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2016/09/11

北條九代記 卷第九 將軍家和歌の御會 付 時賴入道逝去

 ○將軍家和歌の御會  時賴入道逝去

 

弘長三年二月に、北條相摸守政村が亭にして、一日千首の和歌の會を興行す。將軍宗尊(そうそん)親王御幸まします。この君、和歌の道に長じ給ひ、朝(あした)には八重垣のともに御心を寄せられ、夕(ゆふべ)には山の井の水に御思ひを寫(うつ)し給ひ、春は霞の内に、芳野初瀨の花の梢を嘯(うそぶ)き、秋は霧の間に更科姥捨の月の影にあこがれ、柹本(かきのもと)、山邊(やまべ)の古き跡を尋ね、定家(ていか)、家隆(かりう)の新なる軌(のり)に隨ひ、常に諷詠、吟哦(ぎんが)の窓(まど)を離れ給はず。政村も政務の暇(いとま)、數奇(すき)の道とて好まれける故に、この御會(ぎよくわい)を催され、題を探りて、懸物を置かれ、連衆(れんじゆ)十七人、辰刻より酉刻に及びて、千首の和歌を詠畢(えいひつ)あり。夜に入りて、酒宴あり。將軍家、興を盡して還御なりけり。同七月に、將軍家、去ぬる建長五年より、正嘉元年迄詠(よま)せ給へる和歌を集めて、初心愚草(しよしんぐさう)と名付けらる。又、今年詠じ給ふ和歌の内、三百六十首を撰出(えらびいだ)し、御合點の御爲(おんため)とて前〔の〕民部卿爲家入道の許に遣(つかは)さる。其中に、人の耳目を驚かす秀歌多し。爲家入道、深く褒美せられけり。同十一月二十二日正五位〔の〕下行相摸守平朝臣(たいらのあそん)時賴入道道崇(だうさう)、最明寺の北の亭にして逝去あり。年三十七歳なり。日比、病氣に罹り、心體、快(こゝろよか)らず。醫療、更に效(しるし)を奏せず。既に危急に及びしかば、最明寺に籠り、心靜(しづか)に臨終すべしとて、尾藤太(びとうだ)入道淨心、宿屋(しゆくや)左衞門〔の〕入道最信、只、二人の外、人の出入を留(とゞ)められ、正しに臨終に及びて、衣(ころも)、袈裟を著(ちやく)し、繩牀(じようしやう)に上り、坐禪して、辭世の頌(じゆ)を書して曰く、

 

  業鏡高懸三十七年  一槌打碎大道坦然

       弘長三年十一月二十二日道崇珍重

 

[やぶちゃん注:辞世は前後を空け、白文で示した。以下に訓読を示す。

  業鏡(ごふきやう)高く懸(か)く 三十七年

  一槌(つい)に打碎(ださい)して 大道(だう) 坦然(たんねん)たり

       弘長三年十一月二十二日道崇珍重

但し、底本は「打碎」に「だきい」のルビを振るが、この「き」は「さ」の誤植と断じて例外的に訂した。]

 

と云へり。然るに時賴入道は、平生(へいじやう)、武略を以て君を助け、仁義を施して民を憐み、天理に契(かな)ひ、人望に應じ、臨終、正念にして、手に定印(ぢやういん)を結び、口に辭頌(じじゆ)を唱へ、即身成佛の瑞相(ずいさう)を示し給ふ、寔(まこと)に權化(ごんげ)の再誕(さいたん)なりと稱すべし。初(はじめ)寛元四年より康元元年まで、首尾十一年は執權の職に居て、落飾(らくじき)の後七年に至る、總て十八ヶ年、政道正しく、天下無爲なり。北條家の政理(せいり)、泰時、時賴の二代を以て、最も盛(さかん)なりとす。將軍宗尊(そうそん)親王、甚だ歎かせひて、哀傷の和歌を手向(たむ)けらる。京都よりは右少辨經任(つねたふ)を勅使として、鎌倉に赴きて吊(てう)せらる。天下貴賤の愁歎は云ふ計(ばかり)なく、久しく物の鳴(なり)を留(とゞ)め、知るも知らぬも悲(かなしみ)の色、深かりけり。

 

