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« 母を語る   梅崎春生 | トップページ | 諸國百物語卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力 »

2016/08/29

病床日記   梅崎春生

 

 それは暖かい部屋であつた。いや、暖かいというより暑かった。寝る時も寝巻だけ、あるいは寝巻を脱ぎ捨てて、ほとんど裸で寝た。私は冬の寒さは大嫌いである。しかしあまり暖か過ぎるのも季節感がなくて、物足りない気分がする。一月三日の日など、昼寝から汗だらけになって目覚めると、ベランダに通じるガラス扉の彼方では、粉雪がちらちらと降っていたのには呆れた。

 何故この病室に私が入ったか。かんたんに説明して置く。昨年の夏、信州蓼科(たてしな)で吐血をした。本誌に「八島池の蛙」というのを書いたが、それから一週間後、高遠城址に行った。ひどく疲れて帰宅。草野心平さんとビールを飲んだ。そのビールがうまくない。その中気分が悪くなって便所に行って吐いた。夜目にもそれは黒味を帯びていた。便所から出て草野さんにその話をしたら、

「うん。そんなこと、あり勝ちなもんだよ」

 と悠然としてコップを傾けている。私はビールを飲む気がなくなって、ベッドに横になった。

 翌朝になっても、全身が虚脱している。医師を呼んだ。検便したらコールタールの如き黒便である。絶対安静、絶食(もちろん禁酒も)を命じられ、止血剤やその他を注射された。指示を忠実に守ったせいか、一週間で潜血反応(便に血が混ること)はなくなり、早速ハイヤーにて下山、途中甲府で全快の祝杯を上げた。

 東京に戻ってからも少し用心すればよかったのだが、相変らず大酒を飲んで二日酔をしている中、十一月末、前と同じ状態におちいった。夜中の二時頃コーヒー色の血が出て、かかりつけの医師を呼んだ。便の後なので、充分の排便がない。コップに水を入れて、少しばかり取った。燈の下で見ると、アルコール漬けの胎児みたいに、真黒い塊が浮いている。

「こりやいけませんなあ」

 医師が嘆息した。

「もう酒はいけませんよ。絶対に飲んではいけません。命取りです」

 また止血剤を打ち、流動食に戻った。潜血反応も五日間でなくなった。癌(がん)なんかでは潜血反応は消えない。

「どうだ。おれは復元力があるだろう」

 と私は威張った。たいていの異変はすぐに直ってしまう。それは昔から自信があった。でも、気分はすぐれなかった。

 十二月二十七日入院に踏み切ったのも、自信とは別に、少少がたが来ていることを自覚したからである。それに正月になると、酒を飲む機会が多い。それを避けようとの魂胆もあった。その上医師が、一度大病院で調べてもらったらいいと、極力すすめる。気休めに十日間も入ろうかと考えた。寒さはしのげるし、本は読めるし、仕事はしないでもいいしというわけだ。

 そこで上述の暖かい病院に入ることになった。

 前年草野さんが胃潰瘍を直した武蔵野の日赤病院で、草野さんの紹介で、

「なるべく暖かい部屋を!」

 と希望した。寒々しい病室は厭だったからだ。そんな関係で、五階の暑い部屋に入ることになる。朝は白富士、夕は黒富士が見えていい部屋だったが、少々暖か過ぎた。看護婦に聞いてみると、スチームの大元(おおもと)が私の部屋を通っているそうで、温度も二十五六度にのぼる。初めは快適だと思っていたが、二三日経つとどうも耐え難くなった。見舞客も初めはそのまま入って来るが、少し経つとオーバーを脱ぎ、次に上衣を脱ぎ、ついにはセーターをとる。でも、男のストリップを見るのはそう楽しいものでない。

 直ちにバリウムを飲ませられ、レントゲンをとられ、何度も採血された。バリウムはのみにくいものと聞かされていたが、案外うまかった。お代りをして飲んだ。その他採便採血、一日の中三度の熱と脈しらべ。こちらは眠くて眠くて仕方がないのに、眠りの暇がろくにない。うとうととすると、誰かがやって来る。自宅では寒くて昼寝出来なかったが、ここではいくらも眠れるのである。時々起されるから、なお眠くなる。

