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2016/09/29

譚海 卷之一 伶人家幷きんの傳來の事

伶人家幷きんの傳來の事

○伶人(れいじん)の家、京都・奈良並に攝州天王寺、江戸紅葉山の樂人(がくにん)、野州日光山に住居(すまひ)す。南良(なら)は皆左方也。天王寺は皆右方也、江戸も然り。京都は左右雜りてあり、但(ただし)右の方は少し、日光山も然り、左方は唐樂(たうがく)右方は高麗樂(こまがく)也。然れども右の方にても唐樂をなし、左方にても高麗樂をなす也。わたし樂とて唐樂を高麗にうつし、こまを唐樂にうつしてなすゆへ、左右ともにせずといふ事なし。三絃の中箏(ちうさう)と和琴(わごん)と五辻殿(いつつじどの)門入(もんにふ)せざれば猥(みだり)に彈(だん)ずる事成(なり)がたし。和琴はことに祕藏せらるゝ也。樂の琴に切の手なし、五辻殿斗(ばか)り祕曲のときに彈(ひか)るゝ也。きんは日本は傳授絶たり。寶永の比(ころ)心越(しんえつ)禪師中華より吾(わが)邦にわたりける時、きんの彈方(ひきかた)をつたへて、琴經(きんきやう)などといふもの世に弘(ひろ)まり、きんをひく事に成(なり)たり。されども殊の外微音にして障子ひとへ隔てもさだかに聞ゆる事なし。往古日本にて取扱(とりあつかひ)たるきんの彈(ひき)かたとは違(ちがひ)たる樣に覺ゆ。うつぼ物語・源氏物語などを徴(ちよう)するにも、聲もよほど高く、聞(きく)人の感もふかき樣に見えたり。今のものとは異れる樣に覺ゆ、心越禪師の高弟小野田東川(とうせん)と云(いふ)人、琴を殘(のこり)なくつたへ、越師(えつし)の琴(こと)鶴氅衣(かくしようい)などをつたへて、世に名ある人也。明石侯の茶人(ちやじん)なりしが、上の御聽(おきき)に達し、五辻殿江戸傳奏屋敷に三年逗留有(あり)て、東川より殘らず琴の傳授被ㇾ成(なされ)、舞樂(ぶがく)にもうつされ、今堂上(とうしやう)に用らるゝ事と成(なり)たるよし。但(ただし)微音なる事にて合奏には成(なりがたしといへり。

[やぶちゃん注:「伶人」雅楽を演奏する人。楽人。

「紅葉山」現在は東京都千代田区に属し、皇居を構成する一部となっている紅葉山は江戸城の西丸の東北にある丘で、旧本丸と西丸(にしのまる)のほぼ中間に当たる。ウィキの「紅葉山(東京都)」によれば、幕府成立後の元和四(一六一八)年、この『紅葉山に徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である』旧暦四月十七日には『将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の』一つであった。『また、秀忠以後の歴代将軍の廟所も紅葉山に設置され』寛永一六(一六三九)年には『城内の文庫が富士見亭から紅葉山に移転・整備され、「紅葉山文庫」と称された。また、「紅葉山御社参」などの重要行事に備えて音楽を掌る楽所も設置されていた』。『紅葉山の警備・防災のために紅葉山火之番』、『霊廟の管理を行う紅葉山坊主、楽所の管理と演奏を行う紅葉山楽人、東照宮や各将軍の霊廟を掃除する紅葉山掃除之者が置かれていた』とある(下線やぶちゃん)。

「南良」底本には「南」の右に編者注で『(奈)』とあるから、奈良と読み換えてよい。

「唐樂」左方唐楽(さほうとうがく)。単に「左楽」とも呼ぶ。雅楽の曲目分類用語で、「右方高麗楽」と対を成し、雅楽の器楽曲(狭義の雅楽)を二大分するもの。現行の左方唐楽には管弦(器楽合奏のみ)と舞楽(器楽合奏と舞い)の二様式があり、前者には笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・竜笛(りゅうてき)・琵琶・箏(そう)・羯鼓(かつこ)・鉦鼓(しょうこ)・太鼓の八種の楽器を用い、後者には琵琶・箏を除いた六種を用いる。古代に伝来した各種外来楽が九世紀に日本的に整理された結果の分類であって、それ以前の唐楽と林邑(りんゆう)楽がこれに含められた(三省堂「大辞林」に拠る)。

「高麗樂」右方高麗楽(うほうこまがく)。単に「右楽」とも呼ぶ。現行の右方高麗楽の曲はすべて舞楽(器楽合奏と舞)で、篳篥・高麗笛(こまぶえ)・三ノ鼓(さんのつづみ)・鉦鼓・太鼓の五種の楽器を用いる。唐楽と同じく古代に伝来した各種の外来楽が日本風に整理された結果の分類名称であって、それ以前の三韓楽(新羅(しらぎ)楽・百済(くだら)楽・高麗楽)と渤海(ぼっかい)楽が、これに含められた(三省堂「大辞林」に拠る)。

「わたし樂」「渡し樂」か?

「三絃の中箏」は不詳(「ちゅそう」という読みも自信はない)。三味線の中棹(なかざお)のことか?

