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2016/09/03

北條九代記 卷第九 律師良賢斬罪 付 讃岐局靈と成る

      ○律師良賢斬罪  讃岐局靈と成る

 

龜山院の御宇、弘長元年六月に、故三浦〔の〕義村が子息律師良賢は、伊豆の御山(おやま)に隱れて、年月を送りしが、譜代の郎從等が子息末孫(ばつそん)の輩(ともがら)、此處彼處(こゝかしこ)にありけるを、尋求(たづねもと)め聞出し、密(ひそか)に語集(かたらひあつ)めて、叛逆の計策を𢌞らしける所に、その事、露(あらは)れて、鎌倉にして生捕(いけど)られ、同類與黨を探出(さがしいだ)し、首を刎ねて、由比濱(ゆひのはま)にぞ梟(か)けられける。「謀叛人の一類は枝を枯(から)し、根を斷つべし、と申すは、この事なるべし。無用の仁慈を以て、政道を大樣(おほやう)にして、又、この騷(さはぎ)のありける事よ」と申す人も侍りき。是に依(よつ)て、鎌倉中、暫く靜ならざりしが、程もなく穩(おだやか)なりけり。同十月十五日、相摸守北條政村の息女、この日比より物怪(もののけ)憑きて、今日は殊更に狂亂(くるひみだ)れ、 樣々(さまざま)のことを口走りける間に、驗者を招きて、子細を責尋(せめたづ)ねければ、物怪、現れて、「我は比企判官能員が娘讃岐局(さぬきのつぼね)なり。常に恨(うらむ)ることありて、死して大蛇となり、頭に大なる角生ひて火炎の如く、熱さ堪難く、身の置所なく、苦みを受け、比企ヶ谷(やつ)の池の底に住むなり。此悲しさを如何にもして助けて給へや」とて誠に苦しげなる有樣なり。是を聞く人、身の毛よだちて、恐しさ限なし。相摸守政村、この爲に一日頓寫(とんしや)の法華經を書きて、讃岐局が跡を弔ひ、供養を遂げられ、若宮の別當僧正を導師として説法の最中に、彼の息女、苦しげに打臥して、舌をいたし、唇を舐(ねぶ)り、身を悶え、足を延べて、偏(ひとへ)に蛇身の出顯(いであらは)れて聽聞(ちやうもん)するかと覺えたり。僧正、近く立寄りて加持し給へば、惘然(ばうぜん)として眠るが如く、物怪(ものゝけ)は醒めにけり。抑(そもそも)この經は一代十二部の中に於いて經王(きやうわう)と定められ、五逆の調達は、天王如來の記莂(きべつ)に預り、八歳の龍女は、南方無垢の成佛を唱ふ。讃岐局、假令(たとひ)、業障(ごふしやう)重(おも)し、と云ふとも、今、この經王書寫供養の功德に依て、忽に苦道(くだう)を遁(のが)れ速に淨土に生れけん、貴(たつと)かりける御事なり。

 

[やぶちゃん注:前にある律師良賢の謀叛・処刑の事件は、「吾妻鏡」巻四十九の弘長元(一二六一)年六月二十二日及び同二十五日の条に基づき、後の北条政村息女に讃岐局の怨霊が憑き、供養が行われた一件は、「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年十月十五日及び同年十一月二十七日に記される出来事で、八ヶ月も前後齟齬しているので注意されたい。即ち、後半部冒頭の「同十月十五日」というのは誤りである

「律師良賢」(生没年未詳)ここに出る通り、兄三浦泰村が敗北した宝治合戦(宝治元(一二四七)年六月五日)で亡んだ三浦一族の内、落ち延びていた三浦義村の子(末子か)。文暦(ぶんりゃく)二(一二三五)年に律師となっており、通称は大夫律師良賢。

「御山」かく言った場合は普通、現在の静岡県熱海市伊豆山上野地(うえのじ)にある、頼朝と政子所縁の伊豆山神社一帯を指す。

「北條政村」北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)。文応元(一二六〇)年当時、満五十五歳。以下、ウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。義時五男で泰時の異母弟。母は継室伊賀の方。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。『しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』(下線やぶちゃん)。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ』、とある。ある意味で非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。

