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2016/09/26

食生活について   梅崎春生

   食生活について

 

 せんだってお米が一升、とうとう三百円にはね上った。なにしろあの上り方はすさまじく、一日に十円ずつきちんきちんと上り、二百二三十円程度のものが三百円になるのに、大体十日もかからなかったと思う。いくら凶作とはいえ、新米がもう出廻っているのだから、水鳥の音におどろかされた平家勢のような感がなくもなかった。私の近所一帯に毎日千葉県から行商にやってくる女がいて、皆から「千葉屋さん」と呼ばれているが、その千葉屋さんに毎日米の相場を聞くのが、スリルでもあり、またたのしみのようなものであった。しかしいくらなんでも三百円の声を聞いた時には、私も慨歎に堪えず、またそんな闇米を買うために余計の働きをしなけりゃならない、そんなばかばかしいことはないから、これをいい機会として、当分米を一切食べないことに決心した。米なんか食べなくても、他のものでも結構間に合う。ことにこの頃は、米不足のせいもあって、新聞雑誌で各種の粉食談義があるから、戸惑うことはない。それに私は近頃、いくらか食の嗜好(しこう)が変ってきて、以前のように是が非でもお米でなくてはならない、ということがなくなって来ている。更年期に近づいたせいであろう。

 私は若い頃極端なライスイーターで(ふつうの日本人は大体そうであるが)、パンや麺(めん)類を主食とする生活には到底堪えられなかった。これはいろいろ理由はあることであろうが、私の感じとしてはその理由のひとつに、歯ごたえの問題ということがあげられるように思う。粒食を好む人間の大部分は、その歯ごたえを好んでいるのではないかしら。少なくとも私はそうだ。。パンや麺と違って、粒食はその一粒一粒の触感が、はっきりと味そのものに参加している。それが味覚の上からの粒食の最大の特徴である。で、私の米好きもそこにかかっているようだ。

 その証拠、というほどでもないが、たとえば私はあの敗戦直後、アメリカさんよりいただいた(いただいたと言ってもどうもただではないらしい)玉蜀黍(とうもろこし)の粉。あれは大嫌いである。コーンスープか何かにすれば旨いのだろうが、当時はそんな余裕はなかった。すなわち誰もが食べたように蜀黍(もろこし)団子。あんなに旨くないものはない。あれは不味(まず)さの点において、私の食べたものの中のベストスリーに入る。ところが私は玉蜀黍のもぎ立てをゆでたり焼いたりして食べるのは大好きなのである。玉蜀黍の季節は、新米の出廻る前で、だからふやけたような古米を食べるより、玉蜀黍を食べる方がずっと旨いのであろう。これもやはり歯ごたえの関係であるらしい。

 また戦争中によく配給された玄米。あれはあまり評判が良くないようであったが、私には好適であった。今でも手に入れば食べたいと思うほどだ。あのぶつりと歯で嚙みしめる感触が、パンにも麺にもないのである。それからおこげ。

 御飯のおこげの旨さについて、ある時さる食通の人に語ったところ、それは味覚の邪道であると叱られた。しかしその人の説によると、おこげが出来るような焚き方をすると、おこげ以外の飯粒、つまり釜底のではなくて内側の方の飯の味は、ぐんと好くなるそうである。その話を聞いて以来、私はますますおこげに対する愛着と尊敬の念を深めた。一身を犠牲にして他の飯粒の味を良くしてやる。人間にも仲々出来ないことだ。しかも邪道とはいえ、あの狐色に焦げたおこげの味はすばらしい。私は今でも、自宅で酒を飲む時適当な肴がなければ、家人におこげをつくって貰い(もちろん家中の御飯をつくるついでにだ)、それにバターを塗り、ガーリックソルトをふりかけて、もって肴とする。手軽にして絶好の歯ごたえである。食物のみに限らず、すべてのことにおいて、この歯ごたえということは大切である。

