さま――われひとにゆるすが如くわれらがとがもゆるして下され われら天道に日々數度相唱候教文

[やぶちゃん注:「數度」「あまたたび」か。

「相唱候教文」「相ひ唱へ候ふ、教への文(ふみ)」。]

 

○邪宗門之儀二付内密申上候書付

[やぶちゃん注:《4-20》で注記した通り、「不祥」としておく。]

 

《4-24》

○浦上の church 石造の唐獅子の水吐き 黑衣の尼 ステエントグラ 藍鼠の明るい柱 白き壁 天井 石柱に貝[やぶちゃん注:ここに以下の貝の図。] 海綿 十字を額にかく爲と云ふ マリア 百合 ばらの造花 像(藍白金) 日本人の女來り十字を切る 拔きて白布をかむる オルガン confessional の赤き布 ラゲ司教 西に向へる stained glass 灼熱して黃赤光焰萬丈たり 牧羊

Kai

[やぶちゃん注:貝は私の守備範囲なのだが、この絵では同定不能である。斧足・腹足類の区別も出来ない。柱とあるから或いは化石でアンモナイトなどの絶滅種かも知れぬ。

confessional」懺悔・告解、或いは「告解室」の意。

「ラゲ」パリ外国宣教会所属のベルギーの神父で、来日して九州各地を布教したエミール・ラゲ(Émile Raguet 一八五四年~昭和四(一九二九)年)。聖書翻訳家で辞書編集者でもあり、文語体による日本語訳聖書を作成、仏和辞典も編纂した。ウィキの「エミール・ラゲによれば、『ベルギーのブレーヌ・ル・コントに生まれる。ボンヌ・エスペランス小神学校で中等教育を終えたあと、トゥールネーの中央神学校に学び』、一八七七年、『パリ外国宣教会に入会し、同年、同会神学校で副助祭に』、一八七九年、『司祭に叙階され、同年』(明治十二年)、『日本に派遣される。最初に長崎県の伊王島、次に平戸で従来の信者に相対した後』、明治二〇(一八八七)年、福岡(博多或いは筑前)で宣教を開始し、後、大分カトリック教会で講演による宣教活動を行い、明治二四(一八九一)年には宮崎カトリック教会を創設、明治二九(一八九六)年、鹿児島で宣教を開始した。明治三五(一九〇二)年、東京市築地教会に「佛和話大辭典」出版を目的として転居、明治四一(一九〇八)年には『同書の売上金により聖フランシスコ・ザベリオ聖堂を鹿児島に建立』した、明治四四(一九一一)年二月に浦上小教区主任となり、大正三(一九一四)年三月に前任者故ピエール・テオドール・フレノ神父(Pierre Theodore Fraineau 一八四七年~一九一一年:浦上・五島・長崎にて布教し、浦上天主堂創建に尽力した)の後を引き継いで、浦上天主堂の建築を竣工させた。大正九(一九二〇)年九月まで同教区に在籍し、東京で天に召された。芥川龍之介の長崎再訪は大正一一(一九二二)年五月十日から五月二十九日であるが、このメモはラゲ司祭を実見しているように感じられる。まだ、その頃には浦上にラゲ司祭はいらっしゃったのかもしれない。]

 

《4-25》

○ドンゴロス 人骨と牛骨 頭骨(毛)(齒) 馬骨(肥料) 糞蠅 骨粉の煙 暗し 天窓の光 支那婦人 人足の小頭――ボウシン 人足とそのやの番頭

[やぶちゃん注:「ドンゴロス」(粗い綿布(デニム)を指す英語“dungaree”(ダンガリー)の転訛と言われる)は俗に言う「南京袋(ナンキンぶくろ)」、麻袋(あさぶくろ)のこと。ジュートなどの麻の繊維を編んで作った袋のこと。

「ボウシン」英語の“boatswain”で「ボーズン・水夫長・商船の甲板(こうはん)長・軍艦の掌帆長」が原義であるが、実は建築現場で現在も作業する職人の班(グループ)を指揮する「班長(世話役)」を「棒心(ぼうしん)」と呼んでおり、この英語がその濫觴である。]

 

