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2016/09/02

保安隊航空学校見聞記   梅崎春生

 

 浜松保安隊航空学校見学許可証に記された指定の日付は、二月十日(昭和二十八年・火曜日)である。許可証は、東京越中島の保安隊本部にて発行されたもので、人員は二名。群像編集部A君と私の名が記入してある。但書に「取材した原稿写真等は当方の検閲を要する」という意味の一項があり、その項目だけ黒インキで消してある。検閲(けんえつ)は不要であると信用されたのか。しかし検閲というのはすこしおかしい。保安隊は軍隊ではない筈だから、軍機ということもあり得ない筈だ。何のために検閲という行事を復活させたのか。

 前日、浜松に入る。

 浜松の街は、昭和二十年艦砲射撃其の他で、すっかり焼き払われたそうだが、もうほとんど回復している。街はそう綺麗ではないが、市役所其の他の役所の建物はびっくりするほど立派である。地方税の取り方が巧妙を極めているのだろう。街にはパチンコ屋が非常に少ない。探すのに骨が折れるくらいだ。昼間だというのに、目抜き通りの橋のたもとに手相見が出ていて、一人の婦人の手相を見ている。そのぐるりに十四五人の男女がむらがって、それを見物している。のんびりした風景である。

 航空学校は、駅から約八キロ離れた神田原というところにある。旧浜松陸軍飛行学校のあとだ。正門の両方の柱にそれぞれ「保安隊航空学校」「保安隊浜松駐屯(ちゅうとん)部隊」と看板が下っている。銃を持った隊員が一人、立哨している。

 すこし離れたところに四角い立札があり、それには「米軍用地ニ付立入禁ズ。横田米空軍基地」と記してある。ここは日本保安隊の航空学校でありながら、日本の土地ではない。米軍用地なのである。翌日案内して呉れた一保安士に、その立札を指して質問したところ、その保安士はちょっと困惑した表情になって、このことは書かない方がいいですよ、と注意した。米軍用地であるからして、建物を建てたり移動させたりすることも、一々横田米空軍の許可を得ねばならないのである。このことは、航空学校並びに一般保安隊の性格を、如実に物語っているように私には思える。

 

 門を入って警衛所。そこに見学許可証を差出すと、これは明日付ではないかと言う。だからその打合わせに来たんだと答えると、士補が一人出て来て、校舎の方に案内して呉れる。並んで歩きながら航空学校のことを訊ねてみたが、はきはきと答えて呉れない。

「私どもは学校とはあまり関係がないもんで――」

警衛の方は、駐屯部隊の仕事に属するらしく、一応航空学校とは無関係にあるようだ。

 本部舎内の一室に案内され、弘報係の一等保安士と会う。(一等保安士は旧軍隊の大尉相当。佐官は保安正であり、士補は下士官相当である。)近頃見学者や参観人が非常に多いので、このB一士はもっぱらそれにかかり切りとのこと。入隊前は学校の教師をやっていたという、三十五六の人物だ。

 ストーブを囲んで明日の打合わせをしている中に、B一士が突如として、原稿は発表前に一応眼を通させて欲しいと言い出した。これにはA君も困ってしまって、締切の関係もあるからとか、越中島の方でも検閲の項は消してあるんだからとか、いろいろ抗弁するが、B一士は頑として聞き入れない。越中島でやらないからこそ、こちらでやる必要があるんだと主張する。事実を曲げて書かれたり、一隊員の私見を隊そのものの意見のように書かれて、迷惑することがしばしばだという。このB一士の言い方にはいささかはったりが感じられた。ちょっと脅かして置く必要があると思ったのだろう。A君がなかなかうんと言わないので、その間題ははっきりしないまま、うやむやになってしまった。

 朝七時五分と七時二十分に、隊外居住員のために、浜松駅からトラックがある。明日それに乗って来ることに決めて、私たちはその部屋を辞した。この室は調査部室で、このB一士が室長らしく、保安士がもう一人、士補が三人ばかりいて、書類を出し入れしたり記録したり、いろいろ事務を執っていた。その仕事ぶりは、そこらの会社や役所のそれよりも、もっと漫々的(マンマンデー)である。仕事に対する情熱は、ほとんど感じられない。いやいやながら止むを得ず仕事しているような風情(ふぜい)だ。

 

