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2016/09/20

天皇制について   梅崎春生

 

 北海道の旅に出ることになったので、船の中でこれを書こうと予定していたが、海が少々荒れて、原稿どころの騒ぎではなかった。芝浦発釧路(くしろ)行きの定期航路で、二千噸(トン)ばかりの客船である。足掛け四日、五十時間余りかかる。船中では書けなかったので、今釧路の宿屋でこれを書いている。なんだかまだ部屋が揺れているような気分で落着かない。頭の働きも鈍くなっているらしい。

 船の中ではずっと寝てばかりいた。もちろん食事もとらないし、食べてもすぐ戻してしまうし、いわんや酒なんか一滴もとらない。うつらうつらと寝ているばかり。しかしこの丸二日間の絶食が、日頃弱っていた私の胃腸には大いに幸いした。だから今は、船酔いの後感を除けば、胃腸の具合は数年来初めてのような快適さである。今まで飲んだり食ったりしていたことが、単なる習慣に過ぎなかったことを、あらためてはっきりと了解した。食べたいから食べる、飲みたいから飲む、そういうものでなく、時間が来たから飲食する、あるいは義務感のようなもので飲食する、そんな具合になっていたらしい。空腹があったのではなく、空腹感というもの、空腹の錯覚とでも言ったようなもので、晏如(あんじょ)として飲食していたらしいのだ。とにかく習慣というものは、ぬるま湯みたいなもので、一遍打破したり飛び出したりして見ないと、そのぬるさ加減が判らないものだ。私の胃腸に賭けてそれを断言してもいい。しかしまあ、生きているということも一種の習慣であると言えば、それまでであるが。

 船酔いを除けば、船旅というのはなかなか面白く、また奇妙なものであった。一応海によって完全に陸界から絶縁されている、その意識だけでも愉しい。さばさばしたようなところがある。第一朝になっても朝刊が来ないし、夕べになっても夕刊が来ない。新聞屋さんには悪いけれども、新聞が来ないことがこんな楽しいことだとは、今まで考えもしなかった。新聞などというものは、まるっきり習慣を絵に画いたようなものだ。あれは思考力を麻痺させる。人間は時々新聞においても絶食した方がいい。

 ところが、新聞が来ないのはよろしかったが、この隔絶した船室にも、無遠慮に侵入して来る奴がいた。それはラジオだ。新聞雑誌や映画演劇など全然入って来ないのに、ラジオのがちゃがちゃした器械音だけは、人の嗜好(しこう)や感情を踏みにじって、容赦なく入って来る。これはもう習慣以上のものだ。習慣とはおおむね自分で習い慣れるものだが、これはそうでない。強制といったものに近い。

 二年前の夏やはり北海道を周遊したことがあって、たとえば美唄(びばい)とか網走とかさいはての町を歩いていても、ちょっと耳を澄ますとラジオが聞えて来る。「二十の扉」だとか「のど自慢」だとか、つまり東京で聴くのと同じやつが、どんな屋根の下でも鳴っているのだ。ラジオという奴は何といやなものだろう。旅行者の私に、先ずそんな感じが来た。もちろん田舎の屋根の下で、ラジオを聴いている人をいやだと言うのではない。聴くのは各人の自由であり権利であるが、すべての人々の思考や感覚を統御して画一化そうとする電波そのものに対して、そのあり方に対して、私はやはり嫌悪の情を感じた。船室で聴くラジオにも、同じ感じがある。

 それならば蚕棚の寝床から起き上って、スイッチをひねればいいではないか。素人(しろうと)はそう思うだろう。しかしこの船室のスイッチをひねっても、隣の船室のがある。廊下にもある。どこからでも聞えて来る。それに、今ラジオと私は書いたけれども、厳密な意味でこれはラジオではなく、スピーカーなのである。船長側から船客に対する注意や報知は、これによって行われる。もともとその為に設備されているのだ。だから船客のおおむねは、これを開き放しにして置く。船側では注意や報知のない時には、サービスのつもりでラジオを流す。どうしても耳に入って来ざるを得ない。それに単にスピーカーであるからして、船側で流す番組だけしか聞えない仕組みになっている。スピーカーにはダイヤルはついていないのである。ニュースは厭だから洋楽を聴きたいと言っても通らない。まあ一種の放送の統制みたいなものだ。