 どうもこの病院は変であった。なかなか放免して呉れないし、おかゆがいつまでも御飯にならない。街に出るのも禁止された。一月八日某誌の座談会があったが、それも女房がつきそいで、一滴も飲めなかった。柳沢医師が女房に言ったそうだ。

「これで血を吐くと、とめどがなくて、路上で死にますよ」

 もう私の吐血は胃からでなく、門脈からの出血ではないかと、彼は疑っていたのである。肝臓が悪化すると、門静脈から出血する。私はそれを知らないから、やけに御馳走ばかり食わせるなと、不審に思っていた。肝臓には蛋白質が必要なので、肉や魚がふんだんに出る。おかゆを主食にして、それらをたらふく食べる。少し肥った。

 腹腔鏡の検査を受けたらどうだ、と医師が言い出したのもその頃だ。腹腔鏡というのは、つまり腹に穴をあけ、鏡を入れて内臓を見るのだという。私は反問した。

「それ、検査のためですか?」

「そうです」

「治療のためじゃないんですね」

「治療とは関係ありません」

 私は返答をためらった。検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている。私は断った。

「当分このままで養生しましょう。禁酒までしているんだから、治ると思いますよ」

 実は腹を切るのが厭だったのである。柳沢医師は憐れみの表情で私を見た。

「治りませんね」

 私は少しばかりショックを受けた。医師はすでに肝硬変の疑念を持っていたらしい。それから高周波の検査に、順天堂に行くことになった。これは痛くないというので、自動車で出かけた。車窓から見る街の風物は、活気にあふれている。

「皆つまらぬ用事でごちゃごちゃと動きやがって!」

 どうしても考えがそんな風に動く。

 高周波の検査はすぐに済み、柳沢医師に託する報告書を受取った。その中に「肝臓癌の疑いあり」てなことが記してあったらしい。柳沢医師の態度は急に硬化し、女房を呼んで診断の結果を伝えた。

「直ぐしかるべき治療をしなければ、生命に関します。この病院は設備が不完全なので、東大病院かどこかに入りなさい」

 直接私には言わずに女房に言ったのは、作家というものは敏感で神経質と判断したのだ。その証拠に彼は女房に、

「御主人は神経質な方ですか?」

「ええ。とても」

 だから私には告げなかった。しかし作家ならずとも、肝臓癌の疑いありと宣言すれば、びっくり仰天してがっかり気落ちがするだろう。肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている。

 女房が泣いて頼むので、とうとう東大に移る決心をした。一月十八日のことだ。今度の部屋はたいへん広い。スチームがあるにはあるが、戸外が寒いと機能が低下し、暖かいとむんむん暑くなる。階下の方でどしどし使うせいだろう。私はこれに「弱きをくじき強きをたすけるスチーム」とあだ名をつけた。ここでもたちまちバリウムを飲ませられた。日赤のは味が濃いが、東大のは薄味である。バリウム一つとっても、病院によって味が違う。私は好みとして東大のを推賞する。有志の方があれば、一度試みてみられたらよかろう。

 ここでも採血、注射、検便。皮膚科やレントゲン科に行き、忙しいことは日赤の比ではない。皮膚科では魚鱗癬(ぎょりんせん)(これは遺伝性で治らない)、整形外科では胸椎の圧迫骨折が固まっているので、一生そのままだと診断された。以上の二つは覚悟の前である。その他血管、心臓などは平常。

 吐血は胃からと判っていたが、潰瘍はなし。潰瘍はないけれど、東京都の土地みたいに凸凹に荒されていることも判った。荒れたところから血が滲出してたまり、それが出て来たらしい。

 すなわち敵がねらっているのは、肝臓である。それは日赤の頃から知っていた。バスクラスパイダー。ちょっとにきびに似ているが、指で押して見ると、血色がばっと散り、しばらくして元に戻る。にきびだとすぐに戻る。バスクラスパイダーは肝臓の悪い時に起きやすい。私はそのスパイダーが胸に四つと腕に三つ、手に三つある。これは肝臓が治っても、元に戻りはしない。覚えのある人は胸(おおむね上部に出る)を調べたらよろしかろう。血が散らばって、しばらく白っぽくなっているのは、侘しいものである。弟が見舞いに来たので、胸を聞かせて見ると、かなり大きなスパイダーがでんと胸の真中に巣をかまえていた。注意をうながすと、色青ざめて早々に帰って行った。同病相憐れむというが、他人をも同病に引きずり込まなきゃ損だ、という意識が働くようだ。どうしても意地悪爺さん的な心境に相成る。

