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« 諸國百物語卷之二 四 仙臺にて侍の死靈の事 | トップページ | 衰頽からの脱出   梅崎春生 »

2016/09/15

日本的空白について   梅崎春生

 

 この戦争中、東京都庁の小役人を私はやっていたことがある。そこでどんな仕事をやっていたかというと、東京都の小学校の教員を道場に引きつれて行き、ミソギをさせたりフリタマの行というのをやらせたり、つまり錬成講習と称する行事の、もっぱら雑務に当っていたのである。雑務というのは、教員たちに道場までの切符を配ったり、寄るときの布団の数を心配したり、そんなことが主なので、教員の錬成指導には別にミチヒコとかスケヒコという専門屋がいて、それに当っていた。私は一介の事務取りにすぎないから、もちろん行に参加する必要はなかった。だから、冬の真盛りに教員諸子が裸になって水を浴びたり、真夜中たたきおこされて霊火の行というのをやらされたり、そんなところを見聞きするにつけても、処をかえて私がそんなことをやらされる位置に立てば、どんなにか憂鬱なことだろうと、そんなことを考えていたのである。実際に何度も見てきたことだから、此の種の行事の無意味さを私は誰よりもよく知っていた。教員にこんな錬成をやろうと思いついたのは、教育局長であった皆川治広という男だが、この男の頭のおろかさもさることながら、その命によって引っぱりだされる教員諸子の迷惑はいかばかりかと、私は思いをいたすことしばしばであった。

 しかし事務のあいまにその行事を見聞した私の実際の印象からいえば、如上の私の危倶は杞憂にすぎなくて、私が予想しているような迷惑げなところは、普通すこしもあらわれていなかったようである。むしろ進んで行に参じようとする一種の心構えすら、傍観者の私にもありありと感じられるのが常であった。今から考えてみれば、あの当時の官民が、ミソギとかヤマトバタラキとか、たわけた事にうつつを抜かしていたことは、言いようもなく莫迦(ばか)らしい話だが、あの当時にしたって、ちょっと考えてみれば、こんな行が無意味なことは直ぐ判ることなので、無智蒙昧(もうまい)の徒なら知らず、人の師と立つ連中がこんなに熱心であったという現象は、未だに私の胸に消えがたく残っている。もちろん此の頃の小学校教員は極端に被圧迫的職業であり、上には視学とか校長がいて、自然偽善的なポーカーフェイスを身につけていたことは、私も百も承知していて、その点を私なりに割引して考えてみても、あの行事の印象はかなりファナティックで、ちょうど胸の中の空白を懸命にみたそうとするあがきみたいなものを、私は確実に感じ取っていた。その点について私は時として、おそろしく惨(みじ)めな気持になったりしたことを記憶している。その時私は、自分を含めた日本民族の心の中には、宿命のようにひとつの空洞があるのではないか、ということを漠然と考えたりしたのである。

 その空洞とはなにか。私は未だに漠然と感じているだけで、自分の胸のなかにも確実に摑みかねているけれども、それが日本人全体に通じる偏向としてあらわれていることだけは今でも確かに言える。この空洞は、観念的な言辞をもっては、うまく埋められない。日本人は神を持たなかった、などと利(き)いた風な説明では納得できないので、単に言葉や説明に対応してその空洞があるのではなく、なにか根元的なところでそれは形成されているのではないかという気がする。私がいま、考えるのは、精神のいわば空白の部分を、私たちの祖先は営々として意識的につくり上げて行ったのではないかということである。つまり日本の気候や風土や生活がこんな空白をうみだしたのではなくて、逆にこんな風土に生きてゆくために、そのような空白を過去の日本人は意識的にはぐくんで行ったのではないか。丁度(ちょうど)竹の中が空っぽであることが、力学的に言っても中が満たされているよりは強いように。しかもその空白は、かなり精密に設定されているように、私には思えるのだ。たとえば民族的な遺産として、現今のこされている我が国の芸術作品を考えてみても、ひとしくこの空白の部分が重大な役割を果たしていて、いわばそれから生じる消極的な強靭さといったものが、芸術としての魅力の中心をなしているような気がする。

 例を建築にとっても、我が国には石造や煉瓦造が発達せずに、今もって柔(やわ)な木造に終始するというのも、そこに関係があるのではないか。強烈な季節風と周期的な地震をもつ此の風土で、家を建てるにさいして私たちの祖先は、故意に空白の部分や脱落した箇所を設定したにちがいない。石や煉瓦にはそんな性格を賦与できないから、もっぱら都合のいい木材がえらばれたとも思われる。だから本当の意味の――つまり自然を裁断しようと企てる風の力学や幾何学は、日本にはなかった。日本人は自然の破壊の意志をよく知っていたから、それに肩すかしをくわせるような空白の部分を、すべてに設定し育成してきた。もちろんそれは事物や事象のなかにとどまらず、精神や人性の中にもそれを育成した。何世紀も何世紀もかかって。それが日本人特有の気質になっているわけであるが、それをいま一面的に尽せば、完壁を忌む精神といえるだろう。

