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2016/09/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(2) 鹿の家

     鹿の家

 

 諸國の獅子舞の作法を比較して見ると、是ほど面自く内外二樣の慣習の混同した場合も少ないかと思ふ。第一には二三食用の獸類を、日本語でシシと謂つたこと、是が偶然ながらも獅子舞の普及を容易ならしめて、この輸入舞樂の幾つかの特徴が段々に固有宗教の祭儀に採用せられることにたつた。カノシシ・ヰノシシの踊とても、最初から今のやうに手の込んだもので無かつたかも知れず、新舊の堺が判らぬといふよりも、或は犬部分が唐樣に改まつて居るのかも知れぬ。しかも其唐獅像の頭の上に、つい近頃まで角の痕跡が殘つて居た如く、氣を付けて見るとまだ色々の前代信仰が、却つて之に由つて保存せられて居たのである。

 例へば獅子舞が惡魔を攘ふと稱して、疫病流行の際などに村中を巡ること、是も獅子だから又こはいからと、今では手輕に考へられて居るやうだが、それは所謂大法會の獅子などの本來の目的では無かつた。伎藝に携はる者の地位系統、乃至は信仰上の條件などにも佛法からは解説の出來ぬものがあつた。村々のシシは通例三頭の連れ舞ひであつて、中ジシの役は重要であつた。牝牡相慕ふの狀を演ずる迄は石橋なども同じであるが、歌の章句には往々にして嶺の秋霧に妻を隱されて、戀ひ求めて得なかつたといふ悲みが敍べてある。卽ち大昔の牲祭(にへまつり)の式に伴うたかと思ふ淸哀の調が、尚幽かながら傳はつて居るのである。

 之を新秋七月の靈送(たまおく)りの頃に、行ふ土地の多かつたことも意味がある。新撰陸奧風土記に牡鹿郡鹿妻(かづま)村の口碑として、鹿の供養に此踊を始めたとあるなども一つの例で、其以外にも府縣に多くの鹿塚があつて、稍似通うた歌物語を傳へて居る。古くは津の國の夢野の鹿、萬葉集に採錄せられた乞人の吟、それから和泉式部の逸話と稱する、いかでか鹿の鳴かざらんの鹿の如き、久しい歳月を一貫して、我が文學も之によつて拘束せられて居た。卽ち一種國民共有の情緒とも名づくべきものが、鹿の死を繞つて成長しつゝあつたことを認めるのである。

 獅子舞の異國風が模倣せられる以前、我々は既にカノシシの頭を以て祭に仕へる習はしを持つて居た。是も同じく攝津國の昔話だが、原田の鹿塚の由來談の如きは、或程度まで津輕シシが澤の異聞を解説してくれるやうである。以前原田の社といふのは春日大明神の攝社であつて、毎年神職が奈良から來て祭をした。春日山の神鹿も之に伴うて來り、或時此地に於て殞れたと傳へられ、衡門(かぶきもん)の外に其塚があつた。其より以後は神像の材を以て鹿頭を彫刻し、每歳九月の朔日から九日迄の間、十一箇村の氏子の村を巡り渡すを以て神事としたといふのは、多分は曾て活きた獸を牽いて來た代りに、像を用ゐて古い記念を存したことを意味するのである。春日鹿島などの鹿を神使とした根原も、行く行くは亦此方面から明らかになつて來るであらう。春日では鹿が死ぬと、之を埋葬すべき一定の靈地があつた。西大寺の邊なる小山のある處で、神宮から人が出て法事を行うたと譚海には記して居る。

 京都でも淸水觀音の地内に鹿問塚があつて、堂創建に功のあつた鹿の頭を埋めたといふ口碑が傳はつて居る。斯ういふ話の一つ一つは、到底學問の資料とするだけに、取留めたものでも無いけれども、幾つかの例を比べて見るうちには、些しづゝ我々の不審を散ずることが出來る。古い獅子舞の頭が靈寶として獸寺に傳へられ、雨乞世直しに禱れば應驗があるといふなども、恐らく日本だけの昔からの信仰であつて、其が此伎藝を中繼として今日までは記憶せられたものであらう。近江の膳所の中庄の獅子森は、牛頭天王(ごづてんのう)獅子に乘つて此地に降りたまふといふ一説の外に、中古此邊に住んで居た鹿が死に、土人憐みてここに埋むとも言ひ傳へ、三州伊田の獅子舞塚なども、天子御惱の御禱りとして、六十六國に獅子頭を一つづゝ、下し賜はるともいへば、或は納められたのは獅子で無く鹿の頭で、それ故に實は鹿前塚だといふ説もあつたのである。

