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2016/09/22

佐渡怪談藻鹽草 靈山寺に大百足出し事

     靈山寺(れいざんじ)に大百足(むかで)出(いで)し事

 

 享保巳の年の程ならん。神無月の初(はじめ)、磯洋にめでゝ、仁木孫太郎【後に門右衞門秀致と言】同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟一僕を倶して、吹上の方へ、磯釣にまかりけるが、暫く釣竿を下し、いまだ魚の一ツも釣得ざるうち、海の上くろみ、北風烈敷(はげしく)吹來て、興も盡(つき)ければ、

「いさや、百姓町邊へ立歸(たちかへり)居て、氣色の荒增らば、ひたすらに歸りてん、若(もし)風止(やみ)雲も晴(はれ)なば、今一度竿を下して」

抔(など)いゝて、そこそこに調度したゝめて歸り、百姓町なる靈山寺に立寄(たちより)ければ、猶更、風雨烈敷(はげしく)吹(ふき)て、歸路も叶ひ難く、彼(かの)寺に暫く雨やどりして居たるに、庫裏より白髮の老人出て、たばこの火、茶抔すゝめ、

「住僧は、檀用に出られぬれど、御心なく、雨を晴(はら)し給へ。見苦敷(ぐるしく)候得共、庫裏への柴火にあて申(まうし)たし」

などゝ、念頃(ねんごろ)に饗應(もてなし)けるより、

「いざ」

迚(とて)、庫裏へ行(ゆき)て、ともに圍爐裏(いろり)取(とり)まき居たるに、彼(かの)老人語りけるは、

「此靈山寺に、『大百足住(すみ)居ける』と人每(ごと)に聞(きゝ)傳へたる斗(ばか)り、誠の蜈蚣(むかで)を見し人は、當時に此老人壱人(ひとり)、今は生殘(いきのこり)候程に、御夜咄の種に語(かたり)て聞(きか)せ申(まうす)べし。年號抔は忘れしが、思へば、七十年も昔なるべし。

 此翁五六歳の頃ならん。當寺へ手習にあがりて、同志も七八人にて、其頃の住僧、小兒を愛せられしより、手習の時刻過ても、皆々打より三ツ文學くさり、謎々抔の戲れに集(あつま)りぬるが、時節は初冬の頃にて、刈柴を高垣に繕ひ添へ、風をいとふ助とするに、其日も空くらみ、今日抔のごとく、濱風吹添(ふきそへ)たるが、いとゞ夕日も

『今や浪に落(おち)なん』

と思ふ頃、曇りて影も見へず、寺内は燈火たてゝも能(よき)程成(なる)が、座敷の次の明り障子赤く照りて見へければ、住僧打(うち)驚き、垣にゆひそへたる柴に徒ものゝ火や付(つき)てしも、あわて出て見れば、左はなくて、寺の後なる高き岩山の半過(すぎ)立(たち)登りて、橫に缺け込(こめ)たる樣に見べし處へ、ころの岩かどより、筋かひて四五間の間、大きなる百足、長さは知れず、幅は背の黑き處、弐尺餘りもあらん、と見えけるは、手は甚だ赤く、びらびらと餘光ありて、言(いは)ん方なく恐ろしきさまなれば、住僧走り入りて、件(くだん)の小兒共を、皆々つれ出て、

『語り種に能く見よ』

とて、見苦識(ぐるしき)體(てい)を見居たり。次第に奧の方へ入(いり)けり。當村の内にも、其時見たる人、五七人も有りけるが、十年斗(ばかり)先迄は、生(いき)殘りたるものもありしが、今は、此老人斗りにて候。其節、住僧の語られしは、

『六七十年は以前、大百足出たるよし、傳へ聞(きゝ)し』

など言れしをおもへば、最早六七十年𢌞りなれば、近年の内、又出候わん時、此物語、思(おぼ)しめしあわせ給へ」

となん語りぬ。

 

[やぶちゃん注:「靈山寺(れいざんじ)」浄土宗海岸山霊山寺。廃寺となって現存しないが、現在、ここ(佐渡市下相川の旧石切町内。石切町は、既に述べたが、金を含む岩石を擂り潰すための臼を作る石を切り出す石屋集団が居住していた)には百足山神大権現(百足神社)が建っている。ブログ「佐渡の翼」の「とある旅人」氏の投稿になる「百足山神社(佐渡下相川)」動画を見られたい。旧相川地区の寺社調査」(PDF)の「百足神社」によれば、明治一六(一八八三)年に県令に提出された「神社明細帳」に「安永三年九月朔日旧霊山寺の後の山石穴より一丈余りの百足出現せしにより鎮祭せし旨。従前見上権現と称し来る処』、明治一一(一八七八)年七月に改称したとある。現在の県道下相川の集落の外れのカーブから見上げた岩山の中段にある。