 押しつけがましい点において、ちょっとこれは天皇制に似ている。

 いきなりこんなところで天皇制なんかを持ち出して、我ながら唐突に過ぎると思うけれども、実はその船室のラジオによって、皇太子のことなどをあれこれ聴かされ、うんざりしまた反撥もし、かくてこういう連想が私の胸の中で結実した。そしてその連想の結論を手っとり早く言うと、早く天皇制のスイッチをひねって止めてしまった方がいい。天皇制などというものは、習慣に過ぎず、それもぐうたらな習慣に過ぎない。しかも古くからの習慣ではなく、明治以降のものだから、さして古きを誇れるようなものではないのである。古さや伝統という点では、駒形のドジョウ屋あたりにもはるか及ばない。昔の聖人も、過(あやま)ちを改むるにはばかること勿(なか)れと教えた。現代にあって天皇制は過ちである。

 敗戦後、米軍が日本を占領して、いろいろな改革を日本にほどこした。良いこともあったし、見当外れのこともあったが、あの当時は米国にもいくらか善き意志があって、強引は強引だったけれども、現在みたいな無茶なことはなかった。自国の利害よりは、日本の近代化ということを第一とする、そんなおもむきがあった。そのおもむきを私は支持したし、今も支持している。しかし私が残念でたまらないのは、なぜあの時米国が勇気を出して、あるいは自国の将来の利害を考えないで、天皇制を廃止してしまわなかったかということだ。あの頃なら、天皇制はまだ穴に這い込まない弁慶蟹(べんけいがに)みたいなものだった。すこしの鋏の抵抗はあったとしても、捕えようとすれば捕えることは出来た。今はそうでもない。全部が全部ではないが、もう石垣の穴の中に半分ぐらいもぐり込んでいる。石垣の穴の中で半分神様になりかかっているのだ。私は人間であると宣言したのは、ついこの間だったような気がするのに。

 天皇は一度自らの宣言によって人間となった。それは天皇個人にとっても、幸福なことだったに違いない。それを「象徴」という言葉でかぶせたのは、明治生れの老人たち或いは若年寄たちの悪智慧である。「象徴」とは何と狡智に長(た)けた言い廻しであろう。

 今手許に辞書もないので、象徴の本来の意味をしらべることも出来ないが、旅先での漠然とした感じから言えば、象徴の座に生身(なまみ)の人間が坐るのはまことに不似合であり、不適当であるように思う。また都合の悪いことも出て来る。つまり明治老人の狡智は、「神様」を「象徴」に言い替えただけであって、私たちの感覚で言えば、その座に特定の個人が坐ることは奇怪である。近代感覚に反する。人間はあくまで人間であるから、人間の感情や生理以上を持ち得ない。運動をすれば汗が出るし、異性を見れば欲情するし、食べ過ぎれば下痢をする。いくら象徴といえどもその例には洩れない。象徴と人間との食い違いが、結局国民感情には違和としてあらわれて来る。たしか石坂洋次郎の『若い人』だったかな、修学旅行の女学生が宮城前で、天皇の日常についてそんな会話をするところがあった。戦時中この小説は当局の忌諱(きい)に触れて発禁になったのではなかったかしら。どうも旅先で記憶が不確かだが、つまりそんなことになってあらわれて来る。そういうことはよろしくない。女学生がよろしくないのではなく、生身の人間が象徴になるのがよろしくないのである。これは理窟ではなく、穏健なる市民としての私の感覚である。

 では、どうすればいいか。どうしても象徴をつくりたかったら、個体のかわりに抽象のものを持って来ればいい。そして生身の人間は早々に退場することだ。抽象ではふわふわしてたよりないというなら、無機物を持って来ればいい。動物植物ではやはり具合が悪い。鉱物ではどうであろう。すこしこちらも譲歩して、三種の神器(今も残っているとして)などだったらいいかも知れない。あれは生物でないから、欲情したり下痢したりすることもないし、置いておけば済むものだから、いくらか適当だろう。しかしその場合、特定の個人や家系とはすっかり切り離すこと。本当は石ころでもシャケの頭でもいいのだが、やはり体面だの字面にこだわる人が多いから、そういうことになる。

