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2016/08/30

小学校歌の作詞   梅崎春生

 

 近所の小学校から、校歌の作詞をたのまれた。

 私は散文家であって、校歌など苦手(にがて)であるからと、平に辞退したが、私の家がその学区内にあるのでぜひ引き受けてもらいたいとの談判で、とうとう引き受けることになった。

 小学校に校歌なんて、私の小学校時代(大正年間)には、あまりなかったような気がする。中学校にはいると校歌、それに応援歌などがあった。高等学校では寮歌、大学では何もなし。で、もう集団的に歌うことはなかろうと思っていたら、軍歌というものがあり、軍隊にはいって強制的に歌わせられた。

 なぜ今の小学校に校歌が必要なのかと、先生にたずねたら、おもしろい答えをされた。小学生がそろって遠足に行く。遠足といっても、足で歩く部分はすくなくて、おおむねバスを利用する。女車掌がいろいろ説明してくれる。説明にくたびれると、

「皆さん。今度は皆さんの校歌を合唱しましょう」

 もし校歌がないと、生徒たちはしゅんとなり、女車掌も引っ込みがつかなくなる。しゅんとなるのはかわいそうだから、校歌が必要だということであった。つまり道路の発達、大型バスの普及が、小学校歌の発生をうながしたのである。私たちが小学生徒のころは、バスに乗らなかった。どこまでも足で歩いた。時々元気つけるために歌ったのは、

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」

「遼陽城頭夜は更けて」

 敵愾心(てきがいしん)にあふるる歌を怒鳴って行進した。目的地につくと、梅干し入りのにぎり飯を食べ、ぞろぞろ行進して学校に戻る。帰りは教師も生徒もくたびれて、あまり歌は歌わなかったようだ。

 私は校歌の作成に当って、まず「月並み」を目的にした。へんにひねったような歌は、生徒も飽きるし、歌うたびに私の名をうらめしく思い出すだろう。それでは私も困る。

 「〇〇山の峯高く

 ××川の水清し」

 という風(ふう)なのをつくりたかったが、あいにく私の住む練馬には山はなく、川はあってもどろどろによごれている。練馬名物と言えば練馬大根(このために俳優たちは練馬に住みたがらない)とネリカンぐらいなものである。どちらも校歌にはよみこめない。むりによみこめないことほないが、

 「大根(だいこ)のようにたくましく

 ネリカンの世話にならぬよう

 すくすくわれらは育ち行く」

 これではバスの車掌がおどろくだろうし、歌う方も気分がよくないだろう。

 とにかく一週間かかってつくり上げた。作曲は平井康三郎氏。

 去る六日、豊玉南小学校の体育館落成式とともに、校歌の発表会があった。れいによってれいの如く区長、教育長などの来賓が、壇上に腰をおろす。壇下にはPTAや職員や生徒など。こんな席で壇上にのぼるのは、私の好みに反するが、作詞者ということで壇上のすみに小さくなっていた。落成のあいさつが済んで、校歌の発表。私にも何かしゃべれとのことだったが、平に平にと辞退する。もったいをつけているのではなく、私は生来人前ではしゃべれない。しゃべりたくないのである。

 余儀なく私のあいさつは抜きにして、五六年の生徒全員の合唱にうつった。私は顔中を耳にして聞きながら、おれが死んでもこの歌はうたい継がれるんだろうな、と考えた。と同時に、ある女流作家が羽鳥駅を諷(ふう)して、

「名前は消えても駅残る……」

 鉄道唱歌の一節をもじった言葉を思い出した。私の名前も早く消え去った方が、さっぱりするだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年十一月十七日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「四百余州をこぞる十万余騎の敵」軍歌「元寇(げんこう)」。明治二五(一八九二)年に発表されたもので作詞・作曲はともに永井建子(けんし:男性)。ウィキの「元寇(軍歌)」によれば、『元の襲来(元寇)をテーマにした歌で、人籟居士の歌として世に出た。永井建子は旧日本陸軍軍楽隊士官』。以下、歌詞(ウィキのものを恣意的に正字化したが、本文と読みは現代仮名遣のままとした。四番までの各連に標題(〈 〉内)がある珍しいものである)。