 私はここを当分の住居とすることに、ほぼ覚悟がついた。肝臓は長引くし、病室も広くて景色がいいし、居心地も悪くない。暖かくなるまで居坐ろうと、私は決心した。それに採血その他の結果、肝機能の低下がかなり戻ったのである。日赤の時にはひどい結果が出たのに、ここに回復の徴が見えたのは、何故かよく意味が判らない。自然と変化したものであろう。

 で、毎日安静にして読書にふけり、蛋白食を食べる。蛋白食というのは蛋白質を大いに含んだ盛大な御馳走で、肉や魚がふんだんに出る。他の患者で胃潰瘍や腎臓病のおかずは貧弱で、気の毒みたいなものだが、病気が病気だから致し方ない。それに入院費は同じと来ているから、彼等の食事時の心境は察するに余りある。とにかく食事の点では、私は王者であったが、安静を守っている関係で食欲なく、半分ぐらいは廃棄せざるを得なかったのは、残念であった。

 しかし時に雑音が入る。

「腹腔鏡」

「腹腔鏡を!」

 しょっちゅう言われていると、こんなに楽をしているのだから、腹腔鏡でも受けなきゃ今日様に済まない。静かな病室のソファでそんなことを考えた。

 病室は本郷の真中にあるのに、大変静かである。夜になると時々犬がけたたましく吠えることがある。一匹でなく数十匹。医師に聞いたら実験用の犬舎だとのこと。一度見に行ったら、たくさんの野犬が犬舎に入っていた。やせて衰えた犬ばかりだと思ったら、スピッツやその他高価そうな犬が半数を占めていた。夜は廊下に猫が遊ぶ。実験用かと思ったら、そうでない。給食の残りをねらって集まって来るのである。それが数十匹廊下をうろちょろしている。飼主はいない。とても警戒心が強くて、こいこいと手を出すと、ぱっと逃げてしまう。ずいぶん素姓(すじょう)のよさそうな可愛い猫もいた。

「動物実験は犬や鼠だけで、猫は使わないんですか」

 と訊(たず)ねたら、

「ああ、あれは使いません。引搔くから」

 とのことであった。

 そろそろ腹腔鏡の日が近づいて来た。丁度(ちょうど)入院中の木谷九段の部屋に遊びに行ったら、息子さんがいる。この内科の医師なのである。その木谷医師に聞いてみたら、

「腹腔鏡? そりや痛いですよ。内臓を引っかき廻すんだから」

 開口一番私をおどかした。

「お隣のMさんと我慢くらべでもするんですな」

 おどかしと判っていても、気持のいいものでない。隣室のMさんは高名な政治家で、私同様の病気で、M氏の方が先に腹腔鏡を受けるのである。そしてM氏の番の日が来た。

 二時間ほどして戻って来たので、様子や如何にと耳をそばだたせていたら、

「ううん。案ずるより産むがやすいわい」

 というM氏の声が聞えたので、私は大いに安心した。

 翌日私は別室に移され、亀田医師の執刀で腹腔鏡の検査を受けた。この経過は他の新聞に書いたので略するが、金属棒を内臓から引き抜いた時、空気がしゅーつと噴出して来たのには驚いた。元から入っていたのではなく、事前に畳針みたいな注射器で、二千CCがとこ注入して置いたものである。結局二時間ほどかかったが、痛いか痛くないかと問われれば、碁の言葉で言えばいい加減な分れとでも言うべきところだろう。それからストレッチャーに乗せられて、病室に戻って来た。

