フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 五高見参   梅崎春生 | トップページ | 宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   盜賊、歌に和ぐ »

2016/08/10

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   魂、留む、赤間が關

宗祇諸國物語卷之三

 

    魂(たましひ)留(とゞ)む赤間が關


Tamasiitodomuakamagaseki

延德元年、西國に徘徊し、長州赤間關(あかまがせき)に至る、昏(く)れに及びければ、在家に覗きて宿もとむに、爰なん人の心、かたましく情なくて、修行者(すぎやうじや)に宿かしてたづきのやうなし、若し、心ざす佛事もあらばこそなんど、嘲哢(てうろう)して、とむる者なし。よしや、野山を家とせんに、明けまじき夜かは、霜寒く、露いたくとも、山田の庵(いほ)、求めて身を置かむに、物一夜は、と、ひとりごちて、里を放れ、十餘町過ぎて、岡の外(はづ)れに、一つの庵室(あんしつ)あり。佛の弟子こそ慈(じ)は深けれ。さりとも、出家は否(いな)とは、いはじ、と賴みよりて、あみ戸を嗃(たゝ)く、内より誰ぞ、と、とふ。苦しからぬ旅僧(りよそう)にて侍り。一夜の宿かして給(た)べ、と、いふ。宿の事は在家に申させ給へ、と、されば在家の人ははしたなく、いらへ、とめ侍らず、原野にさまよふ折から、御かたの火の光りを見て、釋氏(しやくし)の門と賴母敷く、𣿖(たど)り寄り侍る。ひらに一夜をといへば、痛(いた)はしながら、存ずるむねあつて、入れ申さず。去るにても、何れの國より、いづこに通り給ふぞ。名をば何と申し侍る、と。もとは都の者ながら、行衞(ゆくゑ)定めぬ修行者、さして住家(すみか)もなき身也。名は申すともいかゞしらせ給ふべきなれど、申さぬもおこがまし、宮古にては種玉庵(しゆぎよくあん)と申す者に侍り、と、いへば、内より、やよ、種玉庵とは宗祇御坊の事にてはなしや、と馥然(あわてゝ)戸を明くる。左の給ふは誰(た)そ、と、見れば細川勝元家來伊駒(いこま)藤四郎茂光(しげみつ)といひしが、發心の體(てい)也。此の人は、京に在りし時、懇昵(こんでい)の朋友、智謀兼備の勇士也しが、跡を隱(かく)して、世には、軍の事、繁きに、命(いのち)を惜しみ逃げ失せたり、と、いひし、扨は遁世の身と成りけるよ、と始めて驚く、庵主(あんしゆ)の云く。こは、思ひかけぬ所にて、あひも逢ひける物かな、扨、宮古にはいかなる事か侍る、と。都には、只、細川、山名の兩家、立わかつて、兩家に心を通(かよ)はす武士(ぶし)、又、東西にわかれ、相支(さゝ)へ、相戰ふ事、日をかさね、月をこえ、年を經るとも、いつ果つべき軍とも不ㇾ見。和殿(わどの)京都に住居(すまゐ)の程、その程の有樣、語り給へ。尓來(しかりしよりこのかた)は、愚僧が見聞を語り、旅宿(りよしゆく)の夜半(よは)を明かし侍らん、と、いへば、庵主の云く。某(それがし)、洛に在りし、世事(せじ)まゝ多かめれど、繁多(はんた)なれば、さし置きぬ。應仁の蜂起より、此の身に、さまかへし事をかたり申さむ。去る寛正六年の頃は、將軍義政公、御壽三十にならせ給ふに、御(おん)家督をつがせ給ふ。若君ましまさず、是によつて、淨土寺の門主義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)なし參らせ。義視(よしみ)と號し、御世繼(よつぎ)と定まりぬ。其の年、將軍の御臺所(みだいどころ)、義尚(よしなほ)公を産(さん)し給ふ。故(このゆゑ)に、密(ひそ)かに山名宗全(そうぜん)を召して、此の御子を能く見立、御家督となし參らせよ、と、あれば、畏(かしこ)まつて領掌(りやうしやう)しぬ。