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2016/09/21

道路のことなど   梅崎春生

 

 この一月、私はよく動いた。もともと動くことはそう好きではないので、こんなことは私にとって異例である。二日の旅行には後二日の休養、一週間の旅行には一週間の休養、それが必要なのに、ほとんどその暇もなく、蟻のようにせっせと動き廻った。北海道旅行、帰ってから直ぐ鬼怒川五十里(いかり)ダムの見学、本因坊対局観戦、その他私用であちこち。そのために使用した乗物は、鉄道、バス、乗用車、電車、船舶、トラック、飛行機其他である。

 動き廻っていろいろなものに触れたので、すこしは勉強にもなったが、やはり疲労の堆積(たいせき)のため注意散漫になり、大部分は雲烟過眼(うんえんかがん)の状態だったようである。とにかく旅慣れない者にとって、旅は疲れる。しかも暑い。今述べた乗物の中で、一番疲れを強いたのは、バスのたぐいである。バスそれ自身はいいのだけれども、道路が悪いので、大へんに揺れた。比較的よかったのは飛行機と鉄道。飛行機は距離の割に乗っている時間が少ないので、一番楽であった。楽というのは肉体的に言うのであって、経済的な意味からすればこれが一番楽でない。こいつに乗るために借りた金がまだ戻せずにいるほどだ。

 釧路(くしろ)から阿寒に入る。ここは鉄道がないので、自動車で入る他はない。私たちは釧路市の弘報車で入った。釧路市観光課の招待だから、そこの車を出してくれたのだ。弘報車というのはスピーカーなどを坂り付けて、市民の啓蒙宣伝をして廻る車だから、ドライブ用には造られていない。頑丈ではあるが、相当に揺れる。それに釧路から阿寒への道路が、あまり良好ではなかった。今年は北海道は冬が長く、私たちが行った時はタンポポの花盛りであった。ここのタンポポは全く大柄である。多摩川あたりのそれに比べて、約三倍の背丈と太さを持っている。今度の北海道旅行で、この大タンポポが一番印象的であった。タンポポは良かったが、そのタンポポにはさまれたバス道路が相当の難路であった。雪解けと同時に地盤がゆるみ、あちこち出来た凸凹を、まだほとんど修理してない。それに加うるに、この弘報車の運転手が、運転はなかなかうまいのだが、とかくスピードを出したがる癖のある人だそうで、私は最前席に腰掛けていた関係上、計器などを眺めることが出来たが、時にはその時速が八十キロを越した。口では八十キロというけれど、実際に乗ってみるとこわいようなものである。

 誰も知っているようにバス類は、後ろの席になるほど揺れがひどい。最前席の私でさえ、しつかと真鍮(しんちゅう)棒を握っていても、身体がおのずからぴょんぴょんと跳躍する。後方席の人々は大変なものだっただろう。阿寒までこの調子で、大体四時間ぐらいかかるのだが、そういう緊張の連続で、身体は疲労するし神経はささくれ立つし、阿寒に着いてもあまり風光も眼に入らないふうであった。あたら阿寒の名勝も、道路のために五割がた損をしている。その夜は阿寒の宿に泊って酒などを飲んだが、一行の気持が少しこじれていたせいか座が荒れて、同行のれいの新宿の田辺茂一さんあたりは、ついに取っ組み合いの喧嘩までした。喧嘩それ自身は社会時評にならないが、気持のこじれの原因の一部分がこの悪道路にあるとすれば、少しはかかわりがあるだろう。極言すればこの喧嘩も、幾分かは政府の罪なのである。