「百足」民俗学を学んだ人はピンとくるのであるが、百足は金を始めとする鉱物採取(個人的にはムカデの生態及び坑道の長く蜿蜒と続く支柱が百足の形状に酷似するとする説を私は強く支持している)や採取後の金属精錬の技術を持った集団との連関が非常に強い。ここ(佐渡金山跡の西直近である)ならではこそ、大百足は出現する、彼は物の怪ではなく、ある意味、金をシンボライズする聖獣なのである。お前の考えは眉唾だという輩のために、ウィキの「ムカデ」から以下を引いておこう。「甲陽軍鑑」に『拠れば武田家の金掘り衆は、トンネル戦法を得意とする工兵部隊で、百足衆と呼ばれたとも言われる。大蛇が河川を象徴し、砂鉄の採集や製鉄の技術者集団を表すことと比して、ムカデは地下坑道を掘り進み、自然金などの鉱石を採集する技術者集団を表しているという説がある』。

「享保巳の年」享保十年乙巳(きのとみ)。グレゴリオ暦一七二五年。

「神無月の初(はじめ)」新暦では一七二五年十一月上旬(旧暦十月一日はグレゴリオ暦で十一月五日)。

「磯洋」「いそひろ」と訓じておく。磯海。岩礁性海岸。

「めでゝ」磯海の景を好み、の意でとっておく。磯(釣り)に惹きつけられて、でも構わぬ。

「仁木孫太郎【後に門右衞門秀致と言】」既注。佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝の長男秀致。

「同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟」仁木秀勝の次男で仁木秀致の実弟高田六郎兵衛備寛(のぶひろ)。底本の本間純一氏の解題に以下のようにある。

   《引用開始》

 説話の中に登場する人物の中でも、高田備寛は、説話の収集者を考察する上で、特に注目に値する人物である。高田備寛(?~安永二年・一七七三)は、仁木彦右衛門秀勝(「上山田村安右衛門鰐を手捕にせし事」「堂の釜崩れの事」)の次男(長男の仁木門右衛門秀致は「蛇蛸に変ぜし事」「霊山寺へ大百足出し事」に名がみえる) で、高田六郎兵衛意正(「百地何某狸の諷を聞事」)のあとを継ぎ、奉行所の役人となった人物である。宝暦六年(一七五六)、佐渡奉行石谷清昌の命により、佐渡の実状把握のための文書である『佐渡四民風俗』 を編集した人物として知られる。塵竹と号して、俳詰も噂んだ。元文四年(一七三九)から八年の間に、実に五回も江戸詰の経験を持ち、見聞も広かった。備寛にまつわる説話の数とそれらの詳細な記述とあわせ、彼自身『佐渡四民風俗』編集に伴い佐渡各地を実地調査していた事実、そして豊富な江戸詰の体験を持つことなどから考えるに、備寛が「古人」[やぶちゃん注:これより前の箇所で本作の筆者を推理する中で本間氏は本作の序文に基づき、『「古人(未詳、奉行所の地役人と思われる)」が児童の手慰みとして、佐渡に伝わる古老の言い伝えなどをじかに見聞し、「証跡慥(たしか)なる怪談」を公務の寸隙に書き記していた。それを』、『「梅光主人/太庚」なる人物が取り集め』、『安永七年の冬(霜月)の日に『怪談藻塩草』と題して一冊の書物にしたとある』と記す中の「古人」を指す。]の説話収集に何らかの形で関与していた可能性が想定できる。あるいは「古人」=高田備寛の可能性も否定できないが、確証はない。

   《引用終了》

「吹上」既出既注であるが、再掲する。佐渡市下相川吹上は下相川のさらに北地区の吹上海岸。ここは金山で発掘した岩岩石を擂り潰すための臼を作るための石切場跡として知られる。

「いさや」感動詞。「さあて! まあ」。オケラの期待外れの気持ちを含んだもの。

「百姓町」通称の固有名詞。寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃の「町役銀取調書」には相川村を「羽田百姓町」「海府百姓町」と記しており、この前後には「下相川」の呼称が生まれたのではないかと考えられている。相川は元和三(一六一七)年の「屋敷検地帳」で百姓屋五十六軒、「佐渡国雑志」では家数七十棟とし、相川の南側を通称「百姓町」北側を「石切町」と称した(「新潟県」公式サイト内の「相川漁港(第1種 佐渡市管理)」(当該頁はリンクが許されていないので御自分で探されたい)に拠った)。