「和琴」ウィキの「和琴より引く。『雅楽の国風歌舞でもちいられる日本固有の弦楽器で、日本最古の楽器。大和琴(やまとごと)、東琴(あずまごと)とも』。『現在日本でよく知られる箏は大陸からの渡来楽器が基となっており、和琴とは起源や系統が異なる。 なお、和琴の起源は神代紀の「天沼琴」(あめのぬごと)である。「天石窟(あめのいわや)前で天香弓六張をならべ弦を叩いて音を調べた」とある』。『宮中の祭祀にて奉仕される国風歌舞(「神楽歌」「久米歌」「東遊」など)のみに用いられる。雅楽の楽器のなかではもっとも格が高く、古くは位の高い者のみ奏することができた。現在でも、宮内庁楽部ではおもに楽長が奏する』。『弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から、和琴の祖形とみられる木製の琴や、琴を弾く埴輪が出土している』。『本体はおもに桐で作られ、なかは空洞。柱(じ)は楓の枝の叉をそのままもちいる。長さは』約百九十センチで、横は頭が約十六センチ、尾が約二十四センチ。『絃は六本の絹糸。尾の部分で、葦津緒(あしづお)という絹の編み紐で絃を留める。箏と違い、手前から一、二、三、四、五、六絃と数える』。『演奏には、鼈甲または水牛の角で作られた琴軋(ことさぎ、ことさき)と呼ばれる長さ』約七〜八センチ、幅約一センチ、厚さ約三ミリほどの『笏に似た形の撥をもちいる。 琴軋を右手に持って絃をかき鳴らしたり、素手の左手の指で弾いたりする』。『座って奏するが、「東遊」では琴持(こともち)を』伴い、立って奏する。『神社では降昇神・開閉扉の際、和琴を以て菅掻(すががき)を奏する』とある。

「五辻殿」ウィキの「五辻家」によれば、『公家(堂上家)。家系は宇多源氏庭田同祖。源時方(ときまさ)を祖とし、鎌倉時代初期の五辻仲兼以降に五辻家を称する。極官は従二位・非参議。家業は神楽。旧家。江戸時代の家禄は』二百石。『居所は西殿町北側。菩提寺は洛東西方寺』。『家祖の時方は左大臣・源雅信の子だが、五位少将まで昇進するも若くして卒去、その後子孫は受領となり代々五位止まりであった。鎌倉時代初期の仲兼は四ヶ国の国司を務め従四位上まで昇進し、この頃より五辻の家号を称するようになった。仲兼以降は蔵人や北面武士を務める地下家だったが、室町時代末の』天文七(一五三八)年に『五辻諸仲が従三位に叙せられて、堂上家に加わ』った、とある。家業を雅楽の神楽としていたところまでは確認出来たが、ここにあるような和琴類との絡みは不明。なお、Houteki氏のブログ『雅楽研究所「研楽庵」』の「御神楽の参仕者」に、『楽所を管掌し』、『和琴の師範家である四辻家の者については』、十一歳から『御神楽御人数に加えられ、直ちに星曲(吉々利々(ききりり)、得銭子(とくぜにこ)、木綿作(ゆうつくる)の三曲から成る)を演奏する』とあり、さらに、『地下では、京都方の楽人が参加します。多家は歌と和琴を演奏し、笛は山井家、篳篥は安倍姓東儀家と安倍家が演奏しました。和琴は多家の家伝ではないので、西山松之助『家元の研究』によると、師範家の四辻家から演奏するその日に限って相伝を受けていました。また、嫡流が歌を、庶流が和琴を演奏したともあります』とあるから、或いはこれは「五辻家」ではなく、「四辻家」の誤りの可能性もあるか? 以上、「三絃の中箏と和琴と五辻殿門入せざれば猥に彈ずる事成がたし」は一部不明であるが、要は、この「三絃の中箏」という楽器と「和琴」については、「五辻」家に正式に入門しなければ、それを演奏する(或いはその楽器自体に触れる)ことはまず出来ない、という意味であろうとは思う。

「切の手」「切」そのものの読みが「せつ」か「きり」かも分らぬ。「なし」とあるのだから、琵琶や浄瑠璃で謂うところの曲の「キリ」ではあるまい。「手」というのは明らかに奏法上の技巧の意ではあろう。識者の御教授を乞う。

