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2016/09/05

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 小袋谷村

小袋谷村〔古布久呂也牟良〕 小坂郷に屬す、古は巨福禮と書す、【東鑑】仁治二年十二月の條に山内巨福禮と見えしは此地なり〔曰、十二月卅日癸未、前武州渡御于山内巨福禮別居、按ずるに前武州は執權北條泰時なり、別亭の蹟、今村内に傳へず、盖隣村大船村に、その亭跡彷彿たり、〕弘安七年九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕永正十六年四月北條新九郎入道早雲當村を箱根權現に寄附し、幼息菊壽丸の知行に宛行へり〔箱根金剛王院藏文書曰、箱根領所へ菊壽丸知行分、百三十貫文、小ふくろや、しんみやういんに被下、末に永正十六年四月廿八日菊壽丸殿、宗瑞華押、按ずるに、菊壽丸當時箱根別當坊にあり、〕此頃は今の如く小袋谷と唱へしなり、永祿二年に改し【役帳】にも幻菴知行の内に入れり〔曰、幻庵御知行、百二十一貫八十七文、東郡小袋谷、按ずるに、菊壽丸退隱の後、北條幻菴と稱す〕江戸より行程十二里餘、廣三十町袤八町〔東北、大船村、西、山崎村、南、臺村、〕民戸二十五〔外長吏三戸、〕檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、今松前彦之丞知行す〔古は御料所、元祿十一年、松前氏に賜ふ〕戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず〔幅二間〕

[やぶちゃん注:現在の鎌倉市小袋谷(こぶくろや:現行は「ぶ」と濁る)一丁目・二丁目及び大字(あざ)小袋谷として名を残すが(現在の「小袋谷」は鎌倉市台及び大船に挟まれた西北から東南にかけて長辺約一キロ、短辺百五十メートルほどの細長い小地域)、建長寺の山号に「巨福山(こふくさん)」とあり、そこから市街下る坂は「巨福呂坂(こぶくろざか)」であり、その西山上にある旧「巨福呂坂切通」の名からも判る通り、現在よりも遙かに広域を示す地名(これらを包含する山之内庄の内の字)であったことが判る。

「巨福禮」「と書す」とあるので判る通り、これで「こふくろ」と読むつもりらしいが、これでは「ろ」は難しい。「こぶくれ」であろう。他にも鎌倉時代から「小福禮」「巨福呂」「巨福路」或いは、現行に近い「小袋」(坂名)などとこの地域名は多様に表記されていた。地名由来であるが、こちらの「小袋谷あれこれ 小袋谷の地名について」という記事(PDF)によれば、『「コフクロ」のアタマにある「コ」は』美称の『修飾語ですので、「フクロ」の語源を調べてみますと、膨れるという意味の古語「フクル」から派生した語で「フクラ」や「フクレ」と同根だそうです。又「フクレ」が転化し「フクロ」になったとも言われ、さらに池川などの水に囲まれた袋状の地形という意味も持っています。又、中国古代の膨れるという意味の語が変化した漢字の中には、富や福があります。アイヌ語では袋のことをフクルと言うなど似た言葉があります』とある。

「【東鑑】仁治二年十二月の條」仁治二年は西暦一二四一年。以下は抜粋で途中も略されているので、全文を示す。

   *

○原文

卅日癸未。前武州參右幕下。右京兆等法花堂給。又獄囚及乞匃之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

卅日癸未(みづのとみ)。前武州、右幕下・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内巨福禮(こぶくれ)の別居の渡御す。秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

編者が注している通り、「前武州」は北条泰時。「右幕下」は源頼朝。「右京兆」は泰時の父北条義時。「法花堂」は大倉幕府後背の頼朝及び義時のそれぞれの法華堂(当時は石墓ではなくて本格的な御堂であった)。「乞匃」乞食。「三津藤二」三津氏は伊豆出身の豪族姓である。ここに出る「山内巨福禮」の泰時の別宅は私は北條泰時の墓のある現存する鎌倉市大船の常楽寺附近にあったものと考えるし、それは「盖(けだし)隣村大船村に、その亭跡彷彿(はうふつ)たり」というのがそれに相当するものと思う。

「弘安七年」一二八四年。

「九月當所山上の陸田を以て鎌倉圓覺寺の菜園に寄附あり〔圓覺寺知行、申菜園事、以正觀寺上畠幷小福禮中、山上散在小畠等、可當寺菜園之由候也、仍執達如件、弘安七年九月九日、寺奉行御中、業生・眞性・賴綱・各華押、〕」これは「鎌倉市史 資料編第二」の「圓覺寺文書」の「一七 北條氏〔貞時〕公文所奉書(折紙)」である。一部に表記違い或いは誤字・省略があるので、改めて示す。