「息女」諸本、特に名を示さない。

「讃岐局(さぬきのつぼね)」(生没年未詳)比企能員の娘で鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻の一人で、同じく頼家の妻で嫡男一幡の母であった若狭局の妹と考えられるが、実は記録が少なく、或いは讃岐局と若狭局は姉妹ではなく、同一人物とする伝承(その場合は讃岐局ではなく若狭局とする)もある。建仁三(一二〇三)年九月二日に北条義時の謀略によって滅ぼされた比企能員の嫡子一幡と母若狭局は焼死(「吾妻鏡」での検証推定。「愚管抄」では、二人はこの時は落ち延びたものの、同年十一月、義時の手の者によって発見され刺殺されたとする)した。その他の妻妾や末子などは形式上は安房国に流罪となっている。ここでの怨みや祟りの場所から推理するならば(讃岐局を若狭局の妹として、である)姉らとともに焼死したか、或いは、その炎上の最中(さなか)に井戸或いは池に飛び込んで入水自殺したものと思われる(この霊の語りはまさにその光景をも如実に示すものである。若狭局同一人説では比企家の家宝を抱いて井戸(次注参照)に入水し、蛇と化してそれを今以って守っているとする)。そう断定して、文応元(一二六〇)年では実に五十七年も過ぎている。祟る相手としても父政村はお門違いも甚だしい。家族思いの政村にして如何にも不運なる憑霊であった。

「比企ヶ谷(やつ)の池」現在の比企邸跡に建つ妙本寺境内の池、或いは、ここで祭祀が行われたその近く(山門を入った参道の左手奥)にある蛇苦止明神の傍らにある蛇形井(じゃぎょうのい)かと思われる。この井戸は、一説に名越の松葉ヶ谷にある「六方の井」と通じているとさえ蛇体の主は、両井戸を往復しており、そこに居る時にはそれぞれの居る井戸の水面に漣(さざなみ)が立つと古くから言い伝えられている。

「頓寫(とんしや)」追善供養のために大勢の人が集まって一日で一部の経を完全に書き写すこと。「頓経」「一日経(いちにちきょう)」とも呼ぶ。

「若宮の別當僧正」鶴岡八幡宮別当隆弁(承元二(一二〇八)年~弘安六(一二八三)年)。

「舌をいたし」ママ。「致す」であってもおかしくはない(「ある動作をする・ある状態にする」の意ああるから)が、後で抄出するように、「吾妻鏡」は「出舌」であるから、「舌を出(い)だし」の濁点の落ちたものであろう。

「物怪」「もののけ」。

 

「一代十二部」十二部経。仏教経典の形態を形式・内容から十二種に分類したもので、

・「修多羅(しゅたら)」或いは「契経(けいきょう)」:教説を直接、散文で述べたもの

・「祇夜(ぎや)」或いは「応頌 (おうじゅ)」:散文の教説の内容を韻文で重ねて説しいたもの。重頌(じゅうじゅ)とも称する。

・「伽陀(かだ)」或いは「諷頌 (ふうじゅ)」:最初から独立して韻文で述べたもの。

・「尼陀那(にだな)」或いは「因縁 (いんねん)」:経や律の由来を述べたもの。

・「伊帝曰多伽(いていわったか)」或いは「本事」:仏弟子の過去世の行為を述べたもの。

・「闍陀迦(じゃたか)或いは「本生(ほんじょう)」:仏の過去世の修行を述べたもの。

・「阿浮陀達磨(あぶただつま)或いは「希法」:仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの。「未曽有」とも称する。

・「阿波陀那(あばだな)」或いは「譬喩(ひゆ)」:教説を譬喩で述べたもの。

・「優婆提舎(うばだいしや)或いは「論議」:教説を解説したもの。

・「優陀那(うだな)」或いは「自説」:質問なしに仏が自ら進んで教説を述べたもの。

・「毘仏略(びぶつりゃく)或いは「方広」:広く深い意味を述べたもの。

・「和伽羅那(わからな)或いは「授記」:仏弟子の未来についての証言を述べたもの。「記別」とも称する。

 

「經王(きやうわう)」経の王。最も尊い経文。

・「五逆」仏教では五種の最も重い罪とするもので、一般には父を殺すこと・母を殺すこと・阿羅漢(あらかん:尊敬や施しを受けるに相応しいまことの聖者)を殺すこと・僧の和合(仲よく親しみ合う切磋琢磨する僧衆教団の結束)を破ること・仏身を傷つけることをいい、一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。「五無間業」「五逆罪」とも称するが、ここは分かり易く、主君・父・母・祖父・祖母を殺す罪の謂いで採ってよい。

・「調達」ここは特殊な用法で、教育社版(一九九六年新装版)の増淵勝一氏の訳が分かり易い。『五逆』相当の『罪悪を犯した場合、これを取り除き』、『成仏させるのは』(下線部やぶちゃん)の下線部の意である。

・「天王如來」四天王のこと。仏教の世界観を示す四鬼神。須弥山の中腹の東西南北の四方に住むとされる、持国天(東)・増長天(南)・広目天(西)・多聞天 (或いは毘沙門天。北) を指す。元来はインド神話の神であるが、仏教に取入れられてからは仏法の守護神とされた。

・「記莂(きべつ)」底本頭書に『修行者の未來の證果を一々區別して豫言すること』とある。五逆の罪科の消滅の有無は四天王が予(あらかじ)め予言(その内容)に委ねられてはいるものの(だから、人間には不可知のことであるけれども)。