 このような概論的な記述は、私としても趣味的にも反撥するから、ことを芸術に引きもどす。この完壁を忌む精神が、日本の芸術にもことさらにある脱落をつくっているものらしい。日本の美というものは、シンメトリーを通過しない美で、趣味や好尚がいきなりコノワタや盆栽の松にたどりついてしまう。伝統というものはありがたいもので、私たちは一挙に結果だけを身につけてしまうことができるのだ。生活を真正面からうけとめることをせずに、気分として散らすことを、幼少にして体得してしまうのである。現代文化のすべての衰頽はそこから始まっている。

 明治以前千余年の、日本に産み出された芸術を、世界に独特のものであると信じることにおいて、私は人後におちるものではない。自然に対応したぎりぎりの空白というものは、ここでは一種の強さになっていて、比類のない特殊なスタイルを産み出していた。だからそれはそれでいいだろう。それだけで純粋にひとつの世界をつくって、終末までうごいてゆくものだろうから。ただ私が考えるのは、そのような空洞が現在私たちにとっては、いろんな事情からもはや決定的な弱さとしてあらわれてきていることだ。

 明治以後、どんな具合でこうなってきたのか私は知らない。外来思想が一挙に入ってきて人間の存立が溷濁(こんだく)してきたせいもあるだろうし、日本人がいきなりふくれ上ろうとしてそこに無理が出来たせいもあるだろう。和歌や俳句や茶室や生花やあらゆるものの母胎であったその日本的な空白が、本来の意味を失い、文字通りの空白のまま、私たちの胸に残されてしまった。脱落という形骸だけが、私たちの生活を支配しはじめたのである。完壁を忌む精神が、私たちの趣味面だけにのこり、ここから日本の芸術は堕落した。末流となれば、すべてのものは衰頽する。芸術というものは人間の正直な反映で、この日本人が戦争に負けたのも無理はない。この形骸的な脱落の箇所を、日本人の封建性だとか、神の喪失だとか、定義づけることに私は興味がない。私はただ、私たちの脱落の表情を眺めるのみである。

 此の戦争に私も召集されて、海軍兵士としてすごしてきたが、あのような世界でも、盲点みたいに昏(くら)い箇所がいくつもあって、それが私をおどろかした。たとえばあの科学の精粋とも言えるような軍艦で、すべてが科学と能率にのっとった日課に、日本海軍においては、甲板(かんぱん)掃除をするのに水兵がひとりひとり掃布をもって、甲板をこすってあるくのである。世紀を超越した原始的な掃除方法である。甲板をきれいにするために、一寸考えさえすれば、人手のかからぬもっと効果的なやり方が浮ばない訳がない。それをやらなくて、此処だけを蒙昧のまま残しておこうというのは、何だろう。

 こんな現象は、これのみに限らぬ。今四方を見わたしても、いくつも指摘できるのだ。外の部分は全部そろっているのに、その部分だけをぽっかり脱落させているようなことが。これは意識して行われているのか無意識のあり方なのか。私はやはり空洞をはらんだ私たちの心の姿勢に戻らざるを得ない。なにものかに対する緩衝(かんしょう)地帯、排水路、あるいはカタルシス、そんな風の空白の発生的意味を失ったかわりに、私たちはひとつの頽廃としての空洞をいま内包しているのではないか。それはもはや手探ってみると、年老いた春婦のオルガンよりもうすぎたないようだ。

 そのような頽廃から、さまざまの末期的倒錯がおこってくる。もっとも進歩的な政党にいまだに親分子分の制度がのこっていたり、特攻隊が出撃にあたって桜の花片がどうしたというような辞世をのこして行ったり、毎月生産される小説が気分に散らしたような私小説であったり、そんな現象を我ひとともに怪しまない。もっとも此の空白は、いまや単なる空洞にすぎないので、歯科医が歯の穴を何ででも埋められるように、私たちは何にでも飛びつきかねないのだ。そしてこの空白を、日本特有の精神性だと誤認したことが、此の十年間の文化の混乱の最も大きな原因で、その偏向はいまだに残存している。