[やぶちゃん注:歌会のパートは「吾妻鏡」巻五十一の弘長三(一二六三)年二月八日、七月五日、二十九日を、時頼逝去は同巻同年十一月十九日・二十日・二十二日・二十四日と十二月九日に基づく。やっとさっと私の嫌いな狸爺時頼が死んでくれる。こればかりは「北條九代記」の大きな瑕疵、生かし過ぎ。なお、標題の「御會」には「ごくわい」のルビがあるが、本文では「ぎよくわい」となっている(私は標題にはルビは振らないことを、このテクストでのポリシーとしている)。

「弘長三年」一二六三年。

「二月」八日。

「將軍宗尊(そうそん)親王」当時、満二十一歳。征夷大将軍の宣下は建長四(一二五二)年四月一日であったから、第六代将軍になって十一年目の春である。

「八重垣」「古事記」以下に出る素戔嗚命の名唱で、古くから短歌の起源とされる、

 

やくも立つ出雲八重垣妻籠(つまご)みに八重垣作るその八重垣を

 

を指す。「八重垣」は何重にも包む雲のイメージに、実際の二人の宮の、守りのための何重にもめぐらした垣根をも指す。「妻籠(つまご)み」愛する新妻を籠もらせるために。或いは、もろともに安らかに住まわんとして。

「山の井の水」「万葉集」「卷第十六」の陸奥国の前(さき)の采女(うねめ)の一首(三八〇七番歌。「陸奥国前采女」とは陸奥の国から献上された官女の意。但し、実際には陸奥国からの采女貢献の決まりはなかった、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏の脚注にはある)、

 

安積山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の淺き心をわが思はなくに

 

右の謌は、傳へて云はく、「葛城王(かつらきのおほきみ)の陸奥國(みちのくに)に遣さえし時に、國司の祇承(しじよう)、緩怠(おほろか)なること、異(こと)に甚だし。時に王の意(こころ)に悦(よろこ)びず、怒りの、面(おも)に顕はる。飮饌(いんせん)を設(ま)けども、肯(あへ)て宴樂(うたげ)せず。ここに、前の采女有り、風流(みや)びたる娘子(をとめ)なり。左の手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を擊ちて、此の謌を詠みき。すなはち、王の意(こころ)解け悦びて、樂飮(うたげ)すること、終日(ひねもす)なりき。」といへり。

 

を指す(後書は通常は全体を有意に下げて示す)。「安積山」中西氏の注に『福島県郡山市片平の額取(ひたいとり)山か。山の井、采女神社等があり、口碑を残す』とある。「葛城王」後の橘諸兄(たちばなのもろえ 天武一三(六八四)~天平勝宝九(七五七)年)か。但し、この設定は伝承の域を出ない。「祇承(しじよう)」はここでは接待の饗応のこと。「緩怠(おほろか)」等閑(なおざり)。いい加減。一首は、

 

……あそこに聳える安積(――あさ――か)山の、その影までも映し出す、浅(――あさ――)い、山の泉……それほどまでに浅(――あさ――)い情けなき心を、私は持っては、おりませぬのに……

 

という謂いである。

「芳野」吉野。

「柹本(かきのもと)」歌聖柿本人麻呂。

「山邊(やまべ)」人麻呂とともに歌聖とされる山部赤人。

「家隆(かりう)」歌人藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。ウィキの「藤原家隆によれば、『和歌を藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという説もある』。『歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』『正治百首』などに参加して、やがて同時代の藤原定家と並び称される歌人として、御子左家』(みこひだりけ:藤原北家嫡流藤原道長の六男藤原長家を祖とする家流(家名ではない)。藤原俊成・定家父子によって歌道の名家筋とされた)『と双璧と評価されるに至った』とある。

「新なる軌(のり)」所謂、「新古今和歌集」の歌風を指す。

「吟哦(ぎんが)」節をつけて漢詩・和歌などを詠(うた)うこと。

「窓(まど)」(和歌によって開かれた)世界。歌道。

「政村も政務の暇」北条政村はこの前年の文永元(一二六四)年八月十一日に執権に就いていた(時宗に執権職を譲るのは文永五(一二六八)年三月五日)。

「數奇(すき)の道」「數寄」「好き」と同源で「数寄」も「数奇」も当て字。風流・風雅の道。広義の「文武」の「文」、文芸、特にこの時代では、「和歌」の道を好むことと同義である。

