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2016/09/13

譚海 卷之一 江戸曆商賣の者掟の事

江戸曆商賣の者掟の事

〇曆は江戸にて出來る也、天文役所にて出來、封じて官へ奉る。段々執政へ達し、夫より封のまゝにて土御門家へ遣(つかは)され、土御門にて開封有(あり)、中段下段へ陰陽家(おんみやうか)の吉凶を加筆し板行(はんぎやう)せられ、其板木を土御門より官へ奉り、夫より町奉行所へ下り、夫(それ)より町年寄年番のものへ給(たまは)り、夫より曆問屋十一人のものへ給り、淸書再板官のしらべをへて、さらに商賣免許の旨を得(え)あきなふ事也。

[やぶちゃん注:「江戸曆商賣」三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊)の「暦売り」から引く。

   《引用開始》

昔の暦は専売で、勝手な製造も出来ませんでした。製造で有名なのは芝居『おさん茂平』のおさんの夫、大経師屋(だいきょうじや)意俊です。大経師屋の暦は、年々土御門家から下付された原稿によって上梓されました。大経師屋は京ですが、他に伊勢暦、三嶋暦、奈良暦などがありました。江戸では元禄(一六八八~一七〇四)に幕府の命で十一軒に定められています。

 江戸の暦売りは「ご調宝大小柱ごよみ、綴ごよみ」の呼び声。十二月下旬から正月末までの商売で、老人が多かったようです。

   《引用終了》

「天文役所」江戸幕府天文方(てんもんかた)。ウィキの「天文方」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関。主に編暦を司った』。『元々、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄であり、土御門家があたっていたが、貞享元年(一六八四年)に渋川春海が貞享暦を作成し、従来の宣明暦から切り替えると、幕府は寺社奉行のもとに天文方を設置し同年の十二月一日(一六八五年一月五日)に春海が天文方(役職名としては「天文職」とも)に就任した。以来、編暦作業の実務は幕府に移り天文方で行われた。初めは寺社奉行の下に位置したが延享四年一月二十三日(一七四七年三月四日)に若年寄支配となっている。俸禄は百俵で他に役料として五ないし十人扶持が加算された』。『天文方は世襲制であったが、時には天文学に通じた人物を追加あるいは養子縁組して世襲を許したために幕末までに渋川家、猪飼家、西川家、山路家、吉田家、奥村家、高橋家、足立家の八家が任命され、状況により優秀な人材が登用された。もっとも家系が断絶した家もあり、西川如見(子の正休が徳川吉宗によって天文方に招聘)や高橋至時の子孫も幕末までは継承されず、最終的には渋川家・山路家・足立家のみが存続した』。『文化八年(一八一一年)に高橋景保の提案によって外局として蛮書和解御用が設置され、安政三年(一八五八年)の蕃書調所設置まで続いている。幕末には編暦以外にも天文や測量、地誌、洋書翻訳なども取り仕切った。現・東京大学の起源の一つである』。『渋川春海が天文方に任じられた翌貞享二年(一六八五年)に牛込藁町の地に司天台を設置した。元禄二年(一六八九年)に本所、同一四年(一七〇一年)に神田駿河台に移転する。春海の没後、延享三年(一七四六年)に神田佐久間町、明和二年(一七六五年)に牛込袋町に移り、天明二年(一七八二年)に浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後、天保一三年(一八四二年)に渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう一つの天文台が設置されて天体観測に従事した。明治二年(一八六九年)に天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止される事になる』。『大政奉還、鳥羽・伏見の戦い後、土御門晴雄は朝廷に願い出て、歴算、頌歴の権限を土御門家に取り戻し、天文方は廃止されて、同職にあった渋川敬典・山路彰常に代わって、晴雄が陰陽頭として責任者の地位に就いた。土御門家は明治二年の作歴を行うが、同年晴雄が没し、土御門家を十一歳の子・和丸(土御門晴栄)が継ぐ事となり、明治三年(一八七〇年)、天文暦道の権限は文部省の天文暦道局に移され、同年天文暦道局は東京に移され、星学局と改称された。星学局には旧天文方の渋川敬典も任用された。同年末、土御門晴栄は大学御用係を免職となり、暦道における土御門家の特権は廃止された』とある。

「執政」老中。

「土御門家」安倍晴明以後、陰陽師の家系として知られるようになった阿倍氏(後に安倍氏)。ウィキの「阿倍氏の「土御門家(江戸時代―明治時代)」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、土御門家は第三十一代当主土御門久脩(ひさなが)が豊臣秀次の自害に連座して失脚したが、『徳川家康に重用されたため、朝廷にも復帰が許され、梅小路に大邸宅を与えられた。その息子・土御門泰重(一五八六年~一六六一年)は天文博士として衰退した家名の再興に尽力し』、『公卿として従二位にまで昇進した。また弟の泰吉を独立させて倉橋家を創設した。更に陰陽道の総帥たる陰陽頭の座を巡る安倍氏(土御門家)と賀茂氏(幸徳井家)の間での長年の確執は、賀茂氏出身の幸徳井友傳が天和二年(一六八二年)に三十五歳で夭折したことで、土御門泰福(一六五五年~一七一七年)が陰陽頭に任じられて、以降陰陽頭は安倍氏が独占することで決着することとなる。泰福は天和三年(一六八三年)、全国の陰陽師の支配・任免を土御門家の独占とすることに成功して後に土御門神道を創設して土御門家は全盛期を迎える。だが、江戸幕府天文方が主導した改暦(貞享暦)に成功すると、改暦の権限を巡って幕府(天文方)と朝廷(土御門家)の間で対立が生じるようになった。泰福の末子泰邦(一七一一年~一七八四年)は、在野の暦算家の協力を得て宝暦暦を制定する事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功した』。『明治維新の混乱に乗じて時の当主晴雄(一八二七年~一八六九年)は旧幕府の天文方を接収して、天文観測や地図測量の権限を手中に収めた。これによって、西洋の近代的な天文学が事実上排除されるという「逆転現象」が生じた。更に晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入の動きを察して、太陽暦を排して従来の太陰太陽暦の維持を図るために明治改暦を提唱した。しかし、晴雄の急逝により挫折した』。『王政復古の波により以上のような逆転もひとときはあったものの、むろん政府の大方針である富国強兵の観点から、近代的な天文や測量は陸海軍の円滑な運営に欠かせないという当然の認識を政府が持った後は、陰陽寮は解体される流れとなった。晴雄の嫡男晴栄が幼少である事を幸いに、明治三年(一八七〇年)に陰陽寮の廃止と陰陽道の公的分野からの排除が行われて、続いて天文や暦算分野も海軍や大学、天文台に移管される事となった』とある。]

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