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2016/09/30

聴診器   梅崎春生

 

 どうも私は寒さがにが手だ。子供の時分がらそうであった。夏の暑さは平気だが、冬の寒さには手こずる。寒風を真正面に受け、裸の脛(すね)をさらしながら登校する。霜柱がごりごり立っている。あるいは粉雪が顔に吹きつける。そのつらさを、今でも私は実感をもって憶い出せる。

 暑さがきらいなのと、寒さをにが手とするのと、どちらが多いか知らないが、これは趣味やものの考え方で分れるのではなく、多分に体質的なものであるようだ。体質的だから遺伝する。私のおやじも寒がりだったし、うちの息子も寒がりだ。寒がりの上に、なまけものだ。(寒がりと怠けたがりにも何か関連があるらしい)

 うちの息子は小学校四年生である。毎日いやいやながら登校している。

「ちえっ。小説家なんていい商売だなあ。こんなに寒い日に学校に行かなくって済むんだから」

 その頃は私はまだぬくぬくと眠っているので、息子のせりふは耳に届かない。届けば怒るにきまっている。

「何を言ってんだ。おれがお前の歳ごろには、足袋も長靴下も禁止されていたし、手袋なんてもっての他だったんだぞ。今のお前は外套にくるまって、毛糸の手袋してんじゃないか。ぜいたく言うな。体じゅうを顔と思え!」

 しかしそんな精神主義は、今の子供に通用しない。体全部が顔だという発想は、今の子供には無縁なのである。

 息子は学校でクラス新聞を編集している。そのクラスから、新聞が二つ出ている。初めはひとつだったのに、分裂して二つになったのだ。仕事の分担や編集方針でもつれが生じて、一部の豆記者が叛旗をひるがえして、脱退して独立した。息子はその脱退組の方である。

「お前、首になったんじゃないのか?」

 つまり、のけ者にされてむかっ腹を立てて別の新聞をつくったんじゃないかと、おやじである私が心配して訊ねてみると、

「首じゃないよ。あんまり自分勝手をするから、追ん出てやったんだ」

 同志結合して別の名の新聞をつくった。競争紙が出来たわけだ。競争となると、励みがつくもので、息子も以前よりずっと新聞製作に熱心になったようである。私の家で編集会議などを開いたりしている。

 ところがどうも元の新聞の方が、級友たちには評判がよくて、息子たちのは成績が上らない。息子に命じて二紙を取寄せてみると、元の方が字(謄写版の)もきれいだし、よくまとまっている。息子の方のやつは、上りがきたないし、記事にとりとめがないのである。

 かくてはならじと発憤して(私がではない。息子たちがだ)新企画をもって対抗しようということに、編集方針が定まった。その手始めに、学校近くに住む有名な人の訪問記事を取ろうじゃないかと、相談一決して、最初に漫画家の手塚治虫氏の家に押しかけて行ったらしい。菓子を御馳走になったり、漫画の原画をもらったりして、息子は嬉々としてうちへ戻って来た。

「すごい家だよ。手塚先生の家は。地下室があるんだよ」

 息子は眼をかがやかせて報告した。

「庭が広くて、ずっと芝生になっていて、池があるんだ。そして僕たちがいる時、先生のお父さんが庭に出て――」

 池の金魚に餌をやったり、のんきに芝生に濱ころんで週刊誌を読んだりしていたのだそうだ。

 そこまではいい。そこでうちの息子は何を感じたか。それが私をおどろかせた。

「うらやましかったよ。僕も早くあんな具合に――」

 稼ぎのある息子を持って、自分は金魚に餌をやったり、芝生で昼寝したりするような境遇になりたい、というのがうちの息子の感想なのである。私はびっくりして反問した。

「お前だけがそう思ったのか?」

「いや。皆そう言ってたよ。あんな具合になりたいって」

 私はいくらか心細くなって来た。

「おれにはよく判らないけどね、早くあんな風に稼ぎのある人物になって、お父さん、つまりおれのことをだな、ラクをさせて上げようという風には、感じなかったのか?」

 息子はしばらく考えていたが、

「なるほどねえ。そんな考え方もあったか」

 精神主義だの立身出世主義が、近頃の子供に縁がないという、これは適例だろう。どうも私は、時代の裂け目に生れて来て、損をしたような気がしてならない。

 寒さから話は妙な方に飛んだが、つまり私は心境的にも体質的にも寒がりである。その実がりが、よせばいいのに、正月は信州に行って過した。そのために肝臓をいためたり、副腎に故障を生じたり、帰京しても流感にやられたり、いろいろ医師の厄介になった。私のかかりつけはM医師で、Mさんは私と同年の卯年(うさぎ)である。今年になって、数え切れないほど、胸や腹に聴診器をあてられた。ついに聴診器に食傷して、心やすだてにMさんに訊ねた。

「その聴診器、ぼくも欲しいんだけれど、いくらぐらいするんですか?」

「聴診器? 何に使うんです?」

「特別の目的はないんですがね」

「そうですねえ。昔は象牙を使ったりして高かったけれど、今は合成樹脂で安いですよ。五百円ぐらいかな」

「では、ひとつ、取寄せていただけませんか」

 特別の目的はないが、私は子供の時、あれが欲しくて欲しくて仕方がなかった。一体あれを使うと、どんな音が聞えて来るのだろう。またあれは子供にとっては、病気を退散させる権威の象徴みたいに感じられるものだ。

「そうですか。では取寄せましょう」

 というわけで、一週間後にあこがれ(?)の聴診器は、わが手に入った。代価は五百五十円。安いものである。

 早速裸になって、まず自分の心臓の音を聞いて、大げさに言うと、私は肝をつぶした。土砂くずれのような、落雷のような、大音響を発して、私の心臓は鳴りとどろいていた。頼もしいと思えば頼もしいが、気味が悪いという感じも、一面にはある。これは拡大された音であって、実際の音でない。という観点から、聴診器と文芸批評家の関連を論じようと予定していたが、残念ながら紙数が尽きた。次の機会にゆずろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年四月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。「卯年(うさぎ)」の読みは「年」の上半分までかかっているので、二字で「うさぎ」と読んでいると判断した。因みに梅崎春生の生年は大正四(一九一五)年二月十五日で、この年の干支(えと)は乙卯(きのとう)である。

「手塚治虫」(本名・手塚治 昭和三(一九二八)年~平成元(一九八九)年)はこの二年前の一九六〇年に練馬区谷原町(現在の練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てており、この前年(一九六一年)には自分の「手塚プロダクション」内に動画部を設立、本篇発表の年には、動画部を「虫プロダクション」と改名、かの名作「鉄腕アトム」のテレビ・アニメーション化に取り掛かっている(ウィキの「手塚治虫」に拠った)。]

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