   *

圓覺寺知事申菜薗事、以正觀寺上畠〔除正觀寺、〕并小福礼中山上散在小畠等、可當寺菜薗之由候也、仍執達如件、

   弘安七年九月九日   業連

               (花押)

              眞性

               (花押)

              賴綱各

               (花押)

  寺奉行御中

   *

自己流に訓読すると、

   *

圓覺寺知事が申す菜薗(さいえん)の事、以つて正觀寺の上畠(うへばた)〔正觀寺は除く。〕并びに小福礼(こぶくれ)の中(うち)の山上に散在せる小畠等(とう)、當寺が菜薗とすべきの由(よし)、候ふなり、仍つて執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。

   *

で、申請許可についての連署役は佐藤業生・諏訪眞性・平賴綱である。ここに出る「正觀寺」というのは「しやうくわんじ(しょうかんじ)」と読む禅寺で(南北朝辺りで廃寺となったと思われ、現存しない)、貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、建武の初め(一三三四年)頃の『作製にかかると思われる円覚寺境内古地図』『(古伽藍図)に総門の両側に続く塀の西側に接して、正観寺と記した屋舎三棟から成る堂宇が見え』、『この寺は古く鎌倉時代かた存在した』とある寺である。

「永正十六年」一五一九年。

「菊壽丸」後に出る通り、北条早雲(伊勢盛時(宗瑞(そうずい))の四男(男子の末子)であった北条長綱(幻庵)(明応二(一四九三)年~天正一七(一五八九)年)のこと。以前にも注したが、ここではより仔細に注することとする。ウィキの「北条幻庵によれば、『箱根権現社別当。金剛王院院主』。『幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した』。『箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる』。ここに記された通り、「箱根神社文書」に、永正一六(一五一九)年四月二十八日、二十六歳の時、父から四千四百貫の所領を与えられたとあり、『この頃の名乗りは菊寿丸である』ともある。大永三(一五二三)年に『兄・氏綱が早雲の遺志』(早雲は永正一六(一五一九)年没)『を継いで箱根権現を再造営している。この時の棟札には』第三十九世『別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える』。『後に近江・三井寺に入寺し、大永四(一五二四)年に出家し、その直後か翌年に箱根権現第四十世別当になったと思われ、天文七(一五三八)年頃まで在職した。別当になった際に長綱、天文五(一五三六)年頃よりは『宗哲と名乗った』。天文一一(一五四二)年五月、甥(兄氏綱三男)の『玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆』(こづくえしゅう:後北条氏の家臣団の一つで南武蔵地域を支配していた組織集団。名は「衆」の中心が武蔵国小机城(武蔵国橘樹郡小机郷。現在の神奈川県横浜市港北区小机町)に拠ったことに由来する)『を指揮下に置くようにな』った。天文一二(一五四三)年からは『「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始め』るが、『これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる』。永禄二(一五五九)年二月『作成の「北条家所領役帳」』によれば、家中最大の五千四百五十七貫八十六文の所領を領有している。これは次に多い松田憲秀(二千七百九十八貫百十文)のほぼ倍に当たり、直臣約三百九十名の所領高の合計六万四千二百五十貫文の一割弱をたった一人で領有していたことになる。『このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ』、天文四(一五三五)年八月の武田信虎(信玄の父)との甲斐山中合戦、同年十月の『上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しており』、永禄四(一五六一)年三月の『曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言』する『など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた』。永禄三(一五六〇)年、『長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物か?)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。しかし程なく氏尭が没し』、永禄一二(一五六九)年には『武田信玄との駿河(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重』、三男長順(ちょうじゅん)らを『相次いで失ったため、同年に氏康の』七男北条三郎(後に上杉謙信の養子となって上杉景虎を名乗った)を『養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した』。永禄一二(一五六九)年』、『越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた』。彼は享年九十七という驚異的な長寿だったことになるが、ただ、『これは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として』、大永三(一五二二)年に『兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる』十五歳未満だった『可能性が極めて高いことを挙げている』(私もこの引用を読みながら強くそう感じた)。『これが事実とすれば享年は』十五年以上『若くなる。一説に文亀元年』(一五〇一年)『生まれという説があ』り、『また、没年に関しても現在では疑問視されて』いるが、孰れにせよ、『当時としては長寿な部類の人物であった』。なお、幻庵の死からたった九ヶ月後の天正一八(一五九〇)年七月、『後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡し』てしまう。『作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道』・『庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている』。『文化人としての幻庵の事跡は数多い』(以下、割愛したが、リンク先には歌会・連歌会などの細かなデータが載る)。『記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から』五代氏直に至るまで、『後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという』。「北条五代記」では『幻庵について「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで』五代『に仕え、武略をもて君をたすけ、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」と評している』とある。

