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2016/08/07

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   雷の天災

    雷天災(らいのてんさい)

 

水無月半(なかば)、京を出て鞍馬に心ざし、加茂御菩薩池を越え、市原野邊(いちはらのべ)をたどり、大荒木(おほあらぎ)の森の下草かき分け、二町計りを過る時、夏の物とて曇りなく、解くる計りの暑くるし、靑天、俄かにかきくれ、夕立の雨、礫(つぶて)を打つがごとく、いなびかり、間(ま)なく走りて、雷(らい)、山をさき、水、蒼々と湖(うみ)をたゝへたり、前後、家遠く、左右に里みえねば、いかにして晴間(はれま)を待たんと思ひ思ひ、風の追手に隨つて、ころびもて行く、爰にちひさき辻堂あつて、石の地藏、たち給ふ所に及びつきぬ。其の程、猶、雨のをやみもなく、雷らいのひゞきは殊更につよし、速(と)く、雷、鳴り、風吹いて、烈しきとき、席を正して起(た)つ、と孔子は宣(のたま)ひし、身を淸淨(しやうじやう)に、名香をくゆらせて、天意をおそるゝ物といへど、旅途(りよと)の急難にて、身を淸(きよ)むべき水もなければ、雨を以て水とし、くゆらすべき薰(かを)りには、尊前(そんぜん)の抹香(まつかう)ならではなし。經、誦(ず)して居る。此の堂の十間計り向ふなる田の畔(くろ)に三懷(みだき)計りの大の松、梢、十餘間程に、逞しくひろごりたる上へ、雷(らい)、おちたり。其の音、坤軸(こんじく)のくだけて海に入るといふは、かくや有らん、と、おびたゞし、眞黑なる雲の中に、二尺計りの丸(まろ)かれたる火、其の前後、飛行(ひぎやう)すと見えし、大木、二つに裂け、ふすぼりて、きえず。雷火(らいくわ)ととみえしは、又、黑雲につれてのぼりし、とかくする程に、雨、晴れ、風、治まり、又、蒼々(さうさう)たる一天となる。石佛に御暇申し、出でゝ、彼の松のもとに行き見るに、ふすぼりたる木の肌に、大きなる爪跡あつて、獸類(じうるゐ)の、此の木より上りたると見ゆ。夫れ、雷動(らいどう)は天氣の陽(やう)の至りと、地中の極陰(ごくいん)と、二の物、相戰ふ時、鳴動するといふに、爪あとの怖しきをみれば、繪に書けるごとき鬼形(きぎやう)もあるか、と、いぶかし。爰を過ぎて、二の瀨(せ)といふ所に、しれる人を訪(と)ひて、よる。こは珍し、いづこへ、と、とふ。鞍馬にまふず、と、いへば、けふは大雨にて、山河(さんか)、水おほし、とまりて、あすなん、詣で侍れかし、と、いふに、心ならず滯留(たいりう)しぬ。家(や)の主(あるじ)、物がたりて、けふ、近郷に不思議の事、侍り。縱(たとへ)ば、道行く人、主從五人、此の雷(らい)のため、皆一同に絶入(ぜつじゆ)す。雨、やみ、雲、晴れて、在所の者ども集まり、諸(しよ)療手(れうて)をつくし、針灸蘇生の法治(はふぢ)を施(ほどこ)すに、魂(たましひ)二度かへらず、主從ともに空しく成り、一在の者、哀れをなして、先づ、主人を火葬し、一基(き)の主(ぬし)となしぬ。黃昏(たそがれ)の頃、從者どもを葬むらんと、とかく取りまかなふ内、殘る四人ことごとく、息出(いきい)で、夢の覺(さ)めたる如く、扨、主人(しゆじん)は、と問ふ。しかじかの事にて火葬したり、と、いふに、従者共、始めて驚きぬ、爲方(せんかた)なくて、皆々、都へ歸り上り侍る、といふ。祇の云く。是、ふしぎにて不思議ならず。凡そ、人、大驚にあふ時、必らず魂魂(こんぱく)消散(せうさん)す。消散すれば死す。魂魄沈伏(ちんぶく)すれば、又、蘇生す。魂の沈伏をまたずして、かろがろしく火葬しぬる事、其の業(ごふ)のよる所にこそあらめ、と、いふに、各、諾しぬ。