此の事、早く露顯しければ、義政、義視、御中、不和(ふわ)に成りぬ。其の頃、勝元は管領職(くわんりやうしよく)にあつて、威を海内(かいだい)に振(ふる)ふ。宗全もいかめしき大名にて、上の御氣色(おんきしよく)、武士のもてなし、一方ならず、兩勇は必ず諍(あらそ)ふ習ひ、山名、細川、日頃、不和なりし上、義視(よしみ)公より細川を深く賴み、思召しける程に、心々の味方となつて兩家、水火(すゐくわ)の中となり、既に應仁の亂、出で來て、日本國中の武士、又、思ひ思ひの與力(よりき)す。都には兩將を始め、在京の武士、日々に防戰すれば、其の親族、國々にたち分つて、城を構へ、郭(かく)を固(かた)うして、弓矢(きうし)を携へ、甲冑(かつちう)を枕とすれば、寺舍神社も、兵革の爲めに、燒失(やけう)せ、諸民、安堵の思ひをなす事なし、と語り、爰にて、一際、聲を潜め、此所に至りて、身の上の事、有り。五年以前、三月の京軍に、我が父茂忠(しげたゞ)、宗全が方人(かたうど)大内政弘が陣に向つて、大鹿(しか)藤藏、三石加藤次などいふ一騎當千の者を討取(うちと)り、大將の御感に預かりしに、其の晩景(ばんけい)、稍、くらく成りて、旗色(はたいろ)も幽(かす)かに、物の色あひも定かならず、兩陣、東西に退く、爰に政弘が家人岩島兵作といふ者、味方に紛れ居て、某(それがし)が父茂忠が馬の側(そく)につきそふ。暮れ方といひ、老武者(らうむしや)といひ、目も明かになければ、家來と思ひ、心とけ、油斷の所を、頓て馬より切つて落す。首(くび)を取る迄はなくて、切捨(きりす)てに逃失(にげう)ぬ。敵(てき)よ、のがすな、と、大勢、聲々に追ひかへるといへ共、さしもさばかり入りがたき引陣(ひきぢん)の中に、紛(まぎ)れ來る不敵(ふてき)もの、鳥よりも早く、雲よりも輕し、己が陣所(ぢんしよ)に隱れ入る。其の時しも、某(それがし)、紫野(むらさきの)の陣所に有りて、聞くとひとしく、走り歸りぬ。早、事濟(す)て後、爲方(せんかた)なく、敵を聞くに、兵作、と、いふ。此のしわざ、私の意趣(いしゆ)有りて討ちたる、と覺ゆ。其の故は、兩陣入亂れ、引くみ或(ある)は切り結ぶ中には、互に誰れを討ち、たれにうたるべき辨(わきま)へなく、高名も不覺も、只、時の運に乘(じよう)ず。然るに、兵作、數千騎の内にて、我が父を狙ひ討つ事、遺恨、山よりも高く、蒼海(さうかい)、猶、淺し、されども敵の運(うん)、暫し在りて不ㇾ逢、其の後、文明四年、公(きみ)に暇申し、兵作が行衞を尋ぬ。爰に政弘が國の留主居、二尾(を)加賀守といふ者、主を背き、謀叛して、細川に組(くみ)す。是をしづめん爲め、二尾かたへ使あり、兵作、其ひとりにて、數百騎西國に下る、此の事、天のあたへ、と嬉しく、播州の内、とある難所に待請け、忽まち、親の敵を討つ、大勢取りまくといへども、我が運、又、つよくして切ぬけ、京都に歸つて、勝元に復、勤仕(きんし)す。其の後、世を憤る事のありて、此所に隱遁しぬ。相構へて我に逢うたると語り給ふな。長々敷き物語りに、夜、いたう更行く、祇も休み給へ、我も寢なん、と相友に枕して臥しぬ。暫しゝて、主、おつ、と答へ、太刀、引提げ、走り出づる。いかなる事と不ㇾ知。主、此の後、歸る事なし。とかくするに遠寺の鐘、曉(あかつき)を告げ、野風はげしく、しのゝめになりぬ。眼(まなこ)をひらき、爰を見るに、在りし庵室も見えず、唯、一つの墓の前に、木の根を枕とし、臥したるにぞ在りける。ふしぎやと立より、卒都婆(そとば)を見るに、如幻信士(によげんしんじ)俗名(ぞくみやう)伊駒氏(いこまうぢ)茂光と有り。扨は此の者も討死(うちじに)しける事しるしと、餘念なく廻向(ゑかう)し、里に出でゝ故をとふに、先年の一亂に、此所にて討死しける人なり、と、かたるに、扨は、と、おもひ合せぬ。此のゝち、出でゝ、猶、西國に、おもむく。