「氣色の荒增らば」「けしきのあれ、まさらば」。天候の荒れ様(よう)が、これ、さらに増すようならば。

「ひたすらに」(もう釣りは諦めて)ただただ、さっさと。

「歸りてん」「歸りてむ」(完了(確述)の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」)の表記変化。「帰ってしまうこととしよう」という強い意志の意、或いは次の仮定を考えるなら、もう少し弱く、「…してしまうのがよかろうぞ」(適当)の意。 

「調度」周囲の釣り道具類。

「したゝめて」整理して。片付けて。

「百姓町なる靈山寺」本来は北の「石切町」でないとおかしいが、この頃はその区別が厳然たるものではなかったか、或いは武士である彼らは「百姓町」「石切町」を特に区別していなかった(上位呼称で「百姓町」と総称していた)可能性も高い。

「七十年も昔」冒頭が享保一〇(一七二五)年(頃。確定限定ではない)であるから、明暦元・承応四(一六五五)年以前となる。第四代将軍徳川家綱の治世。

「此翁五六歳の頃ならん」以上の数値が正しいとすれば、この老人の生年は一六五一年か翌年、則ち、慶安四年又は承応元・慶安五年頃ということになる。家綱が征夷大将軍の宣旨を受けたのが慶安四(一六五一)年八月十八日のことであった。

「三ツ文學くさり」不詳。或いはこれは「三ツ文字(もじ)」の誤記ではあるまいか? だからと言って目から鱗となる訳ではないけれども、「謎々」遊びと並置し得る少年らの遊びで「三ツ文字」となると、私は俳句や川柳の「折句(おりく)」を直ちに想起するからである。即ち、三句構成から成るそれらの頭に一字或いは一音(冠(こうぶり))、又は句の最後(沓(くつ))に既定の一字或いは一音を織り込んで五七五を作る、「三つの文字を詠み込む遊び」である。但し、それを「三つ文字」と言うのを私は聴いたことは実際には、ない。しかし、それぐらいしか浮かばぬのである。それよりなにより「文學」は如何にもヘンでしょ。そうすると、「くさり」は「一(ひと)」「齣・闋」(接尾語:「鎖」と同源)文章・俳諧の一区切り。 或いはそれらの課題文字「三字」を繫げる・続けるの意の「鏈(くさ)る」で如何にも(私にとってはではるが)腑に落ちるのである。大方の識者の御叱正を俟つ。

「風をいとふ助とする」「風を厭ふ助(たすけ/じよ)とする」。

「燈火」「ともしび」と訓じておく。

「座敷の次の明り障子赤く照りて見へければ」妖怪大百足の二つの目が爛々と赤酸漿(あかかがち)の如くに照り映えているのである。こんな注を附したら、気がついたが、私はムカデでも大きな個体を小さな時から別に「ハガチ」と呼んでいた(小さなものは決してこう呼ばずにただ「むかで」と呼んでいた)。この語源、調べて見たが、誰も明らかに出来ていない。私は「ハ」は「歯」で鋭く大きな左右に開いた鎌のような毒腺を持った口器(顎肢)を、「ガ」は所有の格助詞、「チ」は「魑」で山の怪物の意(だからデカい)ではないかと勝手に考えている。

「徒もの」「いたづら者」。

「火や付(つき)てしも」「よりによって火でも点けたりしたのではあるまいか?」。「しも」はその文節を取り立てて示す副助詞(副助詞「し」+係助詞「も」が一語化したもの)。

「寺の後なる高き岩山の半過(すぎ)立(たち)登りて」ここは「寺の後(うしろ)なる高き岩山の、半過(なかばすぎ)」の箇所は、「立(たち)登りて」(岩がまるで立ち登るように真っ直ぐに聳えていて、の謂いでとる。

「橫に缺け込(こめ)たる樣に見べし處へ」その断崖絶壁状になった中央辺りに横に欠けてへこんだように見える棚状の細い箇所に。

「ころの岩かど」「(その附近の)小さな岩の角」の意でとっておくが、どうもおかしい。小さなものは「石ころ」であって「岩」ではないからである。この「ころ」は不審。何かの誤記ではなかろうか?

「筋かひて」「筋を搔きて」(或いは「筋を書きて」でもよい)が「筋を搔いて」(「筋を書いて」)となったものの、歴史的仮名遣の誤りか。筋を搔く(書く)が如くにずるずると立ち現われ。

「四五間」七~九メートル強。

「弐尺」六十・六センチメートル。

「手」唇脚、体節に一対左右に出る歩肢。ウィキの「ムカデ」によれば、現生種の場合(アラビア数字を漢数字に代えた)、『歩肢の数は分類群によって異なり、イシムカデ目、ゲジ目の成体は十五対、オオムカデ目では二十一又は二十三対、ジムカデ目では種によって異なり、二十七対から三十七対、四十一対、四十七対などを示し、多い種は百対を超し、百七十三対まである。ジムカデの歩肢対数には多くの個体変異が見られるが、発生による制約があるらしく、偶数対の歩肢対を持つ個体は稀な奇形である。最後の節には一対の尾脚=曳航肢と、改形類の雌では生殖肢がある』とある。なお、ムカデは節足動物門 Arthropoda多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda の属すが、以下のようにその下の二亜綱で「ムカデ」類は跨って分類されている。

