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2016/09/28

諸國百物語卷之二 十七 紀伊の國にてある人の妾死して執心來たりし事

   十七 紀伊の國にてある人の妾(めかけ)死して執心來たりし事

 

 紀伊の國松坂(まつざか)のしろをあづかりたる何がしのありけるが、妾をゝき、よなよな、路地口(ろぢぐち)より此をんなを、よびよせける。此をんな、いつも木履(ぼくり)をはきて、かよひけるが、二三年ほどへて、わづらひつき、つゐに、むなしくなりにけり。そのゝち、何がしは、この女と、とし月かたりし事ども、おもひ出し、夜もねられず、あかしゐたる所へ、さよふけかたに、くだんの女、いつものごとく、木履をはき、路地口より、きたるあしおと、しければ、何がし、ふしんに思ひ、どん張(てう)をあげてみれば、かの女、やせおとろへ、かみをさばき、路地口より、座敷へ、いらんとす。何がし、見て、

「さてさて、ひきやうものかな」

と、しかりければ、つかつかと、ざしきへあがり、何がしのかほを、つくづくと見て、どん張のうちへ、そのまゝはいる所を、何がし、刀をぬきて、きりはらいければ、いづくともなく、うせけるが、そのゝち、何がしも、わづらひつきて、死にけると也。

 

[やぶちゃん注:「紀伊の國松坂のしろ」伊勢国松坂(まつさか)藩の居城松坂城(現在の三重県松阪市殿町に城跡がある)。当初、古田氏が入部したが、二代で移封されて、元和五(一六一九)年より松坂は紀州藩領地の飛び領地となった。ウィキの「松坂城」によれば、元和五(一六一九)年、『古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。松阪城は当地を統括する城として城代が置かれた。城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、江戸時代前期の史料によれば』、正保元(一六四四)年に『天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった』。寛政六(一七九四)年には『二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた』とある。従って、本話を殊更に古田氏の時代に限定する必要はないが、しかし、先行する十五 西江伊予(さいごういよ)の女ばうの執心の事が佐和山藩初代藩主井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)の存命中のことのように暗に措定していること、次の「十八 小笠原殿(どの)家に大坊主(をゝばうず)ばけ物の事」が「慶長年中」と始まることを考えると、本話も松坂藩初代藩主古田重勝或いは第二代藩主古田重治(重勝の弟)の時代(孰れも慶長期を含む)を措定していると考えた方が自然ではある。

「あづかりたる何がし」留守居役。

「妾をゝき、よなよな、路地口(ろぢぐち)より此をんなを、よびよせける」一切、正妻が出てこない。しかし呼び寄せるとあるからには、彼の屋敷か別宅ということになる。別宅ととっておくが(どんなに鈍感な正妻でも、ぽっくりの音させて妾が忍んで来るのは「ちょっと待てい!」だろ!)、或いは、この男は未婚か男鰥(やもめ)で、この女と付き合っていたものの、女の身分が高くないために(留守居役であれば相応の地位の武士ではあるから)、正妻に出来なかっただけか? しかし、だったら、「妾を置き」とは言わないような気もする。識者の御教授を乞う。

「木履(ぼくり)」ぽっくり下駄。「ぽっくり」「ぼっくり」「こっぽり(下駄)」「おこぼ」など、呼称は地方によって異なる。参照したウィキの「ぽっくり下駄」によれば、『もともとは日本の町方の子女の履き物。舞妓や半玉、花魁や太夫につく「かむろ」の履き物でもあり七五三のお祝い履きにも使われる。最近では、結婚式や成人式にも用いられる』。『正式には、表と呼ばれる(竹の皮を編んだもの)ものが上面についているものだが、現在は高価になるため、上面を漆塗りで仕上げたものもある』とある。

「さよふけかた」「小夜更け方」夜の更ける頃合い。

「どん張(てう)」「緞帳(どんちやう)」。歴史的仮名遣は誤り。ここは厚地の織物で作った模様入りの布。帳 (とばり) などに用いる。或いは、夏か秋口頃(「夜もねられずあかしゐたる」という悶々たる感じは秋の夜長の雰囲気を感じさせはする。「淮南子(えなんじ)」にも「秋、士、哀しむ」ともある)で襖などは開け放って蚊帳状にそれを釣ってあったものかも知れぬ。

「かみをさばき」「髮を捌き」。ここは髪を左右前後に分け乱して、の意であろう。

「ひきやうもの」言いたいことがあるから亡霊となって出てきているのであろうに、黙って閨に入るとは何事か! 正面から私に立ち向かって何かを言うてみよ! それが出来ぬとは何と卑劣な奴じゃ! と亡霊に負けぬように言上げしたものであろう。私は思うのだが、ここで生きていた時と同じように、優しく声掛けしてやり、落ち着いて話をするように仕向けていたならば、或いはこの男、患って死なずにすんだかも知れぬと、ふっと思うのである。

「そのまゝ」間髪入れず。あっという間に。私は霊の動きとしては、これ、かなり近代的のものであるように感ずる。]

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