 

■やぶちゃん注

 印象的なコーダの「太刀引提げ」は底本では「太刀引堤げ」となっている。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「太刀引さげ」となっている。誤植と断じ、例外的に「提」に訂した。本作の過ぎし日の追憶を茅屋で親しく聴き、目覚めて見れば、家はなく、墓の傍らに臥していたという構成は後の上田秋成の「雨月物語」の「淺茅が宿」のそれとよく似ており、庵の消失は同「青頭巾」を元としてインスパイアした小泉八雲の“JIKININKI”(食人鬼)のエンディングにも近似する(リンク先は私の電子テクスト。後者は英文原文。後者は拙訳もある)。本章は初めて、宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二年七月三十日(一五〇二年九月一日))がその前半生を生きた、応仁の乱の歴史的記載絡みとして現われる。応仁の乱は応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七七)年までの約十年間に亙って継続した内乱で、第八代室町幕府将軍足利義政の継嗣争い等、複数の要因が起因となって、室町幕府管領(かんれい)細川勝元の東軍と、室町幕府侍所所司(頭人)山名持豊(出家して山名宗全)ら西軍の有力守護大名が争い、九州等、一部の地方を除く、全国へと拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入する契機となり、また、十数年に亘る戦乱によって主要な戦場となった京都は灰燼と帰し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃してしまった(後半はウィキの「応仁の乱」に拠った。応仁の乱の概略は足利義視の注で代えることとする)。なお、挿絵は今回は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。これは東軍の「伊駒藤四郎茂光」の「父茂忠」が討たれるシーンで、左の図の右下(全図中央下やや左)が西軍大内政弘方のヒットマンの「岩島兵作」、彼に太刀を刺されて落馬している顋鬚の男が父「茂忠」、恐らくは、左手上の一騎走らせているのは、父討死の報を聴き、紫野から疾駆する茂光をイメージしたものか。ともかくもこの話柄は応仁の乱を背景にしながらも、実際には私怨を以って卑怯な手段によって父茂忠を討たれた、子茂光の物語であり、されば、以下、応仁の乱前後の歴史的事実や人物注は必要最小限に留めてある。

