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2016/09/29

甲子夜話卷之二 20 有德廟金輪寺へ御成のとき、住持へ被下ものの事

2-20 有德廟金輪寺へ御成のとき、住持へ被下ものの事

春末夏初の事とかや、徳廟王子邊御成のとき、御膳所は金輪寺なりし。その所へ御歩行にて入御ありしとき、住持僧門前に平伏して居たれば、和尚久しひとの上意にて、着せられし御服を悉く脱給て住持に投與へられ、御身は裸體になり給ひて、御下帶に御脇指をおとし指にさゝせ、御手を振て寺へ入らせ給ふ。從行し奉る輩これを見奉りて、快活の御氣象を歎仰せりと云。此住持は、もと高野の學侶にて、名は宥衞と云けり。上、潛藩のときより知しめられし者なり。因てこの上意あり。拜賜の御服、今に彼寺に傳て有と聞く。又四谷筋御成のとき、鮫ガ橋へ渡御の比、これも時氣煖熱して御服を減ぜられたく思召、橋上にて大聲にこゝらは家來共計かと仰なりければ、御傍の人々左候と申ければ、御立ながら御服を脱せられ、裸體にならせられ風を入れ玉ひ、やがて輕々と一つ召直して御歩ありしとなり。御番の衆中など、橋の前後に皆蹲踞してありしが、奧向の外樣のと云御差別もなく、家來共計かとの仰、眞に難ㇾ有事なりと、番士の輩申合へりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」吉宗。

「被下もの」「くだされもの」。下賜の品。それが暑いから脱いだ汗臭い服だったところが面白いではないか。

「金輪寺」「きんりんじ」と読む。現在の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺の前身。ウィキの「金輪寺(東京都北区)」によれば、現存する同寺は『江戸時代には徳川将軍家の御膳所にもなった、地域を代表する寺院であった禅夷山東光院金輪寺(神仏分離令により廃寺)の支坊(塔頭)の一つであった藤本坊が、金輪寺の名を継ぎ』、『再興したもの』である。『廃寺になった元の金輪寺は、平安時代の康平年間』(一〇五八年~一〇六五年)、『源義家が前九年の役で勝利し、凱旋した折に甲冑を奉納し、敵方の安倍氏の兵士の冥福を祈る祈願所を創建したのが始まりであると言われる古刹であった』。『その後は荒廃し、いつしか無住の寺となっていたが、江戸時代初期に徳川秀忠の命で宥養上人』『によって再興され、王子神社及び王子稲荷神社の別当寺になり、歴代将軍の御膳所を務める格式ある寺院となった』。『最盛期には支坊が』六つもある(十二という説もある)壮大な寺院であった。しかし、幕末、『火災により伽藍を焼失し、その後も再興されずに、明治時代の神仏分離令によりそのまま廃寺となった』とある。

「王子」現在の東京都北区王子(おうじ)。ウィキの「王子(京都北区)」によれば、『江戸時代になると王子村の中心には日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され』、十八世紀には『八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。飛鳥山の花見人気とともに、王子村の岸にある王子稲荷神社がもともと東国』三十三ヶ国の『稲荷社の頭領を自認していたこともあってか』、『参拝客が増え、料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承』もある、とある。

「御膳所」「ごぜんどころ」。将軍が鷹狩りなどの際に昼食をとったりする休息所。

「御歩行」「おんかちありき」と訓じておく。乗馬せずに、徒歩で入ったのである。

「和尚久しひとの上意にて」『「和尚、久しい。」との上意にて』。歴史的仮名遣の誤り。「をおとし指」「落(おと)し差し」。歴史的仮名遣の誤り。刀を差す際の方法の一種で、鞘尻が有意に下がって柄が胸側に近づく差し方を言う。他に側面から見ると、刀が地面と水平になっているような差し方を「閂(かんぬき)差し」、甲冑を装着した際などの、太刀のように刃を下に(逆に)し、捻った帯の輪に通して固定する(鞘尻が後ろで上に反る形となる)「天神(てんじん)差し」などがある。

「宥衞」「ゆうゑい」。金輪寺第六代住持。

「上」「かみ」。将軍。吉宗のこと。

「潛藩」「せんぱん」と読むか。吉宗が未だ紀州藩にあった時期を指す(「潛」は臥龍・伏龍のイメージからであろう)。紀州藩第五代藩主(但し、彼は十四の時に葛野藩主となっている)となったのは、宝永二(一七〇五)年十月で(二十二歳)、実際の入部(紀州入り)はその五年後の宝永七(一七一〇)年四月である。後の享保元(一七一六)年七月十八日に征夷大将軍・源氏長者の宣下を受けたから、紀州藩主としての治世は十年六ヶ月、但し、この間、江戸参府四回・紀州帰国三回で実際の紀州在国(通算)は二年四ヶ月しかなかった(以上はウィキの「徳川吉宗」に拠った)。