 二月十日朝、暗いうちに起きて宿を出、駅に向かう。空は晴れているが、大気はつめたい。駅には大型トラックが待っていた。東京でもよく見かける、あの幌(ほろ)つきの、内部で向かい合って腰掛ける式のやつだ。駅から乗車したのは、私たち二人だけ。トラックは定刻に発車した。この手の車に乗るのは初めてだが、見かけによらずよく揺れること、風が吹き抜けではなはだ寒いということを、身をもって承知した。途中あちこちとまって、その都度二人三人と乗り込んで来る。皆隊外居住者で、階級章を見ると保安士が多い。(保安士以上は原則として隊内居住を禁じられている。)航空学生もいるらしく、今日の飛行予定のことなどを話し合っている。この天気では機体が揺れるだろう、などと。隣に掛けている保安士が、どこからやって来たのかと私に聞く。束京から来たんだと答えると、いろいろ東京のことを聞きたがる。その中にやっと正門についた。正門の前で、私たち見学者だけが降される。

 警衛所を通じて、昨日の部屋に行く。B一士の案内で、直ちに朝礼を見る。朝礼場は正門を入ったすぐの広場。国旗掲揚台がある。午前八時、ラッパの吹奏に合わせて、国旗掲揚。隊員一同整列して、不動の姿勢で国旗に敬礼、あるいは捧銃(ささげつつ)。大体米式にならっているらしき様子。飛行学生らはこの時刻、もう訓練開始で、朝礼には出ない由。急いで飛行場の方に向かう。朝礼の済んだ隊員等が、体操をやっている。昔の海軍体操と普通の徒手体操をまぜこぜにしたような体操だ。これらはすべて、この間保安隊に入ったばかりの新入隊員である。あとでこの新隊員の話になった時、某保安士は彼等のことを「新兵」と呼び、某保安士補は「初年兵」と呼称した。その呼称は、何の抵抗もなく、すらすらと口から出たようである。保安隊は軍隊でなくとも、隊員は内部ではすでに兵隊であるらしい。私もその時それを別に不思議には感じなかった。

 飛行場では、飛行横が格納庫から引出され、十二三台ずらずらと並んでいる。手廻しのエンジン始動が、すでにあちこちで開始されている。広漠とした飛行場を、かなりの強風が吹きぬけている。やがて操縦学生らは、それぞれ操縦席に乗り込み、所定の位置から所定の方向に向かって、一機一機と飛び立って行く。今日は初めての遠距離飛行をやるのだと言う。

 

 現在の学生は、操縦学生が十一名。整備学生が三十二名。これが第一期生に当る。第一期の訓練期間は、一月十五日より四月十日まで。一月十六日から訓練を始め、一月十九日には単独飛行となったという。習熟が早いのは、これらの人々は有能な経験者ばかりで、旧陸海軍で大体二千時間から六千時間の飛行経験のあるものばかりである。飛行学生の長は、S旧海軍中佐。マレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズを沈めた人物。この人々が、四月十日訓練を卒業すると、直ぐそのまま居直って教官となり、次期学生の訓練にあたる予定になっている。日本全国の各区の要員は、大体今のところ百八十名だという。その要員は、初心者から選ぶまでもなく、保安隊内に有経験者がぞろぞろいるから、骨は折れない由。第一期のこれら学生を指導しているのは、もちろん米軍の軍人である。学生二名に教官一名の割。飛行場にも、航空服装をした米人の姿が、あちこちに見られた。航空服装を着けた白人の恰好を、私はあまり好きではない。どういう訳か、血の通っていない非人間的な感じを、私はそれらから強く受けるのだ。たとえば肉食獣の獰猛(どうもう)さとでもいったようなものを。

 

 この航空学校が、日本空軍の卵であるかどうか。こういう疑問に対して、各幹部は口を極めてこれを否定する。

 C幹部曰く。

「飛行機だからと言っても、絶対に空軍ではありませんよ。第一この飛行機は、アメリカの空軍から借りたものじゃない。アメリカ陸軍の貸与品です。陸軍のものだから、これは空軍ではないです」

 この論理はすこしおかしい。ここで使用している機種は、米陸軍貸与のエアロンカL16其の他。練習機ではなく、実用機である。長さ七米ほど、翼長十米ばかりの小型機だ。武装はなく、もっぱら連絡、偵察、弾着の測定などに用いられる。速力は八十五マイル程度。