 そして天皇は家族ともども象徴の座より離れ、人間として生きるがよかろう。人間としての幸福を追求するがよかろう。生物学なんか、ある人の言によれば天皇の生物学は駅弁大学の助教授程度だとのことであったが、それならばそれでいいし、それにいそしめばいい。伊勢の神主になるのも一法である。しかし、離職後一市民になった人に対して、私があれこれ言うのはおせっかいというものである。近代市民生活の理念に反する。だから今のは取り消す。それは当人の意志と決意によってきめるべきものだ。私が言い得る唯一のことは、もう絶対に象徴だの神様の座に戻って来てはいけないということだ。

 皇室が解消すれば、自然と宮内庁も解散ということになる。これは当然だが、ここに勤務していた役人どもは、当人が自分は人間だと言っているのに、その人間を人間として取扱わなかった点において、つまり人間を歪め侮辱した点において、公職から永久に追放されるべきだろう。まあこれは宮内庁の役人だけに止まらないが、ことに宮内庁のはそうである。もちろん退職金などもやらない。自らの汗によって生きるのが人間というものであることを、少しは思い知らせてやる必要がある。

 以上天皇についてごく常識的な見解を書きつけてみたが、まあ率直に言うと、私は天皇に対する信愛の念を失ってすでに久しい。私はもちろん天皇を人間と思っているし、彼が天皇でなければすなわち路傍の人に過ぎない。天皇の職についておればこそいろいろ書いてもみるのだ。天皇にとってみれば、この私などは路傍の小石に過ぎまいが、私にとっては、天皇一家からずいぶん損害を受けている。戦争に引っぱり出され、青春を犠牲にし、物心両面の損害をうけている。私などはしかし軽い方かも知れない。生命を失ったり、言語道断の損害を受けた人が沢山ある。人間としての天皇に言うけれども、敗戦の時天皇は、自分の体はどうなってもいいから国民を救いたい、そういう意味のことを言った筈だ。国民が救われないのは、つまり天皇制に象徴されるような現実社会の機構である。もちろん私は天皇個人の意志や発言でこの機構がこわれるなどと、そんなあさはかなことは考えていないが、しかし周囲の悪者どもから利用されることへの人間的な抵抗が、その抵抗の表現が少しはあってもよかろう。ことにこの頃は、天皇制を支持し強化したがる連中の手によって、国民は塗炭の苦しみにおちている。塗炭の苦しみを味わいつつある人々の例は、ここに挙げるまでもなかろう。新聞を読めば毎日のように出ている。そういう国民の苦しみをほったらかして、莫大な金を費やして皇太子がロンドンに出かけたりしている。国民を救いたいという言葉は一体どうなったのか。

 船室のスピーカーを聞きながら、私はそんなことをうつらうつらと考えた。とにかく近頃の有様は少しひどい。逆コース逆コースなどと口先で言っているうちに、もう逆コースは国民やジャーナリズムの皮膚を通して、骨がらみになって来た気配さえある。皇太子渡欧のことだって、新聞や映画のあつかいぶりはどうだろう。乗船前私は新宿のニュース劇場でニュースを見た。皇太子渡欧のニュース映画なるものがあって、それを見ると、皇太子は全然出て来ない。いや、一場面だけ出て来るが、解説者が声を張り上げて、只今右上に映っているのが皇太子だとわめき、大急ぎで視線をそちらにうつしたら、もう消えてしまっていた。

これが皇太子渡欧ニュースだと銘打ってあるのだから恐れ入る。あまり国民をばかにしないでくれ。

 また別の某大新聞で、論説欄だったかな、皇太子の参観序列がヴェトナムとエチオピア(だったかな)の間であることを、怒っていたのがいた。我等の象徴がエチオピアの隣にいることが我慢出来なかったのであろう。これはこの記者の大へんな蒙昧(もうまい)さを暴露している。人間の上に人間を置き、あるいは人間の下に人間を置くという点で、この記者は人間というものを極度に侮辱している。人間を侮辱することによって、自分をも卑しめている。しかも自分を卑しめていることの自覚がないらしい。大新聞の記者にこういうのがいればこそ、ますます象徴は大手を振ってはびこるということになるだろう。こういう状態は打破しなければならない。国民がほんとに必要としているのは、こんな役にも立たない象徴ではなく、仕事あとの一杯の焼酎である。そのことをジャーナリズムは銘記せよ。

 旅先のこととて、資料もなければ辞書もないし、船酔いで頭は鈍くなっているし、こんな平明にして常識的な、誰もが感じ誰もが考えているようなことしか書けなかった。しかしこのことについては、いずれよく考え、新しい角度から、私なりに書いてみたいと思う。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年八月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「晏如(あんじょ)」安らかで落ち着いているさま。

