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2016/09/19

佐渡怪談藻鹽草 上山田村安右衞門鰐を手捕にせし事

     上山田村安右衞門鰐を手捕(てどり)にせし事

 

 正德年中、上山田村御林守、安右衞門といふもの侍(はべり)し。年齡、古稀のうへにも成(なり)ぬらん。いと健(すこや)か成(なる)老人にて、佐藤菅淸(すげきよ)【浪人市左衞門ト言】が流の劍術も【度々流也】たしなみ、力量も、尋常には勝(まさ)りしとかや。彼(かの)もの、仁木彦右衞門に咄しけるは、

「我等若時は、ちいさき獵船を持(もち)候ひて、兄と一所に漁を業(わざ)といたし、夏は鮧を取、秋は小鯛抔(など)、釣侍りし。或時、殊の外、小鯛多く釣候て、面白く、毎夜毎夜、百貳(に)百枚斗(ばかり)も釣(つり)候に、或夜より、小鯛一ツも釣(つり)候半(さふらは)ねば、不思議とぞんじながら、二三夜も續き出(いで)候共得(さふらへども)、一ツも釣(つり)不申(まうさず)。適々(たまたま)釣候得ば、中にて鰐(わに)にとられ候故、腹だゝしく思ひ侍れ共(ども)、すべき樣もなかりし所に、けしからず、鰐の浮(うか)み出(いで)、尾にて舷(へり)をたゝき侍れば、

『憎きやつかな』

と思ひて、艫に居候得ば、又尾を出したたゝき候處を、其儘(そのまゝ)とらまへ、あをのきに反りかへり候得ば、頓(やが)て船の中へはね込(こみ)ぬ。兄は肝をつぶし、

『何事をするぞ』

と言(いひ)ながら、兄もしれものにて、下に敷(しき)たる筵(むしろ)を、頭に打掛(うちかけ)、碇網(ていもう)にて船ばりにからみ付(つき)たるを、我等は、尾を強くとらへ、

『庖丁にて、鰐の腮(あぎと)を切給へ』

と、聲をかくれば、兄やがて伐(うち)はなしぬ。扨(さて)、尾をも、からみ付(つき)侍りぬ。船はあかの入(いり)て、沈みなん程に見えければ、急ぎ艫をはやめて、歸りしなん、鰐の長さ九尺あまり有けん。龜(かめ)の脇(わき)村濱へ引付(ひきつけ)、切碎(きりくだ)き、喰(くひ)侍りし。油壱斗三升有し」

と語(かたり)侍りし。

 

[やぶちゃん注:「上山田村」現在の佐渡市羽茂(はもち)上山田か。小佐渡山地の南の野田山の西に位置する。後に主人公安右衞門を「御林守」(「おはやしもり」と読むか)とするから、丸ごと天領である佐渡の山林管理を担当していた者と思われる。因みに、ここ羽茂郡上山田村は、後の江戸後期の天保九年、佐渡奉行に対する不満を佐渡一国惣代として巡見使に上訴し、投獄された中川善兵衛(寛政五(一七九三)年~天保一〇(一八三九)年)なる農民の出身地でもある。島内の農民は米屋などを打ち壊す一揆(天保一国騒動)を起したものの鎮圧され、善兵衛は翌年、江戸で獄死している(善兵衛については講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「正德年中」一七一一年から一七一五年。

「古稀のうへ」数え年七十歳より上。ということは安右衞門の生年は一六四一~一六四五年以前(寛永十八~寛永二十一・正保元・正保二年以前。第三代将軍徳川家光の治世である)の生まれということになる。

「浪人市左衞門ト言」「浪人(らうにん)市左衞門と言ふ」。

「度々流」「どどりう(どどりゅう)」と読むのであろうが、このような剣術或いは武芸の流派は不詳。

「仁木彦右衞門」佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝である。目付役で治部流の書をよくし、槍術に長じた。享保一六(一七三一)年没。「正德年中」とあるから彼であっておかしくない。ダン渡辺氏の恐るべきサイト「佐渡人名録」のこちらを参照した。彼は「蛇蛸に變ぜし事」に登場した仁木門右衛門秀致の父である。

「鮧」恐らくは「えそ」と読む。而して確かに「えそ」ならば、これは条鰭綱ヒメ目エソ科Saurida マエソ属トカゲエソ Saurida elongate である。何故なら、エソ科 Synodontidae のエソ類は広く分布するものの、概ね熱帯・亜熱帯海域に限られている(全種海産。多くは水深二百メートルまでの浅海に棲息するが、河口などの汽水域に入ってくることもある)。ところが、このトカゲエソは参照したウィキの「エソ」によれば、『新潟県以南から南シナ海まで分布し、エソの中ではもっとも北まで分布している』種で、佐渡で普通に獲れておかしくない唯一の「エソ」だからである。なお、「鮧」は他にも鯰(ナマズ類)をも指すが、本文の叙述からは明らかに海漁であるから比定候補とはならない。

