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2016/09/22

妙な違和感   梅崎春生

 

 昨日タクシーに乗った。するとそのタクシーは妙な走り方をした。ふつうA地点からB地点に行くには、おのずからきまった道があるものだが、そのタクシーはその道を走らなかった。見知らぬ横町に曲ったり、狭い路地を抜けたりして、たいへんせせこましく走り、目的地に着いてメーターを見たら、ふつうの走り方よりも二十円安かった。つまりこの運ちゃんは良心的に走ったというわけだ。

 しかし私は、金を払いながら、あまり愉快でなかった。妙な違和感を感じた。運ちゃんのお節介みたいなものを感じていやだった。

 数年前病院に通っていた時、その病院に注射自慢らしい医者がいて、その医者に当る度に、私はやはりそのようなものを感じたことがある。ふつう静脈注射というものは、腕の内側の関節部の太い静脈にするものだが、その医者は注射自慢であるからして、そういうところにはやらない。わざわざ手首などの細い静脈を探し出して、それにぶすりと針をさす。それで失敗することは一度もないから困るのである。

 私はその時考えた。注射をするのは向うだから、どの静脈を選ぶかは向うの権限だろう。患者の私が、この静脈にしてくれと指定するのは、越権に違いない。そう考えて黙って注射させていたが、気分が面白くなかったことは事実である。何か余計なことをしている、私はまっとうでないことをされている、そんな感じがつきまとって、いつも不愉快であった。しかし注射という作業は、完全にミスなく果たされているのだから、文句をつけるわけにも行かない。

 床屋という商売がある。あそこに行くのを私はあまり好まないが、頭髪の方で容赦なく伸びるから、一カ月か一カ月半に一度は行く。私にはあの理髪の一時間は苦痛である。肉体の自由を束縛されるからだ。だからといって、伸ばしっ放しにはしておれない。

 その床屋でも、私はしばしば面白くないものを感じる瞬間がある。たとえば鼻毛を切られる時などだ。頭髪を刈り終えて、理容師は私の鼻の穴をのぞきこみ、同じ鋏でちょんちょんと鼻毛を刈り取る。

 もちろん鼻毛が伸びていてはおかしいし、自分で刈るのはむつかしいから、理容師がそれをやってくれることはたいへん有難いことである。感謝すべきことだとは自分でも分っている。

 にも拘らず、その瞬間私は面白くない気持になる。おれは理髪に来たのであって、鼻毛を刈りに来たんじゃないんだぞ。見そこなうな。心の中でそんな叫び声を上げている。これは鼻毛が伸びていると言う屈辱感とも関係があるらしい。

 それから洗髪になる。洗い終って、乾いたタオルで髪をふく。そのついでに理容師の手は私の顔にまわり、乾いたタオルが軽く眼に押し当てられる。

 眼のあたりはびしょびしょぬれて、眠があけられない。不快だ。そこをいかにも心得ておりますという具合に、乾いたタオルはそこらをさっぱりふき上げてくれる。有難いことだ。

 ところが私はその時突然腹が立つのである。びしょびしょして眼があけられなくて不愉快なのは、おれなんだぞ。お前さんじゃないんだぞ。不愉快ではないお前さんが、さも心得た風に、おれが自分でやるの以上にうまくふき取るなんて、一体これはどういうわけだ。あんまりおれをばかにするな。

 もちろん理不尽な怒りだと自覚はしているから、口には出さない。口に出せば気違いと思われるにきまっている。

 近ごろ出て来た新人の小説を読むと、もちろん全部が全部ではないが、なんだか私はそういう感じにとらわれることがしばしばある。うまいし、面白いし、文句のつけようはないのだが、何となく違和感があったり、突然腹が立って来たりするのである。どういうわけのものだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年三月九日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「近ごろ出て来た新人」誰を指しているのは無論、判らぬ。因みに、今、悪だくみの主犯と思しく見える石原死んだろう、基!――文字変換機能が壊れたかなぁ、きっとパソコンの基盤の何処かに「秘密の空洞」でもあるんだろうか?――石原慎太郎(昭和七(一九三二)年~)の出世作とされる、お下劣チンポコ小説「太陽の季節」は昭和三〇(一九五五)年七月号『文学界』での発表である。他に目ぼしい所では、昭和三一(一九五六)年「楢山節考」で第一回「中央公論新人賞」を受賞した深沢七郎(大正三(一九一四)年~昭和六二(一九八七)年:勘違いするといけないので言っておくと、作家デビューが遅いだけで、彼は梅崎より一つ年上である。梅崎春生エッセイM式二十一箇条に登場している)、翌三二(一九五七)年八月号『文学界』に「死者の奢り」を発表して学生作家デビューした大江健三郎(昭和一〇(一九三五)年~)、昭和三三(一九五八)年に「裸の王様」(発表は前年十二月の『文学界』)で芥川賞した開高健(昭和五(一九三〇)年~昭和平成元(一九八九)年)らがいる。これはただ、日本文学史年表をぼんやり見ながら「新人」小説家らしい輩を拾っただけであって、くどいが、梅崎春生が誰を指しているかは、あくまで不明である。]

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