 

■やぶちゃん注

・「加茂御菩薩池」宗祇仮託に合わせるならば、「かもみどろいけ」或いは「かもみそろいけ」と読んでいる可能性が高い。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)では「みそろいけ」とルビしている。現在の京都市北区上賀茂深泥池町(みどろいけちょう)及び狭間町にある池及び湿地の名で現在は一般的には単に「深泥池」「深泥ケ池」と表記し、読みは「みどろがいけ」「みぞろがいけ」と呼ぶ。ウィキの「深泥池」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、周囲は約一キロ五百四十メートル、面積は約九・二ヘクタールあり、『池の中央に浮島が存在する。この深泥池に流入する河川はないが、松ヶ崎浄水場の配水池より若干の漏水が流入している。周囲は標高二百メートルを下回る小高い山々に囲まれており、南西端のみが開けて低地に面している。その形態から、およそ一万年前までに、池の南西部にできた開析谷(かいせきこく)』(台地の末端部分が断層活動や水流による侵食で崖崩れが繰り返し発生した結果によって生じた谷)『の出口が、鴨川(賀茂川)の扇状地堆積物(砕屑物)によって塞き止められ、自然堤防の原型が造り上がって、深泥池の形状を保ってきたと考えられている』。『なお、この場所には人工の堤防が築かれている。「愛宕郡村志」によれば「古代に於いて用水の為に造築」されたといい、六世紀前後に上述の自然堤防に人工堤防が増築されたものとされる』。『平安時代前期、菅原道真によって編纂された「類聚国史」の中に、「(淳和天皇が)天長六年(八二九年)十月十日、泥濘池に幸(みゆき)し、水鳥を羅(あみ)で猟(かり)す」とある。この「泥濘池」(泥が滞った池)が深泥池を指すものとされる。中期から後期にかけては、「和泉式部続集」に「名を聞けば 影だに見えじ みどろ池」、「小右記」に「美度呂池」、「親長卿記」に「美曽呂池」とそれぞれ記されている』。『平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」には、「いづれか貴船へ参る道、賀茂川箕里(みのさと)御菩薩池(みどろいけ)、御菩薩坂」とある。この時期から、深泥池は「京の六地蔵巡り」の一か所となり、地蔵信仰の霊地としてあがめられてきた』。『室町時代後期の上杉家本「洛中洛外図」には「みそろいけ」の西側湖畔に「美曽呂関所」と、その横に「ぢさうたう」(地蔵堂)が描かれている』。江戸時代に編まれた書物「洛陽名所集」(明暦四・万治元(一六五八)年)、「扶桑京華志」(寛文五(一六六五)年)、『京羽二重』(貞享二(一六八五)年・振り仮名「みぞろいけ」)、「山州名跡志」(宝永八・正徳元(一七一一)年・振り仮名「みどろいけ」「御ゾロ池」)など『多くの資料中で、引き続き深泥池を「御菩薩池」と記しており、近世までの一般的な表記であったものと推察できる』。『上述の「扶桑京華志」には「御菩薩池、一に深泥池又御泥池と作る」とあり、「深泥池」という名称自体は江戸時代に存在していたと考えられる。池周辺の地は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の所領であったため、「御菩薩池」の名のもとになった地蔵菩薩は、明治時代の神仏分離令で上善寺に移された。この時期を境に現在の「深泥池」という名称が一般化した』。『「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の二通りが存在し、特段の統一がなされていない。京都市のサイトでは「みぞろがいけ」、京都市交通局の市バス停留所名称では「みどろがいけ」と表記する一方で、京都府のサイトでは両方の読み方を併記している。歴史的にも上述の通り、それぞれの振り仮名が使われ、混用されていた』。『「類聚国史」書中の「泥濘」について、観智院本「類聚名義抄」によると、古訓は「ミソコル」とされる。ミソは「溝」、一般的に人工水路を意味するが、もとは山中から谷に出てくる自然の流れのことを示した。コルは滞る意味の「凝」である。時代を経ていつしか水流が滞り、池の水が泥になった。「大日本地名辞書」(吉田東伍著・冨山房書店)には「御泥池 真泥(みどろ)の義也」と記されている。この「泥」(どろ)自体に着目するか、池古来の水流「溝」(みぞ)に着目するかの違いがもとで、両方の読みが残ったと考えられる』。『ちなみに、文化庁に登録されている名称は「みどろがいけ」であり、付近の地名「上賀茂深泥池町」「松ケ崎深泥池端」も、「かみがもみどろいけちょう」「まつがさきみどろいけばた」と読む』。一方、「京童」(明暦四・万治元(一六五八)年)、「都名所車」(正徳四(一七一四)年)、「京城勝覧」(享保三(一七一八)年)、池畔にある『地蔵堂正面の御詠歌額からは、それぞれ「みぞろ池」と記されていることから、地元では「みぞろ(が)いけ」の読みで親しまれてきたことが分かる』とある。なお、このウィキを見ながら、なるほど、と膝を打った。この池周辺地は京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社(賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)の所領であったわけで、同神社の祭神は祭祀家賀茂氏の祖神賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)「別雷」は「若雷」或いは「分雷」で、「若々しい力に満ちた神」或いは「強い力で稲妻をも二つに分け裂いてしまうほどの力を持つ神」という意である(雷神ではない)から、このロケーション自体が雷とは親和性があることに気づいたからである。