「つまり、観測気球がちょっとばかり動くという程度ですな。観測気球だったら、空にあっても、誰も空軍とは言わないでしょう」

 そう言って、満足げににこにこと笑う。そこで私も相槌(あいづち)のつもりで、

「つまり、やはり練習機程度ですな」

 と言ったら、そう断定されるのは不服らしく、

「いや、練習機ではありません」

 と否定した。この飛行機は、性能こそ劣っているようだが、太平洋戦線で散々日本軍を悩まし、今朝鮮戦線でも実に有能なる活躍をつづけている機種だという。すなわち有力なる戦力なのである。木村長官あたりが、保安隊は戦力でないと議会で頑張るのは、おかしいみたいな話だ。しかしその飛行機が、自分たちのものでなく、貸与品であるということは、やはり割切れなく物足りない気持であるらしい。私がそれを言うと、

「そうです。ほんとにそうですよ」

 と同感した口調である。翼に早く日の丸がつけたくて、既に赤色ペンキもひそかに用意してあるのだという。ビールはすでにととのい、あとは栓抜きを待つだけというところか。ペンキを用意してある件(くだ)りでは、私たちもすこし笑った。

 

 いろいろ会った各幹部は、なかなか口が固く、へたな発言をすまいという気配がはっきり見える。この頃見学者も多く、また記事もあちこちに出て、その記事の出所が問題となり、進級停止になった幹部もあるという。これではうっかりしたことは言えないわけだ。

「お互いに池田勇人みたいに失言したくないですからな」

 とD幹部はわらう。我々は現状では満足しない、ジェット機三千機を目標にしている、などと放言した隊員がいて、それが記事に出たりして、問題になったこともある由。なるほどそれでは問題になるだろう。

 

 米軍との関係について。

 保安隊の中に、反米的気分というものはないか、と訊(たず)ねると、全然無いという返事。これはもちろん質問の仕方が悪かった。そう正面切って訊ねれば、そう答えるにきまっている。

 日本保安隊の優秀さについて。

 北海道に米州兵が来ることになった時、日本当局がラッセル将軍に兵の素質の程度を聞いたら、ラッセル暫(しば)し首を傾けて、

「州兵は非常に優秀な兵隊であるが、日本の予備隊には劣る」

 と返答した由。これはE幹部の話。そばからD幹部が、

「某米軍人が言うには、日本の保安隊は韓国軍よりはるかに優秀だってね」

「そうだよ」

 と別の幹部が受ける。

「俺たち保安隊は、アメリカ軍よりももっと優秀だよ」

 皆笑いながら合点合点する。冗談めかした口調であったけれども、本気でそう思っているらしいことは、ありありとその表情態度から汲み取れた。どの幹部も、現在の保安隊の優秀さについて、私たちに説明をしたがった。六万円時代とは素質において比較にならないという。そんな優秀な保安隊が、さほど優秀ならざる米軍の下位にあるのは、さぞかし面白くないことであろう。しかし彼等は口をそろえて言う。

「米軍の指導下にあると言っても、この航空学校では技術指導だけで、その他の点では米人教官といえども、航空学校長の管轄(かんかつ)の下にあります」

 米陸軍顧問団はベーコン少佐以下数名。航空学校内には居住せず、ホテルかどこかに宿泊して、毎日自動車で通って来る由。これはF士補の話。このF士補は、米人教官の行動や態度については、ほとんど無関心らしく、興味を示さない。お偉方のことについては自分は関係なし、そういった表情である。

 

 保安隊が浜松にやって来たのは、昨年の十月十五日。それまで旧浜松陸軍飛行学校の管理は米軍がやっていた。保安隊がやって来ることが決まると、ある夜、一部の建物が突如怪火を発して、幾棟か炎上したという。原因未だに不明。G保安士、私の質問に答えて曰く。

「なあに、誰がやったかちゃんと調べはついているんですが、今のところは放ってあるんですよ」

 B一士の話では、そういう状況であったので、敵地に乗り込むような気持でやって来たが、浜松市民もだんだん我我の善意と優秀を認識して、今では非常な好感を以て迎えられているという。私が浜松で聞いた話では、必ずしもそうでなかった。隊員の善意や優秀はさておき、保安隊そのものに対する疑問、そんなのが自分の街の近くにあることへの抵抗、そんなものがぼんやりと私には感じられた。再焼打の計画もあるという噂もあるが、どこまでデマかは判らない。