   *

一、〈鎌倉男兒〉

四百餘州(しひゃくよしゅう)を擧(こぞ)る

十萬餘騎の敵

國難ここに見る

弘安四年夏の頃

なんぞ怖れんわれに

鎌倉男子あり

正義武斷の名

一喝して世に示す

 

二、〈多々良濱〉

多々良濱邊の戎夷(えみし)

そは何 蒙古勢

傲慢無禮もの

倶(とも)に天を戴かず

いでや進みて忠義に

鍛えし我が腕(かいな)

ここぞ國のため

日本刀を試しみん

 

三、〈筑紫の海〉

こころ筑紫の海に

浪おしわけてゆく

ますら猛夫(たけお)の身

仇(あだ)を討ち歸らずば

死して護國の鬼と

誓いし箱崎の

神ぞ知ろし召す

和魂(やまとだま)いさぎよし

 

四、〈玄海灘〉

天は怒りて海は

逆卷く大浪に

國に仇をなす

十餘萬の蒙古勢は

底の藻屑と消えて

殘るは唯(ただ)三人(みたり)

いつしか雲はれて

玄界灘 月淸し

   *

二番の「多々良濱」筑前国の多々良(たたら)浜で現在の福岡市東区の海浜。You Tubeの音源をリンクしておく。文永の役(文永一一(一二七四)年十月)では戦火のため、この浜から筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎に)一帯は焼け野原となっている。

「遼陽城頭夜は更けて」明治三七(一九〇四)年作の「橘中佐」(作詞・鍵谷徳三郎/作曲・安田俊高)。非常に長尺の歌詞で「上」が十九番、「下」が十三番まである。橘中佐は陸軍歩兵中佐橘周太(たちばなしゅうた 慶応元(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)日本の。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後、軍神として尊崇された。後に彼が体調であった静岡歩兵第三十四連隊の隊歌ともなった。天翔氏のサイト「天翔艦隊」のこちらで歌詞が読め、音源もダウンロード出来る。

「ネリカン」「練鑑」で、東京都練馬区にある「東京少年鑑別所」の俗称。

「平井康三郎」(明治四三(一九一〇)年~平成一四(二〇〇二)年)は高知県出身の作曲家。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)在学中に「ゆりかご」などを作曲。昭和一一(一九三六)年、交声曲「不尽山をみて」が音楽コンクール第一位となる。NHKの専属作曲家として活躍、昭和二二(一九四七)年には戦後最初の音楽教科書の編集にも携わった。作品に「平城山(ならやま)」「大仏開眼」、童謡「とんぼのめがね」などがある(「練馬区立豊玉南小学校」公式サイト内の記載に拠った)。

「豊玉南小学校」練馬区豊玉南二丁目に現存する練馬区立豊玉南小学校。公式サイト内の「学校概要」の「校歌・校章」を参照されたい。梅崎春生よ、今も歌われ続けており、作詞のあなた名はしっかりネット上でも拝めまする(同校生徒数は本年(一九一六年)四月一日現在で四百九十三名)。なお、春生は練馬区豊玉に住んでいた。以下にその歌詞を示す(「淡(うす)」の読みはあるネット情報で補った)。公式サイトでは曲(歌詞なし)のダウンロードが出来る。

 

一、

淡(うす)青色の 遠い山から

水さらさらと かがやき流る

むさし野の土 ゆたかに肥えて

若木はそろって 梢を伸ばす

 何の木ぞ

  われらここに生れ

  すこやかに われらはそだつ

  豊玉南小学校

 

二、

窓から見れば あお空はるか

伸びよ生きよと 鳥啼き交す

雨や嵐に ひるまずまけず

大地にしっかと 根を張る大樹

 何の木ぞ

  われらここに学び

  ほこらかに われらは歌う

  豊玉南小学校

 

「ある女流作家」不詳。識者の御教授を乞う。

「羽鳥駅」不詳。JR東日本常磐線に「羽鳥駅(はとりえき)」(茨城県小美玉(おみたま)市羽鳥)にあるが、今もこの名で地名も残り、駅としても現存しているから違う。識者の御教授を乞う。誰の何という作品中の言葉かが判れば、自ずと判明するはずである。

『「名前は消えても駅残る……」/鉄道唱歌の一節をもじった言葉』「鉄道唱歌」の「東海道篇」の二番、

 

右は高輪泉岳寺

四十七士の墓どころ

雪は消えても消えのこる

名は千載の後までも

 

を指すのであろう。]

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