「宛行へり」「あておこなへり」。

「しんみやういん」不詳。「神妙院」或いは「神明」宮か。台にならあるが、小袋谷地区では現認出来ない。

「被下」「下され」。

「永祿二年」一五五九年。

「改し」「あらためし」。

「役帳」以前に注した北条氏康の時代の「北條役帳」、「小田原衆所領役帳」のこと。

「幻菴」「菴」は「庵」に同じい。

「十二里」約四十七キロメートル。日本橋から直線で四十三キロメートルほどであるから、かなり正確な数値である。

「三十町」三キロ二百七十二メートル強。

「袤」「ぼう」と読み、南北の長さの意(因みに東西の長さは「広(くわう(こう))」と呼び、「広袤(こうぼう)」は幅と長さ或いは広さ(面積)の意としてもあった。

「八町」八百七十二メートル。以上からも、この幕末期でさえ、現在の小袋谷よりも遙かに広域であったことが判る。

「長吏」寺務を統轄する僧の他に、穢多又は非人及び非人頭を指す語であるが、ここは前者であろう。

「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「成瀨五左衞門」以前にも出た藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)成瀬五左衛門重治。慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「松前彦之丞」不詳。

「元祿十一年」一六九八年。

「二間」三メートル六十四センチ弱。]

 

○高札場

 

○戸部川 村西を流る〔幅八間、〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔當村・臺・岡本三村の持にて、臺村に詳なり、〕

[やぶちゃん注:「戸部川」既注。柏尾川の別称。

「八間」約十四メートル五十四センチ。]

 

○八幡宮 神職鈴木主馬〔鶴岡の社人にて兼帶す〕

[やぶちゃん注:昭和八(一九二三)年九月十日に現在の小袋谷にある厳島神社(後述される成福寺背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守で次項の「辨天社」のことである)に後に出る吾妻社と一緒に合併されて現存しないが(その前に関東大震災で全壊)、現在の厳島神社の建っている場所が旧八幡宮の跡地である。次の項の注も参照のこと。]

 

○辨天社 村持下同、

[やぶちゃん注:前注で示した通り、実はこれが現在の小袋谷の鎮守である厳島神社である。岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、『かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)』が、『関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された』とあり、『現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった』とある。社名が違うのは明治の悪法神仏分離令によるものである。]

 

○吾妻社

[やぶちゃん注:前注で述べた通り、関東大震災で崩壊後、現在の厳島神社と合併された。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「厳島神社」によれば、この『吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという』とある。この公会堂は以前に『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村』述べた「市場公会堂」(より北鎌倉駅に近く、線路の北側直近)は違うので注意されたい。市場公会堂よりも三百六十九メートル大船寄りの横須賀線南側直近にある。]

 

○成福寺 龜甲山法得院と號す、淨土眞宗〔西六條本願寺末、〕貞永元年創建す、本尊彌陀〔長二尺二寸餘源信僧都作、〕を安ぜり、開山は成佛と云ふ〔文永十一年十月八日寂す、寺傳云、成佛は北條泰時の末男にて、始は泰次と稱す、親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時泰次謁して彼宗に歸依し、遂に師資の約をなし、薙髮して名を成佛と改め當所の岩窟に在て、念佛修行の時、明星天子の靈告を感得し、當寺を起立すとなり、今堂後にある龜の窟は、卽成佛幽栖の跡なりと云、〕九世宗全に至り北條氏當宗退却の頃、豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕十一世西休の時慶長十七年舊地なるを以て此地に還住し、當寺を再建すと云ふ、【寺寶】△十字名號一軸〔親鸞筆、〕△聖德太子木像一軀〔親鸞、鎌倉常葉の坊舍にて午刻し、開山成佛に授與の物と云ふ、〕 △六字名號一軸〔蓮如筆、〕此余山崎女〔奥平家の女と云ふ〕の寄附ありし屛風一雙、膳椀〔蒔繪の模樣あり、〕一具を寺寶とす、又表門〔四足門なり、〕も山崎女隱宅の門を移し建しものと云ふ、△支院 西教寺、

[やぶちゃん注:「成福寺」は「じやうふくじ(じょうふくじ)」と読み、現在の鎌倉市小袋谷にある浄土真宗(鎌倉市内で唯一の浄土真宗の寺院である)亀甲山(きっこうさん)法得院成福寺。ここに示された通り、鎌倉幕府第三代執権北条泰時の末男子で天台宗の僧であった北条泰次(?~文永一一(一二七四)年)が貞永元(一二三二)年に創建した天台宗寺院であったが、泰次が親鸞に逢って帰依改宗、法号も「沙門院泰次入道」から「成仏(じやうぶつ(じょうぶつ))」に変え、真宗寺となったものである。