 旧陸軍航空隊の建物の大部分は、今でも荒廃したままだ。航空学校が使用しているのは、一部だけである。格納庫も、飛行機格納に使用しているのは二棟だけ、隊員宿舎に一棟、あとは骨組だけのがらんどうだ。しかしいずれ修復されて、全部使用されることになるだろう。

 来る人来る人、操縦の方ばかりをちやほやして、整備の方は無視するので、整備の連中が大いにひがんでいる。訪問記には是非整備の方のことも書いて欲しい、とB一士から呉々(くれぐれ)も頼まれる。B一士が私等に想定している任務は、航空学校に関する国民の誤解を解き、大いに啓蒙宣伝に努めて呉れということなのである。啓蒙宣伝は出来るかどうか判らないが、実相を伝えることには努力する旨を私は約束した。

 さて、整備の方。格納庫の中でしばらく見学した。私服の男がちょろちょろとそこらを動き廻っている。聞いてみると、通訳だとのことで、米指導者と整備学生の間の連絡通訳が任務だ。しかし言葉の関係上、指導がなめらかに行っていない様子で、整備員たちは、

「何だい。教えて呉れたって、何にも判りゃしないや」

 と自分たちのかんで、手探り手探り仕事を進めている。昔の経験で、機種は異なっても、おおよその見当がついて行くらしい。油だらけになって、地味ではあるし、あまり愉しそうな仕事ぶりではなかった。

 

 飛行場係のH幹部曰く。

「空軍だの再軍備だの、そんなことは私たちの念頭にない。あるのは、空に対する熱意だけです。日本の空でありながら、今までは日本の空でなかった。それを私たちは回復したい。それのみです」

 

 行政協定により、局地区域(飛行場を中心に大体名古屋、静岡、諏訪湖を結ぶ線)以外を飛行する場合は、極東空軍に連結する義務がある。三千米以下を飛ぶことに決められている由。空にはまだ壁と屋根がある。

 

 B一士の話では、保安隊で一番生活が楽なのは、独身の士補、査長(兵長相当)級だとのこと。たとえば査長五号俸で、約七千八百円。宿舎食事付だから、残そうと思えばまるまる残る。二年間で二十万円貯金した例があった由。

「それにくらべて、私は一士でも古手ですが、二万一千円という収入で――」

 隊外居住だからその家賃がかかるし、家族は多いし、隊内食事も昼飯だけで、それも一食三十円支払わねばならぬのだという。ぐちをこぼしてるのか、士補、査長の職業的有利さを強調しているのか、よく判らなかったが、そのそばで三人の士補たちは、のろのろと事務を執りながら、至極無表情な顔である。自分たちのことを話されているのではないといった風情(ふぜい)だ。

 しかし、収入的に有利であるとしても、職業的に、あるいは人間的に有利であるかどうか。

 

 昼食は、隊の方に余裕がないというので、A君と二人外に出て、一膳飯屋で井飯を食べる。昼食後の休憩時間に、操縦、整備の学生を集めて座談会を開いて呉れる予定だったが、連結の食違いのために、お流れになってしまった。でも、見たいこと聞きたいことは、もう見聞きしてしまったし、お膳立ての座談会を逸しても、そう残念でなかった。どうせこの人々は、教官になる人々であるし、その線に沿った発言しかしないにきまっている。

 

 本部を辞して、正門のところで、駅行きの大型トラックの到着を暫く待つ。F士補が門の警備に立っている。それと暫(しばら)く雑談をする。F士補は蒼白い顔をした、三十前の青年だ。低い声で、自嘲するように言う。

