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2016/09/16

譚海 卷之一 三州萬歳舞太夫の事

三州萬歳舞太夫の事

〇三河萬歳年始にくるもの、土御門家の證状を出さるゝ。夫(それ)をもちて關所等も往來しくる也。其證狀板行にせしもの也。萬歳一人ごとに帶する事にて、三年に壹度書替(かきかへ)あり。惣名代に一人證狀を集め持參(もちまゐり)上京し、新證文に引替歸る也。引替の時一枚に付銀壹兩づつ土御門へ指出(さしいだ)す事也。

[やぶちゃん注:この条は前条江戸曆商賣の者掟の事と土御門家で連関を以って書かれてある。概ね、賤民扱いされた流浪の芸能者が通行手形を持たずに土御門家の證文によって関所を難なく通行出来たというのは驚きである。これは彼らの年始に行う予祝行事という「ハレ」の儀式が、別格の特例として認められていたことを如実に示すものである。

「三州萬歳舞太夫」「三河萬歳」ウィキの「三河萬歳より引く。『三河萬歳(みかわまんざい)とは、愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される』。『特に、伝承地名により別所万歳(安城市)・森下万歳(西尾市)とも呼ばれる』。編成は『基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の』二人組で、『一般的には、太夫は風折烏帽子に素襖(素袍)、才蔵は侍烏帽子か大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)という衣装である。太夫は手に扇子か舞扇を持つ』。『江戸時代に三河出身の徳川家によって優遇されたため、江戸城や大名屋敷の座敷にあがり万歳をすることが可能であった。そのため太夫は武士のように帯刀、大紋の着用を許され、頭には風折烏帽子を、扇は中啓(能楽で使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先が広がっている)を用いた。これらの出で立ちは五位以上(一般の大名が任ぜられる位)の武士が、大紋を着用するための慣わしに沿ったものである。また才蔵も素襖を着用し、頭に侍烏帽子を着けた。太夫、才蔵共に足元を引きずる長い袴を着用する。西尾の森下万歳はこの形で演じられる』。楽器は『基本は才蔵が持つ小鼓だけを用いる』。『三曲万歳など、尾張系の演目の場合は三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木を使用する』。『安土桃山時代、国家の雇用人であった陰陽師が、弾圧や迫害を受け衰微し、その後』、文禄三(一五九四)年になって『豊臣秀吉がすでに民間の陰陽師となった』声聞師(しょうもじ/しょうもんじ/しょもじ:中世に存在した芸能者。陰陽師の文化を源流とした読経・曲舞・卜占・猿楽等の呪術的芸能や予祝芸能を行った。「唱門師」「唱聞師」「聖問師」「唱文師」「誦文師」などとも標記した。江戸時代に盛んになった「門付」芸能の源流でもあり、大和猿楽から発展して能楽に昇華、観阿弥・世阿弥をも生んだ。ここはウィキの「声聞師に拠る)に対して荒地開墾を命じ(確認された人数は百二十人余り)、『辛うじて生き残った多くが尾張(尾張国春日井郡清洲付近)に追いやられ、そして千秋万歳をおこし、それが尾張万歳として生き残り、現在の上方芸人、浄瑠璃、歌舞伎の基になったといわれ、歌舞伎は、京都で出雲大社の巫女が男装をして踊り、現代に引き継がれた』と、吉川弘文館「陰陽師と貴族社会」『繁田信一著によって記述されている』。また地域伝承としては、慶長三(一五九八)年の『豊臣秀吉の死後も、多くの声聞師が京や大坂に帰らず尾張に留まり、その中から三河に万歳を伝えるものがあったという。これは尾張万歳も起源を同一と見る説であるが、それぞれ三河万歳である別所万歳、森下万歳を伝承する地では、これとは異なった起源も地元では伝えられている』。以下、別所万歳と森下万歳の二流が記載されるが、本篇との関係から「別所万歳」の項のみを引く。室町時代の応仁の乱(一四六七年~一四七七年)を『逃れた尾張の熱田薬師寺の僧玄海が、長谷部郷(現・岡崎市西本郷町、安城市東・ 西別所町一帯)へ移り住んで、国家安泰と五穀豊穣の祈祷をして舞楽(礼楽舞)を奏したことが始まりと伝えられている。玄海は徳川家の前身である安祥松平家初代当主の安祥城主松平親忠の依頼に応じて矢除けの祈祷、万歳祝言などをして長谷部郷に』十五町四方(約二百二十五ヘクタール)の『土地を与えられ、そこを別所村と名付けた。その地名より別所万歳と呼ばれる。玄海の後を継いだ大行日吉法印(位牌から実在が確認)は、安祥松平氏に臣従し、矢除けの祈祷や万楽祝言を行い、万歳師を統括していった。徳川家康(安祥松平家六代当主)の関東移封以降、万歳師一党は、関東』十七ヶ国の『巡回の権利を獲得し、関東一円に旦那場を広げていく。江戸中期以後、万歳師は土御門家の支配下に入り、陰陽道職となった。万歳といえば、三河万歳といわれるようになるのもこの頃からで、江戸時代を通じて代表的な芸能に成長していった』(下線やぶちゃん)とある。

「土御門家」前項江戸曆商賣の者掟の事に既注。]

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