 そういう御飯好きの私が、御飯を遠ざけようと決心したのも、前述の如く米のばか闇値によるのであるが、同じような決心をした人が他にもいると見えて、今朝の某新聞の投書欄に「食い改めの実行」という文章が出ていた。それには「私は排米宣言をした。排米といってもアメリカを排撃するのではない。米粒を排撃するのである。私も六十年近く米の飯を食べてきたので、米の飯のうまさは十分承知している」というような書き出しで、十月一日から米飯を一切食べぬことにしてすでに二十数日、何の異状もなくしごく快適な日を過しているというのである。更につづけて「凶作は神様が日本人に悔い改め(食い改め)を迫っておられるものと私は信じている」とつけ加えてある。趣旨は大体私と同じようなものであるが、いざ文章として読んでみると、何か禁欲的なものがまつわりついているようで、そこらがちょっとばかり引っかかる。食生活というものは、原則的に楽しみの上にたてられるべきで、禁欲的要素は持ちこんではいけないものと私は日頃考えている。と言って三百円に立ち向かう資力は私にもないから、つまり私も食い改めて、まるまる一週間私は米を側近から追放した。すなわち朝はパン、昼はうどんそば、あるいは押麦ばかりをたいてそれを主食とする。押麦ばかりのやつは、想像していたよりもずっと旨い。別種の歯ごたえと香気があり、少しはばさばさしているが、おぎなうにスープあるいは味噌汁、または唾液をいつもより少し余計出せばいい。その気になれば唾液なんかいくらでも出るものである。夜は原則として私は主食を摂(と)らない。酒をもってこれにかえる。酒は米ではないか。しかしここに合成酒というものがあって、私はこの飲料をあまり好まないのであるが、いきがかり上清酒を飲むわけにはいかないので、止むなく合成酒。近頃は合成酒にも、味を良くするために少々米の気が入っているという話も聞いたが、そこまで気を廻すとはてしがない。芋か何かからまるまる合成されたものだと諒承して、一週間これをたしなんだ。結構これでも酔いが廻る。ぜいたくなことを言うなと言われそうな気もするが、実のところ、合成酒でも結構酔うということにおいて、私はいささかのこだわりと不快を感じる。合成酒は清酒ににせて造った飲料であり、いわば代用品またはにせものである。清酒というものが世に存在しないとするなら、私はこの合成酒を芋酒として認めてもいい。しかし清酒が存在する以上、そういうわけにいかない。このことは、近頃流行(?)の人造米にも通用する。人造米。何というばかばかしい発明をしたものであろう。

 人造米というものを苦心して発明した人間の頭脳の奇怪さ、あるいはばかばかしさ、それについて私はもう言う言葉もない。人間の頭脳がそういうことに使われることに、私はある惨(みじ)めさを感じる。私は人間の頭というものは、たとえば米については、稲の品種改良なり増産方法なりまたは保存方法改良の方向に使われるべきものであって、他の原料からにせ米を造る、そんなことに使われるべきでないと考える。これは自明の理である。そういうことは詐術に類することであり、まっとうな頭脳の使用法ではない。そう私は思う。井ノ頭公園あたりに行くと、木の枝の形に似せたセメント製の柵(さく)がある。あれを見るたびに私は不快を感じるのであるが、人造米の厭らしさもそれに相通じるものがある。しかし人造米人造米と、論議のみを繰返していても始まらない。そこでせんだってうちでもこれを一袋買って来て、試食してみた。ふつうのお米に二割混入してたいてみたのであるが、食べてみて、ほとんどそれと判らなかった。そのことが私を二重に不快にさせた。混入を判別出来なかったということは、一応発明の勝利ということになるかも知れない。しかし食べている側からすれば、お米と思って食っていて、実は別のものを食わせられていることになる。そんな不都合な話はなかろう。自分で混入を承知して食べる分にはいいかも知れないが、たとえばよそで晩飯などを御馳走になったとする。そしてたっぷり米の飯を食べたつもりでいるところを、それが人造米が三割混入であったりしては、都合がよくないだろう。米だと思って食べたのならそれでいいじゃないか、という向きもあるだろうが、それは口舌の感触だけで、中身が違えば栄養も違う。本質的に違うものを、だまされて食うということはよろしくない。女だと思って共寝したら、それが男娼と判って、怒ってそれを刺し殺した少年の例がある。刺し殺したのは良いことではないが、あの少年の怒りは当然であり正しいものであったと私は思う。人造米も実質的にはこのおかまの類である。お米と識別出来ないとか、栄養価もお米に劣らないとかいうことは、言わば枝葉末節のことである。根本的なところで歪んでいるのだ。これは人造米のみに限らず、世上一般のこと、政治にも芸術の分野にも、近頃この人造米的傾向が多過ぎる。例はあげるまでもなかろう。

 以上、闇米が三百円となり、人造米が出現し、あちこちで粉食談義の花が咲き、いろんな人がいろんな食生活の発言をしたが、中にひとつこういうのがあった。今は米不足で皆わいわい言っているが、それは贅沢というものである。終戦時のことを思え。芋の葉や雑草まで食べたではないか。現在は米はともかく、パンや麺類は自由販売だし、さつま芋にいたってはろくに食い手もない有様である云云。この議論は一応もっとものように見えて、これほど愚劣な議論はない。言うまでもなく人間には、正常な食生活をする権利と自由があるし、あるべきである。終戦時のそれは異常な状態であり、すなわち人間の食生活ではなかった。それを引き合いに出すのは正しくないし、それを引き合いに出すことによって現在を贅沢だと立論することは、その立論者が支配階級側だとすれば厚顔なる言いくるめであるし、庶民階級からの発言だとすればそれは卑劣な奴隷根性ということになる。ところが案外こんな論議があちこちで賛成されていて、この間もバスの中でどこかの奥さん同士が同じ趣旨の会話をしていて、私をいらいらさせた。私はなにも栄耀(えいよう)栄華、盛んに贅沢をせよなどとは言わないが、耐乏生活ということ、その言葉がよって来たるところのごまかしに対しては、全身をもって反撥する。我々に耐乏を押しつけることによって、他にろくでもないことが行われつつある。そんな状態には私は我慢が出来ない。前述の立論はこのろくでもない状態の進行に力をかすようなものだと私は思う。