「懸物」優れた作者に与える褒美の品物。

「辰刻より酉刻」午前八時前後より午後六時前後。

「詠畢(えいひつ)」詠み始めて既定の首数を総てを詠み終えること。

「建長五年」一二五三年。

「正嘉元年」一二五七年。

「初心愚草(しよしんぐさう)」ウィキの「宗尊親王」によれば、傀儡将軍であった彼は、勢い、『和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を何度も行った。その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は『続古今集』の撰者の人選にも影響を及ぼし、親王自身も同集の最多入選歌人となっている』とある。代表的な歌集としてはこの「初心愚草」の他にも、弘長元 (一二六一) 年から文永二(一二六五)年までの短歌を集成した「柳葉和歌集」や、真観撰になる「瓊玉(けいぎょく)和歌集」がある。

「今年詠じ給ふ和歌の内、三百六十首を撰出(えらびいだ)し、御合點の御爲(おんため)とて前〔の〕民部卿爲家入道の許に遣(つかは)さる。其中に、人の耳目を驚かす秀歌多し。爲家入道、深く褒美せられけり」今年とあるので弘長三(一二六三)年となるが、これはよく判らない。実はそれ以前なば文応元 (一二六〇) 年以前に自撰したものに為家・基家等の加点・加評を付した「文応三百首」があり、文永四(一二六四)年に、やはり自撰して為家に加点・加判を乞うた「中書王御詠」がある。後者を指すか(ここと前の注のデータは水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」内の「宗尊親王」に拠った)。

「最明寺」現在の円覚寺の東にあった広大な寺地を持っていた禅宗禅興寺。明治に廃寺となった。明月院はこの寺の唯一生き残った塔頭であった。詳しくは、私の「編鎌倉志卷之三」の「禪興寺【附最明寺舊跡】」或いは「鎌倉攬勝考卷之五」の「禪興寺」の本文及び私の注を参照されたい。

「年三十七歳」数えで満では三十六歳六ヶ月。若死にである。死因は不詳であるが、まさに「日比、病氣に罹り、心體、快(こゝろよか)らず。醫療、更に效(しるし)を奏せず。既に危急に及びしかば」とあるように(「吾妻鏡」も同様)、数年前から重篤な状態に陥っていたものとも思われる。およそ、諸国廻国なんぞ夢のまた夢、出来よう状態ではそもそもがなかったのである。

「尾藤太(びとうだ)入道淨心」得宗被官御内人尾藤太景氏。

「宿屋(しゆくや)左衞門〔の〕入道最信」得宗被官御内人宿屋光則。但し「只、二人の外、人の出入を留(とゞ)められ」とあるが、後で示すように「吾妻鏡」では他に五人の名が示され、「吾妻鏡」本文も「六七人許」とある。「北條九代記」の過剰演出である。

「繩牀(じようしやう)」繩を張って作った粗末な低い腰掛け。禅僧が座禅の際に用いた。

「頌(じゆ)」「偈(げ)」に同じい。禅宗で悟りの境地などを表現する際に用いる漢詩様のもの。

「業鏡(ごふきやう)高く懸(か)く 三十七年/一槌(つい)に打碎(だきい)して 大道(だう) 坦然(たんねん)たり」言っておくと、時頼自身はこれを音読みしたはずで、こんなかったるい訓読は後世の産物である。教育社の増淵勝一氏の訳を引く。

   《引用開始》

私は、地獄にあるこの世の善悪をうつしとる鏡〈業鏡〉のように、邪悪を正すことを三十七年の生涯の仕事としてきた。今では邪悪も一槌(いっつい)の下に打ち砕いて人の踏むべき道が平坦に続いている。

   《引用終了》

なお、「業鏡」は別名「浄玻璃(じょうはり」ともいう。ウィキの「浄玻璃鏡」によれば、『浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ、じょうはりきょう)とは、閻魔が亡者を裁くとき、善悪の見きわめに使用する地獄に存在するとされる鏡である』。『閻魔王庁に置かれており、この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできない。おもに亡者が生前に犯した罪の様子がはっきりと映し出される』。『もしこれで嘘をついていることが判明した場合、舌を抜かれてしまうという。また、これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいう。また、浄玻璃鏡は水晶製であると言われている』とある。「人頭杖(にんずじょう)」に次いで私の大好きな地獄の名アイテムである。最後に残念なことを述べておくと、これは時頼のオリジナルでも何でもない。これは実は、時頼が亡くなる十五年も前に示寂している宋の禅僧笑翁妙湛(しょうおうみょうたん 一一七七年~一二四八年)の遺偈、

