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2016/09/10

身振りの文学   梅崎春生

 

 気質やスタイルで持つという日本文学のジャンルがあるらしい。現今においては、流行の専ら身振りの面白さを支えんとする作品群がそれだ。市民的な日常現実なら一応身振りで処理出来ようが、変動する巨大な現実を受けとめるには、その手法はもはや韜晦(とうかい)に過ぎない。それにも拘らず彼等は身振りを続ける。伊達(だて)な身振りや悲しい身振り、そしてあるいは道化の身振りを。

 現在という時代は、人間が日常的な現実面にのみ低徊(ていかい)することはあり得ない。彼等といえども巨大な動きから目を外らし得ないはずである。それだのに宿命の如く彼等は身振りをつづけるのだ。彼等が如何に現実の実体を見ようとも、身振りを始めた瞬間にはその現実は具象性を失い、身振りに対応した虚像となりさがる。彼が受けとめたつもりの現実とは、既に彼が設定した幻影にすぎない。その幻影のもと、それら身振りの行きつく処は、自らをも風刺の対象と見せかける如きはなはだ巧妙な所作事となる。これを最も鋭敏な時代神経だと我ひと共に誤認するところから、すべての欺瞞が始まるのだ。このやり口は一見もっとも苛烈に見えて、現今では実は一番安易な方法ではないのか。

 現実を、そして自己をすら歪形し、巧みに気取ったりふざけたりするのは、彼等がたといぎりぎりの場に立っていようとも、それは既に造型の方途を失った衰弱した精神のあり方である。これらの脆弱(ぜいじゃく)な吐息をすら、なお人々は小説の新生面を拓いたものとしてよみすのであるか。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。執筆は昭和二二(一九四七)年(以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「韜晦」自分の本心・才能・地位などを包み隠すこと。自己韜晦。

「低徊」考えごとをしたりしながら(しなくともよい。これは必要条件ではない)、ゆっくらと歩き回ること。

「よみす」よしとする。]

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