○金ギヤマン チイズ入れ 紫へ金すぢ入のコツプ 白へ赤模樣のコツプ 深蒼の德利 桃色金唐草のギヤマン 紫紺の鉢 綠の大コツプ 黑ギヤマンの皿 焦茶ギヤマンの鉢 白の大フラスコ 四十前の紫赤黃褐色(永見家先祖阿蘭陀へ注文してつくる) 白に金唐艸の珈琲茶碗二十人前 靑綠波形の鉢

[やぶちゃん注:「永見」既注であるが、再掲する。劇作家で美術研究家の永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)。生地長崎で倉庫業を営みながら、俳句(号は夏汀)や小説を書く一方、長崎を訪れた芥川竜之介ら著名人と交遊、長崎の紹介に努めた。南蛮美術品の収集研究家としても知られた。芥川龍之介より二歳年上。]

 

○辰丸事件

[やぶちゃん注:「たつまるじけん」と読む。中国に於ける排日運動の先駆けとなった有名な事件で、明治四一(一九〇八)年二月五日に澳門(マカオ)沖で起きた日本船「第二辰丸」拿捕事件。ウィキの「辰丸事件より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『マカオのポルトガル人銃砲商が発注した銃器九十四箱、弾薬四十箱及び石炭等を積載して神戸を出た汽船第二辰丸は、マカオ前面の水域において清国』『の巡視船四隻に武器密輸の嫌疑で拿捕され、日章旗を撤去され、広東に回航された。日本側は密輸行為を無視し、領海問題や日章旗問題を口実に中国と強硬な交渉を行い、謝罪と十万円の損害賠償を要求した。しかし、清国政府は革命党の問題に悩まされている最中であり、容易に日本の条件を受け入れなかった。一方、日本では、第一次西園寺内閣が様々な国内事情を抱え、帝国議会、軍部、財界の圧力にさらされており、この局面を挽回しようと南清艦隊を動かして清国政府を威嚇した。この結果、清国政府は三月十五日、辰丸釈放、損害賠償、謝罪礼砲、兵器買収など五ヶ条の要求を受け入れることとなる。ところが事件発生地である広東の民衆はこれに憤慨し、辰丸が釈放される十九日に国恥記念大会を結集し、日貨排斥を決議した。この運動は広東省内にはもちろん、華南、南洋まで及び、不況下の日本への打撃は深刻であった』とある。]

 

《4-26》

奉行 human にて切支丹をゆる十人中一人をゆるす その男怒り奉行を殺す thema.

 

《4-27》

     
failure ― deeply fallen in love ― obstacle

○心中<

     
success ― shallow ― no ob.

[やぶちゃん注:「failure」ここは後の「success」から「失敗(者)」。

obstacle」障害・妨害(者)。

shallow」浅はか・皮相的。]

 

《4-28》

〇上る大路田村千代樣方

[やぶちゃん注:現在の京都市東山区大和大路通か。しかし、当時でも「上ル大路」とは言わないと思う。]

 

○今出川通淨福寺 停車場 上ノ2201

[やぶちゃん注:京都市上京区浄福寺一条上笹屋にある天台宗浄福寺。市バスの直近の停留所名は「今出川浄福寺」である。]

 

《4-29》

○長崎――切支丹地――Leon Parge 天文18  1549――寛永17 1630――20

[やぶちゃん注:「切支丹地」不詳、Leon Parge」人名としか思えないが、不詳、「寛永17  1630」寛永十七年は西暦一六四〇年で不審。「20萬」何の数値か不詳。因みに現在、禁教令直前の頃のキリシタン人口は三十七万人ほど、禁教令以降に殺されたキリシタンは説によって三十万から百万人とされる。]

 

○僧――神――外商 San Phelip は)和英(和蘭の御忠節)

[やぶちゃん注:「外商 San Phelip は」(「外商」と「San Phelip は」の間には有意な空隙がない)不詳。イタリア人のカトリック司祭でオラトリオ会の創設者にして「喜びの聖人」「ローマの第二の使徒」と称されるフィリッポ・ロモロ・ネリ(Filippo Romolo Neri 一五一五年~一五九五年)がいるが、綴りが違う。]

 