 

業鏡高懸 七十二年 一槌擊碎 大道坦然

 

の「七十二年」をただ「三十七年」に変えただけなのである。噓だと思ったら、中文サイトの「笑翁禪師行狀」を見られたい。私は最後まで時頼を許さない。

「珍重」通常は書簡の最後に相手に自重自愛を勧める意で用いられるが、こうした末期の辞世の遁辞としての使い方も至極しっくりくるではないか。

「人望に應じ」その人格や行為に相応しい人望を受けた。

「臨終、正念にして」臨終に際し、一心に仏を念ずること。特に阿弥陀仏を念じて極楽往生を願うことを指す。

「定印(ぢやういん)」高僧が悟りを得て入滅する際にその相を示すために結ぶ入定印。調べてみると、必ずしも一定の印であるわけではないようである。

「辭頌(じじゆ)」先に示された辞世の偈。

「瑞相(ずいさう)」貴く目出度い諸形相(けいそう)。

「權化(ごんげ)の再誕(さいたん)」神仏が仮に人の身を借りて時頼となって垂迹したものが、今またここで再び元の神仏に生まれ代わったという認識であろう。

「寛元四年より康元元年まで」一二四六年より一二五六年。

「落飾(らくじき)」ルビはママ。剃髪して仏門に入ることであるが、こんな読みは見たことがない。しかし版本画像でも同じく「ラクジキ」とあるので、暫くママとする。

「天下無爲」天下が平穏であったことを指す。

「右少辨經任(つねたふ)」実務官僚であった公卿中御門経任(なかみかどつねただ 天福元(一二三三)年~永仁五(一二九七)年)。後の最終官位は正二位権大納言で「中御門大納言」と称した。中御門家の祖。

 

 「吾妻鏡」の弘長三(一二六三)年十一月十九日・二十日・二十二日の条のみを引く(連続している。なお、他は引用の価値を認めない)。二十二日の条の冒頭には小町大路で発生した火災が記されているが、それも併せて引いておいた。

 

○原文

十九日丙申。相州禪室御病痾。縡已及危急。仍有渡御于最明寺北亭。心閑可令臨終給之由思食立。仰尾藤太【法名淨心。】、宿屋左衛門尉【法名最信。】等可禁制群參人之由云々。

廿日丁酉。早旦。渡御北殿。偏及御終焉一念。昨日含嚴命之兩人。固守其旨。制禁人々群參之間。頗寂寞。爲御看病。六七許輩祗候之外無人。所謂。

 武田五郎三郎     南部次郎

 長崎次郎左衞門尉   工藤三郎右衞門尉

 尾藤太        宿屋左衞門尉

 安東左衞門尉

等也。

廿二日己亥。霽。未尅。小町燒亡。南風頻吹。甚烟掩御所。仍御車二領引立南庭。儲御出之儀。爰至前武州亭前火止。

戌尅。入道正五位下行相摸守平朝臣時賴【御法名道崇。御年三十七。】於最明寺北亭卒去。御臨終之儀。著衣袈裟。上繩床令座禪給。聊無動搖之氣。頌云。

 業鏡高懸 三十七年 一槌打碎 大道担然

  弘長三年十一月廿二日道崇珍重云云。

平生之間。以武略而輔君。施仁義而撫民。然間。達天意協人望。終焉之尅。叉手結印。口唱頌而現即身成佛瑞相。本自權化再來也。誰論之哉。道俗貴賤成群奉拜之。尾張前司時章。丹後守賴景。太宰權少貳景賴。隱岐守行氏。城四郎左衞門尉時盛等。依哀傷難休。各除鬢髮。其外御家人等出家不遑甄錄。皆以被止出仕。亦武藏前司朝直朝臣欲落餝之處。武州以彈正少弼頻被加禁遏之間。空素意云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日丙申。相州禪室の御病痾(びやうあ)、縡(こと)、已(すで)に危急に及ぶ。仍つて最明寺北亭に渡御有りて、心閑(こころしづ)かに臨終せしめ給ふべきの由、思し食(め)し、立つ。尾藤太【法名、淨心】・宿屋左衛門尉 【法名、最信。】等に仰せて、群參の人を禁制(きんぜい)すべきの由、と云々。