・「赤間が關」寿永四(一一八五)年の壇ノ浦の戦いによる平家滅亡と安徳天皇入水でしられる山口県下関市の古称。ウィキの「下関市」によれば、「下關」という名称の初見は貞観一一(八六九)年であるが、「赤間(が)關」の名称の初見は元暦二(一一八五)年とある。但し、これを関所の名と捉え、「あかま」(赤間・赤馬)を地名と解するならばさらに『平安時代まで遡ることができる。いずれにしても鎌倉時代に「赤間関」という呼び名が成立し、付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた』とある(鎌倉幕府による長門探題設置は建治二(一二七六)年)。『元寇をきっかけに赤間関を防衛するために長門守護は長門探題とされて北条氏一門が任ぜられた。北条氏が滅びると長門の御家人であった厚東氏が長門守護とされるが、南北朝の内乱の中で周防国の在庁官人・御家人であった大内氏が南朝方として周防・長門両国を征服、後に北朝方に離反して室町幕府から両国の守護、更に対岸の豊前国の守護にも任ぜられて赤間関を含めた関門海峡両岸を大内氏が支配する体制が』十六世紀中期まで二百年近くも『続くことになる。大内氏は赤間関に代官を設置して直接管理し、港湾の管理・関銭や帆別銭の徴収・明や朝鮮などの外交使節への応対などにあたった』とある。大内義長が長府の長福寺(功山寺)にて自害して大内氏が滅亡するのは、弘治三(一五五七)年のことである。

・「延德元年」一四八九年。宗祇の生年は応永二八(一四二一)年である(没年は文亀二年七月三十日(一五〇二年九月一日))から数え実に六十九歳ということになる。

・「かたましく」「奸し・姧し・佞し」などと書き、「かだまし」とも濁る。動詞「かだむ」の形容詞化したもので、心がねじけているさま。性格が素直でない、の意。

・「修行者(すぎやうじや)に宿かしてたづきのやうなし、若し、心ざす佛事もあらばこそ」どこの馬の骨とも知れぬ怪しい乞食行脚なんぞに宿を貸したって、金も貰えず、一文の得にもなりゃしねぇ。……まんず、やり損なってどうしても供養したく思うておることでもありゃ、これ、別だけんど、な。……へへッツ!」

・「嘲哢(てうろう)」「嘲弄」に同じい。嘲ってからかうこと。

・「明けまじき夜かは」とても夜はそう簡単には明けそうにもないではないか……野宿にて辛抱出来ようとはとても思われぬ、の謂い。「霜寒く、露いたく」とあるから、時節は晩秋から初冬と思われる。

・「物一夜」「ものひとよ」と訓じておく。この「もの」は詠嘆を附加する形式名詞か或いは接頭語で「何としても」「せめても」というニュアンスと思われる。

・「十餘町」一町は百九メートルであるから、一・七キロメートル前後か。

・「あみ戸」竹木や草で編んだ「編み戸」。

・「されば在家の人ははしたなく」この「されば」は宗祇の直接話法と私はとる。応答に用いる感動詞で「さても、そのことでありますが」の謂い。

・「釋氏(しやくし)の門」「釋氏」は釈迦。仏門に同じい。

・「賴母敷く」「たのもしく」。

・「𣿖(たど)り」「𣿖」は「漂」と同字であるようである。漂うように、流れ寄せられるように、或いは、やっとの思いで、辿りついたという謂いか。

・「名は申すともいかゞしらせ給ふべきなれど」「行衞定めぬ」行脚僧なればこそ、無名者であることを旨とし、「俗世での名を申し上げ、それを貴殿がもったいなくもお聴きになられるというのは、如何にも下らなく詮ないこととは存じまするが」。如何にもくだくだしい言い回しであるが、宗祇としても、最早、ここ以外に泊まれそうなところはなく必死なれば、下手下手に出ている感じがよく出ている。

・「宮古」都。

・「種玉庵」宗祇の号であり、彼が文明五(一四七三)年に上京(かみきょう)に結んだ庵名でもある。この地は公家や将軍・管領らが居住した地域で、宗祇は三条西実隆(さんじょうにし さねたか 康正元(一四五五)年~天文六(一五三七)年:作品内時制の延徳元年当時は右近衛権少将、後、永正三(一五〇六)年に内大臣となるが在職わずか二ヶ月で致仕し、永正一三(一五一六)年)には出家している)他の公家や、細川勝元の子で幕府管領として事実上の最高権力者となった細川政元(文正元(一四六六)年~永正四(一五〇七)年)他の室町幕府の上級武士とここで交流した。