○土佐派

[やぶちゃん注:「土佐派」小学館「日本大百科全書」の加藤悦子氏の解説を引く。『大和絵(やまとえ)の伝統を継承して、もっとも長くその主流を占めた画派。数種類流布する「土佐系図」などでは、その画系は平安時代にまでさかのぼるが、鎌倉時代以前の部分は信憑(しんぴょう)性が薄い。画系の祖として確実に知られるのは』文和元/正平七(一三五二)年頃に『絵所預(えどころあずかり)となったと考えられる藤原行光(ふじわらのゆきみつ)(中御門行光(なかみかどゆきみつ))である。また、土佐の呼称は藤原行広(ゆきひろ)(行光の孫か)が文献上の初出である。以後代々絵所預に任じられたりしているが、行広の次代の光弘(みつひろ)、ついで光信(みつのぶ)が輩出するに及んで、土佐派は著しく発展した。光信は宮廷絵所預であった』十五世紀半ばから十六世紀初めまで、『宮廷・幕府などのために絵画活動を行い、室町時代の大和絵制作の中心的存在であった。子の光茂(みつしげ)も、光信を継承して絵所預を務め『桑実寺縁起(くわのみでらえんぎ)』などを残している。しかし室町末期の』永禄一二(一五六九)年に『光茂の長男・光元が戦死したため土佐派は後継者を失い、中央画壇からの後退を余儀なくされた。堺(さかい)に下った同派は、光吉(みつよし)(光茂の弟子か)を中心に町絵師として画系を維持したが、子の光則(みつのり)は』寛永一一(一六三四)年に『京都に移り、同派の再興を企てた。その子光起(みつおき)は』承応三(一六五四)年、遂に『宮廷絵所預に任じられ、同派を復興した。以後、光成(みつなり)、光芳(みつよし)らが出て、江戸時代を通じて大和絵の伝統を遵守した。土佐派は中世における大和絵の担い手として重要な存在であり、また近世においては町絵の新しい興隆を促したことも特筆される』。なお、寛文二(一六六二)年、『同派から出た如慶(じょけい)は住吉派(すみよしは)をおこして、江戸で活躍した』とある。しかしそれにしても、この切支丹関連メモの中に芥川龍之介は何故、「土佐派」と記したのか、よく判らぬ。何の関係もないのかも知れない。]

 

○1 五人組

  (宗門寺

  (宗門帳

 2(

  (宗門人別帳 檀那寺 15才以上 判元見屆役 踏繪

  (死者

 3 制札 500 罰 サカヅリ

[やぶちゃん注:「(」は底本では大きな一つの丸括弧(下部は底本では四行)で、「15才以上」は、これのみ「宗門帳」以下の三行に横書されてある。

「五人組」ウィキの「五人組」より引く。『江戸時代に領主の命令により組織された隣保制度。武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた』。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。時代が流れ』、慶長二(一五九七)年、『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれていた』とある。

「サカヅリ」遠藤周作の「沈黙」に描かれる、かの凄惨を極めた拷問「逆さ吊り」のことであろう。]

 

○轉證文(元和二年)長崎奉行中采女正重義【南蠻誓■】

[やぶちゃん注:【 】内は二行割注。底本では( )内。「■」は底本の判読不能字一字分。

「轉證文」「ころびしやうもん(ころびしょうもん)」。切支丹から転んだことを請け合う證文である。

「元和二年」一六一六年。

「長崎奉行中采女正重義」これは脱字がある。豊後府内藩第二代藩主にして長崎奉行であった竹中采女正(うねめのしょう)重義(?~寛永一一(一六三四)年)。ウィキの「竹中重義」によれば、『徳川秀忠に長崎奉行として抜擢された。幕府の意向に従って過酷なキリシタン弾圧を実施し、穴吊りなど多くの拷問法を考案した。記録上、汚職を咎められ』、『切腹させられたことになってはいるが、事実は重義が秀忠の寵臣であったため、徳川家光に代替わりした時に粛清されたものと思われる』。元和元(一六一五)年に『父重利の跡を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている』。寛永六(一六二九)年七月二十七日に『水野守信に代わって長崎奉行に着任する。重義を長崎奉行に推したのは土井利勝で、それまでの長崎奉行は幕府の』三千石級の『旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスが抜擢されたのは異例であったとされる(幕末まで長崎奉行に任ぜられた万石クラスの人物は重義を入れて』二名のみである)。『重義の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された。さらに肥前島原藩主松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始、多くのキリシタンが殉教した』。寛永八(一六三一)年には『有名な絵踏み(踏絵)が初めて雲仙で行われたという記録が残っている』。寛永九(一六三二)年に『大御所秀忠が卒し、家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した。これと連動するかのように、重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。すでに』寛永六(一六二九)年十月に『書かれた平戸のオランダ商館長の手紙には、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」とある。調査の結果』、寛永一〇(一六三三)年二月に『奉行職を罷免され、切腹を命じられ』、翌年二月二十二日に『嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった(検死役は前任の長崎奉行で、当時大目付であった水野守信であった)。これにより府内藩竹中氏は改易・廃絶となった』。「通航一覧」に『よると、堺の商人・平野屋三郎右衛門が、己の妾を重義に奪われ』、『挙句に追放になったとして江戸の町奉行に訴え、その際に重義の不正の数々を告げた。取り調べたところ、それに間違いなしとして、重義は処罰されたとある』。また別に「バタヴィヤ城日誌」に『よると、告発者は長崎代官末次平蔵とその他数名の長崎町民で、竹中采女正が唐人の貨物を着服したり、自ら国禁の海外貿易に手を染めているという訴えであったとしている』とある。]

