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2016/09/23

二塁の曲り角で   梅崎春生

 

 うちにはエスという名の犬がいる。昭和二十三年頃、何となくうちの縁の下に住みつき、子供がめしなどを与えているうちに、とうとううちの飼犬になってしまった。正式に登録し、犬税も滞納せずに、きちんきちんと払う。容姿も大したことはなく、芸もろくに出来ず、取得のない犬だったが、私は種に困るとこのエスを小説や随筆に書き、犬税や餌代を上廻る原稿料を稼いだ。その点で私はエスを大いにとくとして、三度の食事も私が吟味して、うまいものを食わせてやっていた。

 そのエスが、昨年の暮、突然死んだ。

 朝入時頃、私が犬飯をつくって、犬小屋に廻ると、エスは小屋の中にいず、小屋の前の地べたに横になっていた。犬小屋の内には藁(わら)が敷いてある。こんなに寒いのに、藁に寝ず、何故つめたい地べたに寝ているのか。三米ぐらい離れたところから、そう思いながら、私はしばらく観察していた。三米以内に近付かなかったのは、なんだか妙に動悸(どうき)がして、気味が悪かったからである。

 そのまま三分間ばかり観察して、私は犬飯を持ち、台所に戻って来た。犬飯を塵芥(じんかい)入れに捨て、うちのものに言った。

 「エスが死んだらしいよ」

 うちのものたちは直ぐにどやどやと飛び出して、やがてぞろぞろと戻って来た。やはり死んでいたのである。

 そこで、庭に埋めてやらなくちゃとか、死骸をあそこに置き放しじゃ困るからどこかに移さなくてはとか、わいわい言っていたが、図体の大きな犬だから、女子供の手に負えない。私にそれをやれ、と言い出して来た。私はことわった。

「死骸というやつほ、気味が悪いからイヤだ」

「だってこの前、カロが死んだ時、自分で埋めたじゃないの。犬の死骸も、猫の死骸も、死骸という点では同じよ」

 カロというのは、三年前に死んだうちの猫の名だ。

 そうだ。死骸という点で同じであることは、私も知っている。しかし死骸に対する私が、三年前と今とでは違っている。

 三年前、カロの臨終を私は眺めていた。カロは柳行李(やなぎごうり)のぼろの中で、最後の痙攣(けいれん)をして、そのまま動かなくなった。(このカロのことについても、私はずいぶん原稿料を稼いだ。)カロの身体からその瞬間、生命が去って行った、という実感がその時私に来た。つまり動かなくなったそこにあるものは、カロ、マイナス生命、という具合に感じられた。だからそれは不気味でなかったのだ。私は庭の隅に、カロを埋葬し、石を積んでやった。

 昨年末のエスの場合は、そうでなかった。三米の距離から見たエスは、エスの身体から生命が引揚げたのではなく、エスの身体に死というものが、忌わしい死が到来した、という感じが強くあった。私が気味が悪かったのは、そのやって来た死であった。生命が去ったって、死がやって来たって、現象としては同じようなものだが、実感する側からすると、ちょっと違う。彼は快活な人間だというのと、彼はおっちょこちょいだというのとぐらいには違う。

 犬飯を塵芥入れに捨てながら、

「つまりこの犬飯をつくったのは、むだだったというわけなんだな」

 と、わざと呟(つぶや)いたりしてみたが、もちろんそれでごまかし切れるものでない。

 結局、死骸を放って置くわけには行かぬので、近所の八百屋から大型蜜柑箱を買い求め、年少の友人の秋野卓美君を電話で呼び出して、詰め込み方を依頼した。彼は直ぐにやって来た。子供たちが蜜柑箱に紙を貼り、秋野君がエスの身体をぎゅうぎゅう詰め込んだ。私は依然として、三米離れたところから眺めていた。三米というのに意味があるわけでないが、どうもそれ以上近づく気になれない。子供が花をたくさんエスにかぶせ、秋野君が蓋にがんがんと釘を打ちつけた。