 そして私は、此の空白を私たちが意識していないとは思わない。ちゃんと感知していて、しかも残存しておこうと思ったりするのも、そこは逃げこむのに最も都合がいい箇所であるからだ。それを正当化するために、いろいろの言いくるめを自分に用意している。もともと我が国には論理はなくて、日本式論理しかないから、問題はいつも膜をへだてた彼方で錯綜してしまう。日本人は裏店に住んでも盆栽や藤棚をつくる。美を忘れない国民だというような言い方で、日本の美が強調されたりする。美とは、本来そうしたものではないだろう。私たちはすでに死んだ慣習のなかに生きている。それが一番らくであるからだ。一番らくな姿勢を日本人がとりたがるのも、私はその空洞に関係があるような気がしてしかたがない。数世紀の日本を支配した無常感ですら、現代の私たちは無力感としてうけとっている。こういうすりかえをすら、私たちは空洞のなかで巧みに処理してしまう。

 私は、昔はひとつの意味をもっていた此の空白が、現代では単なる頽廃として残存していることからして、現代日本の芸術が土俗品にすぎないということ、それを芸術品にまで高めるにはどうすればいいかということ、私たちが伝統と信じているものは実は伝承的な偏向にすぎないのではないかということ、だから新しい伝統の基礎をどんな形でつくらねばならぬかということ、などを書きたかったのだけれども、枚数の関係でここで終ってしまった。だから書けないけれども、私が時折おもい起すのは、あの教員たちのミソギなどに対する異常な傾倒ぶりである。フリタマの行などの時、一種の宗教的エクスタシーに陥って畳から二三尺とび上るのも、必ず毎回二三人いた位だ。それを思うと、私たち日本人は体質的に未開人的なところと、精神生理の上に空洞を、あわせもっているという確信をもたざるを得ない。日本人のフレキシビリティは、いわばこの形なので、このマイナスは今から先も次々うけつがれて行くのではないか。民主革命とか人間革命とか、歌声は大いに起っているけれども、一夜明ければ、狐つきがおちたようなことになりはしないか。まことに憂慮に堪えない。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年三月刊の『改造文芸』第一号に初出する。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「この戦争中、東京都庁の小役人を私はやっていた」東京都教育局教育研究所所員。東京帝国大学文学部国文科を卒業した(昭和一五(一九四〇)年三月)してここに勤務し、昭和十七年一月に召集されて対馬重砲隊に入隊するも肺疾患が見つかり、即日帰郷の療養中も在職、昭和十九年三月に、戦争悪化著しい中での徴用を恐れ、東京芝浦電気通信工業支社に転職するまで、在勤した(底本別巻の年譜から推定)。

「ミソギ」「禊」。海や川などの水で体を清めて罪や穢(けが)れを洗い流す神道の浄化呪法。

「フリタマの行」「振魂」「ふるたま」とも読み、「魂振(たまふり)」と称する。神道に於ける呪法。多義的ではあるが、基本的には「魂(たましい)を奮(ふる)い立たせる」或いは「魂(たま)を振り揺らして強く活性化させる」といった行為を指し、多くの場合は両手を振ってその振動を全身に伝えていくような仕儀を基本として採るようである。その後の多様な変成行動や現象は、寧ろ、トランス状態(trance:宗教的恍惚。失神や昏睡などを伴う夢幻様態)(或いは偽(にせ)の演技)に於ける個々の無意識的(或いは意識的)演技様(よう)のものに過ぎまい。

「ミチヒコ」「導彦」であろう。如何にもクサい神道式の職名(介添え役)である。

「スケヒコ」「助彦」であろう。同前。

「霊火」「れいか」と音読みするか。深夜に行われるおいうその行の内容は不詳。

「皆川治広」(みながわはるひろ 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は戦前の司法官僚・検事・判事。ウィキの「皆川治広」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『愛媛県松山市出身。一九〇三年(明治三十六年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した』。『一九〇六年(明治三十九年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。一九一〇年(明治四十三年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。一九一三年(大正二年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。一九二一年(大正十年)には大審院検事となり、翌年に司法省人事局長に就任した。一九二三年(大正十二年)に広島控訴院検事長となり、一九二七年(昭和二年)に名古屋控訴院検事長に転じた』。『一九三一年(昭和六年)には司法次官に就任した。司法次官在任中に千葉県小金町(現在の松戸市)に思想犯の転向を目的とした大孝塾という私塾を開いている。一九三四年(昭和九年)、岡田内閣成立とともに司法次官から判事に転じ、東京控訴院長に就任した。一九三七年(昭和十二年)、退官。その後は東京市教育局長を務めた』(下線やぶちゃん)。『戦後は公職追放され、弁護士として活動した』とある。