[やぶちゃん注:「攘ふ」「はらふ」。掃。払いのける。払い除く。

「三頭の連れ舞ひ」ウィキの「獅子舞」の「風流系の獅子舞」(「風流」は「ふりゅう」と読む。一人で一匹の獅子を演じる「一人立(ひとりだ)ちの獅子舞」で、中世末から近世初期にかけて成立した獅子舞の一つの系統を指す)によれば、『風流系の獅子舞は関東・東北地方に主に分布している』。一人が一匹を『担当し、それぞれが腹にくくりつけられた太鼓を打ちながら舞う。東北の一部には』七~八頭で一組の『鹿踊もあるが、もっとも多いのは』三匹一組の『三匹獅子舞であり、東京・埼玉などのかつて武蔵国と呼ばれた地域の農山村では一般的な郷土芸能・民俗芸能となっている』。三匹のうちの一匹は『女獅子(雌獅子)と呼ばれ、雄獅子が雌獅子を奪い合う女獅子隠しという演目を持つところが多い。伴奏は、篠笛と竹でできたささらという楽器である。「ささら」をする人は舞庭の四方に配置され、この楽器を奏する。「ささら」を欠く三匹獅子舞もある。起源は西日本の太鼓踊りあるいは陣役踊りといわれ、中心にいる数人が頭上のかぶり物を獅子頭に変えたものが始まりだろうという説が優勢であるが、東国の風流系の獅子舞はもっと古くからある日本古来の獅子舞であり、獅子頭(ししがしら)も本来は鹿や猪を模したものであったという説も根強い。獅子頭は通常木製(桐製)であり、獅子以外に竜頭のものや鹿頭のものもある』とある。

「牝牡」「ひんぼ」。雄と雌。

「石橋」「しやくつきやう(しゃっきょう)」で能作品の一つ。ウィキの「石橋(能)」によれば、『獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞が見物、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物である。なお後段の獅子の舞については古くは唐楽に由来し、世阿弥の時代には、猿楽や田楽に取り入れられていた』。『仏跡を訪ね歩いた寂昭法師(ワキ)は、中国の清涼山の麓へと辿り着いた。まさに仙境である。更に、ここから山の中へは細く長い石橋がかかっており、その先は文殊菩薩の浄土であるという。法師は意を決し橋を渡ろうとするが、そこに現われた樵(前シテ)は、尋常な修行では渡る事は無理だから止めておくように諭し、暫く橋のたもとで待つがよいと言い残して消える。ここまでが前段で』、『中入に後見によって、舞台正面に一畳台と牡丹が据えられ、後段がはじまる。「乱序」という緊迫感溢れる特殊な囃子を打ち破るように獅子(後シテ)が躍り出、法師の目の前で舞台狭しと勇壮な舞を披露するのだ。これこそ文殊菩薩の霊験である』。『小書(特殊演出)によっては、獅子が二体になることもある。この場合、頭の白い獅子と赤い獅子が現われ、前者は荘重に、後者は活発に動くのがならいである。前段を省略した半能として演じられることが多い。まことに目出度い、代表的な切能である』。『石橋は歌舞伎にも取入れられ、石橋物と呼ばれる作品群を形成するに至っている。演目としては、『石橋』(初期の作品でごく短いもの)、『相生獅子』(遊女がのちに獅子の舞を見せる華やかなもの)、『連獅子』(獅子の組合わせを親子に設定し物語性を持たせたもの)、鏡獅子など多数。いずれも牡丹の前で獅子の舞を見せるが、連獅子では間狂言を挟むなど大作となっている』。ここでは二頭立ての白獅子・赤獅子を雄雌と捉えたもの(孰れが雌雄かは説や地方によって異なるようである)。

「牡鹿郡鹿妻(かづま)村」郡名は「おしかぐん」と読む。現在の宮城県石巻市鹿妻。

「津の國の夢野の鹿」夢野(現在の神戸市兵庫区湊川の西)にいたという夫婦(めおと)鹿の伝説。「日本書紀」仁徳三十八年の条や「摂津国風土記」に見える。昔、夢野に夫婦の鹿がおり、牡鹿には淡路の野島に妾(めかけ)の鹿がいた。牡鹿はある夜、自分の背に雪が降り、薄(すすき)が生える夢を見た。牝鹿は妾のもとに通うのを妬んでいたので、この夢を射殺されて塩漬けにされる前兆の夢だと占って、野島に行くのを止めた。しかし、牡鹿は妾の鹿恋しさに野島へ向かい、その途中の海で船人に見つかり、射殺された、という伝承である。「日本書紀」の当該部(「卅八年春正月癸酉朔戊寅」の末尾)を引く。

