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2016/09/11

甲子夜話卷之二 14 元祿の頃、革袴の事

2―14 元祿の頃、革袴の事

元祿の頃迄は、世多く革袴を著たることなり。吾先代天祥君【諱鎭信】壯年のとき迄は、家老以下役人も專ら着し、自身も着せられしと聞ゆ。されば世上の歷々も着しけん。下にては宮本武藏と佐々木巖流と仕合のとき、巖流の下段の太刀、宮本が革袴を拂て、五寸計り切れたると云も、常に著せし證なり。今は火事裝束の外はこれを見ず。

■やぶちゃんの呟き

「元祿」一六八八年~一七〇四年。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、百三十三から百十七年も前の話となる。後に出る宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った日時は、「二天記」(安永五(一七七六)年)によれば、慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦一六一二年五月十三日)とあるから(決闘の時日については諸説ある)、これは実に二百九年前の出来事となる。

「革袴」 染め革や燻(ふす)べ革などで作った袴。「日本皮革産業連合会」公式サイト内の「皮革用語辞典」の革ばかま(袴)によると、『平安時代の私撰歴史書といわれる『扶桑略記』に』甲冑・、貫(つらぬき:革沓(かわぐつ))と『ともに革ばかまも出てくる。下総の戦国大名『結城法度』において革袴は公式行事にはふさわしくないから着用しないようにとあり、武士に広く行き渡っており、あらたまった席にそぐわないほどになっていた。しかし、織田、豊臣時代になって大名、上級武士の公式衣装となったようである。最も愛用され普及したのは裾部分を絞った裁着袴』(たっつけばかま)で、『これを戦国期に活躍した伊賀者の服装から江戸時代には伊賀立付』(いがたっつけ)と『いった。信長の馬揃えに用いられたことでも有名。戦国武将の革ばかまの遺品は各地に比較的残っている。ズボンが発達しなかった日本では江戸時代の中期頃から職人、労働用として庶民にも伊賀立付が使用されるようになり、一部が革ぱっち、革の伊賀はかまとして製作されるようになった』とある。

「吾」「わが」。

「先代天祥君【諱鎭信】」「諱」は「いみな」。既出既注であるが再掲しておく。平戸藩第四代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ 元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)幼名は重信、通称は源三郎、号は天祥庵・徳祐・円恵など。隠居してからは曽祖父で初代藩主と同じ「鎮信」と改めているので注意されたい。島原の乱や平戸貿易の停止など襲封当初から難問に直面したが、藩政機構の整備・藩財政の強化に努めた。また、茶人としても知られ、片桐石州に学び、後に鎮信流といわれる流派の基を開いた(主に思文閣「美術人名辞典」に拠った)。後に出る静山の祖父誠信(さねのぶ)の祖父

「下にては」「しもにては」。武家でも比較的下層の人々の先例では。

「宮本武藏」(天正一二(一五八四)年?~正保二(一六四五)年)。二刀流二天一流兵法開祖。出身は播磨国説或いは美作国宮本村説がある。

「佐々木小次郎」(永禄(一五五八年~一五七〇年)或いは天正(一五七三年~一五九三)年間?~慶長一七(一六一二)年)。秘剣「燕返し」を操った剣客。号は岩流で二人が戦った九州小倉の島名は名は彼のこの号に由来する後の呼称である(正式には現在も「舟島(ふなしま)」)。豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)或いは越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)ともされる。

「五寸」約十五センチメートル。

「證」「あかし」。

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