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2016/09/14

人間回復   梅崎春生

 

 近ごろは連夜の停電で仕事は出来ないし、電熱器でにたきはもちろん出来ないし、たまさかの配給の魚類は古くて生食できないし、炭は手に入らないし、困って九州の国もとへ無心状を出しても手紙の往復だけで二カ月もかかる。急場の間に合いはしない。生活とみに困窮して憂鬱の極みだが、さてそれについて腹がたつかといえば、別段腹もたちはしない。電燈はつかないもの、配給魚は腐っているもの、と初めからあきらめているからなので、ときたま九州からの手紙が一週間でついたりすると、たいへんおどろいてしまう。なんだか裏切られたような気持になってしまう。考えてみると、こんな私の人間不信の気持は、このごろ始まったものではなくて、ずいぶん古くから根をおろしているようだ。何時ごろから根を張ったのか知らないが、今次の戦争を通じてそれが非常に強められてきたことだけは確かだ。

 私も人なみに軍隊に行ってきてああいう非人間的な組織のなかで日本人がどんなことをやれるか、たとえばどんな不合理なことがやれるか、どんな背徳的なことがやれるかという可能性をこの眼でまざまざとながめてきた。そのことを自分の心のなかにも探ってきた。

 いま連合軍の軍事裁判などにかけられている日本人の背徳不倫の行為にしても、私の持っているものと全然異質のものではなく、私のものの延長線上にあることを私は感じるのだ。たとえば南方で行われたという、人間の食慾が人倫をふみ越えたような出来事も、私と関係のない人獣の仕業であると私は思わぬ。戦争中の、また現在の私の飢餓の、延長線上にある窮極点にそれは位置するのだと考える。だからそんな意味で、私がそんな環境におかれたとすれば、人間の節を持して死を選ぶかということにおいて、私は自信はない。もちろんその時になって見なければ判らないことだけれども、そんな破倫を自分はやらぬとは私は断言できないのである。その点において、私は自分に絶望している。絶望した形で自分の人性を信じているといってよい。この気持は多かれ少なかれ今の日本人の中にあるにちがいない。街角でたとえば辻強盗にはがれたとしても、別段警察にとどけでる気になれないのも、警察力への不信がそこにあるには違いないが、根本的には、そのようなことが驚天動地の出来事でなく、ほとんど日常的な事件であるからではないのか。彼に内在する振幅のなかに、辻強盗というものも含まれていて、単に偶然にこの場合加害者と被害者にわかれただけの話であって、たとえば満員電車の中で足を踏まれたことと、さほどのへだたりもない。いつかはこちらから足を踏むこともあり得るのだ。つまり社会の混乱というのも、各自の心の中の混乱の反映で、各自の内在する病根が、そのまま形となって風俗にあらわれているにすぎない。すくなくとも私の場合ではそうだ。だから去来する人間悪に責任を私がもち得るというのも、その点においてのみであって、自分に絶望した場所から人間の回復をめざして行く他はないのだ。

 だから矢張り私は傍観者を憎む。われわれにいま、彼岸がある訳がない。現在立っている場所だけしかないのだ。傾斜した今の場所で、もっと傾斜がひどくなれば、私は人をつきおとすこともあるだろうし、足をひきずりおとすこともあるだろう。そして自分を救おうとする気持だけが、やがて他を救う気持になってゆくことを私は信ずる他はない。それ以外の、高遠な弁舌や図式でもって、この荒廃した精神の風土を救えると考えるものは、ことごとく迷妄の輩にすぎぬと思う。