   *

俗曰、「昔有一人、往菟餓、宿于野中。時二鹿臥傍、將及雞鳴、牝鹿謂牝鹿曰、『吾今夜夢之、白霜多降之覆吾身。是何祥焉。』。牝鹿答曰、『汝之出行、必爲人見射而死。卽以白鹽塗其身、如霜素之應也。』。時宿人、心裏異之。未及昧爽、有獵人、以射牡鹿而殺。」是以、時人諺曰「鳴牡鹿矣、隨相夢也。」。

   *

我流に訓読する。

 

俗(よのひと)の曰く、

「昔、一人、有りて、菟餓(とが)に往く。野中に宿す。時に二鹿、傍らに臥す。將に雞鳴(あかとき)に及び、牡鹿、牝鹿に謂ひて曰く、

『吾、今夜、夢之(みら)く、白き霜、多く降りて、吾が身を覆ふと之(み)つ。是れ、何の祥(しるし)ならむ。』

と。牝鹿、答へて曰はく、

『汝の出で行かむとき、必ず人の爲に射られて死なむ。卽ち、白き鹽(しほ)を以つて其の身に塗らるること、霜の素(しろ)きがごとき應(しるし)なり。』

と。時に、宿れる人、心の裏(うち)に之れを異とす。昧爽(あけぼの)に及ばざるに、獵人(かりびと)有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以つて時の人の諺に曰く、『鳴く牡鹿も、隨相夢(いめあはせ)や。』

と。

 

最初の「菟餓」は「菟餓野(とがの)」で、摂津国八田郡菟餓野、或いは、ここに出る夢野などとも比定するが、未詳の地名。「摂津国風土記」では舟人に射殺されている。また、西行の「山家集」の「上 秋」の部に、

 

   曉ノ鹿

 夜を殘す寢覺(ねざめ)に聞くぞあはれなる夢の鹿もかくや鳴くらん

 

とあるのは本伝承に基づく。この歌は西行晩年のものと思われ、寂寥に満ちた〈老いの寝覚め〉の一首である。

「萬葉集に採錄せられた乞人の吟」「乞人」は「ほかひびと」で門付を行って金品を乞うた、差別された芸能者のこと。「万葉集」「卷第十六」にある「乞食者の詠(うた)二首」の最初の方の長歌(三八八五番歌)。引用は昭和五八(一九八三)年講談社刊文庫中西進版「万葉集」の訓読を参考に恣意的に正字化したものである。

 

愛子(いとこ) 汝背(なせ)の君 居り居りて 物にい行くとは 韓國(からくに)の 虎とふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち來(き) その皮を 疊に刺し 八重疊 平群(へぐり)の山に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間に 藥獵(くすりがり) 仕(つか)ふる時に あしひきの この片山(かたやま)に 二つ立つ 櫟(いちい)が本(もと)に 梓弓(あづさゆみ) 八つ手挾(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挾み 鹿(しし)待つと わが居る時に さ牡鹿(をじか)の 來立(きた)ち嘆かく 頓(たちまち)に われは死ぬべし 大君に 我れは仕へむ わが角は 御笠のはやし 我が耳は 御墨(みすみ)の坩(つぼ) わが目らは 眞澄(ますみ)の鏡 わが爪は 御弓(みゆみ)の弓弭(ゆはず) わが毛らは 御筆(みふみて)はやし わが皮は 御箱(みはこ)の皮に わが肉(しし)は 御鱠(みなます)はやし わが肝(きも)も 御鱠はやし わが胘(みげ)は 御鹽(みしほ)のはやし 耆(お)いぬる奴(やつこ) わが身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申し賞(はや)やさね 申し賞やさね

  右の歌一首は、鹿の爲に痛(いたみ)を述べて作れり。

 

やりだすと終わらなくなるので特に注さないが、個人ブログ「磐座亭(いわくらてい)の毎日ナンダカナーブログ」の「『万葉集』をよむ(7) 乞食者の歌③」が通釈と複数の解釈説も紹介してあってよい(訓読は中西版とは異なる)。必見。