「二尺二寸」六十六センチ六十六ミリ。

「親鸞鎌倉八幡社にて、大藏經校合の時」真宗の公式サイト内にも、親鸞は嘉禄三・安貞元(一二二八)年頃、長い東国布教の途次、鎌倉八幡宮にあった大蔵経を校写するために同宮寺に参籠しているとあり、岡戸事務所製作のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、貞永元(一二三二)年に北条泰時の要請によって鎌倉に入って北条政子十三回忌供養の一切経五千巻の書写の校合に参加したとも伝えるとある。

「彼宗」「彼(か)の(淨土眞)宗」。

「師資」「しし」で、「師と頼むこと・師匠」或いは「師弟」の意。

「薙髮」「ちはつ」。「薙」は「刈る」の意で、髪を剃り仏門に入ること。「剃髪」に同じい。

「當所の岩窟」「龜の窟」(かめのいわや)と呼称するものが今も残る。サイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記で写真が見られる(下部地図リンクで寺の位置も判る)。先に注した小袋谷公会堂と横須賀線を挟んで南北の対称位置にある。

「明星天子」「みやうじやうてんし(みょうじょうてんし)」で、仏教の三光天の一つ。金星を神格化したもの。

「卽」「すなはち」。

「北條氏當宗退却」これは小田原北条氏のことなので注意されたい。前に引いた「鎌倉手帳(寺社散策)」の「成には、『鎌倉にも浄土真宗の寺がいくつかあったが、「浄土真宗の寺は、本堂が平地に建ち、挙兵の場となる危険がある」として小田原北条氏による迫害を受けたため、武蔵や三浦に移っていったのだという』。『成福寺も例外ではなく、九世の宗全は、焼き討ちにあい、伊豆国の成福寺に逃れたと伝えられている』とある。

「豆州北條に退き一寺を建て亦成福寺と號す〔今猶彼地に現存す〕」静岡県伊豆の国市四日町に成福寺として現存する。但し、こちらは現在、真宗大谷派。鎌倉の方は本願寺派である。

「慶長十七年」一六一二年。

「十字名號」「歸命盡十方無碍光如來(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」。天親の「無量壽經優婆提舍願生偈」に基づく。仏壇本尊の「脇掛(わきがけ)」としての九字名号「南無不可思議光如來」(曇鸞の「讚阿彌陀佛偈」に基づく)が知られるが、それと同等に「脇掛」として掛けるものである。

「聖德太子木像一軀」先に引いたサイト「鎌倉シニア通信」の成福寺訪問記でやはり写真が見られる。

「鎌倉常葉の坊舍」「常葉」は「ときは」で「常盤」鎌倉大仏坂切通を梶原方向へ抜けた右手一帯の地名としか考えられない。調べてみると、真宗系資料(PDF)に、親鸞が鎌倉常盤(鎌倉大仏の北側)に建てられた坊舎に迎えられ、逗留していたという言い伝えがあることが判明した。考えてみると、確かにあの辺り、「一向堂」という地名もある(同リンク先にバス停「一向堂」の写真有り)。

「午刻」「後、(彫)刻し」の意ととっておく。

「六字名號」「南無阿彌陀佛」。「観無量寿経」の「下品下生」の一節。真宗ではこれ自体を「本尊」とすることも多い。

「此余」「このよ」。この他に。

「山崎女〔奥平家の女と云ふ〕」サイト「鎌倉ナビ」の成福寺に、『山門は四足門といって、江戸時代の初めごろからありますが、もとは山崎の館跡にあったものだそうです』『昔、山崎に宗高院という領主が住んでいました。土地の人の話によると奥平一族の女の人ということです』(女の領主の意であることに注意)。『この人がこの寺で教えを受けたとき、屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付してここに建てたのだと伝えられています』とある。この女性、前の「山崎」に出てきた時から、ずーっと気になっている……「隱宅」……どうも気になってならぬ……されば、調べてみると……!!!……『徳川家康の養女(孫)』?!……『キリシタン人脈』?!……「鎌倉、まぼろしの風景」の「194.崇高院様の山門成福寺鎌倉市小袋谷! この方の推理が正しいかどうかは別として、実に面白い! 必読也!!!

「西教寺」貫・川副の「鎌倉廃寺事典」に、『小袋谷、成福寺の支院。成福寺の客仏、虚空蔵菩薩は、西教寺の本尊であったという(住職談)』とあるのが唯一の情報。]

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