「どうして近寄らないんですか?」

 と秋野君が聞くから、私は答えた。

「あれ以来、ちょっと具合が悪いんだ」

 犬の医者に電話して、その蜜柑箱を持って行って貰った。火葬料三百円とのことだったが、まさか人間の火葬場に持って行ったのじゃあるまい。(そんなことをすると、人間が怒る。)犬猫専門の火葬場が、どこかにあるらしい。犬医者の自転車のうしろにくくりつけられて、蜜柑箱が遠ざかって行く風景は、何か趣き、いや、趣き以上のものがあって、私は何だか身につまされるような思いがした。

 昨年の十月だったか、呉九段と高川本因坊の対局があって、観戦記者として私はおもむいた。その時私は疲れていたと思う。一日目の夕方、私は対局室から控え室に降りて来て、毎日新聞の三谷水平さんと碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。そのまま横になった。顔の筋や頭の中にしきりに痙攣が走って、何とも言えないいやな感じである。三谷さんは驚いて、持薬の心臓薬を服用させ、窓をあけ放った。一酸化炭素の中毒をも懸念したのである。直ぐ電話をかけて、医者を呼んだ。

 医者が来るまでの二十分間、死ということがちらちらと私の頭をかすめた。ああここで死ぬのかも知れないな、それならそれでもいいや、という気持だったと書きたいところだが、随筆にうそを書いてはいけないという決めがあるそうで、それならば、やはりここで今死んじゃ困る、切に困る、という気持の一本槍であった。しがみつくようにして、医者の到来を待ちこがれた。医者はやって来た。先ず聴診器で心臓をしらべ、つづいて血圧を計った。血圧は百九十あった。(あとで医書で調べたら、こんな発作を高血圧症の脳症と言うらしい。)降血圧剤を注射して、医者は帰って行った。その日は絶対安静で、もちろんお酒も飲まず、うつらうつらと眠った。その夜半、その宿に泥棒が入った。呉九段の部屋から現金を、三谷さんの部屋からカメラその他を盗み、自動車で東京方面に逃走した。(どういうわけか私の部屋には入って来なかった。)三人組だったとのことで、翌朝その話を聞いて、私はその三人組に対して憎しみと同時に、かすかな羨望を感じた。羨望というのは彼等の行動性に対してだ。おれがこんな具合になって、身動き出来ないのに、あいつらは事もあろうに泥棒なんかをはたらいている。怪しからんという気持と羨ましいという気持がごっちゃになって、更に私の気力を無力にした。

 翌日医者が再訪した時、血圧は百三十くらいに下っていた。

 その時医者は言った。こういう体質の人は案外長生きしますよ。その言い方には憐れみの色があった。何故、と私は問い返した。自分を大事にするからですよ、と医者は答え、帰って行った。だから大事をとってその日も安静、翌日東京に戻り、直ぐ帰宅すればいいのに、切符を持っていたから、後楽園でカージナルス対全日本の野球一回戦を見た。寒い日で、最後まで見るには見たが、選手たちが投げたり打ったり走ったり、それを見るのは楽しいというよりつらかった。泥棒に感じたのと同じような感じがあって、それがつらかったのだ。

 

 その日をきっかけとして、心身の違和が何となく始まり、だんだん増大して、正月頃には最高潮に達した。心身の違和と言っても、正月頃は心の方が八分、身の方が二分、あるいは九分一分の配分で、気分の方が参ってしまったのである。常住坐臥(じょうじゅうざが)死のことを考えている。死について哲学的省察をめぐらしているのではなく、もっと低次元でそいつとつき合っているのだ。死についていくら考えたって、結論は出ないことは先刻御承知だけれど、向うから忍び入って来るからかなわない。

 この状態はよくない。放って置けないと考えたのが大晦日で、明けて一月三日友人の神経科の医師広瀬君の家に相談に行った。私の訴えを聞いて、広瀬君は即座に言った。

「入院するんだね。それも直ぐ」

 直ぐと言ったって、こちらにも仕事がある。仕事が終るのが五月初旬、その頃入院ということにして、それまで薬でつなぐことにした。四箇月間薬で持ちこたえられるかどうか、自信はなかったけれども、そうするより仕様がない。幸い今(四月二十日)まで持ちこたえたから、あとはどうにかやって行けるだろうと思う。