・「馥然(あわてゝ)」「西村本小説全集 上巻」も同じ。「馥」は「馥郁(ふくいく)」のそれで、「良い香り・芳しい」の謂いであって、「慌てて」「急に」「俄かに」などの意味はない。不審。さっと芳しい匂いが立ったかのように、うって変わって、の謂いであろうか?識者の御教授を乞う。

・「細川勝元」(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)幕府管領で応仁の乱の東軍総大将。

・「伊駒藤四郎茂光」後の「父茂忠」ともに東軍ながら、不詳。架空人物か。室町期以降は私の守備範囲でない。実在したり、モデルがあるとされる識者は、何卒、御教授、願いたい。

・「軍」「いくさ」。

・「山名」「山名宗全」山名持豊(もちとよ 応永一一(一四〇四)年~文明五(一四七三)年)。「宗全」は出家後の法号。山名時煕(ときひろ)の子で嘉吉(かきつ)の乱に於いて播磨白旗城に赤松満祐(みつすけ)を討って明徳の乱で失った領地を回復、一族で九ヶ国を領した。管領であった斯波(しば)・畠山家の相続問題に介入、足利将軍家後継問題ではここに語られる通り、義政の妻日野富子に頼られて義尚を擁立、義視を支持する細川勝元と対立して応仁の乱が勃発、彼はこの後(作品内時制)の西軍の陣中に於いて病没している。

・「不ㇾ見」「見えず」。

・「尓來(しかりしよりこのかた)」。この後は。「爾來」に同じい(「西村本小説全集 上巻」は「爾来」)。

・「寛正六年」一四六五年。

・「將軍義政」室町幕府第八代将軍足利義政(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年:在職:文安六(一四四九)年 ~文明五(一四七三)年)。

・「淨土寺」現在の京都市左京区銀閣寺町にある、五山送り火の一つとして有名な「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称する浄土宗清泰山浄土院の前身。ウィキの「浄土院京都市左京区によれば、まさにこの室町幕府八代将軍『足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移され』てしまい、その後、『廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐに』当たって、江戸の享保年間(一七一六年~一七三六年)に『建てられたのが』、『この寺とされる』とある。