・「八歳の龍女は、南方無垢の成佛を唱ふ」前掲書で増淵氏は『八歳の龍女(りゅうにょ)は(『法華経』の功徳で男子となり)南無無垢(むく)の浄土へ成仏を果たした』と訳しておられる。言わずもがなであるが、仏教では差別的な変生男子(へんじょうなんし)説があり、女性は女性のままでは如何に功徳を積んでも女性のままでは、極楽往生出来ないことになっている。一見、奇異に思われるかも知れぬが、この話柄では「人間の女」から「蛇」になっているから、極楽王女が出来るのである。

・「讃岐局、假令(たとひ)、業障(ごふしやう)重(おも)し、と云ふとも」前掲書で増淵氏は『讃岐局はたとい(比企氏滅亡の折、幼君一幡君を死なせ申したという)』(「君」(頼家の跡継ぎとして第三代将軍となる予定の人物)を見殺しにしたので五逆となる)『現世での罪業は重いとはいうものの』と訳しておられる。

・「速に」「すみやかに」。

 

 以下、「吾妻鏡」を引くが、本篇に合わせて、時系列で前後するが、律師良賢の謀叛・処刑の事件を先にし、北条政村息女に讃岐局の怨霊が憑き、供養が行われた記事(「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年十月十五日及び同年十一月二十七日)の順に引く。但し、後者の「十一月二十七日」の条は当該記事のみ抄出。まず、「吾妻鏡」巻四十九の弘長元(一二六一)年六月二十二日及び同二十五日の条を繋げて示す(二条は原本では繋がってはいないので「*」を挟んだ)。

 

○原文

廿二日壬子。霽。未尅。諏方兵衞入道蓮佛。平左衞門尉盛時等。於龜谷石切谷邊。生虜故駿河前司義村之子息大夫律師良賢。是依有謀叛之企也。駿河八郎入道〔式部大夫家村子〕幷野本尼〔若狹前司泰村娘〕已下。其張本數輩云々。依之鎌倉中騷動。入夜近國御家人等馳參云々。

奥州禪門病惱今夕平愈。心神復本云々。

   *

廿五日乙夘。良賢事。被仰遣六波羅。爲鎭都鄙騷動也。其御教書云。

 大夫律師良賢〔若狹前司泰村舍弟〕依有謀叛

 之企。被召取其身訖。指無與力之輩候也。依

 此事。在京幷西國 御家人等令參向者。如先

 先可被止置也。隨無殊事之由。面々可被相觸

 者。依仰執達如件。

  弘長元年六月廿五日    武藏守

               相摸守

  陸奥左近大夫將監殿

今日。奥州禪門被遣馬幷南庭〔五〕釼等於若宮僧正坊。又室家生衣二。南庭三。絹三十疋。武州釼。南庭二等。同被遣之。依所勞之平減也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿二日壬子。霽(は)る。未の尅、諏方兵衞入道蓮佛・平左衞門尉盛時等(ら)、龜谷(かめがやつ)・石切谷(いしきりがやつ)邊に於いて、故駿河前司義村が子息、大夫律師良賢を生虜(いけど)る。是れ、謀叛の企(くはだ)て有るに依つてなり。駿河八郎入道【式部大夫家村が子。】幷びに野本尼【若狹前司泰村が娘】已下、其の張本の數輩、と云々。

之れに依つて鎌倉中、騷動す。夜に入りて近國の御家人等、馳せ參ず、と云々。

奥州禪門、病惱、今夕、平愈し、心神復本す、と云々。

   *

廿五日乙夘。良賢の事、六波羅へ仰せ遣はさる。都鄙の騷動を鎭めんが爲なり。其の御教書に云く、

 大夫律師良賢【若狹前司泰村が舍弟。】謀叛

 の企て有るに依つて、其の身を召し取られ訖

 んぬ。指(さ)したる與力の輩(やから)、無

 く候なり。此の事に依つて、在京幷びに西國

 の御家人等、參向(さんかう)せしめば、先

 先のごとく止め置かるべきなり。隨つて殊な

 る事無きの由、面々に相ひ觸れらるべしてへ

 れば、仰せに依つて、執達、件(くだん)の

 ごとし。

  弘長元年六月廿五日   武藏守

              相摸守

  陸奥左近大夫將監殿

今日、奥州禪門、馬幷びに南庭(なんてい)【五】。釼(つるぎ)等を若宮僧正坊に遣はさる。又、室家生、衣(すずし)二・南庭三・絹三十疋。武州、釼・南庭二等、同じく之れを遣はさる。所勞の平減に依つてなり。

 