 それから私は来訪者たちに私の病状を詳述し(いくらか誇張して)PRを依頼した。こんな病気は、ひっそりと病んでいるのは面白くない。あまねく人々に知らせて、同情されたり、あるいはざまあ見やがれと思われたりする方が、心に緊張を与えて、精神衛生上有利であると判断したからだ。そのPRはかなり成功した。ざまあ見やがれの方は測定出来ないけれども、同情票の方は言葉やはがきになって、具体的に相当集まった。

 ある人が言った。昔から四十二の厄年(やくどし)といって、その頃は身体の調子のかわり目で、何かが出て来るんだよ。君は厄年にしては少しひねてるけれども、人間の寿命が一般に伸びたから、現代はひねた加減のところで出て来勝ちなものだ。野球で言うと、二塁の曲り角にさしかかったんだね。

 二塁の曲り角か。私は訊(たず)ねた。すると三塁は? 三塁は六十前後に来るそうだ。ではそのあとは? あとはホームまで一直線さ。なるほど、なるほど、あとはホームインまで一直線かと、私は了承した。すると一塁は?

「一塁は青春だよ」

 というのが、その男の答えであった。そういえば私にも思い当る節がある。私は大学に入った時から卒業までの四年間、心身の違和(これも心の方にウェイトがかかっている) が続いて、学校には出席しないし、被害妄想もあって、それで下宿の婆さんを殴(なぐ)って怪我させて、留置場に入れられたことなどもあった。たしかにあれが一塁の曲り角だったに違いない。その頃の日記を読むと、ほとんど毎日のように「荒涼として死の予感あり」だとか「暮夜眼覚めて死をおそるることしきりなり」とか、そんなことばかり書き連ねている。荒涼として死の予感があった青年が、別段病死もせず自殺もせず、のほほんとこうやって生き伸びているのだから、笑わせるようなものだが、やはり心身の違和を、若さで押し切ったのだろう。

「とうとうわしも二塁の曲り角まで来たか」

 と、ある晩お酒を飲み、少し酔って書斎にひとりで坐り、そう呟いた。「僕」という呼称のかわりに「わし」というのが、自然に口から出た。そこでも少し、いろいろ使ってみた。

「わしは哀しい」

「わしは飢えている」

「わしは背中がかゆい」

 わしという呼称は、作中人物に使わせたことはあるが、自分で使ってみるのはこれが初めてである。他人が使っているのを時々聞くと、イヤ味なものだと思うが、自分で使う分には、何だか勇ましいようなわびしいような、ちょっと趣きのあるものである。で、翌晩もお酒を飲んで(毎晩飲んでるみたいだ)うちのものたちを呼び集め、僕も二塁の曲り角まで来たから、以後僕はやめて、わしにしようかと思っていると相談したら、全員から猛反対を受けた。二塁如きでわしを呼称するのはまだ早い。それに近頃医業薬業の発達で、三塁の次はホームという形がくずれつつある。三塁の次に四塁、四塁の次に五塁と、次々に塁が続いているのが現状で、わしを使いたかったら、紀元二千年の祝典以後にしたらどうか、というのがうちのものたちの私への忠告であった。

 紀元二千年の祝典というのは、私が以前書いた随筆で、それに日本地区の文化人代表として出席したい、というようなことを記した覚えがある。今でも出席したいと本気で思っている。私は千九百十五年の生れだから、紀元二千年というと、八十五歳になる。そのくらいまでは生きられるだろう。歳も歳だから、私が団長ということになり、阿川弘之翁や有吉佐和子刀自(とじ)、それに私は外国語に弱いから通訳として遠藤周作老などを引具し、祝典の場所に出かけたいと思っている。どこで祝典が行われるか、やはりその時にならぬと判らない。