・「市原野邊」「市原野」は現在の京都市左京区中西部の一地区名。「櫟原野」とも書く。鞍馬寺への参詣の鞍馬街道に沿っており、早くから開けた。「古今著聞集」によれば、この地で盗賊鬼童丸が源頼光を襲って誅されたとし、また、小野小町の終焉の地とも伝えられる小野寺(補陀洛(ふだらく)寺)もある(小学館「日本大百科全書」の織田武雄氏の解説に拠った)。]

・「大荒木(おほあらぎ)の森」三省堂「大辞林」によれば、歌枕で、現在の京都市伏見区淀本町の与杼(よど)神社付近の森とするが、もともと場所不詳の「大殯(おおあらき:貴人が死んでから本葬するまでの間、蘇生を考えて遺体を仮に納めて置くこと及びその場所(殯(もがり)の宮)の敬称)を営む浮田(うきた:氏の一つか)の森」をいったものを、平安以降に山城国の歌枕としてしまっ経緯があるとあるから、現在の比定地が方向違いでも問題にする必要はないと言える。

・「二町」二百十八メートル。

・「湖(うみ)」豪雨によって、山道や田圃などがすっかり水没して湖のようになってしまった、というのである。叙述順から見て、深泥ヶ池はずっと後方で、それには比定は不能である。但し、当時、広域にあったであろうそれらの附属した池沼群が溢れ返ったと読むことは可能ではある。

・「席を正して起(た)つ、と孔子は宣(のたま)ひし」不詳。「論語」の「郷党第十」に、

席不正不坐。(席、正しからざれば、坐せず。:座席にある敷物の向きが正しくなっていなければ座らぬ。)

や、

君賜食。必正席。先嘗之。君賜腥。必熟而薦之。君賜生。必畜之。侍食於君。君祭先飯。疾。君視之。東首。加朝服。拖紳。君命召。不俟駕行矣。(君、食を賜へば、必らず、席を正して先づ之れを嘗(な)む。君、腥(せい)を賜へば、必らず、熟(じゆく)して之れを薦(すす)む。君、生(せい)を賜へば、必らず、之れを畜(か)ふ。君に侍食(じしよく)するに、君、祭れば先づ飯(はん)す。疾(や)むとき、君、之れを視れば、東首(とうしゆ)し、朝服(ちやうふく)を加へ、紳(しん)を拖(ひ)く。君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。:下村湖人の「現代訳論語」から引く。「君公から料理を賜わると、必ず席を正し、まずみずからそれをいただかれ、あとを家人にわけられる。君公から生肉を賜わると、それを調理して、まず先祖の霊に供えられる。君公から生きた動物を賜わると、必ずそれを飼っておかれる。君公に陪食を仰せつかると、君公が食前の祭をされている間に、必ず毒味をされる。病気の時、君公の見舞をうけると、東を枕にし、寝具に礼服をかけ、その上に束帯をおかれる。君公のお召しがあると、車馬の用意をまたないでお出かけになる。」。)

