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2016/09/22

甲子夜話卷之二 17 石河氏藏、虞世南眞蹟の事

2―17 石河氏藏、虞世南眞蹟の事

御使番勤し石河某の家に、唐虞世南の眞蹟一卷ありて、其至寶なることを知らずして、舊紙の中に廢棄してありしを、或時識る人ありて賞鑑せしより、甚貴重の品となれり。これに因て、水戸黃門治保卿、其書を乞求玉ひしかども奉らず。竟に其本を臨摹せられしと聞ぬ。因て其書を見んことを思へど、由なくて過ぬ。一日登城のとき、福山世子【主計頭、阿部正精、今備中守】に逢、此事を語しに、主計頭やがて手寄もとめ借得られ、其書見よとて持たせこされぬ。其折、簡に、盧世南眞蹟一卷、道本附錄二卷、電矚に呈す。盧が書は贋と思はる。予は模寫の念無しとなり。予其卷を展るに、世古く識べきならねど、盧が筆跡とは拙眼にも覺へず。其卷首に、原知己之時義故相知之徒とありて、末に沒要離之側以膠投漆中離婁豈能識貞觀九年八月虞世南書として印記あり。其奧に紫芝山人兪和と雲林生傀との文あり。又卷外に二軸を附す。支那沙門道本鑑定の書なり。享保十年歳在乙巳季夏上院、謹書於竹林蘭若とあり。其一は知己賦の注略なり。終に跋あり。支那沙門寂傳道本として印記二つあり。後人この世南の書を聞及び、見んと思ふものあるべしと記し置ぬ。

■やぶちゃんの呟き

「石河氏」「御使番勤し石河某」不詳。「石河」は「いしこ」と読む可能性もある。「御使番」は、元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』とある。

「虞世南」(ぐせいなん 五五八年~六三八年)は名書家で初唐三大家(唐の第二代皇帝太宗に仕えた書の大家三人。彼と歐陽詢(おうようじゅん)・褚遂良(ちょすいりょう)を指す)の一人。越州余姚 (よよう:現在の浙江省) 出身。六朝の陳の時代から書と学才で知られ、初め隋の煬帝 (ようだい) に仕えたが重用されず、後に唐の太宗に仕え、信望された。楷書を得意とし、その書風は「君子の書」と称された。代表作「孔子廟堂碑」(大学時代の「書道Ⅰ」の夏の宿題は、これと欧陽詢の「九成宮醴泉銘(きゅうせうぐうれいせんめい)」の全書写だった)。

「識る人」書の目利き。

「甚」「はなはだ」。

「水戸黃門治保卿」水戸藩中興の祖とされる水戸藩第六代藩主水戸黄門徳川治保(はるもり 寛延四(一七五一)年~文化二(一八〇五)年)。知られたかの第二代藩主水戸黄門徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)とは別人なので要注意。ウィキの「徳川治保によれば、彼は『光圀にならって学問奨励にも尽力した。停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあたったという。また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにしている。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている。加えて、立原翠軒ら彰考館の総裁』三名を『政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした。こうした空気のもと、翠軒やその門下の幽谷などが、農村復興の政策や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内外の問題にも積極的に発言するようになっていく。 治保自身も優れた文人』として知られた、とある。なお、「水戸黄門」とは水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名であって固有名詞ではない。初代藩主で光圀の父である徳川頼房以下「水戸黄門」は全部で七名も存在するのである。

「乞求玉ひ」「こひもとめたまひ」。これは明らかに、譲ってくれと乞うたのである。しかし、頑として拒絶した(なかなか石河某、いいじゃない!)から仕方なく、「臨摹」したのである。

「臨摹」「りんも」。「臨模」「臨摸」などとも書く。厳密には、中国での書画の模写の手法の一つで「臨」は原物を傍らに置いて、その形勢を写す「臨写」、「摹(も)」は原物の上に薄い紙を置いて透写(すきうつ)しをする手法を指す。