「二十の扉」昭和二二(一九四七)年十一月一日から昭和三五(一九六〇)年四月二日まで、毎週土曜日の午後七時三十分から三十分間、NHKラジオ第一放送で放送された日本のクイズ番組。NHKラジオの看板番組・人気番組であった。詳しくは参照したウィキの「二十の扉」をどうぞ。さわりをこちらで聴ける。

「駒形のドジョウ屋」私の偏愛する「駒形どぜう」。浅草本店(支店は渋谷にしかない)の創業は寛政一三・享和元(一八〇一)年(第十一代将軍徳川家斉の治世)で今年(二〇一六年現在)で創業以来二百十五年となる。初代越後屋助七は武蔵国(現在の埼玉県北葛飾郡)の出身で、十八歳で江戸に出て奉公した後、浅草駒形に飯屋を開業、初代が始めた「どぜうなべ」「どぜう汁」に加え、二代目助七が「くじらなべ」を売り出すなど、商売はその後も順調に続き、嘉永元(一八四八)年に刊行された当時のグルメ・ガイドに当たる「江戸名物酒飯手引草」には同店の名が記されている(以上は「駒形どぜう」公式サイトの歴史の記載に拠った。そこにも記されてあるが、実は歴史的仮名遣では「どぢやう」又は「どじやう」が正しい。それを「どぜう」としたのは初代の発案で、開店五年後の文化三(一八〇六)年三月四日(グレゴリオ暦四月二十二日)に発生した「文化の大火」(明暦の大火・明和の大火とともにに江戸三大大火の一つとされる)によって店が類焼した際、『「どぢやう」の四(し:「死」)文字では縁起が悪い』と、当時の有名な看板書きであった「撞木屋(しゅもくや)仙吉」に頼み込んで「どぜう」と書いて貰ったことに由来する。これがまた評判を呼んで、店が繁盛し、江戸末期には他の店もそれを真似て、看板や暖簾を「どぜう」に書き換えたとされる)。ああ……本店にはもう……四年も行ってないな…………

「しかし私が残念でたまらないのは、なぜあの時米国が勇気を出して、あるいは自国の将来の利害を考えないで、天皇制を廃止してしまわなかったかということだ」私の高校時代の私の入っていた演劇部の顧問で世界史の教師は授業で、「天皇の首を切ることが出来たのはあの敗戦の時だけだった。もう、遅過ぎる。」と繰り返し如何にも残念そうに述べていたのを思い出す。

「弁慶蟹(べんけいがに)」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermediumウィキの「ベンケイガニ」によれば、インド洋・太平洋沿岸の『熱帯・温帯域に広く分布し、海岸の塩性湿地や川辺に』棲息する。成体は甲幅三・五センチ、甲長二・五センチほど。『頭胸甲は厚みのある四角形で、複眼の下の甲外縁に』二つの鋸歯を有する。『甲の背面は額の中央が窪み、他の各区域も溝で仕切られ、凹凸がある。「弁慶蟹」という和名は、甲のゴツゴツした質感を武蔵坊弁慶の厳つい形相になぞらえたものである。鉗脚は鮮やかな橙色だが、指部分は黄白色である。体と歩脚は橙色から褐色、灰褐色まで個体変異がある』。近縁種のベンケイガニ科 Sesarmidae のアカテガニ属『アカテガニ Chiromantes haematocheir はベンケイガニによく似るが、甲外縁に鋸歯がないこと、背甲の凹凸が低くて丸みがあること、鉗脚が橙色ではなく鮮紅色であることなどで区別がつく』。『日本では男鹿半島と房総半島以南で見られ』、『川辺の河原、土手、石垣、森林、草むらなどに生息し、東アジアではアカテガニや』アカテガニ属クロベンケイガニ Chiromantes dehaani と『同所的に見られる。ただし、アカテガニが水から離れた高所にも進出するのに対し、ベンケイガニとクロベンケイガニは水からあまり離れず、外敵から逃げる時などは水中に逃げこむことも多い。また、暗く湿った物陰を好み、日中に明るい場所に出ることはほとんどない』。『昼間は巣穴や物陰に潜み、夜によく活動する。食性は雑食性で、動物の死骸、小動物、植物など何でも食べる』。『繁殖期は夏で、この時期にはアカテガニと同様に抱卵したメスが海岸に集合し、大潮の満潮時に卵を海に放つ。直後に孵化した子はゾエア幼生の形態で、プランクトンとして海中で浮遊生活を送』り、一ヶ月ほどの間に五度、脱皮をして、『メガロパ幼生へ変態し、底生生活に移行する。メガロパは稚ガニへ変態して上陸、淡水域へ遡上・定着する』とある。