「どうでしたか?」

 女房の質問に私は答えて、

「まあ案ずるより産むがやすいというところだな」

 考えることは誰も一緒なのである。

 検査役亀田国手曰く。

「心配なさったことは、何でもありませんでしたよ」

 その言葉の意味を二三日考えた。そして私が肝臓癌や肝硬変を疑われていたことに初めて気付いた。思えばのんきな患者である。それから粘りに粘って、三月十一日にやっと退院することになった。一冬を病院に過して、冬知らずの生活を送った。しかしその三箇月近く、仕事はしないので収入はなし、医療費もかかったので、退院したとたんに大貧乏におちいった。これからそろそろ仕事をしようと思うが、頭が所謂(いわゆる)病院ぼけして、どうもうまく行かない。まあその中に旧復するだろうと楽観はしているけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年六月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。第一段落の「一月三日」の後には「(昭和三十九年)」とポイント落ちの割注が、第二段落冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」がそれぞれ入るが、これは底本全集編者による割注と断じて除去した。前に注したが、この前年の八月に梅崎春生は蓼科の山荘で吐血(底本全集には続けて『養生不十分で苦しむが、やがて回復』とはある)、同年十二月には同年譜によれば、『夏の吐血後の不摂生がたたり』、『武蔵野日赤病院に入院する』とある。この時、既に肝臓疾患(肝炎或いは肝硬変)を発症していたものと推定され、翌昭和三九(一九六四)年一月には『肝臓ガンの疑いで東大病院に転院』、三月まで『治療につとめる』とあるが、翌昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、梅崎春生は肝硬変のために満五十歳の若さで白玉楼中の人となっている。

「八島池の蛙」底本全集には不載。而して私は未読。

「高遠城址」長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。桜の名所として知られる。私は「高遠の桜」というと、私は井上靖の小説「化石」を思い出すのを常としている。私が彼の小説で唯一、認める一作である。勘違いして貰っては困るので言っておくと、私は小説家として井上靖を殆んど認めない。

「武蔵野の日赤病院」日本赤十字社東京都支部武蔵野赤十字病院。東京都武蔵野市境南町にある。

「門脈」「門静脈」腹部の内臓(胃腸・膵臓・胆曩・脾臓)から静脈血を集めて肝臓に注ぐ静脈幹。上・下腸間膜静脈や脾静脈などが合流したもので、門脈は肝臓に於ける機能血管であり、肝臓内での解毒作用や糖質貯蔵作用などはこの血管を介して行われる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「腹腔鏡」諸記載では「ふくくうきょう」と読みを振るが、私はこの通りに聴いたことは記憶にない。「ふっくうきょう」である。本来は「ふくこうきょう」と読むべきであるが、人体に対して用いる場合、慣例的に「くう」と読んでいるという(ウィキの「腹腔鏡」に拠る)。腹部の中を視るために体部に小さな孔を空けて挿入するタイプの内視鏡(細管の先端にカメラ及び組織採取をする装置が付いた手術器具)である。「日本医科大学付属病院」公式サイト内の「腹腔鏡」によれば、一般的には、臍及び左右下腹部に三~四ヶ所に五ミリメートルから一センチメートルほどの孔を開けて、炭酸ガスを入れたり、腹部を吊り上げたりすることでスペースを作り、観察及び患部と思しい箇所から検体を採取する検査器具。一般には肝臓・胆囊・腸・子宮など腹腔内臓器を肉眼で観察して病気の確定診断に用いるが、最近では腹腔鏡下手術と言って、胆石や初期の癌などの摘出手術にも利用され、開腹せず行なえ、患者に負担の少ない手術法としても注目されている。この時、梅崎春生が提案されたのは腹腔鏡下肝生検であるが、サイト「病院の検査の基礎知識」のこちらによれば、これは『血液検査だけではわからない、肝臓表面の詳しい変化を知ることができ』るとし、『病気が慢性的に長期にわたる場合は、肝臓自体が線維化して表面が凹凸になるなどの変化が起こ』り、『また、肝臓内の炎症の程度が、肝臓表面の色彩変化に反映され』ることから、『このような肝臓の形、表面の変化を元に、病気の進行度や、線維成分が度の程度まで増えているかを推測することが』腹腔鏡検査によって可能となるはとある。『腹腔内は各臓器が隣り合っているので、腹腔鏡を直接挿入しても、それらの様子はよく』分からないので、『気腹といって、おなかの壁に針を刺して空気を入れることか』始め、『空気を入れると、腹腔内の臓器は密着せずに離れるので、別におなかの壁に孔をあけ腹腔鏡を挿入』する、とある。『観察だけならその場で分か』るが、『組織細胞診は結果が出るまでには約』一週間必要である。同検査によって異常が見られる場合の疑われる病気は慢性肝炎・肝硬変・肝臓癌・胆囊癌・脂肪肝・腹膜炎・卵巣嚢腫・卵巣癌などである、とある。