「和泉式部の逸話と稱する、いかでか鹿の鳴かざらんの鹿」「後拾遺和歌集」の「卷第十七 雜三」に載る和泉式部の一首(九百九十九番歌)、

 

   丹後國にて、保昌あす狩(かり)せんと

   いひける時、鹿(しか)の鳴くを聞きて

   よめる

 ことわりやいかでか鹿の鳴かざらん今宵ばかりの命と思へば

 

柳田の言う「逸話」とは、「古本説話集」の「帥宮通和泉式部給事 第六」(「帥宮」とは「敦道親王」のことで式部の夫藤原保昌ではないので注意)の章中などに載せるエピソード。「古本説話集」のそれを示しておく。

 

保昌に具して、丹後へ下りたるに、

「明日狩りせむ。」

とて、者ども集ひたる夜さり、鹿のいたく鳴きゐたれば、

「いで、あはれや。明日死なむずれば、いたく鳴くにこそ。」

と、心憂(こころう)がりければ、

「さ、おぼさば、狩、とどめむ。よからむ歌を詠み給へ。」

と言はれて、

  ことわりやいかでか鹿の鳴かざらん

     今宵ばかりの命と思へば

さて、その日の狩りはとどめてけり。

 

「攝津國の昔話」「原田の鹿塚の由來談」「鹿塚」は「ししづか」と読む。現在の大阪府豊中市中桜塚にある原田神社に伝わる本文に記される伝承。同神社には現在も「原田神社獅子神事祭」があり、獅子頭は「おてんさん」と呼ばれているとある(ウィキの「原田神社を参照されたい)。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の管理番号6000005002の答えが非常によいので参照されたい。

「殞れた」「たふれた」。死んだ。

「衡門(かぶきもん)」冠木(かぶき:鳥居や門の上方にあって両方の柱を貫く横木)を渡した屋根のない門であるが、ここは鳥居の意であろう。但し、神仏習合であったから、或いは、鳥居であなく山門様の粗末なそれ(通常「衡門」(音「コウモン」)と書くと粗末な門・貧しい者或いは隠者の住居などを指す)があったのかも知れぬ。

「春日では鹿が死ぬと、之を埋葬すべき一定の靈地があつた。西大寺の邊なる小山のある處で、神宮から人が出て法事を行うたと譚海には記して居る」「西大寺」現在の奈良県奈良市西大寺芝町西にある真言律宗勝宝山西大寺。春日大社の西六・五キロほどの位置にある。ここにある記事は「譚海」を管見したが、見当たらない。題名も巻も示しておらず、何時もの柳田にしてはどうもこの章全体で不親切である。海」電子化ってい(但し、未だ巻一途中)ので、発見し次第、ここに追記する。

「鹿問塚」底本も、ちくま文庫全集版も「問」であるが、これは「鹿間塚」の誤りと思われる。実際、「鹿問塚 清水寺」の検索ワードでは一つも掛かってこないからである。サイト「京都寺社観光案内」の清水寺」に、「鹿間塚(しかまづか)」として写真を載せ、そのキャプションや本文によると、『鐘楼の西にある。田村麻呂が』妊娠していた妻の薬にするために鹿狩りに出た『が、妊娠した牝鹿だったという。その鹿をこの地に葬ったという。また、神の使いの鹿が』清水寺開山となる『延鎮のために、伽藍建立に際して一夜で平地にした。その鹿を葬ったともいう』とある。本文の方では狩りに出た田村麿が『山中で延鎮に出会い、狩を止めてこの地に寺を建立し、安産祈念せよと諭された。だが、辺りは岩山で平地がない。観音菩薩に祈願すると、一夜で多くの鹿が現れ蹄で岩を砕き更地にした。その後、多くの鹿が死んでしまう。田村麿は、観音に礼を申し、塚を造り鹿たちの霊を弔った』と解説する。

「近江の膳所の中庄の獅子森」「膳所」は「ぜぜ」、「中庄」は「なかのしよう(なかのしょう)」で、現在の滋賀県大津市膳所の南東直近にある大津市中庄。しかし「獅子森」という地名や森は現存しないようである。識者の御教授を乞う。

「牛頭天王」本邦の神仏習合神。ウィキの「牛頭天王によれば、『釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ』、種々の民間信仰と複合的に習合し、『薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた』。『京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた』。

「三州伊田の獅子舞塚」地名も塚も不祥。識者の御教授を乞う。

「納められたのは獅子で無く鹿の頭で、それ故に實は鹿前塚だといふ説」「前」は面で首の謂いであろう。]

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