「天皇は一度自らの宣言によって人間となった」ウィキの「人間宣言」によれば、昭和二一(一九四六)年一月一日に官報により発布された昭和天皇の詔書「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」の通称。『当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。なお、人間宣言という名称は当時のマスコミや出版社が付けたもので、当詔書内には「人間」「宣言」という文言は一切ない』。『日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、詔書の主な目的だった。人間宣言については最終段落の数行のみで』、詔書の六分の一の部分に相当する。但し、『その数行も事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない』。以下、当該詔書全文を上記ウィキとは別に引用する(上記ウィキは当該段落のみの引用)。一部に平仮名で読みを振った。

   *

 新日本建設に関する詔書

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

 一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸(けいろん)ヲ行フヘシ

 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其ノ志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

 一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、敎養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノ蒙リタル戰禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者增加ノ趨勢等ハ眞ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、獻身的努力ヲ效スベキノ秋ナリ。

惟(おも)フニ長キニ亘レル戰爭ノ敗北ニ終リタル結果、我國民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、爲ニ思想混亂ノ兆アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。

然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きうせき)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶(ちうたい)ハ、終始相互ノ信賴ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ。

朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時艱(じかん)ニ蹶起シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇往センコトヲ希念ス。我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ氣風ヲ作興スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信賴スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ勵マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾(こひねが)フ。

   *

一部を語注すると、「詭激」とは「言動が異常に過激なこと」。「休戚」の「休」は「喜び」・「戚」は悲しみの意で「喜びと悲しみ・幸と不幸」の意。「時艱」その時代に於いて当面している難問題。以下、ウィキに戻る。『このGHQ主導による詔書により、天皇が神であることが否定されたとされる。しかし、天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった』。『この一文の本義は天皇と日本国民との絆は神話や伝説に基づくものではないというものである』。以下、「名称」「経緯」「社会的影響」等の項があるが、割愛する。その中で「詔書の起草に関わった人物の見解」の「昭和天皇」の項のみ、抜いておく。『昭和天皇は、公的に一度も主張しなかった神格を放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇の神聖な地位のよりどころは日本神話の神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。昭和天皇は自分が神の子孫であることを否定した文章を削除した。さらに、五箇条の誓文を追加して、戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ』。三十一年後の昭和五二(一九七七)年八月二十三日の『記者会見にて、昭和天皇は、神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだと述べた』。同会見で『記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについて、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と答えた』。『また、詔書のはじめに五箇条の誓文が引用されたことについて、以下のような発言をし』ている。『それ(五箇条の誓文を引用する事)が実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました』。『この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった』が、後の一九九〇年になって刊行された「側近日誌」により、実際には『GHQ主導によるものとしてほぼ決着した』。なお、昭和天皇が三十一年も後になって改めて『詔書の目的について発言した』ことについては、一部に『人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し』、一九七〇年に『自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする』指摘がある、とある。

「象徴」所持するCD-ROM版「広辞苑」(岩波書店・第五版)によれば、『ある別のものを指示する目印・記号。本来かかわりのない二つのもの(具体的なものと抽象的なもの)を何らかの類似性をもとに関連づける作用。例えば、白色が純潔を、黒色が悲しみを表すなど。シンボル。』とある。なお、同辞書には「象徴天皇制」の見出しがあるが、そこには、『日本国憲法の定める天皇制。そこでは天皇は日本国の象徴および国民統合の象徴であり、国政に関する権能を有しないとされる。』とある。ネット上の「大辞泉」(小学館)には、『抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと。また、その表現に用いられたもの。シンボル。』とあり、「大辞林」(三省堂)には(コンマを読点に代えた)、『直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること。また、その表現に用いられたもの。例えば、ハトで平和を、王冠で王位を、白で純潔を表現する類。シンボル。記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないものをいう。芸術において、直接的に表しにくい観念や内容を想像力を媒介にして暗示的に表現する手法。』とする。百科事典系の平凡社「マイペディア」には(コンマを読点に代えた)、『シンボル、記号、符丁。一般に直接知覚できない事象を類似性や隣接性にもとづいて具象化したもの。〈鳩は聖霊の象徴である〉。英語symbolなどはすべてギリシア語symbolonに由来し、原義は〈共に投げること〉、〈割符〉。』、「ブリタニカ国際大百科事典」の「象徴 symbol」の抜粋では(コンマを読点に代えた)、『ある対象を認識しようとする場合、この対象が不在であるか、あるいはなんらかの理由で直接には認識困難もしくは不可能であるとき、この対象となんらかの関係を有する第三者を直接認識して、この関係に基づいてその対象を間接に類推、認識することができる』対象を指す、といった内容が記されてある。