廿日丁酉。早旦、北殿(きたどの)へ渡御す。偏へに御終焉の一念に及ぶ。昨日、嚴命を含むるの兩人、其の旨を固め守り、人々の群參を制禁するの間、頗る寂寞(じやくまく)たり。御看病の爲め、六、七許りの輩、祗候(しこう)するの外、人、無し。所謂、

 武田五郎三郎     南部次郎

 長崎次郎左衞門尉   工藤三郎右衞門尉

 尾藤太        宿屋左衞門尉

 安東左衞門尉

等也。

廿二日己亥。霽る。未の尅、小町、燒亡(ぜうまう)す。南風、頻りに吹き、甚だしき烟(けぶり)、御所を掩(おほ)ふ。仍つて御車二領、南庭へ引き立てて、御出の儀を儲(まう)く。爰に前武州亭前に至り、火、止む。

戌の尅、入道正五位下行相摸守平朝臣時賴【御法名、道崇。御年三十七。】最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、衣袈裟(ころもげさ)を著し、繩床(じようしやう)に上り、座禪せしめ給ふ。聊かも動搖の氣、無く、頌(じゆ)に云く、

  業鏡高懸三十七年  一槌打碎大道担然

   弘長三年十一月廿二日道崇珍重

と云々。

 平生の間(かん)、武略を以つて君を輔(たす)け、仁儀を施して民を撫(ぶ)す。然る間(あひだ)、天意に達し、人望に協(かな)ふ。終焉の尅(とき)、叉手(しやしゆ)して印を結び、口に頌(じゆ)を唱へ、即身成佛の瑞相を現ず。本(もと)より權化(ごんげ)の再來なり。誰(たれ)か之れを論ぜんや。道俗貴賤、群を成して之れを拜し奉る。尾張前司時章・丹後守賴景・太宰權少貳景賴・隱岐守行氏・城四郎左衞門尉時盛等、哀傷、休し難きに依つて、各々鬢髮(びんぱつ)を除(はら)ふ。其の外の御家人等、出家、甄錄(けんろく)に遑(いとま)あらず。皆、以つて出仕を止めらる。亦、武藏〔の〕前司朝直朝臣、落餝(らくしよく)せんと欲するの處、武州、彈正少弼(だんじやうせうひつ)を以つて、頻る禁遏(きんあつ)を加へらるるの間、素意(そい)を空しうす、と云々。

 

・「武田五郎三郎」得宗被官御内人武田政綱。

・「南部次郎」得宗被官御内人南部実光。

・「長崎次郎左衞門尉」得宗被官御内人長崎光綱。

・「工藤三郎右衞門尉」得宗被官御内人工藤光泰。

・「安東左衞門尉」安藤光成。確認出来なかったが、恐らくは得宗被官御内人である。

・「前武州」北条(大仏)朝直(建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)。評定衆。

・「誰(たれ)か之れを論ぜんや」この考えを一体だれが、賢しげに非難したり、疑義を挟んだりすることが出来ようか! いや! 出来ぬ! 時頼公は、まさに! 神仏そのものであらせられたのだった!

・「尾張前司時章」名越時章。評定衆。名越流北条氏初代北条朝時の子で名越流北条氏台第二代当主。後の北条氏一門の内紛である二月騒動(文永九(一二七二)年に彼の弟教時が北条時宗に反旗を翻した)の際、謀叛に加担していなかったにも拘わらず、誤って殺害された。後に名誉回復している。

・「太宰權少貳景賴」武藤景頼。評定衆。

・「隱岐守行氏」二階堂行氏。名門二階堂氏の傍系。相模や安房の広汎な地頭職に任ぜられている。

・「城四郎左衞門尉時盛」安達時盛。この前後から北条時宗の外戚として実権を握ってゆく評定衆安達泰盛の弟。

・「武州」第六代執権北条長時。

・「考彈正少弼」北条業時。北条重時四男。この二年後に引付衆となる。

・「禁遏(きんあつ)」禁じて止めさせること。]

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