「新聞配達しても一生は一生だし、私どものような一生も一生だし、総理大臣だって一生は一生だし――」

 そして声を立てて短く笑う。その笑い声は、トラックに便乗して浜松駅に着いても、まだ私の印象に強く残っていた。これが今日の唯一の手応えのある印象だったかも知れない。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月号『群像』(現在も刊行されている講談社発行の月刊文芸雑誌)初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「浜松保安隊航空学校」現在の三重県伊勢市小俣町(おばたちょう)明野(あけの)にある明野駐屯地内の「陸上自衛隊航空学校本校」の前身。ここは現在地で大正九(一九二〇)年四月に「陸軍航空学校射撃班」として発足後、翌年に「陸軍航空学校明野分校」に改編、その翌大正十三年五月に「明野陸軍飛行学校」として独立、第二次世界大戦中の昭和一九(一九四四)年六月、「明野教導飛行師団」に改編、翌年七月十八日に「第一教導飛行隊」に改編された。敗戦後の昭和二七(一九五二)年十月十五日「保安隊航空学校」として浜松(現在の「航空自衛隊浜松基地」)に設立された(即ち、梅崎春生の訪問は新制としての開校から四ヶ月しか経っていなかったことに注意されたい。なお、この後の昭和二九(一九五四)年七月一日を以って「防衛庁設置法」よる「航空自衛隊」発足に伴い、「陸上自衛隊航空学校」に改編され、翌年の七月二十九日に浜松基地から戦前の古巣である明野駐屯地に移駐されている。同航空学校には分校として、栃木県宇都宮市上横田町の宇都宮校(北宇都宮駐屯地)、及び、茨城県土浦市右籾町の霞ヶ浦校(霞ヶ浦駐屯地)の二校がある。以上はウィキの「陸上自衛隊航空学校」に拠った。因みに「保安隊」は、当時の「保安庁」(「警察予備隊」(昭和二五(一九五〇)年八月十日にGHQの「ポツダム政令」の一つである「警察予備隊令」によって設置された武装組織)や「海上保安庁」(治安組織の一元化の見地から「海上公安局」に改組されて「保安庁」の下に置かれることになっていたが、海上保安庁側の猛反発によって改組のための「保安庁法の海上公安局に関する規定」及び「海上公安局法」は施行されずに廃止となり、海上保安庁は改組による消滅を免れて現在に至っている)などの統合を目的として昭和二七(一九五二)年八月一日に創設されたもので防衛庁、現在の防衛省の前身)に「警備隊」(保安庁管轄で、保安庁開設と同日に置かれた日本の領海警備を目的とする海上警備機関。「海上保安庁」の「海上警備隊」及び「航路啓開本部」・「航路啓開部」の後身であり、「海上自衛隊」の前身)とともに置かれた日本に於ける国内保安を目的とした武装部隊。昭和二七(一九五二)年十月十五日に警察予備隊を改編して発足した、現在の「陸上自衛隊」の前身。以下、参照したウィキの「保安隊」によれば、『警察予備隊令が講和条約発効から』百八十日後に失効する『ことから、日本政府は』昭和二七(一九五二)年七月に『保安庁法を成立させ、総理府の機関であった警察予備隊のうち「本部」及び「総隊」を保安庁の「内部部局」及び「第一幕僚監部」に移行させ、「管区隊その他の部隊等」は警察予備隊の名称のまま保安庁の機関に移管』、二ヶ月半の『準備期間を経て保安隊に改編した。保安庁法では、警察予備隊令に明記されていた「警察力の不足を補う」という文言がなくなり、独自の保安機関であることがより明確となった』。昭和二九(一九五四)年三月に『日米相互防衛援助協定が結ばれ、日本は「自国の防衛力の増強」という義務を負うことになった。これを受けて』、同年六月に『自衛隊法と防衛庁設置法を成立させ』、翌七月に『陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の管理・運営を行う防衛庁が発足し、保安庁は発展的に廃止され、業務は防衛庁に引き継がれた。警察の補完組織だった保安隊が、国防を任務とする自衛隊になったために新任務にふさわしい宣誓が求められ』たが、全隊員の六%にあたる約七千三百人が『宣誓拒否して退官した。大部分が陸上自衛官の任期制隊員とされる』とある。

「東京越中島」東京都江東区越中島。「保安隊本部」後の「防衛庁本部」・付属組織・「総隊総監部」(司令部、現在の東京海洋大学越中島キャンパス内の越中島会館)・「第一管区隊」(旧陸軍・陸上自衛隊の師団に相当)などが置かれ、昭和二六(一九五一)年には「警察予備隊」発足後初の観閲式もここで行われた。昭和三五(一九六〇)年一月二十五日に閉鎖され、当時の「防衛庁」は千代田区霞が関へ移転した(その後も移転あり)。現在の「防衛省」は東京都新宿区市谷本村町内である。