 またこんなのもあった。必要があってお米の配給所から空俵を二つ買って来た。すると俵のあみ目の間にぽつんぽつんと米粒がはさまっているので、勿体(もったい)なくて一日がかりでそれをつまんでは取りつまんでは取り、そしてついに二つの空俵からお米が一合ばかり取れた。こんなに米粒をむだにしては勿体ない次第である。一俵から五勺とすれば、全国の量として云々という論議なのであるが、この論も少少おかしい。そういう目減りみたいなものは、始めから予定されているべきものであって、それをとやかく論議するのは愚かである。一日がかりでつまみ取ったその時間と労力は一体どうなったのか。その方こそよほど勿体ないと考えるべきである。前記の終戦時を思えという論議よりはたちはよろしいが、やはり人力並びに時間を計算に入れない東洋的(と言うより日本的)蒙昧(もうまい)さにおちている。東洋的贅沢という言葉があるそうだが、つまり人力や時間のべらぼうな蔑視の上になり立つ贅沢のことだが、この人のやり方も一脈それに通じるものがあるようだ。それほど苦労して米一合を採取し、それを焚いて食べて、さぞかし旨かったでございましょう。昔、駅弁の折のすみに食べ残しが残る。これは勿体ない。全国の駅で一年間を通じると、それが何千石か何万石に当るというような計算をした人があったが、それと大体同巧異曲である。そういう考え方がずっと動いたり進んだり、そこらでちょいと曲ったり歪んだりすると、すなわち人造米の発明ということになるのである。何という貧困にして惨めな思考法であろう。

 以上、食生活について甚だとりとめもないことを書き連ねて来たが、私はすこし古風なのかも知れないが、人間は青年の食欲をもって、自分の口にあった旨いものを食う、それが本義であるように感じられる。もちろんカロリーとか栄養とか、ビタミンとかミネラルとか、そんなことも考えた方がいいのであろうが、それにあまりとらわれることの弊害の方が大きいように思われる。そういうのが嵩(こう)じると、自分の中に常に何かが不足しているような強迫観念にとらえられ、すなわち現代人の一部がかかっているようなクスリばかり常用する、そういう状態におちて行く。ビタミンとかミネラルとかは、自然物にあるものだから、そう偏食しない限りは自ら食べていることになるだろう。栄養食、という言葉もいやだ。食べ物というからには食べるものだが、栄養食というと、これは食べるという感じではなく、摂取、経口摂取、経口投与というような感じを伴う。この感じは食生活の本義ではないと私は思う。現代人は食生活においても、末梢に走ることなく、やはり野性を原則とすべきである。

 その他ハウザ一食についても書こうと思い、昨日新宿のハウザ一食堂におもむき、いろんな詰も聞き、いろんな感想も持ったが、もう紙数が尽きて書けなくなってしまった。これもまた別の機会にゆずる他はない。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十二月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「三百円」換算基準にもよるが、下手をすると現在の八千円相当である。一升八千円の米は流石に私も買う気にならない。

「押麦」「おしむぎ」精白した大麦や燕麦を蒸した後に押しつぶして乾かしたもの。つぶし麦。平麦。所謂、我々が食材として「麦」と呼んでいるスタンダードなものを指す。麦には別に、米に粳(うるち)米と糯(もち)米があるように、糯米のような食感を持った餅麦(もちむぎ)がある。

「合成酒」ウィキの「合成清酒」から引く。『アルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にしたアルコール飲料で』、『清酒に比べて酒税の税率が低く、価格が安いことから、清酒の代用として普及しており、料理酒としてもよく使われている。風味付けのために、醸造された日本酒の成分を数%添加した製品が多い』。『日本の酒税法では合成清酒のアルコール度数は』「十六度未満」であることが求められているとある。

「人造米」で既注。

「ハウザ一食」ドイツ出身で第一次世界大戦後にアメリカに移住した大衆栄養学者ゲイロード・ハウザー(Gayelord Hauser  一八九五年~一九八四年)が推奨した健康食事法。毎日の食事に醸造酵母・小麦胚芽・脱脂乳・ヨーグルト・粗糖蜜(そとうみつ)の五食品を必ず加えることを特色とし、日常の食事に不足しやすいビタミン・ミネラルなどの微量栄養素を補給することを目的としたもので、若さの源泉は、よい栄養にあるという考えに基づいて中高年者の若返りのための食事法として考案されたものでる(食事法の具体内容は小学館の「日本大百科全書」の宮崎基嘉氏の解説に拠った)。]

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