 阿寒は観光地として割に設備はととのっているが、その設備の費用の幾分でもさいて、道路造りに廻せばいいのにと思う。近頃の日本人は道路については割に無関心らしい。阿寒道路は、観光路兼木材搬出路だから、それで一般を律するわけにも行かないが、大東京の道路だって相当にひどい。道路があってその両側に家があるのではなく、まず太初に家があって、その家々の間隙が道路ということになる。道の出来方がふつうと逆なのである。敗戦後、あちこちの焼跡にバラックやマーケットがぞくぞくと出来たが、その成立の過程を眺めて、私は日本人の道に対する考え方をはっきりと納得した。そんな具合にして出来た道路であるから、道路本来の性格を欠如して、排水も不完全だし、凸凹はあたりまえ、雨が降ればぐしゃぐしゃになってしまう。こういう悪道路に対して、私たちの祖先は、アスファルトや木煉瓦を発明するかわりに、足駄とか高下駄を発明し、下駄にかぶせる爪皮の類を発明した。その後自動車というものが輸入されると、自動車の車輪の横にぶら下げる泥よけの類を発明した。すべて日本人の考えることは、その根本治療ではなくて、常に姑息(こそく)な対症療法なのである。便所がくさい。では水洗便所、とは考えない。臭気止めの玉などを考案してごまかそうとする。蚊が出ると、蚊帳(かや)を発明して、その蚊帳を本麻にして見たり、ぼかしを入れたりしてたのしんでいる。あるいは蚊取線香を発明して、蚊を部屋から追い出すことしか考えない。DDTの如き着想は日本人の頭には宿らないのである。この傾向は今の為政者のやり方にも歴然とあらわれている。

 国土建設週間というのがあって、建設省から招かれて、鬼怒川の五十里ダムの見学に行った。東京駅からバスで出発。このバスはなかなか上等のバスで、前記弘報車とくらべものにならなかったが、そこはそれ泥道の足駄で、いくら足駄が上等でたとえ金蒔絵(まきえ)でも、道が泥んこでは致し方ない。阿寒路にくらべれば、さすがに関東の道路は良好であったが、それでも坦坦砥(たんたんと)の如しという状態からははるか遠かった。幹線道路がこんな風であるから、その他は思いやられる。その行程は東京都、千葉県を経て、ちょっと茨城県の端をかすめ、それから栃木県に入る。東京都、千葉、栃木の道路整備は一応行き届いていたが、可笑(おか)しなことには茨城県の道路が全然未整備である。何故かと言うと、この道路は茨城県の辺境をかすめるだけで、つまりその道を整備することによって茨城県は何も得をしないのである。得もないところに何で金を使う必要があるかという気持なのだろう。だからこの県をかすめる十五分間は、さすがの上等バスが大滞れに揺れた。栃木県の土木課長(?)が同じバスに同乗していたが、これは私の方の管轄(かんかつ)ではないんで、と言いながら、涼しい顔で揺れていた。そんなセクト的な考えを止めて、どうにかならないものかねえ。

 途中利根川の大堤防で昼食をとったが、まあこの利根川も時々氾濫する。そして堤防が決潰する。たとえばその決潰場所が千葉県側だったとする。水が引いて、そこをがっしりと補強する。すると対岸の茨城県側が、今度の出水を予想して戦々兢々(きょうきょう)とする話。すなわち出水があれば、どこか決潰するように運命づけられているから、千葉県が補強すれば、今度の決潰は俺たちの番だというのである。この話は、家に行商にやって来る千葉の女からも聞いたから、本当なのだろう。しかしどうもこの話はおかしなところがある。すなわち両岸を盛大に補強すればいいではないか。そうすれば水は素直に海へ流れて行く筈だ。こう言えばお前のは素人(しろうと)考えだと、誰かが言うだろう。素人考えであることはよく承知しているが、こんな素人考えが今の日本に必要であることも私は承知している。初心を忘れてはいけない。

 鬼怒川温泉から川治までの道は、山腹の崖を切り開いてつくった山道。これは日本各地で見られるが、非常に狭い道で、自動車がすれ違う時は、膚(はだ)に粟が生ずる趣きになっている。一度二度使うのではなく、永久に使うものだから、もうちょっと道幅をひろげるといいのにと思う。ぎりぎりのすれ違いと来ているから、ここらはもっぱら運転手の技倆(ぎりょう)の見せどころとなっている。物量の不足を、技倆と精神力でおぎなおうとした旧日本軍隊の伝統は、形を変えてこんなところに生きている。それは精神の豊かさよりも、むしろ貧しさを意味するのだ。どんな下手な運転手でも危険なくして行けてこそ道路と言えるのだ。危険の余地を残しているのは、日本人特有の人命軽視の考えのあらわれだろう。また運転手の運転方法も、外人のそれにくらべて、我流の乱暴さがあるように思われた。

