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« 合歓の花………… | トップページ | 悪酒の時代――酒友列伝――   梅崎春生 »

2016/08/22

現代への執着   梅崎春生

 

 大学には四年いた。三年のところを勝手に一年引き伸ばしたのだから、学資を仰いでいた伯父に、もう一年分続けてくれとは言いにくく、自分で働いてやることにした。アルバイト生活である。

 神田駿河台に政府外郭団体の東亜研究所というのがあって、学生課の紹介で、そこの書庫で働くことになった。時間給二十銭というきめだ。時間給というのは、学生だから講義に出席せねばならない、だからそれを除いて、働いた時間だけ給料を呉れるという仕組みである。しかし毎日通って全時間を勤務しても、総額四十数円にしかならない。その頃といえども四十数円というのは、大学生としては最低の生活費である。私は他に収入は皆無なのだから、講義は放棄してそこに通わねばならなかった。書庫は地下室にあり、仕事は書籍の整理や貸出し。東亜研究所というのは、たしか近衛文麿が所長で、東亜各国の資料を集め調査研究をし、侵略の手づるにしようというあまりよろしくない団体だ。夏が過ぎ、秋ともなり、やがて卒業論文提出期が近づいてきた。

 以前に届けておいた論文題名は「森鷗外論」だ。私は不勉強な学生で、講義にも欠席ばかりしていたので明治以前の国文学についてはほとんど知るところがない。第一あの原典のぐにゃぐにゃした仮名や字が判読できない。だから森鷗外を選んだのだが、由来明治大正文学を選ぶのは、よほどの勉強家か怠け者ということになっていた。怠け者がとかく選びたがるのは、樋口一葉とか芥川龍之介。全著書を集めても大した量はないからである。私の森鷗外もそれに近い。と言うのは、私は鷗外の全著作を対象としたのではなく、もっぱらその範囲を鷗外の現代小説だけに限ったからだ。あの尨大(ぼうだい)な鷗外全集を読みこなす根気もなければ暇もなかった。すなわち翻訳を省き、論文も省く。史伝も省くし、詩歌も省く。小説の中でも初期文語体で書かれたのは敬遠。「大塩平八郎」のような歴史小説も同じ。残るのは「雁」とか「鷗」とか平明にして判り易い現代小説ばかりである。これならそう参考書や資料も要らないし、短時間に仕上げがきく。

 提出期がいよいよ切迫して、あますところ二週間ぐらいになってしまった。今度はアルバイトの方は放棄して朝から東大図書館にこもり、参考書を三四冊借り出し、ぶっつけに原稿用紙に書く。下書なんかこしらえる余裕はない。十日ばかりの間に八十枚ほど書き上げ、大急ぎで製本屋に頼んで製本し、研究所倉庫に行ってナンバリングで頁を打ち、そしてぎりぎりの日に提出した。こんな粗雑な論文でも、どうにか通過したからふしぎなものだ。

 この論文は、学校に保存されると大変だから、卒業時に取返して、ちゃんとしまって置いた。終戦時まであったが、この稿を書くために探したが、どこにしまったか見当らない。見当らない方が身の為である。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月三十日号『近代文学』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」の『エッセイ Ⅰ』に拠った。これをここ(前後は同底本の『エッセイ Ⅳ』)に挟むのは当該底本の編集権を侵害しないようにするためで、他意はない。但し、私は編集権とは底本を一冊丸ごと、同配列同文オリジナル注釈なし、PDFなどで同じ版組にして電子化した場合等に限って問題となると認識しているので、ブログ単発オリジナル注附きの現行の私の電子化を編集権侵害とは微塵も思っていないことを附け加えておく。

「大学には四年いた」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九四〇)年三月に卒業している。当時は大学は三年制であったが、梅崎春生は自分の意志で一年留年(何年次をダブったのかは不明)している。但し、ここで彼はあたかも大学の講義には欠かさず出ていたかのように書いているが、底本全集別巻の年譜(常住郷太郎氏編と思われる)によれば、『大学生活は自分で留年をした一年間を通してほとんど教室に出なかった』とあり、また『十二年には幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』という驚天動地のエピソードを記す。

「東亜研究所」昭和一三(一九三八)年九月一日に企画院(戦前の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関)管轄の外郭団体(財団法人)として設立され、第二次世界大戦終結後まで存続した大日本帝国の国策調査・研究機関。略称を「東研(とうけん)」と呼んだ。ウィキの「東亜研究所により引く。『総裁には近衛文麿、副総裁には大蔵公望(満鉄理事、貴族院議員)、常務理事に唐沢俊樹らが就任したが、事実上の所長として運営を切り回していたのは大蔵であった。人文・社会・自然科学の総合的視点に立ち、東アジア全般の地域研究に加え、ソ連・南方(東南アジア)・中近東など、当時の日本の地域研究においてほとんど手つかずだった諸地域の研究を進め、日中戦争(支那事変)の遂行および、これらの地域に対する国策の樹立に貢献することが期待された』昭和一五(一九四〇)年『以降、満鉄調査部と共同で、中国社会に対する最初の総合的現地調査である「中国農村慣行調査」(華北農村慣行調査)を行ったことで知られている。太平洋戦争(大東亜戦争)期の南方占領地軍政においては』、第十六軍『(ジャワ軍政監部)のもとで柘植秀臣を班長として旧蘭印(インドネシア)のジャワ占領地における調査活動を担当した』。『所員としては講座派』(日本資本主義論争において労農派と対抗したマルクス主義者の一派で、岩波書店から一九三〇年代前半に出版された「日本資本主義発達史講座」を執筆したグループが中心となったのでこう呼ばれる)『経済学者の山田盛太郎など、日本内地の言論弾圧により活動の場を失った左派・リベラル派の知識人が多数採用されており(そのせいか企画院事件』(昭和一四(一九三九)年から一九四一年にかけて多数の企画院職員・調査官及び関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された複数の事件の複合呼称)『で検挙された所員もいる)、より若年の世代では内田義彦・水田洋など、第二次世界大戦後の社会科学研究に学問貢献した高名な学者を多数輩出した。 また、敗戦後、新政府への奉職、貿易会社・商社勤務、新聞記者など実務家として活躍した者が数多くいる』。なお、敗戦後も「東研」は暫く存続し、戦後も資料収集を継続、『敗戦時の混乱で政府から正式な解散認可も出ないまま』昭和二一(一九四六)年三月辺り『(正確な月日は不明)に解散、その所蔵資料と土地資産は財団法人政治経済研究所に継承された。その後、主に、都内・駿河台近隣の旧制大学に所属する学者の論考を発表する場を提供してきた』とある。

「鷗」私は岩波版の新書版選集しか所持せず、熱心な読者でさえないのであるが(因みに私が高校教師時代に最初に担任した女子生徒であった大塚美保さんは現在、聖心女子大学日本語日本文学科教授として本邦トップ・クラスの森鷗外研究家となっておられる)、森鷗外に「鷗」という現代小説があったようにはどうも思われない。これは思うに、「鷄(にわとり)」(明治四二年(一九〇九)八月『スバル』第八号初出)の誤植ではあるまいか?(梅崎春生の誤りではなくである)「鷄」は小倉に赴任した少佐参謀石田小介が主人公の現代小説で、福岡生まれの春生の郷里との親和性もあるからである。それとも鷗外に「鷗」という小説があるんだろうか? 大塚さんに聴くのも恥ずかしい。誰か、こっそり教えてくれないか?]

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