「ヤマトバタラキ」漢字では「日本体操」と書く。K&U氏のブログ「瑞穂の国から出ておいで」の「ヤマトバタラキ~満州鉱工青少年訓練所の生活」に以下のように記されてある(長音符の一部を変更、行空けを詰めた。「拍手」「はかしわで」と訓ずるのであろう)。

   《引用開始》

「日本体操」と書いて「ヤマトバタラキ」と読む、いやそう読まされた。

この体操も、ことあるごとにやらされた。体操と言えば体操だが、これがまたすこぶる変わった体操で、戦時下ならではの神がかり的なものだった。

体操の一挙手一挙動もさることながら、全員が号令をかけながら行うもので、その号令たるや「一、二、三」ではなく、すべて「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、やー」といった調子である。

一通りの所作が済み、これで終わりかと思えばさにあらず、ここからが「ヤマトバタラキ」の真骨頂である。

拍手打って、恭しく一礼してからおもむろに、神主があげる祝詞のような、坊主が唱えるお経のような、変な節をつけて経文様の文句を長々と斉唱するのである。

戦時下にはお定まりの台詞だったが忘れてしまった。が、その言わんとするところは

「天孫降臨に始まってーー豊葦原の瑞穂の国がドウトカしてーーわれらは天皇の赤子でありーーつまりは君のため国のため、身命をなげうって奉公するーー」

というようなものだった。

最後に、ひときわ恭しくあらたまり、「すめら命(みこと)ーーいやさかーー」と怒鳴り、両手を挙げる。この「いやさか」を3回繰り返す。3回目はもったいつけ一段と声を張り上げ「いーやーさーかー」で、全巻の終わりとなる。つまり「天皇陛下ーー万歳」の三唱である。

たまげたもんで、いくら非常時でも体操するのに何も「神代の昔」まで持ち出すこともあるまいに――まったく珍にして妙な体操だった。

   《引用終了》

個人サイト「依代之譜」内の「内原町郷土史・義勇軍史料館」に体操のポーズを示した図の写真が掲載されている。

「視学」旧制度の地方教育行政官。市視学・郡視学・府県視学があり、学事の視察及び教育指導に当たった。現在の各地方教育委員会内の指導主事に相当する。

「ファナティック」“fanatic”。狂信的な。

「利(き)いた風」如何にも物知りぶった生意気な態度を見せること。或いは、そのさま。知ったかぶり。さも気の利いているように見えて実は不要で過剰にわざとらしいこと。表記は「聴いた風」「聞いた風」だと思い込んでいる人は案外多いように思われる。

「シンメトリー」“symmetry”。対称・釣合・均衡・調和。

「コノワタ」「海鼠(こ)の腸(わた)」で概ね「海鼠腸」と漢字表記する。ナマコの腸(はらわた)の塩辛。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。海鼠フリークの私が話し出すときりがない。私はいろいろなところで述べているが、『博物学古記録翻刻訳注 11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』をリンクさせておく。

「溷濁(こんだく)」いろいろなものが混じって濁ること。なお、「溷」には「穢す・穢れる」の意があり、さすれば混濁よりもこちらの方が致命的に汚いニュアンスを私は感じる。

「掃布」「そーふ」と読む。形状は、というより「モップ」そのものであるが、日本帝国海軍ではあくまでそれを「モップ」と呼ばず「そーふ」と呼んだ。他には「梵天(ぼんてん)」)とも呼び、艦船の甲板などの油拭き(専ら、油を塗りたくるための用具)として現在の使われている。

「カタルシス」“catharsis”。浄化。ギリシャ語の同義に由来する。「想像的経験(特に悲劇を見ること)による感情の浄化」の意。近代知られるようになったのは精神分析用語としてのそれで、「心因性精神疾患の患者に自分の苦悩を語らせることによって発症原因となったと思われる抑圧感情を取り除かさせる精神療法或いはその仕儀全体またはその結果」を指す。なお、医学用語としては別にただの「下剤による便通じ」をも指す。

「春婦」売春婦。

「オルガン」“organ”。器官。ここは女性生殖器の意。

「裏店」老婆心乍ら、「うらだな」と読む。裏通りに面した家。ここは庶民の長屋の謂い。

「エクスタシー」“ecstasy” 宗教的儀礼などの際に体験される神秘的な恍惚。トランス状態。しばしば幻想・予言・仮死・偽憑依状態などを伴う。

「二三尺」六十一~九十一センチメートルほど。

「フレキシビリティ」“flexibility”。直後に「このマイナス」性と言っているから、外的状況への柔軟性・しなやかさ、或いは支配層から見た御(ぎょ)し易さ・他愛無い素直さ、自律性を欠いた適応性・安易な融通性などのネガティヴな意。]

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