 釧路から札幌に来て、疲労はなはだしく、もう旅行もいやになったから、飛行機で帰ろうと衆議一決した。私は生憎(あいにく)囊中壱千円ぐらいしかなく、止むを得ず新聞社に借金を申し込み、やっと飛行機代を調達した。札幌から東京まで、飛行機代は一万二百円である。正確に言うと、札幌から千歳までのバス代、千歳から羽田までの飛行機代、羽田から銀座までのバス代である。飛行機上の時間は約三時間であるが、両方のバス車上の時間が二時間余りかかる。結局札幌から五時間余りかかることになるが、その半分近くがバス時間であることは、何だかバカバカしいような気がする。バカバカしいけれども仕方がない。

 札幌から出たバスは、黄塵万丈(こうじんばんじょう)をついて疾駆した。この道路は割に良いけれども、もうもうたる砂塵のため、窓はしめ切りである。二台のバスのうち、生憎と後車に乗ったのが運の尽きであった。たびたびの経験で、何はともあれバスには前方に掛けることにしているから、揺れの方はこたえないが、暑さと空気の溷濁(こんだく)には参った。一時間半ほどで千歳の町に着く。

 基地の風景に私は未だ接したことはなく、この千歳が初めてであるが、なるほど大へん異様にして荒涼たるものである。板を打ちつけたような粗末な家が両側に並び、町を歩いているのは、米兵、日本保安隊員、れいの女性たちで、何だか人と人とのつながりが全然ないような、荒涼としか言えないような隔絶した雰囲気である。その中をバスは通り抜けて、飛行場に入る。

 この飛行場の正門を入ったとたんに、運転手の運転の仕方が俄然変化した。今まで乱暴に運転していたのに、とたんに用心深くなって、たとえば十字路に来ると、両側は見通しであるにもかかわらず、きちんと停車して左右をうかがい、それからそろそろと動き出す。まったく正確に規則通りなのである。よっぽど米軍からいためつけられたらしい。運転手のみならず、バスの車体それ自身がおどおどした表情で動く。私はすこし腹が立って来た。今まで乱暴な運転をしたのにここではおどおどしている、そのことに腹が立ったのか、あるいはここではおどおどしてるのに先刻まで乱暴に車を動かした、そのことに腹が立ったのか、自分でもよく判らないが、とにかく不愉快でむしゃくしゃした。それからいよいよ待合室に着くと、私たちが来るべき飛行機がまだ東京から着いていない。一時間余り待たされた。遅延するならするで、あらかじめ判る筈だから、札幌の方に連絡すればいいのに、日航事務員はそんなことはしない。待たしたって結局乗せりゃいいんだろう、そんな表情で済ましている。小役人みたいなやり方だ。

 飛行機に乗ったのはこれが生れて初めてであるけれども、どうも飛行機に乗るような人種はいやなところがある。つき合いかねるようなのばかりだ。汽車で一番感じの悪いのは、特別二等車の客であるが、飛行機のはもっと感じが悪い。私もそこに乗ったんだから、この私も含めてもいいが、とにかく説明出来ないような厭らしさがある。この厭らしさはどこから来るのか、いずれよく考えるとして、この三時間の飛行は少しは揺れたけれども、快適であった。バスよりははるか良好である。空路には泥んこ道もなければ、凸凹もないからだろう。もっともそれに代るいろんなものが、悪気流やエアポケットのようなものがあるらしいが、私の場合には幸いそんなものはなかった。かりにそんなものがあって揺れたとしても、けちな私は酔わないであろう。一時間当り三千余円も支払って酔っては引き合わないからである。釧路行きの船で船酔いしたのは、あの船賃は釧路市持ちで、ただだったからだ。

 飛行機の方は、バスやタクシーなどと違って、操縦には細心の注意が払われているように感じられた。でもそれは感じただけで、実際に操縦の現場を見たわけではない。しかしそうでも感じなければ、飛行機には乗れないだろう。なにしろ止ったら落っこちるんだから、バス、タクシーの類とはちがう。タクシーの運転手並みに操縦されてはかなわない。