少し注する。

・「未の尅」午後二時頃。

・「石切谷(いしきりがやつ)」こういう谷戸名は今に伝わらぬが、前に「龜谷(かめがやつ)」を並置しているところから、このごく直近の谷と判る。同切通しを下った西側なら「扇ヶ谷」、東側なら「泉ヶ谷」と称するはずでこれらの異称とは思われない。新編鎌倉志卷之四の「英勝寺」の項に、

石切山(いしきりやま) 歸雲洞の南なり。山下は石切場なり。【東鑑】に、龜が谷の石切谷(いしきりがやつ)とあり

 

というのがまさにこれで、これは英勝寺の南側の谷を指すと考えてよく、さすれば、ここは亀ヶ谷切通からそこを下り切った英勝寺南の谷辺りの謂いと採れる。

・「駿河八郎入道」三浦義村の九男で泰村の異母弟三浦胤村(嘉禄元(一二二五)年~永仁五(一二九七)年)。宝治合戦当時は奥州におり、捕縛されて鎌倉に護送されたが、助命されていた。調べる限りでは、ここでも捕縛されているものの、ウィキの「三浦胤村にその後、『親鸞聖人の弟子となり出家、明空房となり常陸国下妻に光明寺を開基したと伝わる』とあって、この後も三十年以上生きているから、この件でも無関係として赦されたと考えられる。二十五の教書に「指したる與力の輩、無く候なり」とある。

・「野本尼」北条時房の孫時景の妻。彼女の逮捕も、単なる用心のためであろう。詳細事蹟は伝わらぬが、系図から言っても処断だされたとは思われない。前注末も参照。

・「奥州禪門」北条重時(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)。但し、彼はこの四ヶ月後の十一月三日に亡くなっているから、この時の病気の再発が死因である可能性はある。なお、本件は良賢とは無縁の記事である。

・「武藏守」北条重時(義時三男)嫡男北条長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)。当時の執権。実際の権力は病が回復した隠居の時頼が握っていた。

・「相摸守」北条政村。当時は連署。

・「陸奥左近大夫將監」当時、六波羅探題北方であった北条重時三男であった北条時茂(仁治元(一二四〇)年~文永七(一二七〇)年)。

・「南庭」当時は輸入された良質の銀を指す語である。

・「生衣(すずし)」生絹(きぎぬ)。生糸(きいと)で織った絹織物。

・「若宮僧正坊」先に出た隆弁。

 

 次に「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年十月十五日及び同年十一月二十七日(後者は。頭に将軍の二所詣進発の行列で名簿が長々と続くがカットし、当該末尾部分のみを抄出した。二条は原本では繋がってはいないので「*」を挟んだ)。

 

○原文

[やぶちゃん注:十月。]十五日己酉。相州〔政村〕息女煩邪氣。今夕殊惱亂。爲比企判官女讚岐局靈祟之由。及自託云々。件局爲大蛇。頂有大角。如火炎。常受苦。當時在比企谷土中之由發言。聞之人堅身毛云々。

   *

[やぶちゃん注:十一月二十七日の条の末尾。]今日相州〔政村〕被頓冩一日經。是息女惱邪氣。依比企判官能員女子靈託。爲資彼苦患也。入夜有供養之儀。請若宮別當僧正爲唱導。説法最中。件姫君惱亂。出舌舐脣。動身延足。偏似蛇身之令出現。爲聽聞靈氣來臨之由云々。僧正令加持之後。惘然而止言。如眠而復本云々。

○やぶちゃんの書き下し文(〔 〕で時日その他を原文より補った)

〔十月〕十五日己酉。相州【政村】の息女、邪氣を煩(わづら)ひ、今夕、殊に惱亂す。比企判官が 女讚岐局の靈が祟(たたり)を爲すの由、自託(じたく)に及ぶと云々。

件(くだん)の局、大蛇と爲りて、頂(いただき)に大きなる角(つの)有り、火炎のごとく、常に苦を受く。當時、比企谷(ひきがやつ)の土中に在るの由、言(ごん)を發す。之れを聞く人、身の毛、堅(いよだ)つと云々。

   *

〔十一月廿七日庚寅。晴る。〕今日、相州【政村】、一日經を頓冩せらる。是れ、息女の邪氣を惱むは、比企判官能員が女子の靈託に依つて、彼(か)の苦患(くげん)を資(たす)けんが爲めなり。夜(よ)に入りて供養の儀、有り。若宮別當僧正を請じて唱導と爲し、説法の最中、件(くだん)の姫君、惱亂し、舌を出だし、脣(くちびる)を舐(な)め、身を動かし、足を延(の)ぶ。偏(ひと)へに蛇身の出現せしむるに似たり。聽聞(ちやうもん)の爲めに、靈氣、來臨するの由、と云々。

僧正、加持せしむるの後、惘然として言を止(や)め、眠るごとくにして復本す、と云々。]

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