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2016/10/17

わが小説   梅崎春生

 

 自分の作品について語るのは、たいへんむずかしい。強いためらいや抵抗を感じる。要は作品を出せばいいので、それに加えるべきなにものも私にはない。

 損得の問題もある。うっかり自作を解説して、これはこんなつもりで書いたなどと書くとする。すると読者の方では、あれはずいぶん深遠な作だと思っていたのに、そんな浅はかな動機で書かれたのかと、がっかりする場合が時々ある。時々以上に多い。(他人のを読む時は私も読者だから、よく知っている。)それでは損であり、逆効果だ。一つの作品を書き上げるまで、原稿の形では何度も読み返す。ところがそれが活字になり、雑誌が贈られて来ると、もう読む気がしない。いや、もっと強く、読むのを嫌悪したり畏(おそ)れたりする気が先に立って、その雑誌を押入れの中に突っ込んでしまう。原稿と活字と、内容は同じだけれども、どういうわけでそんな気持が生じるのかわからない。

 自作が活字になると、ためつすがめつ鑑賞し、時には音読してたのしむ人もあると聞いた。これとそれと、自信のあるなしには関係なく、性格の問題だろうと思っている。自作を読み返すのがいやなのは、私が自信がないからじゃない。別の感情だ。

 その感じも、半年ぐらい経つと、ゆるんで来る。たまたま押入れをあけると、その雑誌がころがり出て来て、おそるおそる読み返す。にがい感じはあるけれども、叫び出したくなるようなことは先ずない。その半年に新しく嫌悪すべき作をいくつか書いていて、この作品は人垣の向うにいるようなものだから、いやらしさが薄められるのだろう。一年経つと、もう大体安心して読める。やっと作品は私の手もとに里帰りして来る。

 自作というのはこの場合小説に限っていて、随筆だの雑文は含まれない。もっとも雑文などで、何とはしたないことを書いたのかと、思い出して舌打ちしたくなる場合もあるが、それは前の例とちょっと趣きが違う。舌打ちすれば、それで済んでしまう。

 と書いて、もう書くことがなくなった。今まで私はどのくらい書いたのか。著書を調べて計算して見ると、原稿用紙にして一万二、三千枚程度かと思う。決して多い方ではなかろう。

「書きたいことが山ほどある」

 という状態が、私に来たことがない。おそらくだれにもないだろう。一つの視点があり、それに材料を持って来れば、いくらでも生産出来る状態。それはあり得るだろう。私もその状況に乗っかったこともあるし、今多作している人の仕事を見ると、皆その手である。

 視点に動きはないから、発展はなく、作品は反復だけだ。どうしても材料にウエートがかかり、材料のひねり方や珍奇さが腕の見せ所となる。読者もそうと心得ているので、別に文句は言わず、よろこんで読む。(自作を語ることから逸脱したようだ)

 私の仕事時間は、平均して一日に二時間ぐらい。そのくらい机の前にすわっていると、飽きるというのは適当でないかも知れないが、面倒くさくなって、もう今日はこの程度でいいだろうと、やめてしまう。調子がよくて書き進むこともあるが、努力感が生じてくると、もういけない。いろんな事情から、私は近ごろ原則的に「努力」を自分に禁ずることにしている。いや、昔からそうだった。

「近ごろお忙しいでしょう」

 だから人からそんなあいさつを受けると、返答に困る。忙しいといえば忙しいし、暇だといえば暇だ。しかしもて余すほどの閑暇はない。

「ええ。まあ」

 なんてごまかす。人間、生きてりゃ、だれだって忙しい。私もその例外じゃない。などと心の中でつぶやきながら。

 ――以上、自分の作品について、語るがごとく、語らざるがごとく、二時間かかって書いた。自作をひとつだけあげよといわれれば「庭の眺め」をあげる。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十二月十二日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本解題には、『「わが小説」は新聞の連載随筆欄の名称であり、もともとの見出しは「ひとつだけあげれば――『庭の眺め』――」であった、しかし』肝心の『「庭の眺め」については語られていないので、前記のように校訂した』と注記がある。「庭の眺め」は昭和二五(一九五〇)年十一月号『新潮』初出で「青空文庫」ので読める。]

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