 それにしても、東京のタクシーの運転ぶりは、少しひどすぎる。十日ほど前私の乗っている小型タクシーが、とうとう他の小型タクシーに側面衝突して、幸い怪我はなかったけれども、冷汗が出た。私の車が相手のを追い抜こうとしたからである。両方とも車体がすこしずつ損傷したらしい。それから運転手同士の言い合いになって、歩道でつかみ合わないばかりの議論になった。乗客の私などはそっちのけである。仕方がないから車を降りて歩き出そうとしたら、私の運転手が眉を吊り上げて、乗り逃げする気かと追っかけて来た。見ると強そうな男だったので、私は黙って代金を支払った。まあ強そうでなくとも払うつもりだったが、議論の方で忙しそうだったので、遠慮しただけの話だ。しかし運転手が車をぶっつけ、客の心胆を寒からしめ、しかも代金を請求するのは、すこし虫が良過ぎるように思う。昨日の新聞の投書欄だったか、近頃のタクシー運転手への非難に対して、運転手からの答えが出ていたが、それによると乱暴な運転や追い越しをやる社会的経済的な条件があるのだという。それならそれとして、その条件は早急に根本的に改善されなくてはならぬ。ほんとに近頃の東京の街は、危くてうっかりと歩けない。東京の道路に於て、人間の価値は極度に下落している。その下落の程度は、史上にその比を見ないだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年九月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、この年は四月頃にかの桜島を再訪、五月には座談会「映画に於けるリアリズム」に出席、囲碁では「文壇本因坊」に川端康成・尾崎一雄らと同席、ここに出るように、七月には栃木県五十里ダムを視察するなどの『行動の一方で、先天的無力体質と診断されるなど』、『憂鬱症の兆候があらわれ』始めていた、と記す。

「鬼怒川五十里(いかり)ダム」既注。梅崎春生「ダムでの感想」(昭和二八(一九五三)年七月十六日号『建設工業新聞』初出)の本文と私の注を参照されたい。

「雲烟過眼(うんえんかがん)」本来は「烟」は霞(かすみ)、「過眼」は目前を過ぎ去ること。雲や霞が目の前を過ぎ去って留まらぬように「物事に深く執着しないこと」、「物事に心を留めないで淡泊でいること」の譬え。又は「物事の過ぎ去って留まることのない無常」の譬え。北宋の蘇東坡の一〇七七年作「王君寶繪堂記(おうくんほうかいどうき)」の中のの一節「譬之煙雲之過眼、百鳥之感耳、豈不欣然接之、然去而不復念也。」の冒頭に基づく。

「今年は北海道は冬が長く、私たちが行った時はタンポポの花盛りであった。ここのタンポポは全く大柄である。多摩川あたりのそれに比べて、約三倍の背丈と太さを持っている」有意に大きいことを述べており、梅崎春生の向かったのが道東であることから、在来種で沿岸域に限って植生する、キク目キク科タンポポ属シコタンタンポポ Taraxacum shikotanense であろうと思われる。

「田辺茂一」(もいち/本名の読みは「しげいち」 明治三八(一九〇五)年~昭和五六(一九八一)年)は紀伊國屋書店創業者。ウィキの「田辺茂一」によれば、昭和二(一九二七)年一月に新宿にて紀伊國屋書店を創業、翌年には『小学校の同級生だった舟橋聖一たちと共に、同人誌『文芸都市』を創刊』した。『戦災で大きな被害を受け、一時は廃業も考えたが、将棋仲間だった角川源義の励ましで事業を再開』。昭和二一(一九四六)年一月に同社を『法人化し、株式会社紀伊國屋書店に改組。それに伴って、同社代表取締役社長に就任』し、一九五〇年頃には経営が安定した。但し、『これ以降、田辺自身はほとんど経営に関与せず、夜な夜な銀座に出現してバーからバーへと飲み歩き、華麗な女性遍歴を繰り広げて「夜の市長」と呼ばれた』。彼が『紀伊國屋ビルに演劇ホール(紀伊國屋ホール)を設け』、『紀伊國屋演劇賞を創設するなど、文化事業に力を注』ぐようになったのは一九六〇年代後半のことである。当時、四十八歳。

「爪皮」一般には「つまかわ」と読む。下駄や草履などの尖端に雨や泥などをよけるためにつける覆い。名称は嘗ては皮革製であったことによる。爪(つめ/つま)掛け。

「DDTの如き着想は日本人の頭には宿らない」ことを私は真の意味で自然に叶っていると信ずる事例も数多くあり、私はこの箇所については必ずしも梅崎の意見に全面的賛同はしない。