「検査のために腹に穴をあけるのは、天の理に反している。そんなことを孔子さまも言っている」中国の経(けい)書十三経の一つで、曽子の門人が孔子の言動を記した「孝経」の一節(「論語」の一節と勘違いしている人が多い)である、「身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。」(身体髪膚、之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。)に基づく。

「高周波の検査」現在、我々が「エコー」と呼称している検査である。信頼出来る「超音波検査 エコー検査超音波検査(エコー検査)」のページによれば、『高周波の超音波を使って体内をモニター上に画像化し、病気の有無や状態、胎児の成育状況などを調べる検査で』、『エコー検査は、肝臓・胆道・膵臓・腎臓・消化管といったお腹の中の臓器全般から、心臓や血管・乳腺・甲状腺、関節・筋肉・腱など、肺や消化管内のように気体のある部分と骨の裏側以外の検査をすることが』可能である。『超音波検査(エコー検査)は、とても安全な検査なので』、『産婦人科の診察でお腹の中の赤ちゃんの発育具合を検査するのに使われている』。『装置自体が小型でポータブルタイプの機械もあることから、病棟や診察室内のベッドサイドや手術室、救急の現場での検査も可能』なことから、『小規模病院(診療所やクリニック)や動物病院から、総合病院など大規模な病院まで幅広くの医療の場で』よく使用されている(梅崎春生はその検査に順天堂病院にまで行っており、この当時は、高価であったものか、あまり普及していなかったようである)。『超音波装置は小型で移動性にもたいへん優れてい』ます。 また、一回の『検査で非常に多くの情報を得ることができ』、『繰り返しの検査でも被曝などの危険が』なく、しかも『短時間で効率的に病気の状態を知ることができ』ることから、健康診断などのスクリーニング(適格)検査から、『より精密な検査、そして緊急的な場面での検査にも対応でき』る。『さらに超音波検査(エコー検査)は人間ドックや企業での健康診断でも大活躍しており、最近は腹部だけでなく乳がん検診(乳がんエコー)や動脈硬化の検査(頚動脈エコー)、整形領域で関節や筋などの検査にも用いられることが多くなってきてい』る。但し、『骨や空気を超音波が透過できない』」ことから、『透過できない骨や気体の後側は検査が出来』ないこと、また、これはあらゆる検査に言えることであるが、検査結果が『実施する医師や技師の手腕に左右されてしまう』点にある(私はレントゲン写真を見ても骨折を見落としてしまった現役の整形外科医がいることを知っている。私の右遠位端コーレス変形骨折の主治医であった)。『エコー検査は高い技術と豊富な知識、そして経験を必要と』するため、『実施する技術者のレベルアップが重要』である。要するに、『精度管理が難しいということも欠点にあげられ』るとある。

「順天堂」東京都文京区本郷にある順天堂大学医学部附属順天堂医院。

「肝臓癌も肝硬変も大体死につながる病いとされている」肝硬変は慢性肝障害(ウイルス性肝炎(B型肝炎やC型肝炎等)・アルコール性肝疾患・原発性胆汁性肝疾患・原発性硬化性胆管炎・自己免疫性肝炎など)の慢性肝疾患が原因(或いはこれらの疾患の進行した終末像)である。参照したウィキの「肝硬変」によれば、日本には四十万人の肝硬変患者がおり、六十%がC型肝硬変、十五%がB型肝硬変、十二%がアルコール性肝硬変である。『かつては日本でも日本住血吸虫の有病地において、虫卵と栄養不良を原因とする肝硬変もみられた。最近ではメタボリックシンドロームに関連した非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)が原因として注目されている』とある。『肝細胞が死滅・減少し線維組織によって置換された結果、肝臓が硬く変化し、肝機能が著しく減衰した状態を指』し、『肝炎は可逆的であるが、肝硬変は非可逆的である』とある。また、『しばしば肝細胞癌を合併する』こともよく知られている。