 

○貞享四年切支丹類族改 寺の開帳 慶應元年三月十七日金 17C.

[やぶちゃん注:「貞享四年」一六八七年。

「慶應元年三月十七日金」大浦天主堂での「信徒発見」の新暦での日附及び曜日である。「慶應元年」は前にも述べたが、正しくは改元前なので元治二年である。]

 

○屋根 松 月 雲 三味線 壺庭

[やぶちゃん注:《4-28》からこの《4-29》は旧全集にはない。]

 

《4-30》

○よく見ればゐる竹籔かや葺の雀かな

 白壁や芭蕉玉卷く南京寺

 白壁に芭蕉若葉や南京寺

 白壁に蘇鐡若葉や南京寺

 南海に秋立つ竹

 篁に天下の秋や鳳飢ゆる

 さんたまりあ 鱶

[やぶちゃん注:「南京寺」既に注の中に出したが、再掲しておく。これは長崎の唐寺の命数「長崎三福寺」の一つである東明山興福寺のこと。長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院で、山門が朱塗りであるため、「あか寺」とも呼ばれる。古くより中国浙江省及び江蘇省出身の信徒が多いことから、「南京寺」とも称せられた。]

 

《4-31》

[やぶちゃん注:以下の抹消句の中の〔 〕部分は全抹消の前に部分抹消されたものを指す。]

○飢ゆる鳳や天下の竹の秋

 鳳飢ゆる天下の竹〔の〕や秋となり

 石頑は秋立つ竹や〔二三竿〕與可の印

 渇筆や頑石

 竹の秋

 炎天にはたと打つたる根つ木かな

 鳳飢ゆる天下の竹

 板や竹

 竹の秋魚板 支那寺の赤き魚

 磬打てば山房や磬打てば立つ竹の秋

 蕭々と渇筆は秋立つ竹か石頑に

 亞字欄の外や秋立つ竹二本

 酒前茶後秋立つ竹を寫しけり

[やぶちゃん注:最初の句の「鳳」は「おおとり」と訓じ、二句目のそれは「ほう」と音読みしているか。

「石頑」「せきぐわん」(後の「頑石」もひっくり返し)と音読みしているか。硬い岩の意でとっておく。

「與可」は「よか」で、「文与可」「文同」とも称した、蘇軾の従弟で墨竹画の名人の名。

「渇筆」は「かつぴつ(かっぴつ」で、墨汁の含みの乏しい筆。或いは、それを用いてわざとかすれさせた書法や水墨画法「掠(かす)り筆」のことも同時に指す。

「亞字欄」「あじらん」と読み、建物などの欄干で漢字の「亞」の字の形に切り込んだ中国風のものを指す。

 

《4-32》

 菩薩名は心王と申す春の風

 亞字欄の外や秋立つ竹二本

 石頑蕭々と秋立つ竹や石頑に

 酒前茶後秋立つ竹を寫しけり

 石頑蕭々と秋立つ竹や石頑に

 一むらの秋

[やぶちゃん注:「心王」(しいわう(しんのう))は仏教用語で心の作用の主体となる識(しき)のこと。心それ自体。心は個別の精神作用に対して総体を認識する主体であるところから「王」と喩えたものである。「華厳経」の中に「心王菩薩問阿僧祇品」というのもある。]