 この東京という原始的大村落において、ひとびとは暗黒の夜々を過し、波にうちあげられた腐魚をたべ、己れの身を己れで守るすべを自らとらざるを得ないものの如くである。いわば穴居時代と大差ない状態にまで立ちもどった。われわれはもはや市民ではなく、人類である。人間を回復し、社会をうちたてるため、この現在のスタートラインに皆がならぶこと、そして各々が自分がこのスタートラインに立っていることを認めることが絶対に必要なのであって、スターターになったり応援団になることは必要でない。この必要でない人種が現今の文化面をある程度しめていて、これが文化における混乱を招致しているもののようだ。しかしこれは、本質的な混乱ではない、単に文化の衰退にすぎぬものと、私は近ごろ考える。この連中を先ず葬らねばならぬ。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年一月発行『文学新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「停電」戦後混乱期(敗戦から昭和二五(一九五〇)年六月二十五日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(朝鮮特需)で経済復興の端緒が開かれる頃まで)には我々が東日本大震災直後に経験させられた、なんの意味もない「計画停電」と同じ「輪番停電」が行われた。

「配給魚」政府の食糧統制による配給制は昭和一五(一九四〇)年に大都市での砂糖とマッチの配給制度化を皮切りとし、その翌年四月からの六大都市に於ける主食の米の配給の開始を本格的な開始とする。その後、同年十一月からは魚類、昭和十七年二月から衣料品及び味噌・醬油、同年十一月から野菜・果物が配給制となっている。水産物の戦後の配給統制資料は実は誠に少なく、調べるのに戸惑ったが、「長崎魚市株式会社」公式サイト内の戦前戦後における魚市場と漁業界に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『この頃より食料事情もやや好転して、統制方式の改善よりも撤廃の声が強くなりはじめ、昭和二十四年九月、生鮮水産物配給規則と加工水産物配給規則の一部改正を行い、生鮮水産物十八品目、加工水産物四品目についてのみ価格配給統制を残して、その価格を約三十%引上げ、十月十五日から統制の大幅緩和に踏み切りました。水産物に関する限り絶対的な物不足時代はここで終わったのでした。政府は昭和二十五年四月一日をもって水産物の配給及び価格統制の撤廃を発表し、ここに長期にわたった物価の統制が終わりを告げることとなったのです』とあったことで具体が判明した(下線やぶちゃん。因みに、制度としての法制上の米の配給制度自体は昭和五六(一九八一)年六月十一日附で交付された「食糧管理法の一部を改正する法律」によって翌年廃止されるまで存在していた事実はあまり知られているとは思われない。そのため、それまで米穀通帳は身分証明書の機能をも持っていた)。「法政大学大原社会問題研究所」公式サイト内の日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 第五編 物価・配給統制と労働者の生活 第二章 配給、消費、生活実態の中に戦後のこの前年の状況であるが、以下のようにある。『東京ではさきに登録配給制を実施したが、一九四七年一月ごろ魚不足は著しかった。計画上は一日おきか三日に一回ずつ配給されるはずになっていたが、朝から店先に行列をしてしかもその先頭の者にしか渡らないような実情で、一般家庭ではすでに二〇日間も一片の魚も買えないという声がひんぴんと上がった。二月の配給計画は四日に約一回の割合で一人分三〇匁となっていた。その後四月になっても魚は依然として出回らず、そのうえ鮮度の低下は著しかった。六月ごろになって魚の供給がやや増加した。それまでは一人一日当たり四~六匁程度の配給だったが、それが一人一日当たり一五~一六匁となった。しかし依然として鮮度の低下した粗悪品やだき合わせ販売が公然と行なわれた。また野菜類も同様に欠乏状態が慢性化しており、これに乗じて量目不足やヤミ価格での情実売りが一般的となった。一一月からは野菜の隣組単位の登録制が東京市において実施された。これは小売商(八百屋)一軒につき三〇隣組を基準に受持隣組を定め、その登録店から購入する方法で、野菜の行列買いやヤミの解消を目的としたものだったが実効はなく、その後も依然としてヤミの横流しは減少しなかった(以上は主として朝日新聞の当時の記事による)』。

「連合軍の軍事裁判」市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で演じられた極東国際軍事裁判(東京裁判)。昭和二一(一九四六)年五月三日から昭和二三(一九四八)年十一月十二日にかけて行われた連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制裁判である。]

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