「軍機」軍事機密。

「浜松の街は、昭和二十年艦砲射撃其の他で、すっかり焼き払われた」浜松市街は度重なる空襲を受けているが、特に昭和二〇(一九四五)年六月十八日のそれは、浜松都市地域を第一目標としたもので「浜松大空襲」と呼称され、実に死者は凡そ千八百名に及んだ。その翌七月二十九日には米戦艦「サウスダコタ」「マサチューセッツ」「インディアナ」「キング・ジョージ五世」などによる艦砲射撃をも受けている。当時の目標は国鉄浜松工機部・浜松駅・日本楽器・東洋紡績などで、約百七十名の死者を出した。以上はウィキの「浜松空襲」に拠った。

「一保安士」「一等保安士」「一等保安士は旧軍隊の大尉相当。佐官は保安正であり、士補は下士官相当」「保安士以上は原則として隊内居住を禁じられている」当時の保安隊の階級や相当階級はウィキの「保安隊」の「保安隊の階級」を参照されたい。

「漫々的(マンマンデー)」本来は中国語で(とすれば「漫漫的」としなくてならぬ)、「仕事の進行などがゆっくりであるさま」を指す。その発音を音写したまま戦前から日本語化したものと思われ、「ゆっくり・のろく」「だんだん・そのうちに」の意となった。但し、正確に音写するなら「マァンマァン・ドゥーァ」である。

「マレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズを沈めた」「マレー沖海戦」は太平洋戦争初期の昭和一六(一九四一)年十二月十日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。「プリンス・オブ・ウェールズ」(Prince of Wales)はイギリス海軍の戦艦(排水量は基準で三万六千七百二十七トン、満載で四万三千七百八十六トン。艦名は当時の国王ジョージ六世の兄王であるエドワード八世の即位前の称号「王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)」に由来)。沈没に至る状況はウィキの「マレー沖海戦」に詳しい。リーチ艦長を含む数百人が艦と運命をともにした。同ウィキによれば、作戦前の戦果予測に於いては『山本五十六連合艦隊司令長官は三和義勇』(みわよしたけ)作戦参謀に対し、『「リナウン(レパルス)は撃沈できるが、キング・ジョージV世(プリンス・オブ・ウェールズ)は大破だろう」と発言、三和が』二隻とも『沈めると反論すると、山本長官は自論の正しさにビール』十ダースを『賭けた』とある(「リナウン(レパルス)」(Repulse:「撃退:反撃」の意)はイギリス海軍の巡洋戦艦(排水量は満載で三万八千二百トン)。マレー沖海戦では同じく日本海軍機の攻撃を受けて戦艦プリンス・オブ・ウェールズとともに撃沈されている。ウィキの「レパルス(巡洋戦艦)」によれば、五百八名の乗員が失われた。『レパレスの生存乗員は駆逐艦エレクトラとヴァンパイアによって救助されているが、日本海軍機はこれを一切攻撃しなかった。また翌日、撃沈した航空隊員の』一人であった『壱岐春記大尉は搭乗機で現場を訪れ、鎮魂のために花束を投下している』とある。なお、「飛行学生の長」である「S旧海軍中佐」は不詳。

「エアロンカL16」アメリカ合衆国のエアロンカ社が開発したプロペラ軽飛行機エアロンカ・モデル7・チャンピオン(Aeronca Model 7 Champion)のこと。ウィキの「」によれば、『大戦終結直後から一大ブームとなった軽飛行機市場においてチャンピオンは大成功を収め、「チャンプ(Champ)」や「エアノッカー(Airknocker)」の愛称で有名になっていった。また、アメリカ陸軍も連絡機としてL-16の名称で採用し、朝鮮戦争において前線任務に投入する一方、本土で練習機としても運用したが、大きな成功は得られず』、『すぐにより近代的な機種に置き換えている。L-16は』昭和二七(一九五二)年に『日本の保安隊にも訓練用として供与されており、事実上日本が終戦後初めて運用できた軍用機であった。しかしこれも数ヶ月使用されただけで返還されており、代わってL-5L-21Bが供与されている』とある(下線やぶちゃん)。

「八十五マイル」時速百三十七キロメートル相当。

「木村長官」当時(第四次及び第五次吉田内閣)の保安庁長官木村篤太郎(とくたろう 明治一九(一八八六)年~昭和五七(一九八二)年)。そのまま防衛庁長官となった。

「北海道に米州兵が来ることになった時」昭和二六(一九五一)年に朝鮮戦争で北海道駐留部隊であった第七歩兵師団が出撃したため、その留守に配置されたオクラホマ第四五歩兵師団(州兵)を指すか(「函館市中央図書館」公式サイト内の「函館市史」の「進駐アメリカ軍のその後」に拠った)。