「魚鱗癬(ぎょりんせん)」皮膚病の一種。魚の鱗のように皮膚の表面が硬くなり、剝がれ落ちる病気。アトピーと誤認され易い。ウィキの「魚鱗癬」によれば、殆んどが『遺伝子異常による皮膚表面角質の形成障害が原因と考えられており、特にケラチン110』(ケラチンは細胞骨格を構成するタンパク質の一つ)『の遺伝子異常に起因することが示唆されている』。『夏は特に体温調節が難しく、根本的な治療法はまだ見つかっていない。水疱型と非水疱型は、国の小児慢性特定疾患研究事業に認定されて』いる。『伝染性は全くないが、外見の印象が強い症状であるため、差別・偏見の問題がある』。尋常性魚鱗癬・伴性遺伝性尋常性魚鱗癬・水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症・非水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症(葉状魚鱗癬など)・道化師様魚鱗癬(生まれた時から発症し、重い合併症を併発することから、他に比して生存率が低い)などがある(各症の詳細はリンク先を参照されたい)。

「胸椎の圧迫骨折」梅崎春生はこの二年前の昭和三七(一九六二)年十月に、子どもとふざけているうちに転倒、胸椎の一番下に位置する第十二胸椎を圧迫骨折している(ぎっくり腰も併症)。通常、寝返りが打てないほどの激しい痛みを伴う。現行では比較的、高齢者に有意に見られる骨折である。ここは、その固定治癒。

「バスクラスパイダー」肝障害が起こると、手掌紅斑(palmer erythema:手のひらの小指側の丘が紅潮する症状)の他、皮膚に蜘蛛状血管腫(vascular spiderを認めることが多い。これは春生が示すように前胸部に発症し易い。音写は「バスキュラー・スパイダー」が正しい。ウィキの「クモ状血管腫」によれば、『顔面や前胸部などの上大静脈領域に蜘が足を広げたように血管が拡張して、中心部の血管が拍動しているもの』で、『拍動している中心部を鉛筆などで押さえると、血管腫が消失したように見える。肝硬変などの肝疾患で見られる』とあり、画像も見られる。

「徴」「しるし」とも訓じ得るが、ここは「きざし」と読みたい。

「今日様」太陽を敬っていう語で、そのまま「こんにちさま」と読むが、ここは同義の「おてんとう(天道 )さま」と当て読みしたい。

「木谷九段」囲碁の棋士木谷實(きたにみのる 明治四二(一九〇九)年昭和四〇(一九七五)年)。神戸市出身。ウィキの「木谷實」によれば、二十世紀の『棋士の中でも指折りの存在とされており』、『呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を木谷道場として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた』とある。梅崎春生より六歳年上。

「木谷医師」ウィキの「木谷實」によれば、木谷實の長男で、元国立療養所中部病院長寿医療研究センター長木谷健一(二〇〇八年没)のこと。

「Mさん」「高名な政治家」不詳。御存じの方、御一報を。

「この経過は他の新聞に書いた」不詳。御存じの方、御一報を。

「碁の言葉で言えばいい加減な分れ」検索してみたところ、対戦者双方が同じように満足のいくようなほぼ互角の「わかれ」(囲碁将棋用語で対戦の「進行」、或いは戦いが一段落した局面)のことを「いい加減な別れ」と呼称するようである。調べる限り、表記は「分れ」ではなく「別れ」或いはカタカナで「ワカレ」と書くようである。

「国手」「こくしゅ」と読む。原義は国を医する名手の意で「名医」の意で、「医師」を敬っていう語であるが、囲碁の世界では「名人」を指す。従って、事実とこの文脈中では掛詞になっていることが判った。正直言えば、私は以上を辞書で調べる以前、てんから『「助手」の誤植だろ』と思い込んでいたことを自白する。]

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