「石坂洋次郎の『若い人』」昭和八(一九三三)年八月から昭和一二(一九三七)年十二月まで『三田文学』に断続連載された、石坂洋次郎(明治三三(一九〇〇)年~昭和六一(一九八六)年)の出世作。当時、石坂は秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)の国語教師であったが、『一右翼団体が、その一部をとらえて、不敬の文言があるとして出版法違反で告訴』(不起訴処分。ここはウィキの「若い人」に拠る)、この一件で教員を辞職している(ここはウィキの「石坂洋次郎」に拠る)。私は同作を所持せず、読んだこともないが、幸い、大森郁之助氏の論文『石坂洋次郎「若い人」時局改訂版ノート――本文改訂の実体と付随する考察――』(PDFダウンロード可能)によって、細部が判る。それによれば、どうも、梅崎春生が「旅先で記憶が不確か」と言っている通りで、例えば、「修学旅行の女学生が宮城前で、天皇の日常についてそんな会話をするところ」は、ない。また、「戦時中この小説」が「当局の忌諱(きい)に触れて発禁になっ」てもいない(告訴状を受けて担当検事正の計らいを受けた作者による自主改訂はなされている)

「駅弁大学」ウィキの「駅弁大学」によれば、昭和二一(一九四六)年の『学制改革に基づいて新設され急増した新制大学を揶揄する呼称』。『当時、急行列車の停車する駅では弁当(駅弁)が売られていたが、それらの駅がある町には新しい大学があるという意味で』、『それ以前には帝国大学をはじめ稀少であった旧制大学に対して、ありふれたものである新設地方国立大学を嘲笑ぎみに呼んでいるものである』。『占領下の日本において連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導により行われた学制改革によって「一県一国立大学」が実現されたが、それに伴って新設されて急増した国立新制大学を諷刺した呼称である』。『実際には、一流とは言えない無個性の地方国立大学をイメージするものとして使われる』。『戦前のいわゆる旧制大学は』、明治一〇(一八七七)年に『お雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され』、明治十九年の『帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになり、その後、東京の組織を手本に京都帝国大学』(一八九七年)・東北帝国大学(一九〇七年)・九州帝国大学(一九一一年)・北海道帝国大学(大正七(一九一八)年)・京城帝国大学(一九二四年)・台北帝国大学(昭和三(一九二八)年)・大阪帝国大学(一九三一年)・名古屋帝国大学(一九三九年)が『各地に誕生した。なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。一方、その頃すでに』明治三六(一九〇三)年には『いくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとみなされた』。その後、『第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果』、大正七(一九一八)年に『公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった』。『第二次世界大戦で日本軍が敗れると、軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして、健全な知識階級の絶対数の不足が指摘され、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになった。しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。特に、教員養成課程は戦前中等学校レベルである師範学校が母体となったため「二階級特進」などと揶揄された』。『その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増し、ある程度の規模の都市にはどこでも国立大学があるような状態になった。大宅壮一はこれを諷して「急行の止まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言したとされる』とある。

「皇太子がロンドンに出かけたりしている」今上天皇である継宮(つぐのみや)明仁(昭和八(一九三三)年~)は昭和二八(一九五三)年三月三十日から同年十月十二日までの半年余りに亙って初の外遊をしている(ヨーロッパ十二ヶ国及びアメリカ・カナダ歴訪)。また、同年六月二日にはイギリスのエリザベス二世の戴冠式に昭和天皇(裕仁)の名代として参列している(参照したウィキの「今上天皇」によれば、この際、『地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った』とある)。梅崎春生が「参観序列」云々という新聞記事のことを言っているのは、この戴冠式の時の際のことだろうか?]

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