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2016/08/04

芥川龍之介 手帳4-14・15

《4-14》

“Nosta Señora de L’Antigua”

[やぶちゃん注:「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アンティグア」で、スペイン語で「ラ・アンティグアの聖母」の意。ラ・アンティグア(La Antigua:レオン語(スペインのカスティーリャ・イ・レオン州レオン県とサモーラ県の一部で話されているラテン語から派生したロマンス語の一つ):L'Antiguaは現在のスペインのカスティーリャ・イ・レオン州レオン県エル・パラモ地域の自治体名ではある。調べた限りでは、「海の聖母」の謂いらしい。]

 

Bishop(司教)は普通高座の下 But 遺言して舊信者を發見せし所に葬る 今傍に石碑を立つ(55) 今白蟻あり 早晩改造すべしと云ふ

[やぶちゃん注:先に注した大浦天主堂内に埋葬された、大浦天主堂で「隠れキリシタン」を発見した日本代牧区司教ベルナール・プティジャンについてのメモと思われる。]

 

〇一天泰平富民悦樂 邪法盡滅正法流布

[やぶちゃん注:これは恐らく、切支丹撲滅のために働いた日蓮宗のキャッチ・フレーズかと思われる。]

 

《4-15》

Les quarante neuf bienheureux martyrs

[やぶちゃん注:フランス語で「四十人の新たに祝福されたる殉教者」。これは東ローマ帝国に於ける、現在のアルメニア地方のセバステという町のセバステ湖でなされた皇帝チリニウスの禁教迫害による「セバステの四十聖人殉教者」(Sts. 40 Martyres de Sebaste)のことか?]

 

慶長元年二月五日長崎立山に於て日本二十六聖人殉教ノ圖 元和八年九月十日――司祭二十五名 信者三十名 べネヂクトⅩⅤ(現教主) 白と赤(Carpet) 椅子――赤ぶちの白 黑檀に象牙の Christ 簾下る

[やぶちゃん注:「慶長元年二月五日長崎立山に於て日本二十六聖人殉教ノ圖」は「日本二十六聖人殉教」のメモ。慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に、豊臣秀吉の命令によって二十六人のカトリック信者が長崎で磔(はりつけ)の刑に処された事件。ウィキの「日本二十六聖人によれば、『日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった』。『当時は、キリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われ』たり、『僧侶が迫害されてしまったり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されてしまう事件が相次いでいた。さらにポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られている事例が発覚し、ここに至って豊臣秀吉はバテレン追放令を発布した。ただし、秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行われなかった。黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができたし、キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はなかった』。しかし、慶長元(一五九六)年十月に起ったサン=フェリペ号の土佐への遭難漂着事故を契機として、秀吉は同年十二月八日に『再び禁教令を公布した。また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。大坂と京都でフランシスコ会員』七名と信徒十四名、イエズス会関係者三名の合計二十四名が『捕縛された。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった』。二十四名は『京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった』。西暦一五九七年一月十日には『長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され』て『付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった』。『厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか』十二歳の『少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された』。二十六人が『通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された(一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだという)。処刑当日の』二月五日、『長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず』、四千人を『超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは』午前十時頃であった。『処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい』。彼等は一八六二年(文久二年)六月八日、ローマ教皇ピウス九世によって『列聖され、聖人の列に加えられ』、昭和三七(一九六二)年には、列聖百年を『記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた』。二十六人の内、日本人は二十名、スペイン人四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性であった、とある。

「元和八年九月十日――司祭二十五名 信者三十名」西暦一六二二年。月日は新暦で旧暦では八月五日。これは「日本二十六聖人殉教」の後の、「元和(げんな)の大殉教」のメモ。ウィキの「元和の大殉教によれば、元和八年八月五日(一六二二年九月十日)に『長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒』五十五名が『火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。この事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていく。また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため』、「二十六聖人の殉教」と並んで、『日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている』。『徳川幕府は豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止し、司祭や修道士、同宿(伝道士)を捕らえては牢に入れていた。死亡者のうち』、三十三名は『大村領鈴田(大村市)、他の者は長崎(長崎市)の牢獄に数年間つながれていたが、全員の処刑命令が出たことを受け、浦上を経由して西坂に連行され、そこで処刑されることになった』。『処刑されたのは神父や修道士、老若男女の信徒であった。女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したからであった』。『その内訳は、火刑された者が』二十五名で、『その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭』九人と『修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり、彼は数学と科学に精通し』、慶長一七(一六一二)年に『長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。また、残る』三十人は斬首に処せられた。『斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である』四歳の『イグナシオもいた』。『なお、この処刑の様子を見ていた修道士で、かつてセミナリヨで西洋絵画を学んでいた者が様子をスケッチし、マカオで完成させた油絵がローマに送られた。これは「元和大殉教図」として知られ、イエズス会本部であったローマのジェズ教会に保管され、今に伝えられている』(リンク先に画像有り)。『この事件の後、迫害はさらに徹底され、弾圧は凄惨なものになっていく』。明治元(一八六八)年になって、ローマ教皇ピウス九世によって五十五人全員が列福されている、とある。

「べネヂクトⅩⅤ(現教主)」このメモをした当時のローマ教皇がベネディクトゥス(ベネディクト)十五世(ラテン語:Benedictus PP. XV 一八五四年~一九二二年:在位:一九一四年九月三日から一九二二年一月二十二日)だというのであるが、これはすこぶる不審である。何故なら、芥川龍之介は生涯に二度、長崎を訪問しているものの(最初は大正八(一九一九)年五月(四日出発で到着は五日、十一日に長崎を発っている)、二回目は大正一一(一九二二)年四月(二十五日出発であったが、京都で半月ほど遊び、五月十日までに長崎着、長崎を発ったのは五月二十九日で、この時は実に二十日近くも滞在している))、ここまでの詳細な記載から明らかにこれらは再訪時のメモであると思われるにも拘らず、だとすると、彼は既にローマ教皇ではなく、「現教主」はピウス十一世(Pius PP. XIであるからである。]

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