 で、そういうわけで「わし」もあと四十余年経たぬと、使えないことになった。当分は僕一本槍だ。

 とにかく来月には仕事が終り、入院する。この四五箇月、外歩きをしないで、家にこもってばかりいたので、身体が少々退化した。先日近所の靴屋に足の文数を取らせたら、十文二分になっているのには驚いた。軍隊にいた時は十文七分あったのだから、五分も退化したというわけになる。まだ若いんだから、本式の退化ではないだろう。運動不足から来る一時的現象に違いない。幸い今度の病院の療法は、あらゆるストレスを一応御破算にして、振り出しのところに戻す療法だそうで、退院の暁は大いに運動だの登山だのをして、足の文数だって十一文ぐらいにはなりたいものだと思っている。そうでないと、団長なんかつとまりそうにもない。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年六月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。第二段落の冒頭の「昨年」の後には「(昭和三十三年)」というポイント落ちの割注が入っているが、これは底本編者の挿入と断じ、除去した。また、私は囲碁の趣味はなく、野球はルールも知らない。従ってその部分の注は一部を除いて附さないこととする。悪しからず。本作は一読、幾つかの実体験シチュエーションが遺作となった「幻化」(リンク先は私の全注釈PDF縦書版)に忠実に活かされていることが判る。彼の精神病院入院と睡眠療法については私のノイローゼ闘病記などで何度も注しているので割愛する。実際、ここに出る内容や語句・人物はかなり重複する。そちらの私の注を参照されたい。

「エス」私が昭和三九(一九六四)年頃に飼っていた柴犬の雑種は「エル」という名だった。1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エルを参照されたい。私が名付けたのだが、これは小学校二年の「国語」の教科書の冒頭の道徳染みた説教臭い物語に登場するスピッツの名だったと記憶している。

「このカロのことについても、私はずいぶん原稿料を稼いだ」「猫の話」(昭和二三(一九四八)年作)・「カロ三代」(昭和二七(一九五二)年作)などを指す(リンク先は私のブログ版テクスト。それぞれPDF縦書版も用意してある。私の「心朽窩旧館」をどうぞ)。特に、「カロの身体からその瞬間、生命が去って行った、という実感がその時私に来た。つまり動かなくなったそこにあるものは、カロ、マイナス生命、という具合に感じられただからそれは不気味でなかったのだ」(下線やぶちゃん)という述懐はかの名作「猫の話」を読解する上で非常に重大な作者の発言である点に注意されたい。

「秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)「立軌会」同人の画家。元「自由美術協会」会員。梅崎春生より七つ年下。「カロ三代」にも登場するちょっとエキセントリックな人物である。梅崎春生は、彼とかなり親しかったようである。

「カージナルス対全日本」昭和三三(一九五八)年に行われたセントルイス・カージナルス対全日本戦。セントルイス・カージナルス(St. Louis CardinalsSTL)は現在のメジャーリーグ・ベースボールのナショナル・リーグ中地区所属のプロ野球チームで。本拠地はミズーリ州セントルイスにあるブッシュ・スタジアム(ウィキの「セントルイス・カージナルス」に拠った)。これはカージナルスの初来日で、全日本は二勝十四敗。メジャーでは下位チームであったが圧勝した、とある(ここは「日米野球の歴史」の解説に基づく)。

「紀元二千年の祝典というのは、私が以前書いた随筆で、それに日本地区の文化人代表として出席したい、というようなことを記した覚えがある」不詳。発見し次第、追記する。

「私は千九百十五年の生れ」大正四年二月十五日生。因みに月日は私の生年と同じである。

「紀元二千年というと、八十五歳になる。そのくらいまでは生きられるだろう」残念なことに梅崎春生はこの執筆から六年後の七月十九日午後四時五分、肝硬変のために東京大学病院上田内科にて急逝した。満五十歳五ヶ月であった。

「阿川弘之」(大正九(一九二〇)年~二〇一五年)。春生より五つ年下。ここに出る中では彼だけが紀元二〇〇〇年を越えて生きた。

「有吉佐和子」(昭和六(一九三一)年~一九八四年)。春生より十六つ年下。

「刀自(とじ)」ここは老女の尊称。

「遠藤周作」(大正一二(一九二三)年~一九九六年)。春生より八つ年下。

「来月には仕事が終り、入院する」昭三四(一九五九)年五月に台東区下谷にある近食(こんじき)病院に入院、七月に退院した。

「十文二分」二十四・三三センチメートル。

「十文七分」二十五・五センチ。

「十一文」二十六センチ。]

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