・「義尋(ぎじん)」「義視(よしみ)」足利義視(永享一一(一四三九)年~延徳三(一四九一)年)は第六代将軍足利義教の十男として生まれた。母は小宰相局と呼ばれる家女房。で、当初は正親町三条(おおぎまちさんじょう)実雅の養子にされ、嘉吉三(一四四三)年に出家して義尋(ぎじん)と名乗り、浄土寺門跡となったが、寛正五(一四六四)年十一月、『実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗』、『従五位下左馬頭に叙任された。また義政の御台所・富子の妹良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため』、『今出川殿と呼ばれた』。翌寛正六年には『参議と左近衛中将に補任され』て『順調に義政の後継者として出世していった』が、同年十一月二十三日に『義政と富子の間に甥義尚が誕生して立場が微妙になったが、義政が後継者を義視に変更しなかったのは大御所として政治を仕切る狙いと、義尚が成長するまでの中継ぎとして義視に予定していたともいわれる』。文正元(一四六六)年九月五日には『義視謀反の噂が立つが、義視は元管領細川勝元に無実を訴え』、翌六日に『義尚の乳父だった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら貞親派が失脚する文正の政変が起こった。計画自体は義視を排除して義尚政権で実権掌握を狙った貞親の勇み足だったが、斯波氏の前当主で政変直前に義敏に家督を奪われた斯波義廉が貞親・義敏らへの対抗策として山名宗全・畠山義就らと接触、義視も義廉・宗全らと通じていたのではないかとされる。また、政変直前に勝元が義政から義視の後見人に任命され、富子が対抗策として義尚の後見人を宗全に頼み、それぞれの派閥が結成され大乱に及んだとする説は『応仁記』のでっち上げで、実際に富子は争乱に関係なかったともいわれる』。応仁元(一四六七)年に『足利将軍家の家督相続問題と畠山氏・斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。はじめ義視は勝元が率いる東軍に属し』、二月二十四日に『両軍に和睦を呼びかけたりしたが』、五月に『義政が失脚していた貞親を伊勢から京都に呼び戻したため』、孤立、それでも六月に『西軍追討の総大将に任じられると』、『首実検を行ったり』、『幕府奉行衆の内通者を成敗したりしたが』、八月二十三日に『西軍の大内政弘が上洛すると入れ替わるように京都から出奔、西軍の一色義直の分国の一つである伊勢へ下向、さらに北畠教具のもとへ下向する。この事情は明らかでないが、幕府内部で奉公衆が西軍に内通したことに危機感を抱いたための出奔とも、逆に西軍合流を図』って『伊勢へ下向したともされる』。翌応仁二年九月二十二日には『義政の説得で伊勢から帰洛するが、』その後、義政が『貞親を幕府に復帰させたため』、『義政と対立』、十一月『に室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて将軍に据え置かれ』、文明元(一四六九)年には『四国・九州の諸大名を味方につけようと奔走している』。文明五年に『宗全と勝元が相次いで死去すると和睦に傾き』、文明八年に『義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると』、『政弘と共に交渉を開始』し、同年十二月に義政と和睦して翌文明九年には『富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い』、七月に『娘を義政の猶子としたが、義政との溝を埋めることは難しく』、十一月、子の義材(よしき:後の室町幕府第十代将軍義稙(よしたね))を『伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した』。翌年には『成頼と共に正式に義政と和睦したが、美濃に留まり続けた』。長享三(一四八九)年三月二十六日に第九代将軍義尚が『長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に』四月十三日に『上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入り、そこで再び出家をして道存(どうぞん)と号した。上洛に先立ち』、長享元(一四八七)年に既に『義材を元服させていたが、義視は義政・富子と和睦を模索し、義材を継嗣の無かった義尚の猶子とするために行ったともされる』。以下、本文内時制の後のこととなるが、延徳二(一四九〇)年一月七日に『義政が病死すると、義視は富子と提携して』七月五日に義材を第十代将軍に擁立、『自らは将軍の父として幕政を牛耳った』。『しかし富子と折りが悪く次第に対立』、『富子は義材の支持には疑問を持ちはじめ、清晃を将軍後継に推していた管領細川政元(勝元の子)に接近した。義視は政元との対立を不利と判断、義材の将軍宣下の儀を政元の屋敷で行なうよう変更するといった懐柔策も示している(ただし政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している)。それでも政元と富子の反発は義材排除の動き(明応の政変)へとつながることにな』った。『こうして状況が不利になってゆく中』『病に倒れ』、享年五十三で亡くなった。『両親を失った義材は孤立し、一方の政元は富子を始め幕府関係者や諸大名と連携を取り、義視の死から』二年後の明応二(一四九三)年、『義材の河内遠征中に清晃を擁立して義材を廃嫡に追い込ん』だとある。『義視の御影堂は相国寺の大智院(現在は廃絶)に置かれたが、これは足利義満以後の歴代将軍と同じ待遇で』あり、『これはとりもなおさず、義視が将軍の後継者であり、かつ当代将軍(義材)の実父・後見として、実際には足利将軍家の家督を相続することも将軍職に就くこともなかったにもかかわらず、「事実上の将軍家の当主」とみなされ』、『その礼遇を受けていたためであることを物語る』とある。

・「義尚」(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年)は室町幕府第九代将軍。前注を参照されたい。