「因て其書を見んことを思へど、由なくて過ぬ」とは筆者松浦静山自身のことである。

「一日」「いちじつ」。ある日。

「福山世子【主計頭、阿部正精、今備中守】」「主計頭」は「かずへのかみ(かずえのかみ)」と読む。備後福山藩第五代藩主阿部正精(まさきよ 安永三年(一七七五)年~ 文政九(一八二六)年)。老中(文化一四(一八一七)年~文政六(一八二三)年)ウィキの「阿部正精」によれば、『江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。そのため、文化の興隆は阿部期の福山藩で最盛期を迎え、自身も多くの書画を残した』とある。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五歳年下。「今」とあり、静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)であるから、正精の存命時の記載であることは判る。しかし、名目官位の「主計頭」を示しながら、どこにも「老職」と記していないところをみると、静山のこの件の原記載(メモ)は老中に就任にした文化一四(一八一七)年より前か、或いは老中を辞任した後文政六(一八二三)年以降ということになる。しかし、静山は老中職であったものには必ず「老職」と記しており、登城の際というシチュエーションからは、前者である可能性が高いか。識者の御意見を乞う。

「手寄」たより。知るべの協力。

「簡」手紙。添えられた阿部正精の書状。以下の「盧世南眞蹟一卷、道本附錄二卷、電矚に呈す。盧が書は贋と思はる。予は模寫の念無し」がその文面である。「道本」は後の「又卷外に二軸を附す。支那沙門道本鑑定の書なり」から、江戸中期の黄檗宗の清からの渡来僧である黄檗道本(一六六四年~享保一六(一七三一)年)のことである。彼は福建省福清県生まれで。姓は陳、道本は道号、法諱を寂伝(後に「支那沙門寂傳道本として印記二つあり」とあるのと一致)。一七一九年に渡来して長崎崇福寺六代住持となった。渡来前より詩名高く、広く文人墨客と交遊、また書も能くし、中国古来の伝統書風を伝えているという(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。「電矚」は「でんしよく(でんしょく)」で「披見」の敬語である「御高覧」の意(「矚」は「見る」)。

「展る」「のぶる」。広げる。

「世古く識べきならねど」「よ、ふるく(を)しるべきにあらねど」。私は古えの世の事物についての、深い見識は全く持ってはいないけれども。

「原知己之時義故相知之徒」私には読解出来ないので、中国語の堪能な教え子に今、以来したところ、これと次は、南朝の梁の文学者任昉(じんぼう)の「答陸感知己賦」(「陸知己に感じて答ふるの賦」と訓ずるか)に出ることが判明、その教え子によれば「もともと自分を知っている時、つまり無二の友人であった時があったので、そのゆえにお互い、わかり合う間柄である」という意であるとのことである。

「沒要離之側以膠投漆中離婁豈能識貞觀九年八月虞世南書」同前の教え子の訳。「その傍らを離れようとしないその状態は、膠(にかわ)を漆(うるし)に放り込んだような状態であり、何度引き離そうとしたところで、どうして二人を識別することができようか、いや、できはしない」という意味だそうである。教え子に深謝!

「紫芝山人兪和」「ししさんじんゆわ」。不詳。サイト「浮世絵文献資料館」内のこちらの「陳居中(ちんきょちゅう)」「鬼子母神図」巻子本(文化二(一八〇五)年・聖福寺所蔵)の「跋」にこの名が出ている。

「雲林生傀」「うんりんせいかい」。不詳。

「享保十年歳在乙巳季夏上院、謹書於竹林蘭若」「享保十年、(太)歳は乙巳(きのとみ)に在り。季夏(きか)。上院。謹んで竹林蘭若(らんにや)にて書す」と読むか。「享保十年」は乙巳でグレゴリオ暦一七二五年、「歳」は歳星(木星)を指し、木製は十二年弱で一巡することから、古くは干支年の基準とされ、年を示すに「太歳は○○に在り」という書き方で何年であるかを示した。「季夏」は旧暦六月(水無月)の異名で夏の末に当たる。「上院」は恐らく「上寅」で、月の初めの最初の寅の日のことであろう。調べると、享保十年の十月の最初の日は十月二日丙寅(ひのえとら)である(グレゴリオ暦では一七二五年十一月六日)。「蘭若」は「阿蘭若」の略で寺院のことである。「竹林」は竹林寺で固有名詞かも知れぬが、京都を始めとして複数あるのでこれでは比定出来ない。

「知己賦の注略」前の注に示した任昉作「答陸感知己賦」の略注という謂いであろう。

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