「きん」中国の古い伝統楽器古琴(こきん)。七弦琴を指す。ウィキの「古琴」によれば、『古琴の胴体は全長』百三十センチ『前後で、伝統的にアオギリ製とされるが』、『それ以外の木材も使われ、雲杉(トウヒ属)製も人気が高い』。七つの『弦を有し、演奏者から見て遠い方を』第一弦とする。『調弦方法にはさまざまなものがあるが、もっとも基本的な正調では』第一弦から順に C D F G A c d であり、『開放弦で五音音階を奏でることができる』。『右手の小指以外の』四本の『指を使って弾く。複数の弦を同時に弾くこともあり、音程としては八度・五度などが使われる』。『日本には遣唐使の時代に譜とともに大陸から伝来、箏や和琴など他のことと区別して「琴(きん)」または「琴(きん)のこと」と称した。『懐風藻』には「琴」にまつわる詩が数多く詠まれている。また『うつほ物語』の清原俊蔭、『源氏物語』の光源氏など、物語の主人公が携行し』、『奏でる場面が重要な物語要素となっている。平安時代中期頃まで演奏されていた記録が『日本三代実録』『吏部王記(りほうおうき)』『御堂関白記』『御遊抄』『枕草子』に残るが、奏法が難しく』、また、『音量の小さい楽器であったためか、結局、雅楽の編成にも加えられることなく』、一度。『断絶する。その後』、『江戸時代に至り、東皐心越』(後注参照)『によって再び日本に伝わり、熊沢蕃山、荻生徂徠、浦上玉堂らの文人たちに愛好されたが、一般に広まること』なく、再び衰微してしまった。『古代の琴で日本に現存する代表的な琴に、唐琴として正倉院宝物の「金銀平文琴(きんぎんひょうもんのきん)」、法隆寺献納宝物の「開元琴」(東京国立博物館所蔵、国宝)がある。他に、厳島神社蔵の伝平重衡所用の法花(重要文化財)、尾張・徳川義直の老龍吟、紀伊徳川家伝来の唐琴・冠古(別銘「梅花断」、『集古十種』所載)、谷響、幽蘭(寛政年間)、天明三年無銘琴』『などがある』とある。

「寶永」一七〇四年から一七一〇年。しかしこれは「延寶」(一六七三年から一六八一年)の誤りである(以下の注を参照。そもそもが心越は宝永の前の元禄年間に逝去している)。

「心越禪師」中国から渡来した禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)。ウィキの「東皐心越」より引く。『俗姓は蔣、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある』。『詩文・書画・篆刻など中国の文人文化』、就中(なかんずく)、『文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。『明国浙江省浦江県で生まれる。幼くして仏門に帰依し』、『呉門の報恩寺において寿昌無明の法嗣となる』が、一六七六年、三十七歳の時、清の圧政から逃れるため、『中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。薩摩に入る』。同じ中国僧で承応二(一六五三)年に来日していた澄一道亮(ちんいどうりょう 一六〇八年~元禄四(一六九一)年)の招聘によって延宝九(一六八一)年に『長崎の興福寺に住す。黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど各地を遊歴。外国人でありながら』、『日本国内を旅行したため、清の密偵と疑われ』、『長崎に幽閉され』てしまうが、天和三(一六八三)年に『水戸藩の徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の尽力により釈放。水戸にわたり、天徳寺に住し』、『篆刻や古琴を伝え』た。元禄七年、『発病。翌年、江戸の菊坂長泉寺、相州塔之沢温泉などで療養するも回復せず、天徳寺に戻ると同年』九月に『示寂した。享年』五十八歳であった。因みに彼は「金沢八景」(西湖八景に擬して名付けた)の名付け親でもある。彼のそれらの詩篇は例えば、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 八景鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「八景詩歌」(歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図画像附)などを参照されたい。

「琴經」中国の琴書。十四巻。写本四冊が伝わる。

「うつぼ物語」「宇津保物語」は「うつほものがたり」と濁らないのが一般的。平安中期に成立した長編物語で全二十巻。著者不明だが、源順(みなもとのしたごう)説が有力である。清原俊蔭・その娘・藤原仲忠・その娘犬宮(いぬみや)の四代に亙る霊琴(れいきん)とその秘技に纏わる音楽霊験談と,源雅頼の娘の貴宮(あてみや)を主人公とする物語が秘琴伝授と求婚争いから立太子争いといったものと絡み合う形で展開する。「竹取物語」の伝奇的性格を受け継ぎ、「源氏物語」影響を与えたとされる日本文学史上最古の長編物語。書名は俊蔭の娘が太政大臣の子息藤原兼雅との間に子を設けたものの、貧しい生活に堕ちて北山の森の木の空洞(うつほ)でその子、藤原仲忠を育てながら秘琴の技を教えたことに由来する。

「徴(ちよう)する」照らし合わす。

「小野田東川」(貞享元(一六八四)年~宝暦一三(一七六三)年)京都生まれの七弦琴奏者。名は廷賓。東皐心越が伝授した演奏法を杉浦正職(まさもと)より学び、七弦琴の名人として知られ、その奏法を後世に伝えた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「越師」東皐心越。

「鶴氅衣(かくしようい)」意味は鶴の羽で作った上衣、白地に黒く縁を取った服で、昔、中国の仙人や隠者などが着たものであるが、ここは古「琴」の「鶴氅衣」という曲名と思われる。

「明石侯」小野田東川の没年から見て、播磨明石藩第三代藩主松平直純(享保一二(一七二七)年~明和元(一七六四)年)であろう。

「上」徳川家重或いは徳川家治。後者か。

「江戸傳奏屋敷」武家伝奏(諸事に亙って武家との連絡に当たる役。定員二名で関白に次ぐ要職で多くは大納言の中から学問・文筆の才があり、弁舌が優れ、正義を行う者が選任された)又は勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅。

「堂上」公家。]

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