「小鯛」これは古くより概ね地方では条鰭綱スズキ目スズキ亜目タイ科チダイ属チダイ Evynnis tumifrons のことを指していることが多い。

「百貳(に)百枚斗(ばかり)も」百尾、二百尾ほども。

「鰐(わに)」鮫。この描写だけでは種同定は困難である。映像的には「ジョーズ」の如く、

軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias

がスリリングであるが(同種は日本海にも棲息はする。しかしこの本文の二メートル強のサイズでは幼体である)、「新潟県」公式サイト内の「佐渡のお魚情報通信」のによれば、現在の佐渡で主に捕獲されて食用として流通されているのは、

板鰓亜綱ツノザメ上目ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi

板鰓亜綱ネズミザメ上目メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo

とある。但し、これらは二種は孰れも普通個体はこんなに大きくならず(前者は一メートル、後者は一・五メートルが標準体長)、しかもおとなしい性質で人を襲ったりはしないので、この話柄の「鰐」に比定するには明らかにパンチに欠ける

「舷(へり)」ふなばた。舷側。

「艫」「とも」。船尾。

「しれもの」「痴れ者」。ここでは、いい意味で、その道に打ち込んだ巧者・相当な手練(てだ)れ・大した奴・したたか者の意。

「碇網(ていもう)」これは思うに「碇綱(いかりづな)」の原本の誤字ではなかろうか? それなら錨につける太い綱で、それを以って「船ばり」(船梁(ふなばり:和船の両側の外板の間に横に渡して支えとして水圧を防ぐ梁(はり))「にからみ付」けた(縛りつけた)、という描写が腑に落ちるからである。

「腮(あぎと)」顎。嚙まれた場合を考えると正しい処置である。

「伐(うち)はなしぬ」太い丸太のような鮫のその顎を「伐採」、截ち伐(き)る、のである。実に場面に相応しい用字ではないか。

「あか」「淦(あか)」船底にたまった水。漁師や水夫の用いる忌詞で仏語で仏前に捧げる「閼伽(あか)」の転かと思われる。

「艫をはやめて」船尾の艪(ろ)を速めての意でとっておく。

「九尺」約二メートル二十七センチ。

「龜(かめ)の脇(わき)村」旧羽茂郡亀脇村。現在の佐渡市西三川(にしみかわ)。真野湾の外洋、西南の小佐渡西岸に当たる。

「引付(ひきつけ)」引き上げ。

「油壱斗三升」二十三・五リットル強。しかし、当時、鮫(の肝臓)からこれだけの油を採り得たのであろうか? この当時、油が多量に容易に採れるとすれば、それは鮫の肝臓であるよりも鯨肉中の脂肪酸であるように思う。確かに今は深海鮫などから鮫肝油を採りはする(深海鮫は全体の重量の約二十五%が肝臓で、そのう八十%以上が油であるとはいう)し、通常のサメの肝臓からも現在はトリテルペン(Triterpene:二重結合を二つ持つ炭化水素イソプレン(isoprene)六つから構成される化学物質)の一種である油性物質のスクアレン(squalene)と呼ばれる物質が採取されて肝油として珍重されてはいる。が、それは現代のサプリメントとしてであって、ネットで管見する限りでは、江戸時代に鮫から「鮫油」を普通に採取していたという記載を見出せないでいる。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(一九八九年平凡社刊)の「サメ」の項には「サメ油」の項があり、一八〇〇年代前半のイギリスの解剖学者がウバザメ(ネズミザメ上目ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメCetorhinus maximus:ネズミザメ目 Lamniformes の最大種で大型個体では十二メートルを超すが、性質は極めておとなしい。但し、本種は日本海には棲息しない)を開腹すると、多量の油が多量に湧き出してきて、溺れかねないほどであったために解剖を中止したとある(博物学者サラ・リー夫人の「動物奇譚集」)。さてしかし、それでも果たして、鮫油が、当時の佐渡で、このサイズの鮫の肝臓から容易に絞り得たのであろうか?(先の荒俣氏の記載はサメ油の発見の記載であるが、それは本記載時制の百年も後のことなのである) 当初、この油の記載から、或いはこれは鮫ではなくて小型の鯨か海豚類であった可能性を否定は出来ないのではなかろうかとも思ったりしたのだが、勇魚(いさな:鯨)捕りは古くから知られており、佐渡の漁師が鮫を鯨を一緒くたにして「鰐」としたとは到底思われないし、叙述の「鰐」の描写はやはり鯨類などではなく、鮫そのものである。私の思考迷走はこの辺りで袋小路に入ってしまった。大方の御叱正・御意見を俟つものではある。]

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