「知しめられし」「しろしめられし」旧知であられた。

「四谷筋」現在の東京都新宿区四谷周辺。

「鮫ガ橋」「さめがはし」。現在の東京都新宿区を流れる、桜川支流鮫川に架かっていた鮫河橋(さめがはし)のこと。ウィキの「鮫河橋」によれば、『多く鮫ヶ橋とも表記する』。この名は同時に橋のあった周辺地名でもあり、『現在の新宿区若葉二、三丁目、南元町一帯を指』し、『江戸時代は岡場所、明治時代は東京市下最大の貧民窟として知られた』。川の名も『鮫川と呼ばれるが、いずれの名が先かは不明。千駄ヶ谷寂光寺鐘銘に「鮫が村」とあり、往古』の『村名でもあった可能性がある』。「紫の一本」(むらさきのひともと:戸田茂睡江戸前期の仮名草子。江戸の地誌としての体裁を取りながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八三年)前後と推定される)では、『字義により鮫と結び付けられ、古くは海岸線が高く、橋下まで海水が進入し、鮫が見られることがあったからだとされた。この他にも、往古』、『四谷一帯は潮踏の里と称し、鮫河橋付近は豊島の入江と呼ばれたなどと伝えられ、元鮫河橋北町の通称入(いり)という地名はこれに由来し、その橋は入江の橋と呼ばれるなど、傍証が多く言い伝えられているが、伝承が伝承を呼んだものと思われる』。「江戸砂子」(江戸中期の俳人菊岡沾涼(せんりょう)にの手になる江戸地誌。享保一七(一七三二)年刊)では、『目の白い馬を𩥭(さめうま)と称することから』、『馬と結び付けられるようになった』とし、さらに『「牛込行願寺の僧が𩥭馬で曼供塚』 『に通っていたが、この橋より転落死してさめ馬ヶ橋と称したとする』。「再校江戸砂子」(内題「再校江戸砂子温故名跡誌」。明和九(一七七二)年刊。丹治恒足軒庶智の校正とするが、「江戸砂子」とは全くの別物)では、『普段は小流だが、谷の地形のため雨天時にのみ増水し橋が必要となるため雨(さめ)ヶ橋の意であると考察し』ている。「文政町方書上」(ぶんせいまちかたかきあげ:文政(一八一八年~一八三〇年)年間、幕府の「御府内風土記」編纂事業に当たって江戸各町の由来・現況に就き、町名主に提出させた書類を合冊した資料。「江戸町方書上(えどまちかたかきあげ)」とも呼ぶ。「旧幕府引継書」の一つ)では『源義家の馬とする説のほか、徳川家康秘蔵の駮馬を千駄ヶ谷村に埋葬する際にこの川に落ちたという説を加え、後者が有力とする』。近代では、「大日本地名辞書」(在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年かけて明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌)が『冷水(さみず)の略と考察した。また、地元の郷土史家は、鮫洲と同様真水(さみず)の意で、海浜の近い当時』、『貴重だったことから命名されたとする』。『鮫川の水源は永井家屋敷山下と鐙ヶ淵の』二『箇所で、元鮫河橋北町で合流し、鮫川橋付近で紀伊徳川家家老久野家屋敷から千日谷に沿った西方からの流れと合流し、紀伊徳川家中屋敷内の池に注ぎ、最終的に赤坂溜池に至った』(この近辺が吉宗には江戸のホーム・グラウンドであったことがこの事実から判る。だからこそ、気軽に肌脱ぎが出来る認識があったのであろう)。『鎧ヶ淵は源義家が鮫河に転落した際に落としたと伝えられる鐙が遺された伝承がある淵で、江戸時代初期には八幡宮に安置されていたが、後に廃され、陽光寺抱地となった。近代になっても、晴れた日の正午頃、池に反射する光が金の鐙からの光として有難がられる光景が見られたが、四谷区内の下水に溜まった泥の廃棄場となり、消滅した』。『江戸時代初期の時点で水流は僅かだった。橋は長さ』二間(約三・六メートル)、幅も二間の『板橋と至って小規模なものだった』とある(下線やぶちゃん)。大きな太鼓橋なんどを想定してはいけない。

「比」「ころ」。

「煖熱」「だんねつ」。「煖」は「暖」と同義。やや汗ばむような蒸し暑さをいうのであろう。

「御服を減ぜられたく思召」服を脱ぎたく思われ。結構、吉宗、脱ぎたがり屋の露出狂傾向がある。

「計か」「ばかりか」。だけか?

「仰なりければ」「おほせなりければ」。

「左候」「さ、さふらふ」。

「御立ながら」お立ちになられた状態で。

「やがて輕々と一つ召直して」「そのまま、ごく軽く一枚を召し直されて」で、ここは全部を着ていないことが判る。所謂、肌襦袢のような一番内側に着ていた単衣(ひとえ)をのみ着直したのである。後は帯の下にだらりと下げている。如何にも他者の目を気にせぬ豪快な暴れん坊将軍ではないか!

「御歩」「おあるき」。

「御番の衆中」将軍の外出時の警護に当ったのは書院番・小姓組・新番などの番衆(番士・番方:交代システムで組まれた「番」を編成して将軍及び御所の宿直や警固に当たる者)であった。特に書院番と小姓組は「両番」とも呼称され、三河以来の直参旗本の家柄から選抜され、エリート・コースであった。

「蹲踞」「そんきよ(そんきょ)」。

「奧向の外樣のと云御差別もなく」「奥向(おくむ)きの(旗本か)、外樣(とざま)の(出の者か)と云ふ御差別もなく」。

「仰」「おほせ」。

「難ㇾ有事なり」「ありがたきことなり」。

「輩」「ともがら」。

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