 

○みどり屋

 平平平平

 七一二三四五六

[やぶちゃん注:意味不明。]

 

《4-33》

○末法の世は世なれども佛たち白蓮夫人に冥加あらせたまへ

 茨城縣西稻敷郡牛久村 小川芋錢

 大森新井宿一二五三 片山廣子

[やぶちゃん注:「白蓮夫人」歌人柳原白蓮(明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は、大正から昭和時代にかけて)のこと。「知恵蔵2015」の葛西奈津子氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『本名は柳原燁子(あきこ)』。『東京に生まれる。父は柳原前光(さきみつ)伯爵、母は妾の一人で柳橋の芸妓となっていた没落士族出身のりょう。前光は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)の兄で、燁子は大正天皇の従妹に当たる。九四年、遠縁に当たる子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となる。九八年、華族女学校に入学。一九〇〇年に、十五歳で北小路家の長男資武(すけたけ)と結婚させられ、その後、妊娠により女学校を退学。長男・功光(いさみつ)を出産するも、〇五年、功光を北小路家に残して離婚し、実家に戻る』。『当時、華族の家庭では体裁が重んじられ、離婚した娘は恥とされて柳原家本邸に入ることができず、前光の正妻・初子の隠居所で読書や短歌をなぐさめとして暮らす。結婚・出産のために断念した学業を再開するため、〇八年、東京・麻布のカナダ系ミッションスクール、東洋英和女学校に寄宿生として編入する。八歳年下の村岡花子と出会い、「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う「腹心の友」となる。この頃、佐佐木信綱が主催する短歌結社竹柏会に入門する』。『一〇年、二十五歳年上で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門と見合いし、翌年、後妻として嫁ぐ。年齢・身分・教養のいずれも不釣り合いな、伯爵家と炭鉱王の政略結婚として世間を騒がせ、東京日日新聞では連載で大きく報じられた。花子はこのニュースにショックを受け、燁子と絶交に至る』。『再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれたが、生きがいを感じられずに、花子に心情を吐露する手紙を書いている。これをきっかけに親交が再開する。孤独や苦しみを短歌に詠み、竹柏会の機関誌「心の花」に発表し続けた。この頃から、白蓮の号を用いる』。『二一年、社会主義者の宮崎龍介と駆け落ちする。いわゆる「白蓮事件」である。当時は姦通罪が存在し、旧刑法では二年以下の懲役となる行為であった。燁子は伊藤家に対して大阪朝日新聞紙上で絶縁状を発表し、その二日後には大阪毎日新聞紙上に伝右衛門の抗議文が掲載されるなどして、センセーショナルな事件となった。二二年に長男・香織を出産するも、義父が抱える多額の負債もあって、生活は苦しく、龍介が結核に倒れた時期は、文筆で生計を支えた。二五年、長女・蕗苳(ふき)が誕生。三五年以降、歌誌「ことたま」を主宰する』。『四五年、学徒出陣していた香織を米軍による空爆で亡くす。その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こす。緑内障で視力を失いながらも、歌を詠む穏やかな晩年を過ごし』た(私は何故だか知らぬが、彼女が生理的に激しく嫌いである。されば、そのまま元号なども附加せずに引いた。より細かなことはウィキの「柳原白蓮でもお読みいただきたい。これは芥川龍之介の「白蓮事件」を受けた狂歌であるが、実は龍之介はこの後、自死の年の四月上旬、妻文の幼馴染みで文の依頼で龍之介に近づいていた平松麻素子と、帝国ホテルで自殺未遂をするが、その際、白蓮の友人であった麻素子が怖くなって心中計画を漏らし、訪ねて来た白蓮から龍之介は説教を受けて、心中をとりやめている事実がある。まさに少しの間だけ、龍之介の「冥加」には関わったと言えば言える。

「西稻敷郡牛久村」現在は茨城県牛久(うしく)市。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は画家。本名は小川茂吉。河童の絵をよく描いたことから「河童の芋銭」とも呼ばれる、私の大好きな画家である。

「大森新井宿」現在の東京都大田区の大森駅周辺の旧地名。

「片山廣子」芥川龍之介が最後に愛した才媛で私が追い続けている愛する女性である。ブログ・カテゴリ「片山廣子など是非とも参照されたい。]

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