この辺りの誤認か。

・「天意をおそるゝ物といへど」宗祇はこの豪雨と雷鳴の天候の急変を理由は分からぬながらも天、神仏が何らかの形で怒っていると認識している。それに潔斎して礼拝誦経などしなくてはならないのであるが、そのための潔斎の清浄な水も、身に焚き込むべき上製の御香もないためにそれが出来ぬことを神仏に対し、不敬となし、恐れているのである。

・「尊前(そんぜん)の抹香(まつかう)ならではなし」粗末な地蔵堂の石地蔵の前の湿った古い安物の抹香以外には何もない。

・「十間」十八メートル十八センチ。

・「三懷(みだき)」大人で三抱えほどの太さ。

・「十餘間」二十九メートル前後。

・「坤軸(こんじく)のくだけて海に入る」既注であるが、「坤軸」は大地の中心を貫き支えているとされた地軸のこと。「NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ」の天明三 (一七八三) 年の浅間山噴火の記録「信州間焼之事」中に、『坤軸といふ物のくだけて、世界一度に泥の海になる時きぬらんと、氣もたましゐもきへはてゝ、腰ぬけ立もあからず』という、ここと酷似した表現がある。しかも、この方が意味が通る。地軸が折れて海の中に沈むのではなく、地軸が折れて世界が総て海に没する、のである。

・「二尺」六十・六センチ。

・「丸(まろ)かれたる火」丸く固まる・丸くなるの意の「丸がる」(自動詞ラ行下二段活用)は、上代語では「丸かる」である。

・「大きなる爪跡あつて、獸類(じうるゐ)の、此の木より上りたると見ゆ」「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

・「天氣の陽(やう)の至り」天の陽気の元も強まった状態。

・「二の瀨(せ)」現在の京都市左京区鞍馬二ノ瀬町。貴船神社の麓。

・「山河(さんか)」「さんか」はママ。「西村本小説全集 上巻」も清音。

・「心ならず」独りの修行行脚を心掛けている宗祇にしてみれば、いらぬお節介という一面があるのである。だから不本意ながら、である。但し、これは語りのポーズであり、形式上の軽い謂い添えに過ぎない。でなくては、以下の怪奇談話のシーンもしみじみ落ち着いてはこない。

・「主人を火葬」何故、わざわざ火葬にしたのであろうと考えてみる。最後に宗祇(筆者)は「かろがろしく火葬しぬる事」と明白に火葬にした村人らをも暗に批難しているのであるが、それは実は、この主人の遺体が二目と見られぬ奇怪なものであったからではないか? 即ち、彼だけが雷の直撃を受けて黒焦げとなったか、或いは、通電した部分の肉が裂けて焼け、損傷が激しく見るに堪えなかったからこそ火葬にしたのではないか? とすれば、彼が蘇生する気配はないから、村人を批難する謂れはなくなると私は思うのである。なお、最後の注も参照のこと。

・「大驚」「だいきやう(だいきょう)」は大いに驚くの意、驚愕。ここは仮死状態に陥るような激しいショックを受けることを指す。

・「沈伏(ちんぶく)」ここは心身の鎮静の意で用いている。

・「魂の沈伏をまたずして、かろがろしく火葬しぬる事、其の業(ごふ)のよる所にこそあらめ」この部分は実際には村人への批判ではなく、表面上は、「主人の心身が鎮静するのを待たずに、『既に絶命している』と村人らが早合点してしまい、軽々しく早々に仮死状態の遺体を火葬してしまったことは(『残りの従者らが全員、蘇生したことを考えれば、その主人も死んでいなかった、仮死状態であった』と宗祇は確信しているのである)、これ、その主人の前世の業(ごう)に拠る避けられぬ運命であったのであったのであろうぞ。」と火葬にされた男自身の因果応報という表現にはなっている。

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