「国土建設週間」Q&Aサイトの答えによれば、建設省(現在の国土交通省)が昭和二四(一九四九)年から実施しているもので、当時の建設省の開庁記念日である七月十日の「国土建設記念日」から一週間を「国土建設週間」とし、国土建設事業の円滑な推進を図るために、その意義・重要性並びに施策目的・内容を広報し、国民の理解と協力を得、安全で快適な国民生活を実現する国土建設事業を推進し、二十一世紀に相応しい活力ある経済社会の基盤づくりを目指すことを目指して設定されているそうだ。今日の今日まで私は知らなかったし、この事大主義的な謂い自体に胡散臭さを感じる。豊洲の謎の地下空間のような中身のない虚しさをも伴って、である。

「坦坦砥(たんたんと)の如し」「坦坦」は地形や道路などの平らなさまをいい(そこから、何事もなく時の過ぎるさま、変化のないさまの譬えともなる)、「砥の如し」は砥石の表面のように完全に平滑であることを指す。表現としては屋上屋の嫌いがある。

「飛行機代は一万二百円」現在の価値に換算すると、凡そ十倍近いと考えてよいであろう。

「黄塵万丈(こうじんばんじょう)」]黄色の土ぼこりが風に乗って空高く立ち上るさま。漢代に著作された政治・道徳等に関する論集「春秋繁露」の「保位權篇」を典拠とするという。

「千歳」「基地の風景」旧千歳空港、現在の航空自衛隊千歳基地周辺の当時の描写である。同空港は大正一五(一九二六)年に千歳村村民の労働奉仕によって開かれ、航空機着陸場が造成され、昭和一四(一九三九)年十一月に海軍航空隊が開庁(民間併用)されたが、昭和二〇(一九四五)年十月に敗戦に伴い、米軍に接収された。本記事の二年前の昭和二六(一九五一)年十月に民間航空併用が再開され、千歳・東京間に日本航空が就航、これに合わせて、本篇にも出るように、北海道中央バスが日本航空機の利用者専用の連絡バス(札幌発着)の運転を開始している。翌年の六月には警察予備隊千歳臨時部隊が空港敷地内に設置された。この後の昭和三二(一九五七)年八月には本邦の航空自衛隊第二航空団が浜松より移駐し、翌月、千歳基地が開設、その二年後の昭和三十四年七月、米軍から日本政府(防衛庁)に返還されている(以上はウィキの「千歳基地」に拠った)。現在の新千歳空港とは南東で隣接設置されているが、飛行場としては別個である。

「日本保安隊員」本記事の前年の昭和二七(一九五二)年十月十五日に警察予備隊を改編して発足した、保安庁に警備隊とともに置かれた国内保安を名目とした武装部隊の隊員。現在の陸上自衛隊の前身。昭和二九(一九五四)年六月の自衛隊法・防衛庁設置法の成立により、翌七月に陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の管理・運営を行う防衛庁が発足、保安庁は発展的に廃止された。

「れいの女性たち」米兵相手の売春婦ら。

「特別二等車」今のグリーン車相当と考えてよい。ウィキの「特別二等車」より引く。一九五〇年代の『一時期、日本国有鉄道(国鉄)が当時の二等客車の区分内において、特別設備の車両を指して呼称した用語』。昭和二五(一九五〇)年に『日本で初めて自在腰掛(リクライニングシート)を備えた客車が二等車扱いで製造されたが、これが従来の二等車と設備の格差がありすぎたため、従来の二等車と区別する意味で付けられた名称である。この特別二等車には、特別の料金体系が制定され(特別二等車料金)』、昭和三三(一九五八)年まで『この料金制度が継続された』。『一部の国鉄関係者の間では、「特別」という部分と二等車の略称である「ロ」を組み合わせた「特ロ(とくろ)」・』「特二(とくに)」とも『呼称した。それに対して、在来のボックス型や転換式座席の二等車は、「並ロ(なみろ)」・』「並二(なみに)」と『称された』。『「特ロ」車は在来二等車に比して格段に居住性を改善したため好評を得、やがてリクライニングシートは急行列車以上の二等車の標準設備となった』。『特別二等車の増備によって』、一九五八年十月一日『以降、急行以上の二等車はすべて特別二等車を連結することになった。その中で指定席・自由席が設けられ、急行の二等車に座席指定制度が適用されることとなり、旅客輸送規則上、特別二等車料金が消滅し、これ以降は特別二等車の呼称は営業上は使用されなくな』り、一九六〇年の『二等級制移行で「一等車」となった。その後』、一九六九年になって『特別車両「グリーン車」となった』とある。当時の特別料金は三百キロメートルまでの三百円に始まり、千二百一キロ以上が七百二十円であった。]

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