「ラッセル将軍」不詳。

「六万円時代」Q&Aサイトに、政府が最初に警察予備隊の隊員を募集した時の条件は月給五千円で、二年間勤務すると六万円の退職金が出る、というものだったとあり、安月給の地方公務員が月給三千円の時代、戦前の軍隊と比べるれば大変な優遇でしあったが、多くの大衆は入隊はただの金目当てと断じて、警察予備隊(当時の制服はオレンジ色で一目でそれと分かった)の制服を来た者を見かけると「六万円が歩いている」と嘲笑したとあった。

「航空学校長」当時は汾陽光文(かわみなみみつふみ ?~昭和四九(一九七四)年)。陸軍中佐で終戦を迎えた。後、浜松南基地内の術科教育本部初代本部長から航空幕僚監部付となって退官した。空将(小村大樹氏のサイト「歴史が眠る多磨霊園」の「汾陽光文」に拠った)。

「米陸軍顧問団はベーコン少佐以下数名」「浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」の「浜松市史 四 第三章 発展への基礎づくり 第二節 自衛隊・警察・消防 第三項 警察予備隊・保安隊・自衛隊の発足 一 保安隊航空学校の開校 米陸軍顧問団と訓練の開始」の「米陸軍顧問団と訓練の開始」を参照されたい。先の「エアロンカ」も解説されてある。

「保安隊がやって来ることが決まると、ある夜、一部の建物が突如怪火を発して、幾棟か炎上したという。原因未だに不明」同前の「浜松市史」の「警察予備隊 米軍顧問団」の「警察予備隊航空学校」の項に『警察予備隊の航空学校が浜松に設置されるということが地元の『浜松民報』に掲載されたのは昭和二十七年七月二日のことであった。記事の見出しには、「訓練機三十機を常備」「空の予備隊基地」「浜飛校跡に設置本ぎまり」とあり、飛行学校の七年ぶりの復活についての賛否両論を紹介している』。『一方、東京の航空学校設立準備室等では、浜松では設置反対の声が高まり、ビラ、壁新聞などが市内で配布され、市民の関心を深めつつあって、不穏な空気が漂っていたとの印象を受けたようだ(大塚正七郎『陸自航空よもやま物語』五十七頁)。それを裏付ける事件が同年七月六日の夜に起こった。警察予備隊の基地に決まった旧浜松陸軍飛行学校の木造二階建ての兵舎が放火と見られる火災により焼失したのである。しかし、航空学校開校の準備は進み、荒れ放題の飛行場の整備や建物の補修が進んでいった』とある。

「極東空軍」この謂い方は厳密には正しくなく、アメリカ空軍における航空軍の一つで、現在も横田基地にある「第五空軍」(Fifth Air Force)が正式な名称と思われる。ウィキの「第5空軍 (アメリカ軍)によれば、『在日米軍における主要空軍部隊となっており』ここの『空軍司令官(空軍中将)が代々』、『在日米軍司令官を兼ねている』。『太平洋戦争の勃発するまでに、フィリピンに所在するアメリカ極東陸軍(USAFFE)においては』二百十機の航空戦力を有するようになっていた。昭和一六(一九四一)年十月には『緊迫した情勢に鑑み、極東空軍(Far East Air Force, FEAF)が編制されている。太平洋戦争の勃発とともにフィリピンの戦いが行われると、FEAFは大きな打撃を受け、オーストラリアに後退した』。翌年九月十八日に『ブリスベンにおいて、FEAF内に第5空軍が編制され』、『オーストラリア北東部からパプアニューギニアにかけて所在し、日本軍への反攻を開始している。大戦終結後は日本へ駐留し、占領任務についた』(下線やぶちゃん)。昭和二五(一九五〇)年からの『朝鮮戦争においては主力部隊および司令部が朝鮮半島に移動し、北朝鮮軍との戦闘を行っている』。『冷戦期およびそれ以後においては日本に駐留し、航空自衛隊や韓国空軍との関係を深めている』とある。

「士補、査長(兵長相当)」下士官相当の保安士補(一等保安士補・二等保安士補・三等保安士補)と保査長(下に一等保査と二等保査がいる)が正式な名称。]

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