・「管領職(くわんりやうしよく)」誤りではないが、室町幕府のそれは「かんれい」の方が一般的。

・「五年以前、三月の京軍」「京軍」は「きやういくさ(きょういくさ)」。作品内時制の「延德元年」一四八九年から五年前は文明一六(一四八四)年であるが、この辺りから実は、時制上の齟齬が生じており、この茂光が生者でないことが判る仕掛けとなっている。何故なら、文明一六(一四八四)年前後では既にして応仁の乱は終息しており、直後の「我が父茂忠、宗全が方人(かたうど)大内政弘が陣に向つて」というのが、おかしいことに気づくからである。山名宗全は実に作品内時制より十六年も前の文明五(一四七三)年に亡くなっているからである。

・「大内政弘」(文安三(一四四六)年~明応四(一四九五)年)細川と対立した応仁の乱の西軍の主力守護大名。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。ウィキの「大内政弘」によれば、『最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇』り、『文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築』いたとある。

・「大鹿(しか)藤藏」次の「三石加藤次」、後の「岩島兵作」も併せて、不詳。架空人物か。やはり実在したり、モデルがあるとされる識者は、何卒、御教授、願いたい。

・「晩景(ばんけい)」夕刻。

・「退く」「西村本小説全集 上巻」は「しりぞく」とルビする。

・「頓て」「やがて」。

・「紫野(むらさきの)」現在の京都市北区附近。船岡山の北方にある低い洪積台地に位置し、臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺や今宮神社がある。因みに、応仁の乱勃発の応仁元(一四六七)年八月中は大内政弘が船岡山に陣取っている。

・「不ㇾ逢」「あはず」であろう。

・「文明四年」一四七二年。即ち、この叙述から推すなら、茂光の父茂忠が討たれたのは文明三年三月(或いはそれ以前)と読める。ウィキの「応仁によれば、文明三(一四七一)年五月二十一日には西軍の主力を担っていた斯波義廉(しばよしかど)の重臣朝倉孝景が『義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。一方で西軍は擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して西陣南帝としたが、やがて放擲された。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった』。文明四(一四七二)年になると、『勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。宗全の息子達はかねてから』家督争いから、この応仁の乱を惹起させた張本たる畠山義就(はたけやまよしひろ/よしなり 永享九(一四三七)年?~延徳二(一四九一)年)の『支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかしこの和平交渉は山名氏と対立する赤松政則の抵抗で失敗』、三月に『勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した』。五月には『宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲』るに至っている。そうした乱の厭戦気分の中での、父の仇討であることにも注意する必要があるように私は思う。

・「二尾(を)加賀守」大内政弘の家臣に二尾加賀守弘直という人物がおり、実際に彼は細川勝元に下って主政弘に背いている。

・「待請け」「まちうけ」。

・「勝元に復、勤仕(きんし)す」「復」は「また」。細川勝元は文明五(一四七三)年五月十一日に病死している(一説に山名方による暗殺説もある)。この茂光の語り自体が事実であるとすれば、やはり主君亡き後、応仁の乱この方、相互に信頼を失うような人間力学に、「世を憤る事のありて、此所に隱遁し」たと読むのは自然な感じはするのであるが、しかし、どうか?……直後に「暫しゝて、主、おつ、と答へ、太刀引提げ、走り出づる」というのは……実は――実際には出来なかった父の仇討ちへ出でんとするシーンを茂光の霊が演じている――のではあるまいか?……演じているということは……実は父の仇討は出来なかったと考えられる。茂光は「播州の内、とある難所に」仇兵作を「待請け、忽まち、親の敵を討」ったと言っているのに、「先年の一亂に、此所にて討死しける人なり」という後文がそれを明白に示唆していると言ってよいように私には思われるのである。……こうした――成し得なかった仇討――を――あったこと――として語って、旧友宗祇に父ともどもに回向を願ったのではあるまいか? これは私の印象に過ぎぬ。大方の御批判を俟つものではある。

・「長々敷き」「ながながしき」。

・「如幻信士」よき戒名と私は思う。

« 五高見参   梅崎春生 | トップページ | 宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   盜賊、歌に和ぐ »