ムカデ亜綱 Epimorpha

 ジムカデ目 Geophilomorpha

 オオムカデ目 Scolopendromorpha

ゲジ亜綱 Anamorpha

 ナガズイシムカデ目 Craterostigmomorpha

 イシムカデ目 Lithobiomorpha

 ゲジ目 Scutigeromorpha

なお、この大百足の現生種のモデルは色と形状からして本邦産の、

オオムカデ目 Scolopendromorpha オオムカデ科 Scolopendridae オオムカデ属 Scolopendraトビズムカデ Scolopendra subspinipes mutilans

と同定出来る(無論、言わずもがな乍ら、こんなに巨大にはならない)。ウィキの「トビズムカデ」によれば、体長は普通八~十五センチメートル、稀に二十センチメートル近くにもなり(三十六年前、鎌倉市岩瀬の私の住んでいたアパートの部屋に侵入してきた個体は二十センチを有に超えており、書棚の後ろを歩く際にザラザラと大きな音を立てた。沸かした湯を洗面器に張ってそれに菜箸で挟んで投げ入れて殺したが、それを戸外に捨てる際、湯が腕に少しかかった。翌日、その部分がみみず腫れとなったのが忘れられない)、『日本産ムカデの中では最大級。 体色に個体ごとの変異が多く、赤い頭に黄色い足を持つ個体や、朱色の頭と足を持つ個体など、様々なものが存在する』。『北海道南部から沖縄にかけて生息し、春から晩秋まで観察されるが暖地や屋内では一年を通して見ることもある』。『昆虫などにある幼虫や成虫などの区分は基本的にない(性的に未熟な個体を若虫、成熟した個体を成虫と区別することがあるが、判別が難しい場合も少なくない)。通常は朽木や雑木林の落ち葉の中などやや湿り気のあるところに生息するが、肉食性なのでゴキブリやバッタ、ガ、ネズミなど小動物を捕食するため、住宅地でもゴキブリなどムカデの餌になるものが繁殖している人家では餌を求めて侵入することがある(ただし、住居内で 産卵することはない)』。『節足動物の中ではシミなどと並んで比較的長命の種で、およそ』五年から七年ほど生きる。『繁殖期には雄が雌の住む場所に行き、雌と気があったのであれば雌を誘因物質で誘導し、精子の入った精筴を置き、雌はそれを尾部の生殖器で回収する』。『雌は小さな巣穴で』八十個『近くの卵を産む。卵は背に乗せ、地面に触れないように抱卵し、体を丸めて卵を守る。卵を絶えず舐め、カビが生えないように抱卵する。卵は、雌の抱卵行動がなければ孵化出来ない。また、刺激を与えられたり、天敵に襲われた際には、雌は抱卵行動を放棄し、卵を食べてしまう』。『孵化した幼体は二回ほど脱皮したら、親元を離れ、独立生活をする』。『本種の頭部にある顎肢には毒腺があり、それを刺すことで相手の体内に毒を注入することができる』(ムカデ類は全種が毒を持つ)。『本種は人の住環境、農地等にも生息・出没するため、人と遭遇することが多い。その結果、子供が興味本位で触れたり、就寝中の寝返りにより接触したり、農作業中に掴んだりした場合に人が刺されることがある。 毒はヒスタミン、セロトニン等のアミン類、また血球溶解作用(溶血性)を有するタンパク質が主成分である。これを体内に注入されると、激しく痛む(ムカデ咬症)。咬傷時には、早急に医療機関で診療を受けることが勧められる』。『衛生害虫として問題視され、アオズムカデがこの系統のムカデの中で一番毒性が強いともいわれる』。私の現在の家には日常茶飯に、この近縁種であるオオムカデ属アオズムカデ Scolopendra subspinipes japonica が侵入してくる。

「語り種」「かたりぐさ」。

「見苦識(ぐるしき)體(てい)」見るも忌(い)まわしい姿。

「其節、住僧の語られしは、『六七十年は以前、大百足出たるよし、傳へ聞(きゝ)し』など言れしをおもへば、最早六七十年𢌞りなれば、近年の内、又出候わん」この百足の化け物は六十年から七十年周期でこの地上に姿を現わす……というのである。それが、丁度、このまさに老僧の語っている頃である……というのである。「……近々、またしても出現致いた折りには、この拙僧の物語、お思い出しになられまするように……」……外は異様な風雨である……実に上手いコーダでは、ないか…………]

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